デジタル時代の教育 by Anthony William (Tony) Bates is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial 4.0 International License, except where otherwise noted.
この書籍の日本語版の翻訳にあたっては「仮想空間ネットワーク」上にいる「テクノロジーを生かした教育を日本国内でもさらに拡大したい!」という強い希望を持っている、12名の大学教員をはじめとする方々の協力を得ることができました。
ボランティアで翻訳に時間を使い、ようやく Pressbook 版を完成させることができたことを大変嬉しく感じています。そしてトニー・ベイツ博士にも、是非ともこの喜びを伝えたいと思います。
私はこの本で述べられた内容を、読者の皆さんの教育にも生かしていただきたいと願っています。そして日本の教育にも是非とも取り入れていただきたいと願っています。
このような取り組みを広げていくことによって、世界各国の教育をも変えていくことができるでしょう。また、デジタル技術を使うことで学習コミュニティにますます多くの人々を誘い込み、共に学んでいくことができるでしょう。これこそまさに、私自身がこの書籍を翻訳したかった理由でもあります。
このような内容が日本語で入手できることで、今後ますます多くの方々が、この書籍から得たことをヒントに、研究を深めていく勇気の源になることを希望しています。
最後になりますが、BC Campus は このような OpenTextbook、すなわち「無料の教科書」を教育や学習のために出版してくれるウェブサイトを運営しています。Google Chrome を使うと機械翻訳版を読むことができます。http://opentextbc.ca
ダグ・ストラーブル
2020年3月
世界では絶えず紛争のニュースが伝わってくるように感じられる中、皆さんの共同作業のおかげで、素晴らしいオープン・エデュケーションの輪が広がりました。
皆さんの努力の成果はきっと日本の読者にも伝わることでしょう。どうもありがとうございました。
トニー・ベイツ
2019年1月
訳者一覧・担当箇所
ダグ・ストラーブル(冒頭箇所・付録B・付録D)
吉永 一行(第1章・第2章)
藤永 史尚(第3章)
淺田 義和(第4章)
木村 修平(第5章)
神谷 健一(第6章・第7章・監訳)
山内 真理(第8章)
岡本 清美(第9章)
長岡 千香子・喜多 敏博・平岡 斉士(第10章・付録A・フォーマット統一)
大澤 真也(第11章)
平野 貴美枝(第12章)
※付録C については原文のままで収録(明らかな誤植は訂正。2019年5月1日時点でのリンク切れはリンクを削除。)
なお、原書へのリンクは以下の通りです。
キャンパス近くの、とあるコーヒーショップで聞こえてきたこと:
やあ、フランク、なんだか元気がないね。
うん、最悪なんだよ。昨日うちの学部長が全学部の会議を招集して、大学の新しいアカデミック・プランのこととか、学部が抱える全てのアカデミック部門の意義とは何かについて議論し始めたんだ。今年のはじめに会議が何度もあったことは知っているよね。いくつかの会議には出席した。だけど、新しい時代にフィットする大学の構築とか、教育方法の革命的変化とか、同じような古くさい、曖昧なことばかり話しているように思えたなあ。でもこんな議論は僕の教えているコースには影響がないような気がする。どんどん閉鎖されていく部門からの影響がないことは、早くから分かっている。どちらかと言えば僕のクラスはむしろ大規模になるみたいだ。少しの労力で、より多くのことをやらないといけないということだよ。僕の研究は上手くいっているし、教育負担の増加を引き受けることについてについても、今回は回りくどい話はなかった。その時点で興味がなくなった。こんなことはこれまで何回も経験してきたからね。
だけど昨日の会議で学部長が話し始めたとき、すぐ僕はおかしいと感じた。組織はもっと教育に対して「柔軟」にならないといけないなんてことを語り始めたんだ。それって一体どういうことなんだろう――講義の前にヨガでもやれでもというのか。それから彼は「明確な学習成果の定義」と「個別化された学習」について話し出した。そうだよ。そんなことは馬鹿げている。学んだことを身につけなければいけないことは誰もが知っている。そうじゃないと何にもならない。僕のコースはいつも変わり続けている――もし、僕がコースの最初に成果目標を設定したとしても、多分、コースが終わるときまでには変わっているはずだよ。
でも、驚くようなことが聞こえてきたんだ。これは難しいだろうなあ。「5年以内に、少なくとも全クラスの50%をブレンド型、つまりオンラインを授業の中に含める方法で教えるようにしたい」オーケー、そこまでは大丈夫だと思う――僕は既に講義のバックアップ用に学習管理システムを使っているからね。でも、それが別々の学習者がいるコースの全てで同じコンテンツを提供して、ほとんどの講義を手放すという意味だと学部長が言ったとき、本当に困ってしまった。彼は高校の新入学者から生涯学習者までの、ありとあらゆる学習者に奉仕する必要性や、僕たち上級学部教員に対して教育コンサルタントとして、チームで教える必要性があるなんてことを語り始めた。もし学部長が、僕が教えたいことを部門の誰か他の間抜けな奴らに決めさせようとしているなんてことを思っているとしたら、彼は頭がおかしいね。そんなことよりも、この話が恐ろしいのは、学部長がこんな馬鹿げた話をすっかり信じきっていることを、僕が思っていることの方がだよ。
ただ、僕が本当にパニックになったのは、彼が僕ら全員に教え方についてのコースを受講し始めなければいけないと言ったときなんだよ。今、僕の講義では学生たちからはとても良い評価を得ている――学生たちは、ただ僕のジョークが好きなだけなんだけどね――そして僕の科目を教える方法に口を挟める奴は誰もいないはずだよ。僕は自分の研究領域ではこの国ではトップクラスなんだ。管理側はいったいどうして教え方のことを知っていると思えるんだろう。そんなことよりも僕がいつコースを受講する時間を作ったらいいんだろう。僕は既に一生懸命仕事をしている。僕らにかまわずに、僕らが報酬を得ている仕事を進めることを信頼してくれたらいいんだけどなあ。
この話のどこかで思い当たることがあるなら、本書はあなたのためにあります。
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教員や大学教授たちは前例のない変化に直面しています。大規模クラス、多様な学生たち、説明責任を望む政府や雇用主からの要求、労働者になるための準備ができた卒業生の育成、そして何よりも、変革を続けるテクノロジーへの対処。このような状況の変化に対応するために、教員には、どのような変化や圧力に直面したときでも硬い基盤を持った教育を提供できるような、基礎的な理論や知識が必要です。
本書には多くの実用的な例が含まれていますが、それは教育手法の「料理本」にとどまりません。本書では以下の質問に答えています。
つまり本書では、全ての人、特に私たちが教える学生たちがテクノロジーを利用するという状況の中で、現代の効果的な教育へと導く基礎的な原理について検証していきます。本書では、あなた自身の教育について決定を下すための枠組みや指針が提示されています。全ての科目は異なりますし、全ての教員は教育する際に、独自の特別な考えを持っているということへの理解も忘れません。
最後に、本書は教員を対象としたものですが、教師論や指導者としてのあり方について言及した本ではありません。本書は学生がデジタル時代で必要になる知識とスキルの獲得を助ける、あなたのための本なのです。デジタルスキルについての言及はさほど多くありません。むしろ教育の成功につながる考え方や知識が収められています。このことを実現するためには、あなたが主人公であることが必須です。本書はあなたのコーチです。
私がまず想定する読者は主に教育の向上を不安に感じている、あるいは教室の中で大きな問題に直面している中等後教育(専門学校・短大・大学など)の教員です。教室は大規模ですし、カリキュラムも急速に次々と変化します。そして特に中学校や高等学校の教員の方々は、教え子たちが中等教育を終えた後のことをどのように担保するか心配されているでしょう。時代は急速に変化しており、労働市場の不確実さに対して教え子たちが準備できているのかということに心を砕いています。特に本書は教育におけるテクノロジーの活用を最も効果的に進めるために、何をすべきかが見えないという方々のために書きました。
本書では中等後教育の事例を多く含んでいますが、多くの原理や原則は中学校の教員、あるいはその前の小学校や幼稚園の教員にも応用できるでしょう。私もかつて小学校で教えた経験があるので分かりますが、このような学校では短大や大学と比べて、素材やテクノロジー活用への支援がはるかに少ないことを理解しています。
本書を通じ、私は「インストラクター(講師)」という言葉と格闘せざるを得ませんでした。なぜなら本書では中等後教育であったとしても、教育の伝達モデル(インストラクション)から学習の円滑化(ティーチング)へとシフトする必要があることを述べていくからです。「インストラクター」という言葉は、中等後教育と幼稚園・小学校・中学校・高等学校を区別するためにしばしば利用されるものです。「ティーチャー(教師)」という言葉は後者に使われます。したがって、本書を通じて両方の言葉をほぼ交互に利用することにします。ただ、私の望みは私達が全て、最終的にインストラクター(講師)よりもティーチャー(教師)になることです。
(訳注:ここでは本文での区別について述べられていますが、訳文では teachers and instructors をまとめて「教員」で統一しました。ちなみに日本語では講師・教師はほぼ同じ意味になりますが、語源的には instructor は「内部に構造を作る人」、teacher は「示しながら円滑に進める人」という意味です。)
最後に、本書はテクノロジーに主要な焦点を置いていますが、現在の人間教育を土台とするシステムを破棄したり、高度にコンピュータ化された教育モデルに置き換えたりすることを提唱するわけではありません。実体を伴った改革が大きく求められていますが、十分に資金が提供され、なおかつ公的に支援された教育システムには、今後も永続させるべきクオリティーがあると信じています。これは高度に訓練された高い資格を持った教員の方々によるものです。テクノロジーによって置き換えることは不可能ではないとしても、難しいものとなるでしょう。本書では学習者と教員の両方が、テクノロジーを上手に活用する方法に重点を置いています。
本書はクリエイティブ・コモンズのCC BYライセンスを通じて著作権を保持していますが、第10章で述べる5つの全ての方法において「オープン」です。
上述の5つの行為についての制限事項が1つだけあります。それは、あなたが私を引用元として承認するということです。(もちろん私が他人の著作物を引用している場合や、他人の素材を利用している場合には当てはまりません。)学生に引用元を確認させることが必要なように、あなたも私を引用元として認定することは非常に重要です!そして、もしも本書での記述が役に立ったと感じたなら、その記述をどのように使ったのか、本書をどうすればもっと良くなるのか、フィードバックを tony.bates@ubc.ca までEメールで送ってくださることを歓迎します。しかしこれは単なるお願いです。私は本書を向上させることができますし、どのように使われているのかを知ることができます。
本書は私が1つの章を書いた時点で公開されました。フィードバックを得るために、私のブログ「オンライン学習および遠隔教育のためのリソース」に、ほとんどの章の最初の草稿を載せました。本書は多くの理由から、オープン・テキストブックとして出版されますが、一番の理由は、私がオープンな形で出版することには教育の未来があると考えているからです。ですから、ある意味で、本書は概念の検証です。そして、カナダのブリティッシュ・コロンビア州で政府向けの主要なオープン・テキストブック・プロジェクトを主導している BC Campus による十分な支援、そしてオンタリオ州 Contact North からの追加支援がなければ、執筆は不可能でした。
本書は完全な草稿を出版した後、すぐに私はこの分野における3人の専門家たちに個別に書評を依頼しました。書評依頼のプロセスと、いっさい手を加えていない書評は付録Dに収められています。
(訳注:編集上の都合により、付録Dでは別の匿名による書評を収録しています。)
本書はWeb上で公開されていますので、ホームページ https://pressbooks.bccampus.ca/teachinginadigitalagejpn/ をブックマークしておいてください。画面上の目次の章見出しや節見出しをクリックすることで、簡単に読むことができます。
もしもお望みなら、全体の PDF 版をプリントアウトしたりダウンロードしたりするとさらに読みやすくなります。通常はコンピュータやタブレットを使って本書を読むことをお勧めします。epub 版や mobi 版もあります。通常は画面上で読んでいただくのが最適だと思います。なぜなら別のバージョンを出力する際に、図やイラストの位置がずれてしまう場合があるからです。スマートフォンの小さい画面で読むには図やイラストが非常に小さくなってしまうので、フラストレーションが溜まってしまうかもしれません。タブレットで読んでいただく分には問題は発生しないと思われますが、一部の図やイラストが意図していない場所に動いてしまうことがあるかもしれません。
この本には xHTML 版、Pressbooks XML 版、WordPress XML 版もあります。これらを使うことでご自身の用途に合わせ、お好きな部分だけを抜き出したり、加工編集したりすることもできるでしょう。
本書は先行研究に基づき、ほとんどの部分は1時間前後で読めるようにしておくべきとの想定の下で書かれています。したがって、1つの章はせいぜい1時間もあれば読み終えることができるでしょう。一部のセクションはもっと短いです。
多くの節にはアクティビティーがあります。そこでは主に、あなた自身の置かれた状況や作業と関連して、何をどのように読むべきかについて、あなたの考え方を求めます。それぞれのアクティビティーは通常、30分未満で終えることができるでしょう。
各章は「章見出し」「その章で扱われるトピック」「アクティビティー一覧」「重要ポイント」を取り上げた学習目標から始まります。これらにアクセスするためには、それぞれの章見出しをクリック(タップ)してください。画面下にある左右の矢印を使うと前後の節に移動できます。
本書の使い方には、目的に応じて様々な方法があります。例えば、こんな使い方が考えられます。
個人利用のために数日かけて、最初から最後まで通読する:ひょっとしたらあまり行われない方法かもしれませんが、論理的順序に基づいた本書を通じて構築される連続的かつ理路整然とした議論を知ることができます。
あなたにとって有益な特定の章または節を読み、必要に応じて後で他の節や章に戻る。ガイドとしてこの序文またはホームページ上の目次を利用する。
ほとんどの節にあるアクティビティーをやってみる。
デジタル時代の教育方法におけるコース(またはコースの一部)のコア教材として本書を使う。あなたは私が提案したアクティビティーを利用できますし、ご自身でアクティビティーを置き換えても良いでしょう。
現段階では、特別な方法を利用しなければ、本書の一部の節だけを選んで出力することはできません。
本書は一般的なオープン・テキストブックと同様、進行中の作品です。何か新しい発展があれば、それらを組み入れ、本書が最新の状態になるように努めます。私のブログ tonybates.ca でもフォローできます。各章には私の個人的な見解を含めるためにポッドキャストを加えている場合があります。また、読者の皆さんからのフィードバックに基づいて内容を変更することがあります。
ここでは、本書で扱う様々な段階について議論します。第1章では教員が、主に教育目標と手法について再検討すべき箇所を紹介します。特に、デジタル時代に学習者が必要とする重要な知識やスキル、教育コンテンツをどのように教えたら良いのか、また、テクノロジーがあらゆるものをどのように変化させるかについて明らかにします。
ここでは、デジタル時代における教育と学習について、より理論的、方法論的な側面を扱っています。第2章では知識の本質について様々な視点から観察し、知識への理解が学習理論や教育手法にどのように影響するかについて取り上げます。第3章と第4章では、教室中心からテクノロジーとの混合的な手法、そして完全オンラインまで、様々な教育手法について、それぞれの長所と短所を分析します。第5章では、MOOC の長所と短所に目を向けます。これらの章は、以降の章のための理論的基盤となります。
ここでは様々なメディアとテクノロジーを、教育の中でどのように選択し利用したら良いのか、特にそれぞれのメディアに独自の教育学的特性に重点を置いた議論を進めます。第8章では教育用途での様々なメディアとテクノロジーに関する意思決定のための一定の基準とモデルを示します。
第9章では情報配信について、教室中心か、完全オンラインか、あるいはその混合にするかをどのように選ぶべきか、その判断方法について扱います。第10章ではオープン・コンテンツ、オープン・パブリッシング、オープン・データ、そしてオープン・リサーチにおける最近の発展が、潜在的に破壊的であることの意味について検証します。とりわけ本章は、教育に到来する急進的な変化を理解する基盤となります。
ここではデジタル時代における高い品質の教育確保に関する問題について、2つの異なる、しかし補完的なアプローチを紹介します。第11章では高度にデジタル化された教育的文脈における品質を設計し伝達するための9つの実用的なステップを提案します。付録Aでは高品質な学習環境に不可欠な構成要素に目を向けています。
本章ではデジタル時代に伴う高品質な教育確保のために、学校や大学で必要とされる方針や運営上の支援について、ごく簡単にまとめています。
本書には8種類の「もし、こうなったら」というシナリオがちりばめられています。しかしフィクションとしての要素は半分だけです。なぜならほとんど全ての事例が実話に基づいているからです。ただし一部についてはもともとの事例を複数合体させたり、拡張したり、拡大解釈していることもあります。シナリオを使う目的は、目の前の変化に対する障壁について、そして本当にエキサイティングな未来の教育について、想像力と思考を刺激させたいからです。
各章はその章の「重要ポイント」と、参考文献で終わります。また、各章の全ての参考文献をまとめた包括的なリストもあります。多くの章の節の末尾にはアクティビティーがついています。
また、各章をサポートするため、より詳細な情報を提供する複数の付録と、一部のアクティビティーについてのサンプル回答を巻末に載せています。
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本書は多くの人々や機関からの多大な支援なしには完成しませんでした。何よりも BC Campus には大変お世話になりました。BC Campus にはサイトを主宰していただきましたし、彼らが提供する PressBook を使うことを許可してくださいました。特に Brad Payne、Mary Burgess と共に、Clint Lalonde は素晴らしい援助と支援を提供してくれました。オープン・パブリッシング技術について全く知識のなかった私でしたが、Clint と Brad は奮闘する私の手をしっかりと握っていてくれました。彼らがいなければ、やり遂げることはできませんでした。
オープン・テキストブックはエンドユーザーは無料で使うことができますが、専門的な技術支援なしでは現実のものにはならなかったでしょう。教育と学習における改革支援に関する委託業務の一部として、オンタリオ州の遠隔教育・研修ネットワークである Contact North (Contact Nord)は、教育的な設計/編集、グラフィック、著作権処理で不可欠なサポートと援助を提供し、マーケティングと宣伝も支援してくれました。Contact North(Contact Nord)は、本書をフランス語でも利用できるようにしてくれました。
また私は、トロントにあるライアソン大学の生涯教育 G.レイモンド・チャン校の教育設計学(インストラクショナル・デザイン)デジタル教育戦略チームのメンバーを率いる Leonora Zefi から、予想すらしていなかったのですが、非常に手厚い支援を受けることができました。彼らにはボランティアで各章の草稿を読んでいただき、信じられないくらい貴重なフィードバックを与えてくれました。Katherine McManus はインストラクショナル・デザインと編集上のアドバイスをしてくれました。Elise Gowen は著作権のチェックと許可取得という、非常に手間のかかる仕事を全て担ってくれました。
そして私は、UKオープン大学、ブリティッシュ・コロンビア州のオープン・ラーニング局、ブリティッシュ・コロンビア大学の同僚たちから受けた多大なる影響に感謝しています。彼らは私が引用した部分について、多くの先行研究と革新的な視点を与えてくれました。私はこれまでのキャリアにおいて、遠隔教育者と教育技術者・設計者の2つの実践コミュニティから、非常に大きな支援を受けてきました。まさに本書は彼らに負うものです。私は彼らのアイデアと業績のための単なるスポークスマンにすぎません。願わくば彼らの知識を正確かつ明確に表していることを望むばかりです。
最後に、私のブログ読者から、ありとあらゆる貴重なフィードバックを受け取りました。私は本書のほとんどの節の最初の草稿をブログで公開しました。通常なら2、3人の査読チームが担当することになる作業ですが、私には何百、何千ものブログ読者から成るチームがいました。全ての人から受け取ったアドバイスは、本当に助けになりました。大変感謝しています。しかしながら、私は受け取ったアドバイスを全てフォローできているわけではありません。みなさんが疑問に感じるかもしれないミスや判断上の誤りの責任は全て私にあります。
オープン・テキストブックが素晴らしいのは、それが動的で、生きたプロジェクトだからです。変更は即座に反映されます。私は皆さんからのご連絡をお待ちしています。Eメールは tony.bates@ubc.ca です。建設的な批評やフィードバックは大歓迎です。本書をお読みいただいた方々からお寄せいただいた、どのようなコメントにも返答したいと思います。
何と言っても、私は皆さんにこの本を楽しんでいただき、有益さを見出していただけること、そして、この魅力ある時代に、学習者たちが必要とする知識やスキルを、皆さんや同僚の方々が希望を持って身につけることができる一冊になることを望んでいます。
私は1962年に英国のシェフィールド大学を心理学学士(優等)で卒業し、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで教育のポスト・グラデュエート・ディプロマを、そしてロンドン大学の教育学研究科で教育行政の Ph.D. を取得しました。
大学を離れてからは、小さな田舎の学校で、8歳~11歳の42人の子供のいるクラスで教え、そののちにイングランドの大規模な都市の中等(高等)学校で、特別なニーズを持つ生徒を教えました。そののち、非常に大規模な高校の運営を調査する政府研究プロジェクトの仕事に雇用されました。
この契約が1969年に終わると、英国で新規に開校されたオープン大学スタッフの20番目のメンバーとして着任し、そこで20年を過ごし、教育メディア研究の教授として勤め、退職しました。ここでは最初に BBC がオープン大学のために作成したテレビ番組とラジオ番組の学習効果を、続いてオープン大学で採用された他の新しいメディアを評価しました。その期間中、社会科学とテクノロジーの複数コースでコースの著者/講師も務めました。
1989年の終わりにカナダに移住し、ブリティッシュ・コロンビア州オープン・ラーニング局の戦略的計画常任理事として、5年間働きました。ブリティッシュ・コロンビア大学で遠隔教育とテクノロジーの指導者になるためにそこを離れ、同大学にとって最初のオンライン課程を設計・開発し、教え、ブリティッシュ・コロンビア大学初の完全オンライン学位プログラムを開始し、支援しました。2003年に、ブリティッシュ・コロンビア大学を定年退職し、大学、カレッジ、政府機関を顧客とするオンラインと混合型学習の戦略アドバイスに特化したコンサルティング会社を立ち上げました。これまでカナダ、アメリカ、ヨーロッパの50校以上の大学、短大、複数の政府機関で働いてきており、世界銀行、UNESCO、OECDとの契約を請け負ってきました。
2014年には本書を執筆するために賃金労働から退くことを決めました。教育テクノロジー、オンラインと遠隔教育のための11冊の本の著者でもあり、これらの本の一部はフランス語、スペイン語、中国語、韓国語、アラビア語、セルビア・クロアチア語に翻訳されています。
ポルトガルのオープン大学、カタロニアのオープン大学、香港のオープン大学、アサバスカ大学、ローレンシャン大学より名誉学位の授与を受けています。
民間パイロットのライセンスを所持しており、セスナ172でカナダ中を行ったり来たりしています。ゴルフは上手くありませんが、定期的にプレイしています。
Bates, T. and Robinson, J. (eds.) (1977) Evaluating Educational Television and Radio Milton Keynes UK: The Open University Press
Bates, A.W. (ed.) (1984) The Role of Technology in Distance Education London: Croom Helm (reprinted in 2015 by Routledge)
Bates, A. (1984) Broadcasting in Education: An Evaluation London: Constable
Bates, A.W. (ed.) (1990) Media and Technology in European Distance Education Heerlen, Netherlands: The European Association of Distance Teaching Universities
Bates, A.W. (1995) Technology, Open Learning and Distance Education London: Routledge
Bates, A.W. (2000) Managing Technological Change: Strategies for College and University Teachers San Francisco: Jossey Bass
Epper, R. and Bates, A.W. (2001) Teaching Faculty How to Use Technology: Best Practices from Leading Institutions Westport CT: American Council on Education
Bates, A.W. (2002) National Strategies for E-Learning Paris: International Institute for Educational Planning
Bates, A.W. and Poole, G. (2003) Effective Teaching with Technology in Higher Education San Francisco: Jossey Bass
Bates, A.W. (2005) Technology, e-Learning and Distance Education New York: Routledge
Bates, A.W. and Sangrà, A. (2011) Managing Technology in Higher Education: Strategies for Transforming Teaching and Learning San Francisco: Jossey-Bass
オープン・テキストブックは動的なプロジェクトです。関連する出版物の追加や URL のリンク切れなどの修正、また読者からの各章へのコメントを毎日のように追加しています。
ここでは、この本が最初の「最終版」として公開された2015年4月15日を基準として、以降の変更点をまとめます。
1. 19 April 2015: Podcast for Scenario A added
2. 3 May 2015: Podcasts added to Chapter 1 on the book’s structure and on skills development, and the order of Sections 3 and 4 of Chapter 1 reversed, following reader feedback.
3. 16 August 2015: Podcasts added to Chapter 2 on why this chapter is important and on the relationship between epistemology, learning theories and teaching methods added.
4. 17 August 2015: Podcast added to Chapter 3 on why a chapter on campus-based teaching methods was needed.
5. 23 August 2015: Podcasts added to Chapter 4, on the relationship between quality, modes of delivery, teaching methods and design and on some of the issues raised in this chapter. Also some editing of the text to clarify the distinction between teaching methods and design models.
6. 6 October 2015: Podcasts added to Chapter 5, on why there’s a whole chapter on MOOCs, and on a vision for MOOCs in the future.
7. 6 October 2015: Podcast added to Chapter 6, on the unique contribution of these chapters to media selection and use
8. 17 May 2016: Culture and learning environments added as Appendix 1, Section A.9. Former Section A.9 now A.10.
10. 16 April 2019. Bonus webinar (60 min) “Rethinking the Purpose of Online Learning” Tony Bates presentation to Royal Roads University. オンライン学習の目的を再考する(英語版)
この章を読み終わると、以下のことができるようになります。
この章では、中等後教育にのしかかる変革への圧力について、特にその中核的な活動の1つである教育を行う方法について論じていきます。今日の制度は残されるべきものだとは言え、変革が必要とされています。それはその通りだとしても、核となる価値観は維持され、強化されることが重要だということを述べていこうと思います。つまり、何もかも投げ捨ててゼロからやり直すのではなく、核となる価値観を保つような方法で変革を進めていくことが課題となっているのです。
とりわけ、この章では以下のトピックを取り上げます。
加えて、この章には以下のアクティビティーが含まれています。
デジタル時代において、私たちはテクノロジーに囲まれて、いや、まさに溺れています。さらにテクノロジーが変わるスピードに、ゆるむ兆しは見えません。テクノロジーは経済社会の中で、私たち相互のつながり方に、関係のあり方に、そしてさらには学び方に対して、大きな問題提起をしています。しかし今日の教育制度は、おおざっぱに言えば、デジタル時代ではなく、工業時代という過去の時代に築かれたままのものなのです。
こうして教員は変革という大きな問題提起に直面することになります。私たちが送り出している多くの卒業生が、ますます変わりやすく不確実で、複雑かつ曖昧な未来に適応したコースや専攻プログラムから巣立ったのだということを、一体どうやったら保証できるのでしょうか。私たちがとってきた指導法や制度の中で、守り続けるべきものは何で、変えるべきものは何なのでしょうか。
このような問題に答えるために、本書が行うのは次の事柄です。
この章では、教育方法の再検討を強いるような近年の展開のうち、主なものを説明します。
教育機関に突きつけられた多くの問題提起の中で本質的と言えるものは、特に中等後教育に対する要求が高まっていることです。図1.1.2 は、経済の発展、中でも仕事の創出において、どのような知識が重要な要素となってくるのかを示したものです。
この図は、正確なものではなく、むしろ間接的なものに過ぎません。水色の円は、それぞれの業種の労働人口を表しており、国によっては大きすぎる、あるいは小さすぎるということがあります。産業の中での知的労働者の割合についても同様ですが、しかし少なくとも発展途上国においては知的労働で構成される部分は急速に拡大しており、新興国においてもますます拡大してきています。すなわち、体力より知識が求められているのです。(OECD, 2013a 参照) 経済的には、利益を知的部門への投資に回すことのできる企業や産業が、競争においてますます有利となっています(OECD, 2013b)。実際、知的労働者は、学生時代には存在していなかったような新たなサービスや商品を提供するための会社を起こすことで、自ら仕事を生み出しているのです。
教育の観点から見た最大のインパクトは、専門的技術や職業的技術に関する指導者と学生の間で生じています。旧来、主に手作業であった技能について、知的な部分が急速に拡大しています。とりわけ手仕事の分野では、配管工、溶接工、電気技師、自動車修理工、その他、熟練工に関わる労働者にとって、その専門性に関連した職人的なスキルを獲得するだけでなく、問題解決やITのスペシャリストとなり、自営業的な役割を果たすことが必要となっています。
知的労働の拡大のもう一つの結果として、以前に比べてより高いレベルの教育を受けた人材が多く必要となりました。その結果、大学において、より高い能力をもった教職員が必要となっています。しかし大学レベルですら、卒業生に必要とされる知識やスキルの種類は、変化を見せています。
ここでデジタル時代の知的労働者に共通する特徴をいくつか挙げてみましょう。
つまり、多くの卒業生が、卒業から10年ほど後に実際にどのような仕事をしているのかを正確に予測することは、非常に大雑把な表現をするならば難しいと言えるでしょう。医者、看護師、エンジニアといった、明確なキャリア・コースがあるような分野であっても、知的基盤のみならず労働条件でさえ、時とともに急速な変化にさらされることになるでしょう。しかし、セクション1.2 で見るように、そのような環境の中で生き延びて成功するために必要となる多くのスキルを予測することはできます。
これは高等教育界全体にとっては良いニュースです。労働人口の中で必要とされる知識およびスキルの水準が上がっているからです。その結果、知的労働と高度のスキルといった需要に応えるために、高等教育は大きく拡大しています。例えばカナダのオンタリオ州では高校卒業者のうち、中等後教育を行う教育機関に進んだ者の率が、既にほぼ60%弱に達しています。州政府はこれを70%に高め、州内の従来型の工場における雇用が減少していることを埋め合わせたいと考えています。(Ontario, 2012) これにより、今まで以上に多くの学生が大学や専門学校などで学ぶこととなります。
OECD (2013a) OECD Skills Outlook: First Results from the Survey of Adult Skills Paris: OECD
OECD (2013b) Competition Policy and Knowledge-Based Capital Paris: OECD
Ontario (2012) Strengthening Ontario’s Centres of Creativity, Innovation and Knowledge Toronto ON: Ministry of Training, Colleges and Universities
知識とは、密接に関連しつつも異なった2つの要素、すなわち「知識内容」と「スキル」とからなります。知識内容とは、事実、概念、原則、根拠、手順、手続に関する記述を含みます。少なくとも大学においては、ほとんどの教員は知識内容に通じており、教えている専門領域についての深い理解を持っています。しかしスキルの向上に関して専門知識を持っているかと言えば、全く別の問題です。ここで問題にしているのは、教員が学生のスキル向上を助けられないということではなく(むしろ助けられるのですが)こうした知的なスキルが、知的労働者の需要に答えているのかどうか、そして大学のカリキュラムの中で、スキルの向上が十分に重視されているのかという点にあります。
知識社会において必要とされるスキルには、次のようなものが含まれます。(Conference Board of Canada, 2014から改変)
スキル自体やスキルの向上に関する研究(例えば Fischer, 1980, Fallow and Steven, 2000)からは、多くのことを知ることができます。
教育において、知識内容とスキルの違いが持つ意味については、第2章でより詳しく論じます。ここで重要なのは、知識内容とスキルは密接に関連しており、学習者がデジタル時代に必要な知識とスキルを持って卒業することを保証するためには、知識内容の獲得と同じくらいに、スキルの向上にも注意を払う必要があるということです。
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The Conference Board of Canada (2014) Employability Skills 2000+ Ottawa ON: Conference Board of Canada
Fallow, S. and Stevens, C. (2000) Integrating Key Skills in Higher Education: Employability, Transferable Skills and Learning for Life London UK/Sterling VA: Kogan Page/Stylus
Fischer, K.W. (1980) A Theory of Cognitive Development: The Control and Construction of Hierarchies of Skills Psychological Review, Vol. 84, No. 6
しかし、大学、専門学校その他の学校の授業プログラムを労働市場での即戦力ニーズにあまりにも近づけようとすることには、大きな危険があります。労働市場におけるニーズは、目まぐるしく変わるものであり、特に知識社会においては、将来どのような仕事やビジネスや取引が生まれてくるかを見極めることは不可能です。例えば、世界の株式価値上位企業の中に、キャンパスのイケてる女の子のランクづけを行うところから生まれた企業(フェイスブックの始まりはこのようなものでした)が入るなどと、20年前には誰が予測したでしょうか。
デジタル時代に必要とされるスキルに焦点をあてることにより、大学、短大、各種学校の目的についての問題が提起されます。つまり、労働力として十分なスキルを身につけた従業員を育てることを目的としているのかという問題です。確かに、高等教育が急激に拡大してきた背景には、政府や雇用者、保護者が希望してきたことの中に、雇用条件と合致する競争力をもった労働力を、できれば豊富に生み出したいという考えがあったことが大きく関係しています。実際、専門的な労働者を供給するということは、既にその役割の一つとなっています。しかし、かつての大学の役割は聖職者、法律家、そしてずっと後の時代になってからは行政官を育てるということが長く続いた伝統でした。
また、しばしば21世紀型スキルとも呼ばれることがあるような、知識社会で必要とされるスキルに焦点を当てた教育は、これまで大学にしかできなかった知的スキルを発達させるための学習を加速するに過ぎません。一方、労働市場が中心となる現実世界では、特定の会社や業種別のニーズを満たすことではなく、むしろ個人の学習のニーズに応えることが重要です。現代の労働市場の中で生き残っていくためには、学習者は柔軟に順応しなければなりません。会社の寿命がますます短くなる中、会社のために働くのと同様、自分のために働くことができるようになるべきです。したがって、取り組まなければならないのは、教育自体の再構成ではなく、教育がこのような目的に対して、これまで以上に効率的に答えているか、自問することなのです。
常時接続とソーシャル・メディアの時代には、蔦の絡まる前世紀的なコンクリート造の壁は、より軽く、透明性のある、しなやかなものへと変わるべき時を迎えている。(Anya Kamenetz, 2010)
本書は大学だけではなく、短大その他の学校の教員たちも読者対象としているのですが、ここでは特にデジタル時代が大学にどのような影響を与えたかについて見ておきましょう。名門大学で素晴らしい学位を獲得した者からでさえ言われることですが、一般的には大学という所は世間から外れているものであり、学問の自由という言葉は実際のところ気楽な地位にある教授を守るためのもので、いつまでも変わる必要性のないものであると。そして学界全体が中世に取り残されているようなものだ、などと言われています。言い換えれば、大学は過去の遺物であり、何か新しいものに取り替えなければならないものだというのです。しかし大学は過去800年以上にわたって存在しており、将来も重要であり続けるだろうと考えることには理由があります。そもそも大学というものは、あえて外からの圧力に抵抗する存在として作られているのです。大学はこのように捉えています。王や教皇、政府や企業、世の移り変わりについて、外からの圧力がなければ制度自体を根本的に変えることができなかったと。大学は、独立性、自由、社会への貢献を誇りとしています。では、こうした中核となる価値について、ごく簡単ではありますが見ていきましょう。万が一にも中核となる価値を本当に脅かすような変化が起こったら、大学の教授たちも講師たちも強く抵抗するでしょうから。
大学は知識を創造し、評価し、維持し、普及させるということを根本としています。社会におけるこのような役割は、現在ではかつてないほどに重要になっています。しかし大学がこのような役割をきちんと果たすためには、ある条件が必要です。まず、広く自治が認められることが必要です。新しい知識がもつ潜在的な価値は、とりわけ事前に言い当てることが難しいものです。新たな研究というものは、すぐに短期的な利益が出ることが明らかではなかったり、何も成果が出ないかもしれないものですが、経済や社会に大きな損失を及ぼさないように、そのような研究を奨励することによって、大学は未来に向けた「賭け」を安全に行う方法を提供しているのです。また、政府や産業界のように外側にある強い力が、根拠のある事実や倫理上の原則、社会の共通善に反するときに、大学が持つ重要な役割は、そのような強権的な地位に抗う能力を持っていることです。
おそらくそれよりもはるかに重要なのは、大学には学術的な知識と日常的な知識を区別する様々な原則が存在していることです。前者は抽象と具体の間を橋渡しする能力である論理や理性の法則で、後者は現象的な証拠や経験的な評価に基づく知識(例えば Laurillard, 2001)です。大学では個人や会社が日常の中でできることよりも高い思考レベルで活動することが期待されているのです。
大学を維持する助けとなってきた中核的な価値の一つには、学問の自由があります。厄介な問題を扱い、現状に疑義を呈し、あるいは政府や企業の主張と矛盾する証拠を提示しようとする学者たちは、そのような見解を発表することによって大学を解雇されたり、大学から懲罰を受けたりすることがないよう保護されています。学問の自由があることで、自由な社会を維持できるのです。その一方で、学問の自由とは学者が何を研究するのかを選ぶ自由をもつということでもあります。そして本書にとって重要なのは、知識をどのように広めていくのが最適であるかを自由に選ぶことができるということでもあります。したがって大学における教育は、このような学問の自由や学問の自治という観念に結びついているのです。たしかにテニュア(終身在職権)のような自治を守るための条件の中には、見直しへの圧力が高まっているものもあるのですが。
この点を、ただ1つだけの理由のために主張しておこうと思います。もしも大学が、外からの圧力の変化に合わせて変革をしようとするならば、その変革は大学の内部から、とりわけ教授や講師自身から生じたものでなければなりません。変革の必要性を見極める責任を負い、変革を自らのものとしていこうという姿勢こそ、職能集団としての学部なのです。政府なり社会全体なりが、大学の外から、とりわけ学問の自由という大学の中核的な価値を脅かすような形で変革を押し付けようとするのであれば、社会の中で独自の価値ある存在としてきた大学の本質を破壊してしまう危険、そして社会全体の中で、大学をより価値あるものに変化させていく機会を失わせる致命的な危険があります。しかし本書では変革の道を選ぶことが、学習者たちに利益をもたらすだけでなく、教員たち自身にとっても、仕事をやりくりし、教育を支えていくために必要以上の魅力ある素材を提供する最善の道であることについて、多くの根拠を示していこうと思います。
各種学校や短大は、大学とは幾分違った地位にあります。大学の場合に比べて、当局なり政府のような外部的な組織からの力によって変革を押し付けることは、非常に簡単とまでは言えませんが、比較的簡単です。しかしながら、変革のマネジメントに関する調査研究が明らかにしている通り(例えば Weiner, 2009 参照)、変革を経験する者がその必要性を理解し、自ら変革を希望したときに、より一貫性のある深いものになります。したがって、各種学校も、短大も、大学も、同じ挑戦に取り組んでいると言えます。それは組織の統一性を維持しつつ変革を進めるにはどのような方法があるか、そして何を受け入れるかという挑戦です。
次のような問いについて、他の読者と議論したり、自分の答えを他の読者の答えと比べたりしたくなったかも知れません。
これらの問いには正しい答えも誤った答えもありません。しかし本章全体を読んだ後、自分の回答を見直したくなるかもしれません。
Kamenetz, A. (2010) DIY U: Edupunks, Edupreneurs, and the Coming Transformation of Higher Education White River Junction VT: Chelsea Green
Laurillard, D. (2001) Rethinking University Teaching: A Conversational Framework for the Effective Use of Learning Technologies New York/London: Routledge
Weiner, B. (2009) A theory of organizational readiness for change Implementation Science, Vol. 4, No. 67
国、州、地域が異なれば、高等教育修了者を増やすニーズに対する行政の対応もさまざまです。カナダのように中等後教育の機関に対する公的予算を学生数の増加に合わせて、あるいはそれを超えて増額するというところもあります。しかしアメリカ合衆国、オーストラリア、イングランドおよびウェールズなどのように、経常予算に対する公的資金の直接投入の割合を大きくカットしなければならず、授業料を大幅に増額することになったところもあります。
行政の戦略がどのようなものであるにせよ、私が訪ねたありとあらゆる大学や短大で、教員は以前よりも多くの学生を教育しなければならず、教室のサイズは大きくなり、結果として、双方向性のほとんどない講義が増え続けているといいます。実際、こうした議論は統計にも裏付けられています。Usher (2013) によると、カナダにおける常勤教員と在籍学生の比率は、1995年の1対18から、2011年には1対22に増えています。これに対して学生1人あたりの公的資金投下額は40%(物価上昇率調整後)しか増えていません。実際のところ1対22という数字は、それよりも大規模なクラスとなります。というのも大学では常勤教員は名目上、勤務時間の40%しか教育に費やしておらず、学生は年間に別々の10科目を受講する可能性があるからです。実際、特に1年次および2年次のクラスで、1クラスの人数が極端に増えています。例えばカナダの中規模大学の心理学入門のクラスでは、1人の常勤教授が3,000人以上の学生を担当していました。
しかし授業料は目につきやすいものなので、多くの教育機関や行政当局では、授業料の増加を抑えようとしています。たとえ経常的補助金がカットされているにもかかわらずです。その結果、常勤の教員1人に対する学生の人数は増大しています。また、授業料が高額化し、大学や短大に通うための学生の借金が増加した結果、学生も親も要求が多くなり、学術共同体の学徒というよりも、むしろお客様に近くなっています。特に、教え方が下手であることが目立つようになり、高い授業料を払っている学生にとっては受け入れ難いものになりつつあります。
教員たちからは、政府や大学当局が教員たちに対して、学生数増加に応じた支出増加を行なっていないという不満が聞かれます。実際の状況はさらに複雑です。学生数を増やしている教育機関の大部分では、このような増加に対して様々な戦略で対応しています。
こうした戦略はどれも、教育方法が変わらないままであれば、教育の質に対して否定的な影響を与えるものです。
契約講師は常勤教授よりも安く雇用できるものの、通常、カリキュラムの設計や教科書の選定などについて、テニュアの教員と同じような役割を果たすわけではありません。また、学術的な条件は十分に満たしていることが多いものの、雇用は期限付きであるため、彼らの経験や学生に関する知識は契約が終われば失われてしまうことになります。しかし様々な戦略の中では、これはまだ教育の質についての否定的な影響が最も小さいものだと言えるでしょう。残念ながら教育機関にとっては最も費用のかかる戦略なのですが。
TAは自分が担当する学生よりもせいぜい数年先に進んでいる程度のものであり、教育に関しては、ほとんど研修も指導も受けていないことがしばしばです。また、よくあることですが、留学生をTAとして採用する場合、英語のスキルが不十分なこともあるため、説明を理解することが難しいことさえあります。TAは同一科目として複数開講されるクラスで指導に当たることが多く、このため同じコースを受講する際の指導レベルが全くバラバラになってしまうこともあります。TAの雇用と給与については、博士研究員(ポスドク)への研究による政府機関からの資金獲得状況と密接な関係がある場合もあります。
クラスの人数が増大すると、より多くの時間が講義形式に割かれ、少人数でのグループ・ワークの時間が減るという傾向があります。実際、講義形式の授業は、1クラスの人数が増える場合、それだけの学生を収容できる大きな講義室があることが条件となりますが、非常に経済的な方法になります。学生は同じ講義を聞くことになるので、学生数の増加に伴う限界費用は小さいものになります。しかし受講生が増えるにつれ、教員は多肢選択式問題や自動採点による評価のような、大量の処理に向いた柔軟性の乏しい評価形式に頼るようになります。おそらく、より重要なことは、教員と学生の間の双方向性が、受講生の増加に伴って急激に縮小し、質的にも学生グループ内の相互的なものから、教員と個々の学生の間で行われるものになっていくことです。100人以上の学生が受講する講義では、1セメスターの講義を受けている間に質問したりコメントをもらったりしようとする学生は10人に満たないという研究(Bligh, 2000)があります。この結果から見えてくるのは、講義形式では1クラスの人数が増えれば増えるほど、調査・解明やディスカッションよりも、情報の伝達に重きが置かれるようになるということです。(講義形式の効率性についてより詳細な分析はセクション4.2を参照)
教員の教育負担を増やすこと(担当科目を増やすこと)は、上述の4つの戦略の中では最も例外的なものです。その理由の一部には教員の抵抗があり、労使交渉の中で現れることもあります。教員の教育負担が増加すれば、1クラスあたりの準備の時間は減り、オフィス・アワーのための時間も減り、成績評価も一層手っ取り早い簡単な方法に頼るようになるでしょうから、教育の質は下がると考えられます。仮に常勤教員が教育に充てる時間を減らして、研究に充てる時間を増やそうとするのなら、1クラスの人数をさらに増やすことは避けられません。しかし研究資金が増えれば、TAとして収入を補える博士研究員を増やすことができます。結果、講義を行う際のTAの利用がますます拡大することになりました。ちなみにカナダでは多くの大学で常勤教員の教育負担は減少しつつあります。(Usher, 2013) しかし常勤教員1人あたりのクラス人数は、ますます大きくなっています。
ところで教育以外の業種では、生産性が上がりさえすれば、高い要求を課したとしてもコストの増加に直結するわけではありません。このため行政は、次第に高等教育機関に対して、より生産的にする方法を求めるようになってきました。つまり、より質の高い学生を、より多く、今と同じコスト、あるいはもっと安いコストで、というわけです。(Ontario, 2012 参照)これまでのところ教育機関は、このような圧力に対して、時間をかけながら少しずつ1クラスの人数を増やし、TAのような、より安い労働力を使うことで対応してきました。しかし、ここにきて急に根本的なところから改革をしなければ、質を保てないところまで来てしまいました。ここで私が述べたいことは、教育を設計し直し、それを実施すべきだということです。
他にも、教育方法を変えないままにクラスの規模を少しずつ大きくして来たことの副作用として、教員の仕事がますます大変なものになってしまいました。端的に言えば、教員は、より多くの学生を扱うようになる一方で、その方法は何も変えていないため、より多くの仕事をしなければならなくなってきています。生産性という概念に対して、大学教員たちは教育課程を産業化するものであると否定的に捉えがちですが、この概念を拒否してしまう前に、そんなに懸命になって仕事をしなくても、もっと賢い方法で、より良い結果が得られるようなアイデアを検討してみても良いのではないでしょうか。さて、生産性が上がるように教育を変え、学生にも教員にも利益になることができる方法はあるのでしょうか。
Bligh, D. (2000) What’s the Use of Lectures? San Francisco: Jossey-Bass
Ontario (2012) Strengthening Ontario’s Centres of Creativity, Innovation and Knowledge Toronto ON: Provincial Government of Ontario
Talbert, R. (2017). Flipped Learning. A Guide for Higher Enducation Faculty. Sterling, VA: Stylus Publishing, L.L.C.
Usher, A. (2013) Financing Canadian Universities: A Self-Inflicted Wound (Part 5) Higher Education Strategy Associates, September 13
おそらく、この50年間の高等教育において学生ほど変わったものはないでしょう。「古き良き時代」、つまり高校卒業者の3分の1に満たない数しか高等教育に進学しなかった時代には、学生の大部分は大学や短大出身といった学歴をもった家族の下に育っていたものです。このような学生は大抵は裕福な家庭であり、あるいはそこまででないにしても、しっかりした経済的な支えを持っていました。特に大学は学生の選択を今よりも厳しく行なっており、成績が非常に優秀な学生、すなわち最も成功しそうな学生を受け入れていたものです。1クラスの人数は現在よりも少なく、教員たちは今よりも教育に多くの時間を割いており、研究に向かわせる外圧も今より小さいものでした。教育に通じているということは当時も大事なことではありましたが、教員として本質的なことではありませんでした。というのも、教授が世界一の教育者でなかったとしても、優れた学生が成功できそうな環境にいたのですから。こうした「伝統的な」モデルは、ハーバード、MIT、スタンフォード、オックスフォード、ケンブリッジといったエリート私立大学の大部分には現在でも当てはまりますし、リベラル・アーツ教育を行う規模の小さい短大では、どちらかと言えば当てはまるところがあります。しかし先進国における公立大学や、短大の多くでは、かつてなら当てはまることが当然だったとしても、今はもう当てはまらなくなっています。
カナダにおいては、高校卒業生の28%が大学に、20%が短大に進学しており、学生の背景は以前よりもずっと多様になっています。(AUCC, 2011) 行政当局が何らかの形で中等後教育への進学率を70%にするよう教育機関を急き立てている (Ontario, 2011) ことに応じて、教育機関はこれまで教育サービスが行き届いていなかった層、例えば少数民族、特にアメリカにおけるアフリカ系やラテンアメリカ系アメリカ人、先進諸国からの新たな移民、カナダにおける先住民の学生、あるいは英語を母語としない学生などに手を差し伸べなければならなくなっています。行政は、授業料の全額あるいはそれ以上の額を負担できる外国籍の学生をより多く入学させるように大学に働きかけてもおり、結果、文化的・言語的な多様性に繋がりつつあります。言い換えれば、中等後教育の機関は、少数のエリートだけのための組織のままでいるのではなく、社会全体がそうなっているのと同じように、社会経済的多様性や文化的多様性を体現することが求められているのです。
また多くの先進国では、大学や短大の学生は以前よりも年齢層が高くなっており、もはや学業と多少の娯楽(あるいは娯楽と多少の学業かもしれませんが)に専心するフルタイムの学生ではなくなっていることに気がつくでしょう。学費と生活費が高騰していることから多くの学生はアルバイトを強いられており、そのため形式的にはフルタイムの学生、すなわち正規生に区分される学生であったとしても、毎週の授業スケジュールとの衝突が避けられなくなっています。アメリカでは4年間とされる学士の学位を取得するまでの平均年数は、現在では7年間となっています。(Lumina Foundation, 2014)
Council of Ontario Universities (2012) によると、高校を卒業した直後に入学したわけではない学生が全入学生の24%を占めています。そしてこのような学生の入学数の伸び率は、高卒直後に入学する学生よりも高いことを指摘しています。ひょっとすると、より重要なことなのでしょうが、一旦卒業してからキャリアの途中でさらに別のコースや専攻プログラムを受講するために戻って来て、自分の関わる領域で変わり続ける知識に追いつこうとする学習者が多いということです。こうした学生の多くは、フルタイムで働いており、家族を持っており、学業以外の物事と調整をしながら、学業に取り組んでいます。
しかし知識社会における競争力を維持するニーズを持った学生を奨励し支援することには経済的な観点から批判があります。特に出生率の低下と寿命の延伸に伴って、一部の国では生涯学習者、すなわち一度は卒業したものの、さらなる学習のために戻ってくる学生の数が、高校から直接進学する学生の数を超えるということも間もなく起きるでしょう。例えばカナダのブリティッシュ・コロンビア大学では、全大学院生の年齢の中間値は、いまや31歳となっており、3分の1以上の学生が24歳以上になっています。短大から大学、あるいはその逆へと移籍する学生の数も増えています。例えばカナダでは、ブリティッシュ・コロンビア工科大学が毎年の入学生の半分以上が大学の学位を既に取得していると算出しています。
今日の学生が以前とは異なっている別の要因として、デジタル技術、特にソーシャル・メディア漬けになっており、それらを使いこなす能力を持っていることが挙げられます。例えば iPad や携帯電話のような、様々なモバイル機器の上で動作するインスタント・メッセージ、ツイッター、ビデオ・ゲーム、フェイスブック、凄まじい数のアプリなどです。このような学生は、常に「オン」の状態にあります。学生の大部分は、ソーシャル・メディア漬けの状態で大学や短大にやってきて、生活の多くがソーシャル・メディアの上で回っています。Mark Prensky (2001) のように、デジタル・ネイティブたちはデジタル・メディア漬けになっていることから、考え方や学び方が根本的に異なっていると論じる評論家もいます。デジタル・ネイティブ世代は人生の他の側面も全て、ソーシャル・メディアを使おうとします。それでは、この世代の学習体験は、なぜ根本的に異なっているのでしょうか。このことについてはセクション8.2でさらに探求することにしましょう。
高齢の教員たちは、自分たちが学生であった古き良き時代を懐かしく思い出すことでしょう。1960年代に Robbins委員会 が英国における大学数の拡大を提言したときも、既存の大学の学長たちは「数を増やすことは質を落とすことである」と不平を漏らしたものです。1950年代に時間を戻そうとしているように見えるキャメロン政権下の英国ならばあり得るかもしれませんが、公立の大学では教授が菩提樹の木の下で少人数の熱心な学生グループに知識を授けるといったソクラテスの時代の理想は、おそらくもはや存在せず(もしかすると大学院レベルでなら例外があるかもしれませんが)、そのような理想が公立の中等後教育に戻ってくることは、もはや考えられません。高等教育の大衆化は伝統主義者の懸念をよそに、多くの庶民に学問への門戸を開いたのでした。既に見てきた通り、これは社会移動の他に経済的な理由から生じたものでした。
このような学生層に生じた変化が大学や短大における教育に対してもつ意味は重大です。かつてドイツで数学の教授たちは、受講生のうちの5%から10%しかテストで合格しないことを自慢しあったものです。つまり本当に最優秀の学生しか合格できないほどに難しいレベルだったというわけです。合格率が低いことは、教育がどれだけ厳しいものであったかを示すものとされていました。要求されるレベルに到達するのは学生の責任であって、教授の責任ではないとされていたのです。トップレベルの研究生であれば、今でもこうした目標が当てはまるのかもしれませんが、既に見てきたように、今日の大学や短大では、このような状況とは異なる目標、すなわち、できる限り多くの学生が、知識社会で生きていくだけの適格性を身につけて大学を卒業することを、できる限り保証するという目標を掲げています。95%の学生の人生を放り出してしまうなどといったことは、倫理的にも経済的にも許されるものではないのです。行政当局は、卒業率や与えられる学位を、予算投入に影響する「重要業績指標」として使うことが増えています。
学生層が大きく多様化したことを考えると、できるだけ多くの学生が合格できるようにするというのは、教育機関にとっても、また教員にとっても、大きな挑戦です。学生層の多様性が増す中での挑戦で成功するためには、学生を合格に導く教育方法へとより焦点を合わせること、学習の個別化をより推し進めること、講義をより柔軟にすることが必要です。このような改革を進めることで、教員の肩には学生と同じように、さらに重い責任がかかることとなり、より高いレベルの教育スキルが求められることになるでしょう。
幸いにも、人がどのように学ぶかということについては100年以上にわたって非常に多くの研究が行われており、学生を成功に導く教育方法についての研究もたくさんあります。しかし残念なことに、このような研究は大学や短大の大多数の教員たちには知られておらず、用いられてもいません。教員たちは、少人数クラスでエリート学生がいた頃であれば適切であったけれども、今日では既に適切ではなくなっている教育方法に、今でもすっかり頼りきっています(例えば Christensen Hughes and Mighty, 2010 を参照)。ですから、教育にこれまでと違うアプローチを取り込むこと、そして教員が多様な学生たちの中で効率性を高めていこうとするのを助けてくれるようなテクノロジーを、もっと上手に使っていくことが、今こそ必要になっているのです。
AUCC (2011) Trends in Higher Education: Volume 1-Enrolment Ottawa ON: Association of Universities and Colleges of Canada
Christensen Hughes, J. and Mighty, J. (2010) Taking Stock: Research on Teaching and Learning in Higher Education Montreal and Kingston: McGill-Queen’s University Press
Council of Ontario Universities (2012) Increased numbers of students heading to Ontario universities Toronto ON: COU
Lumina Foundation (2014) A Stronger Nation through Higher Education Indianapolis IN: The Lumina Foundation for Education, Inc.
Prensky, M. (2001) ‘Digital Natives, Digital Immigrants’ On the Horizon Vol. 9, No. 5
Robbins, L. (1963) Higher Education Report London: Committee on Higher Education, HMSO
セクション6.2で見る通り、テクノロジーは非常に古い時代から教育の中で常に重要な役割を持っていましたが、最近に至るまで、どちらかと言えば教育の周辺領域にとどまっていました。テクノロジーは、主にマイノリティにあたる学生が普通教室での授業を受けるのを支援するために用いたり、特定の領域(よくあるのは継続教育や公開講座)での遠隔教育の形式で導入されたりしたものです。しかしながら、この10年から15年の間に、テクノロジーは、大学においてさえも教育活動の中核に影響を与えるようになっています。テクノロジーが周辺から中心へと移ってきた流れは、次のようなトレンドから見ることができます。
いまや単位制のオンライン学習が、大学や短大の学科の大部分、中には K12(初等・中等教育)レベルの学校でさえも主要で中心的な活動になりつつあります。アメリカでは現在、完全オンライン・コース(例えば通信制コース)への入学生が、中等後教育への入学生全体の4分の1から3分の1ほどの割合を占めています(Allen and Seaman, 2014)。北米大陸では、ここ15年ほどの間に、オンライン学習の入学生が、毎年10%から20%ずつ増えてきていますが、これに比べて、キャンパスに通うタイプの入学生は毎年2〜3%程度の伸びにとどまっています。アメリカでは1つ以上の完全オンライン・コースをとっている学生が少なくとも700万人に達しており、中でもカリフォルニア州の短大のシステムには、ほぼ100万人のオンラインコースの入学者が入ってきています(Johnson and Johnson and Mejia, 2014)。つまり完全オンライン学習は、いまや多くの学校や中等後教育システムにおいて、重要な要素になっているのです。
オンライン学習に関わる教員が増えていくにつれて、これまでクラスの中でできていたことの多くが、オンラインでも同じように、あるいはより良くできるということも認知されるようになってきています(このテーマは第9章でより深く探求します)。結果として、緩やかながらも教員たちは、オンライン学習の要素を教室での教育に導入するようになっています。例えばスライドや PDF の形で、講義ノートを蓄積するために学習管理システム (LMS) を用いたり、オンラインの資料を提供したり、オンラインのディスカッション・フォーラムを立てたりといったことが行われています。このように、オンライン学習が教室での授業という基本的なモデルを変えることなく、対面型の教育の中に徐々にブレンドされて来ています。ここでは、オンライン学習は従来型の教育を補うものとして使われています。この分野では規格や共通の定義があるわけではありませんが、本書ではこのようにテクノロジーを使って学習することを「ブレンド型学習」と表現することにします。
しかし、さらに近年に至って、講義の収録が行われるようになったことで、教員は講義を録画すれば、学生たちがそれを好きな時間に視聴することができ、結果、教室での時間は、より双方向的な集合教育に使えるということが認識されるようになってきました。このモデルは「反転授業」として知られています。
教育の相当の部分をブレンド型のもの、あるいはより柔軟なものに移し替える計画を進めている教育機関もあります。例えばオタワ大学は5年以内にコースの少なくとも25%をブレンド型またはハイブリッド型にする計画を立てています(University of Ottawa, 2013)。ブリティッシュ・コロンビア大学は1年次および2年次の大講義クラスをハイブリッド型のクラスに改める計画を立てています(Farrar, 2014)。
完全オンライン学習とブレンド型学習の将来の可能性については、第9章でさらに論じます。
オンライン学習とも関連した展開で重要性を増しつつあるのが、従来よりもオープンな教育への移行です。オープン学習への展開は10年以上にわたって続いていますが、伝統的な教育方法に直接の影響を与え始めています。一番身近にあるのは、いま皆さんが読んでいるこの本、オープン・テキストです。オープン・テキストは、学生あるいは教員が無料で、デジタル版をダウンロードできるデジタル・テキストで、学生は教科書にかける費用を大きく節約することができます。例えば、カナダでは、ブリティッシュ・コロンビア、アルバータ、サスカチェワンの3州が、大学や短大の専攻プログラムで登録者の多い40のテーマについて、ピア・レビューを経たオープン・テキストの作成と発行について協力をすることで合意しています。
オープン教育における最近の展開の他の例として、オープン教育リソース(OER)があります。これはインターネット上で無料で手に入るデジタル教育素材で、教員や学生は無料でダウンロードすることができ、必要であれば翻案や修正を行うこともできます。その際、素材作成者の保護を定めるクリエイティブ・コモンズのライセンスに従わなくてはなりません。OERの中でおそらく最もよく知られているものは、マサチューセッツ工科大学(MIT)のオープン・コースウェア・プロジェクトでしょう。個々の教授の許可を受けて、MIT は講義収録システムで記録されたビデオ講義や、スライドなどの補助資料を、インターネット上で無料でダウンロードできるようにしています。
オープン学習の展開がもつ意味については、第10章でも論じます。
オンライン学習の主要な展開の1つは、大規模オープン・オンライン・コース (MOOC) の急速な成長です。2008年、カナダのマニトバ大学は最初の MOOC の提供を始めました。登録は2,000人強といった程度で、専門家による Web セミナーでの発表やブログ記事(あるいはその両方)を、参加者のブログやツイートにリンクしていました。コースは誰に対しても開かれており、正式な成績評価を受けられるものではありませんでした。2012年にはスタンフォード大学の2人の教授が、人工知能に関する講義収録を基盤とした MOOC を立ち上げ、10万人以上の学生を引きつけました。以降、MOOC は世界中で急速に拡大しています。
MOOC のフォーマットは様々ですが、一般的には次のような特徴があります。
しかし MOOC は、テクノロジーが急速に進んだ最近の例であり、アーリー・アダプター(新たに現れた革新的なサービスを比較的初期の段階で取り入れる人々)が過度の熱狂を見せているに過ぎず、この新たな教育のためのテクノロジーの長所と短所は注意深く分析していく必要があります。本書執筆時点では MOOC の未来を予測することは困難です。ただ、間違いなく長期にわたって展開を見せ、高等教育の市場で何らかの隙間を埋めることでしょう。
MOOC については、第5章でさらに論じます。
このように教育に関するテクノロジーが急速に発展している中、教員にはテクノロジーの様々な価値を新旧を問わず評価することができ、自分たちや学生たちがいつ、どのようにテクノロジーを使うのが合理的なのか判断できるようにするためには、しっかりとした枠組みが必要であると言えます。ブレンド型学習やオンライン学習、ソーシャル・メディアやオープン学習は、いずれもデジタル時代に効果的な教育をするために重要な技術の進化なのです。
Allen, I. and Seaman, J. (2014) Grade Change: Tracking Online Learning in the United States, Wellesley MA: Babson College/Sloan Foundation
Farrar, D. (2014) Flexible Learning: September 2014 Update Flexible Learning, University of British Columbia
Johnson, H. and Mejia, M. (2014) Online learning and student outcomes in California’s community colleges San Francisco CA: Public Policy Institute of California
University of Ottawa (2013) Report of the e-Learning Working Group, Ottawa ON: University of Ottawa
この章では、知識の本質に関する様々な見解について、とるべき教育方法とどのような関係に立つのかを論じます。
この章を読み終わると、以下のことができるようになります。
この章では、知識の本質と、信じられているものが様々であることを論じ、それが教育や学習にどのように影響しているかについて検討します。
とりわけ、この章では以下のトピックを取り上げます。
加えて、この章には以下のアクティビティーが含まれています。
登場人物
ピーターとルース(家主)
スティーブン(機械工学の教授、ピーターの弟)
キャロライン(作家、ルースの友人)
ピーター(スティーブンに向かって):キャロラインが着いたみたいだ。お前はキャロラインにまだ会ったことがないだろうけど、頼むから今回は親しげに社交的に付き合ってくれよ。お前が以前うちに来た時は、ほとんど一言もしゃべらなかったじゃないか。
スティーブン:ああ、興味のある話を誰もしなかったからね。本と芸術のことばかり。そんな話に興味がないことは知っているじゃないか。
ピーター:とにかく努力だけはしてくれ。ほら、彼女が来た。やあ、キャロライン。よく来てくれたね。入って、どうぞ座って。こちらはスティーブン、僕の弟だ。弟について何も伝えてなかったと思うけど、まだ会ったことがなかったよね。彼は地元の大学で機械工学の教授をしているんだ。ところで、まず、何か飲み物は?
キャロライン:こんにちは、スティーブン。ええ、まだお会いしたことはないわ。はじめまして、ピーター、白ワインをいただけるかしら。
ピーター:お互い自己紹介していて。飲み物を取って来るよ。台所にいるルースを手伝わないといけないし。
スティーブン:あなたが作家だとピーターから聞いたんだけど、何を書いているの?
キャロライン(笑いながら):いきなりまっすぐの質問をするのね。答えるのは少し難しいわ。その時々興味をもったこと次第だから。
スティーブン:じゃあ、今興味を持っていることは?
キャロライン:愛する人を、誰か別の愛する人のせいで失ってしまったときに、人はどんな反応をするのかということを考えているわ。車を父親がガレージから出そうとバックさせているときに、2歳の娘を轢いて死なせてしまったというニュース記事から思いついたの。奥さんがその子を庭で遊ばせていたんだけど、夫が車を出そうとしているのに気がつかなかったのよ。
スティーブン:ああ、なんてひどい事件なんだ。なぜ父親が後方確認カメラをつけていなかったのか不思議でならないよ。
キャロライン:ええ、何が怖いかって、これが誰にでも起こりうるということね。だからこうした日常の中の悲劇について何か書いてみたいと思っているの。
スティーブン:でも、どうやって、自分で経験したこともないようなことについて書けるんだい?ひょっとして、何かそんな経験があるのかい?
キャロライン:ないわ、幸いにもね。そうね、そこが作家の腕ってところかしら。自分自身を他の人の世界へとはめ込んで、その気持ちや感情、そこから起きる行動を予測することができるの。
スティーブン:そんなの、心理学科を卒業しているか、カウンセラーの経験でもないとできないんじゃない?
キャロライン:うーん、家族の中で同じような悲劇を経験した人に話を聞きに行くかしら。事故の後、どんな人になってしまったかを知るためにもね。でも、基本的には私自身がそんな時、どんなふうにリアクションするのか理解して表現していくことね。そして小説の登場人物に合わせて修正していくと思うわ。
スティーブン:でも、ある人が本当に君の考える通りの行動をするかなんて、どうすれば正しいと分かるんだい?
キャロライン:うーん、そういう時の「正しさ」って何かしら。人が違えば、違った行動をするというのは普通でしょう。それこそが小説の中で表現したいことなの。夫はこういうリアクションをとる、妻はそれと違うリアクションをとる。そのとき、2人の間に、あるいは2人を取り巻く人たちの間に相互作用が起きる。私が特に興味があるのは、そんな2人が実際にその後、いい人間関係を保っていけるのか、それともお互いに傷つけあって壊れていってしまうのかということね。
スティーブン:でも、書き始める前にそれは分からないのかい?
キャロライン:それが大事な点なのよ。本当に。事前には分からないわ。私は空想の中で登場人物を成長させたいと思っている。結果はそこにかかっているのよ。
スティーブン:でも、その2人がそうした悲劇に見舞われたときに実際にどんな反応をするか、本当のところが分からなければ、その人たちとか、似たような状況にある人たちを、一体どうやって助けることができるのさ。
キャロライン:私は小説家であって、セラピストではないわ。そんなひどい状況にある人を助けようとしているのではないの。私が理解しようとしているのは、人間の普遍的なあり方なの。そしてそのために私は、私のやり方で始めなければならないの。何を知っているのか、どんなふうに感じているのか。それを文脈に置き換えながら言葉にしていくの。
スティーブン:そんなのナンセンスだよ。自分自身の内面を見つめて、それをフィクションの中に作り上げていくというだけで、どうして人間のあり方を理解できるのさ。そんなことをしても、現実に起きたことには何にも関係がないだろう。
キャロライン(ため息をつきながら):スティーブン、あなたって想像力のかけらもない、典型的なマッド・サイエンティストなのね。
ピーター(飲み物を持って現れる):さてさて、お二人さんは仲良くやっているかな。
ご覧の通り、二人はとても仲良くやっているようには思えません。二人は真実について、あるいはどうすれば真実に到達できるかについて、別々の世界観を持っていることに問題があります。二人は知識が何から構成されるのか、知識がどのように獲得されるのか、そして知識がどのように検証されるのかについて、全く違った見方から出発しています。古代ギリシャ語には、知識の本質について考えるための言葉があります。それが「認識論」です。この言葉はこれから教育方法を巡っていく重要なナビゲーターになることを一緒に見ていきましょう。
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全ての教育は、技術と科学を混ぜ合わせたものです。技術である理由は、教員が常に様々な変化の中、それぞれに対して素早い判断や意思決定をしなければならないからです。通常、良い教員は教育に対する情熱を持っており、認識面だけでなく情緒面も重要です。教員は学習者の心情を理解し、学習で何に困っているかを察知し、効果的にコミュニケーションできるような人間関係も重要となることも、往々にしてあるものです。
教育についての科学もあります。これは理論と研究を基盤にしています。しかし実際には数多くの理論があり、それぞれの理論の間には矛盾を感じることもしばしばですが、このような矛盾は本来、知識とは何かについての認識論の違いと、価値感の違いから生じています。そして100年以上にわたって、学生がどのように学んでいるのか、経験主義に基づいた研究や、効果的な教育方法が発表されてきています。これも良いものであれば、明確で強力な理論的基盤から導かれていますが、悪いものになると、単なる順位づけや、誰がうまく学習したかというデータ収集に陥ってしまいがちでした。
研究を基盤とした実践の他にも、教員の教育経験に基づいた優れた実践があります。その多くは研究によって有効性が裏付けられていたり、学習理論から導かれていたりするものですが、常にそうであるとは限りません。その結果、一般的には優れた実践を、その時点で認められている知恵であると捉えることはできますが、ある人が優れた実践であると感じた教育方法が、いつでも他の人の共感を呼ぶわけではありません。講義がその良い例です。セクション3.3で、講義には多くの制約がある強力な証拠を示しますが、それでも自分の専門領域を教えるのに最適な方法は講義であると信じている教員は今でも少なくありません。
しかし非常によく訓練された教員でも、うまく学習者とやっていける適性や情緒的なつながりを築くことができなければ、良い教員になれるわけではありません。また、事実上、大学教員のほぼ全てを含むことになるはずの特別な訓練を受けていない教員や、ほとんど経験がないという場合でも、コツをつかんでいる、あるいは生まれつきの才能がある教員であれば、教え方が上手いということもあるでしょう。このような教員の存在はしばしば、教育においては科学よりも技術の方が重要である証拠として引き合いに出されることがありますが、実際にはそんな教員はごくわずかです。訓練を受けることなく自然に素晴らしい教員になっていく人の多くは、仕事の中での試行錯誤を通じ、必然的偶然の中で急速に指導技術を身につけていくのです。
以上のような理由により、あらゆる状況に合う、たった一つの最も優れた教育方法というものはあり得ません。例えば読み書きや算数を教えるための「現代的方法」と「伝統的方法」を巡る不毛な議論が繰り返されるのはこのためです。たいていの場合、良い教員には道具・方法・状況にあった教え方を収めた武器庫があり、それぞれ使い分けています。また教員たちはどのように教えることが良い教育に繋がるかについて、様々な意見を持っているものですが、知識をどう捉えているか、何が学習の良し悪しを決めるのか、望ましい学習成果として何を優先しているのかによって変わってくるでしょう。
それにもかかわらず、このような見かけ上の違いがあるために、教育の質を向上させるための運用基準や手法を作ることができないだとか、教育をめぐる判断の基礎となるべき原則や証拠が存在しないとかいうことを意味するわけではありません。それは、急速に変化するデジタル時代であっても同様です。本書の目的は、そのような運用基準を提供することにあります。もちろん、サイズが1つだけでは誰にでも合うわけではないことは分かっており、教員それぞれが、本書で提案するものの中から自身の教育上の文脈にあわせて選択し、適応させていくことが必要でしょう。しかし、このようなアプローチが機能するためには、教育と学習をめぐる根本的な問題を探求しなければなりません。そのような問題の中には、教育をめぐる普段の議論ではあまり取り上げられないものもあります。最初に取り上げるのは、おそらく最も重要な問題である認識論です。
良い教員として最も重要な特徴とあなたが考えるものを3つ、優先度の高い順に書いてみましょう。
「夕食前の会話」のシナリオで、スティーブンとキャロラインは、知識の本質について、それぞれ全く異なる信念を持っていました。ここでの問題は、どちらが正しいかではなく、我々は皆、真実を構成するものは何か、その真実とはどのようにすれば最もよく実証できるか、そして教育という観点から、人がこのような知識を得るのを助けるにはどうするのが最も良いかといった、知識の本質について暗黙上の信念を持っているということです。また、信念の土台は専門領域によって異なる場合があります。例えば社会科学のように、同じ知識領域の中であっても異なることも少なくありません。そして、この先しばらく読み進めていただければ徐々に明らかになってくることですが、私たちが教育手法をどのように選ぶか、そしてテクノロジーをどのように使うかといったことでさえ、私たちの信念や前提、より具体的には知識をどのように考えるか、その学問領域を修めるために何が必要か、そして学生の学び方をどのように捉えるかによって、完全に決まると言っても過言ではないでしょう。さらに学問分野の違いを超えて共有される学術的知識についての共通の信念が私たちにはあり、このことが一般的な「日常の」知識と学術的知識とを区別していることにも気づくでしょう。
高等教育での教え方は、まず各自がもつ信念によって、あるいはさらに重要な考え方なのですが、その学問分野では何によって有効な知識が構成されるのかという点での共通理解によって決定されるでしょう。知識の性質について考えるとき、その中心にあるのは、私たちが知っていることについて、それを私たちはどのような方法で認識しているのかという問題です。なぜ私たちは、あることを「正しい」と信じることができるのでしょうか。このような考え方は認識論的な性質をもった問いであると言えます。
Hofer and Pintrich (1997) は次のように述べています。
認識論は、哲学の一領域であり、知識の性質とそれが正しいものであると認識することと関係している。
知識の基盤をめぐって信念が衝突した古典的な事例には、1860年に英国科学振興協会で行われたトマス・ハクスリーとオックスフォード司教のサミュエル・ウィルバーフォースの間で行われた、種の起源をめぐる有名な論争があります。ウィルバーフォースは、人は神によって作られたと論じました。これに対してハクスリーは、人は自然淘汰を通じて進化したと論じました。そしてウィルバーフォースは、知識の「正しさ」は信仰と聖書の解釈で決まるのだから、正しいのは自分の方だと信じていました。これに対してハクスリーは、知識の「正しさ」は経験科学と合理的懐疑主義で決まるのだから、正しいのは自分の方だと信じていました。
高等教育は、特定の学問分野での学術研究を裏付ける基準や価値観について、学生の理解を深めることに重点が向けられています。何が当該分野では有効な知識を形作っているのかという問いもそこには含まれます。ある分野で専門家と呼ばれる人々は、通常、このような知識を前提にする傾向が非常に強く、なぜそんなふうに主張できるのか問われない限り、はっきりと意識することはないかもしれません。しかし学生のような初心者にとっては、専門家たちが教育内容や教育方法をどのように選ぶかの背景にある価値観を完全に理解するには非常に多くの時間がかかります。
ですから私たちが認識論上、どのような立場をとるかということと、どのように教えるかということとの間には、実質的な因果関係があるのです。
初等・中等教育の教員の多くは、主要な学習理論には慣れ親しんでいるでしょう。一方、中等後教育の教員は、研究テーマに関する経験、研究能力または職業訓練能力に基づいて採用されているのですから、仮に手短にではあったとしても、主要な学習理論のレクチャーを受け、話し合うことが大切です。実際、様々な学習理論について、きちんとした研修も受けず、知識がなかったとしても、教員たちは主要な学習理論のどれかに当てはまるような教育手法を採用するものです。教育学の専門用語に気づいている場合もあれば気づいていない場合もあるでしょうけどね。また、オンライン学習、テクノロジーを活用した教育、あるいは学習者のインフォーマルなデジタル・ネットワークが拡大するにつれて新たな学習理論も現れてきています。
状況に応じて様々な理論的な指導法を使い分ける知識があれば、教員が直面している学習の文脈が非常にさまざまであったとしても、学生のニーズにはどの教育方法を選択するのか、判断ができる可能性が高まります。これは第1章で述べたように、デジタル時代の学習者の様々な要求に立ち向かう際には特に重要になります。また、ある特定の理論的な指導法を選んだり、好んで採用したりする背景には、テクノロジーを教育支援に用いる手法について、きっと意識していない何か大きな理由があるはずです。
実際、学習理論に関しては膨大な数の文献があり、本書では控えめにいっても大雑把な扱いしかできていません。学習理論について詳しい紹介が欲しいという方には、とんでもない値段ですが Schunk (2011) を購入してください。廉価なものでは Harasim (2012) もあります。ただ、本書の目的は、あらゆる学習理論を徹底的に網羅しているという意味で包括的なものにすることではありません。むしろ本書では、デジタル時代における学習者の多様なニーズに応えることができる様々な教育手法を提案すること、そして、それぞれの評価をするための土台を提案したいのです。
続く節では、最も一般的な学習理論を4つとりあげて、その基礎にある認識論について検討します。
Harasim, L. (2012) Learning Theory and Online Technologies New York/London: Routledge
Hofer, B. and Pintrich, P. (1997) ‘The development of epistemological theories: beliefs about knowledge and knowing and their relation to learning’ Review of Educational Research Vol. 67, No. 1, pp. 88-140
Schunk, D. (2011) Learning Theories: An Educational Perspective Boston MA: Allyn and Bacon
客観主義者たちは、客観的で信頼できる事実、原理、理論が存在し、それらは発見、記述することができ、時空を超えて存在するというふうに考えます。また、客観主義では人が信じようと信じまいと、知性よりも外側に真実があると捉えています。例えば、物理の法則は常に一定であり、何か新たな「真実」を発見した時にだけ我々の知性が進化するかもしれないと考えます。
客観主義的な見方を信条とする教員は、授業の中で学ぶべき全体的な知識、すなわち事実、公式、専門用語、原理、理論などを提示しなければならないと考える傾向にあります。
そして、このような全体的な知識を効率的に学習者に伝えることに重点を置いています。講義や教科書は、権威がある、情報量は豊富で、系統立てられており、分かりやすいものでなければなりません。学習者に対しては、当該学問分野で指導的とされている認識論的な枠組に沿って、経験的に得られた証拠と仮説の検証に基づいて、与えられた知識を正確に理解し、再生し、あるいはそこに積み増していくことを要求します。授業における課題や試験は、学生自らが「正しい答え」を発見し、その根拠を示すことを要求するものとなります。独自の考え方や創造的な考え方も同様に必要ではありますが、客観主義的アプローチの枠内で、という制約が伴います。言い換えれば新たな知識の展開は、共有されている理論的な枠組の中で厳格な基準に則った、経験的な検証にかなうものでなければなりません。
「客観主義者」的な教員は、学ぶべき重要項目は何であるか、どのような順序でそれを学ぶか、どのような学習活動を行うか、学習者はどのように評価されるべきかといった判断において非常に大きな力を持っていると捉えます。
行動主義は1920年代に初めて登場しましたが、多くの国、とりわけアメリカにおいて、教育および学習へのアプローチとして今なお優勢です。
行動主義心理学は、自然科学的な手法によって人間行動の研究をモデル化しようとする試みです。そして行動のうちでも直接、観察や測定できる側面に注目します。行動主義の核心にある考え方は、ある行動が反応として現れるのは機械的であり、常に同じ方法によって特定の刺激と結びついているということです。つまり、特定の刺激によって特定の反応が引き起こされるということです。さらに単純に説明するならば、反応とは、明るい光を当てられた目の中で虹彩が収縮するように、純粋に生理的な反射作用であるということです。
しかし人間の行動の大部分は、より複雑にできています。にもかかわらず行動主義的な立場の人たちは、ある特定の刺激(出来事)と、反応として起こる、ある特定の行為とのつながりが、たとえどのようなものであったとしても、報酬や懲罰を通じて強化することができるということを実験室の中で示してきました。
刺激と反応の間で形成されたつながりができるときは、これらの間でのつながりを強化するような適切な手段があるかどうかにかかっています。つながりが生まれるのは、ランダムな行動(つまり試行錯誤)に対して、その行動が行われた時に適切に強化が行われるかどうか次第なのです。
これがオペラント条件づけの本質にある考え方です。この理論を最も明確に示したのは Skinner (1968) でした。彼は、鳩が特定の望ましい反応をとったときに(最初はランダムでしょうが)例えば餌を与えるといったような適切な刺激を与えることで、非常に複雑な行動であっても、訓練で身につけさせることができることを示しました。また彼は、様々な刺激の介在がなくても、遠隔刺激を複雑に組み合わせた行動に結び付けていくことで、一連の反応を教え込ませられることを発見しました。さらには、不適切な学習行動や、既に行われていた学習行動も、それを打ち消す方向への強化によって消滅させることができる可能性があることを指摘しました。人の行動の強化は非常に単純な方法、例えば活動に対して即座にフィードバックを与えること、すなわち選択式テストの場合、その場で正しい答えを与えるようにするなどによって行うことができます。
YouTubeでは、1954年に撮影されたB.F.スキナー自身が発明したティーチング・マシンを説明する5分間の大変興味深い映像をこちらで見ることができます。
教育に対する行動主義的アプローチの根底にあるのは、学習は普遍的な原理によって支配されており、この原理は学習者側の意識的な制御から独立しているという考え方です。行動主義の考えに染まっている人たちは、人間の活動を観察する際に、高度な客観性を保とうとし、一般的には、感情、態度あるいは意識のような、計測できないものを観察しようとしません。むしろ人間の行動は予測可能であり、コントロールできるものと捉えているのです。つまり行動主義は非常に客観主義的な認識論の立場から枝分かれしたものなのです。
スキナーの学習理論は、ティーチング・マシン、測定可能な学習目標、コンピュータ支援教育、多肢選択式テストが発展する基盤となった理論的根拠を与えてくれています。行動主義の影響は今でも強力で、会社、軍隊における訓練や、一部の科学、工学、医学における訓練で利用されています。それが特に価値をもち、一般的な手法となっている領域には、事実についての勉強、機械的に丸暗記しなければならない九九や、脳機能障害のために認知能力が制限された大人や子供への対応、商工業における一定で個別の判断を要しない基準や手続に関するコンプライアンスなどが挙げられます。
行動主義は、学習を推進させるための報酬や懲罰を強調したり、あらかじめ学習成果を定義し測定可能なものとすることから、多くの親、政治家、さらに学習の自動化に関心をもつコンピュータ科学者の間で受けの良い、学習概念の基盤となりました。ですからテクノロジーを、とりわけコンピュータ支援教育を、学習に対する行動主義的アプローチと密接な関係があると捉える傾向が近年まで続いているとしていても、さほどの驚きはありません。もっともセクション4.4で見る通り、コンピュータは必ずしも行動主義的な方法で用いられなければならないというものではないのですが。
最後に、確かに行動主義は教育に対する「客観主義的な」手法ですが、それが「客観的に」教育を行う唯一の方法というわけではありません。例えば問題解決型学習では、知識と学習について高度に客観的な手法を選ぶこともできるでしょう。
Skinner, B. (1968) The Technology of Teaching, 1968. New York: Appleton-Century-Crofts
行動主義に対する批判としてすぐに思いつくのは、人間をブラックボックスとして扱っていること、つまりブラックボックスへのインプットと、そこからのアウトプットは分かっていて測定もできる。しかしその中で何が起きているかについては無視されてしまい、関心さえ向けられていないということです。しかし人間は、意識的に考え、決定し、感情を持つことができますし、社会的な対話を通じて考えを表明することもできます。このような能力は全て、学習にとって大きな意味を持っています。したがって、もしもブラックボックスの中で何が起きているかを明らかにしようとするならば、学習についてもより良い理解を得ることができるでしょう。
このため認知主義の立場に立つ者は、人間の内部で起こること、つまり世界をどのように解釈するかについて内側に向けて意識していくことが人間の学習を理解するために欠かせないと考え、これを明らかにすることに焦点を当ててきました。
Fontana (1981) は、学習に対する認知主義的アプローチを次のようにまとめています。
「認知主義的アプローチは、観察可能な行動だけで学習を理解しようとしてはいけないとする立場である。むしろ経験に基づいて再構築した心理的世界(例えば学習者自身の中にある概念や記憶など)を学習者自身が持っていることにも注意する必要があると捉えている。つまり、一人一人が置かれた環境に重点を置くだけでなく、それをどのように解釈し、そこにどのように意味を読み取ろうとしているかに重点を置くのである。そして、一人一人を置かれた環境の中で機械的に作られたようなもののように捉えるのではなく、自ら積極的に学習を進めていく動作主として、外界から自己に流れ込んでくる情報の嵐を、よく考えながら意識的に処理し、分類していこうとすると考える立場なのだ。」(p.148)
つまり、新たな情報を処理する際のルールや原理、これらをどのように関係付けるかについての探求や、既存の知識と新しい知識の間でうまく調和する意味や一貫性の探求が、認知主義的心理学で重視されるコンセプトなのです。認知主義的心理学が関心を向けているのは、学習や思考、行動に影響を与える内的な過程や、その内的な過程に影響を与える状況がどのようなものなのかを見つけ、記述するということに関心を向けています。
教育において最も広く用いられている認知主義的理論は、学習目標に関するブルームのタキソノミー(分類法)(Bloom et al., 1956)に基づいています。これは様々な学習スキルの発達、すなわち学習方法に関するものでした。ブルームと彼の研究グループは、学習には次の3つの重要な領域があることを主張しました。
認知主義は「思考」の領域に焦点を当てます。最近では Anderson and Krathwol (2000) が Bloom et al. のタキソノミーを若干修正し、新たな知識の「創造」を加えています。
Bloom et al.は、学習には階層があることも主張しました。つまり学習者は、記憶から評価、そして新たな知識の創造まで、各段階を経ながら成長していく必要があるということです。
一連の内的作用の土台となるものは何なのか、心理学者はそれぞれの認知的活動を深く探求していきました。その結果、研究はますます還元主義的になってきています。(図2.4.2 参照)
学習に対する認知主義的アプローチでは、総合的理解、抽象化、分析、統合、一般化、評価、意思決定、問題解決、創造的思考に重点を置いているために、行動主義と比べた場合、より高等教育に適しているように感じられます。しかし初等・中等教育においても認知主義的なアプローチを導入することで、例えば学習者自身が学ぶ方法を教えること、将来の学習に向けた一層強力で新しい心的プロセスを明らかにしていくこと、そして概念や見解への理解が深く変化していくものであることを明らかにしていくことなどに重点を置くことに繋がるでしょう。
学習に対する認知主義的アプローチは非常に広い範囲を網羅しています。客観主義的な考えに近い認知主義者は、基本的には内的過程を遺伝的や先天的なものと捉えますが、それらは新たな経験のような外的な要因によって訓練したり修正したりできるものと考えています。特に、初期の認知主義では、人の思考をコンピュータにたとえることに関心を持っていました。最近では、脳科学研究が認知と脳内の神経ネットワークの発達・強化を結びつける研究を先導しています。
実践的な見地では、人間の思考をコンピュータにたとえるという考え方から、テクノロジーを基盤とした教育上の開発事例に応用されています。例えば次のようなものです。
認知主義者たちは、人間が新しい情報をどのように処理し、意味あるものとして受け止め、どのように我々が知識を入手し、解釈し、その全体をまとめ上げ、処理し、体系化し、管理しているのかといったことについて理解を深めており、また、学習者の心理状態に影響するような条件をより良く理解できるようにしてくれています。
1. 認知主義的な手法によって「教育」し、あるいは学習することがもっとも適切なのは、どのような知識領域でしょうか。
2. 認知主義的な手法では適切な教育を行うことができないのは、どのような知識領域でしょうか。
3. それぞれの理由についてあなたの意見を述べてください。
Anderson, L. and Krathwohl, D. (eds.) (2001). A Taxonomy for Learning, Teaching, and Assessing: A Revision of Bloom’s Taxonomy of Educational Objectives New York: Longman
Atherton J. S. (2013) Learning and Teaching; Bloom’s taxonomy, retrieved 18 March 2015
Bloom, B. S.; Engelhart, M. D.; Furst, E. J.; Hill, W. H.; Krathwohl, D. R. (1956). Taxonomy of educational objectives: The classification of educational goals. Handbook I: Cognitive domain. New York: David McKay Company
Fontana, D. (1981) Psychology for Teachers London: Macmillan/British Psychological Society
行動主義的な学習理論と、認知主義的な学習理論の一部では、決定論的要素があります。というのは、行動や学習はルールによって決まるものであり、予想可能で一定の条件の下で作用し、個々の学習者の側ではコントロールすることが(ほとんど)できないと考えられています。これに対して、構成主義者たちが強調するのは、学習に向かう意識、自由な意志、社会的影響の重要性です。
Carl Rogers (1969) は次のように述べています。
各個人は、自分を中心とした常に変化し続ける経験世界の中に存在している。
外界は個人個人の世界の文脈の内部で解釈されます。人間が本質的に主体的で、自由で、各人に固有の意味を見つけようと努めているという考えは古くから存在しており、これは構成主義において欠かせない要素となっています。
構成主義者たちは知識を本質的に主観的であると信じています。また、知識は私たちの知覚から構成され、伝統的な約束事の上で相互に合意するものであると考えています。このような考え方によるならば、私たちが新しい知識を構築するのは、単なる暗記による習得や、知っている人から知らない人への伝達ではないということになります。構成主義者たちは、意味や理解を獲得するためには、情報を自分の中に取り込み、既有の知識と関連付け、認知的に処理する(言い換えれば新たな情報を思考・思索する)ことが必要だと考えます。社会的構成主義者たちは、このようなプロセスが最も機能するのは、討論や自分の理解を他者の理解と照らし合わせて検討・吟味することができるような社会的な相互作用を通じてであると考えています。ある構成主義者にとっては、物理法則でさえ、証拠や観察、演繹的思考や直感的思考によって人間が組み立てたから存在するのだ、ということになります。そして最も重要なのは、あるコミュニティ(この例では科学者たち)が何が有効な知識を構成しているのか、相互に合意したから、それぞれの物理法則が存在しているのだということになるのです。
構成主義者たちの議論の種は、個人個人が彼らを取り巻く環境について、過去の経験と現在の状態を理解するという観点から、意識的に意味を求めて努力しているのかどうかということです。これは一種の試行錯誤です。心の中で無秩序から秩序を生み出し、不協和を解消し、外の世界の現実を自身の過去の経験と調和させる。これは複雑で多面的な営みであり、自らの内省から新しい情報を求めて、他者との社会的接触によって知識を検証しようとすることです。知っていることと新しい知識の関係を探求する方略や、類似点と相違点を明らかにする方略、仮説と仮定を検証するという方略を通じて、問題は解決され、不調和は整理されます。現実は常に一時的なものであり、動的なものなのです。
ある構成主義理論から得られる帰結に、各個人は独自の存在であるというものがあります。というのも、それぞれが異なった経験をし、そこに自分なりの意味づけを探求してきたことが相互作用を与えているため、各個人は他の誰とも異なった存在であるからです。このため少なくとも個人のレベルでは、行動とは予想できないもの、あるいは決定論的ではないものとなります。この点は認知主義とは異なる特徴です。認知主義では全人類に当てはまる一般的な思考のルールが探求されます。認知主義の重要な点は、学習を本質的に社会的なプロセスであると捉え、学習者と教員などとの間でのコミュニケーションを必要としているものだということです。この社会的なプロセスをテクノロジーが手助けすることには問題はありません。しかしこの社会的なプロセスをテクノロジーによって置き換えることはうまくはいかないでしょう。
多くの教育者にとって、学習の社会的文脈は非常に重要なものです。知識は教員だけではなく、学生仲間や友人、同僚たちが審査します。また、知識の獲得は主として社会的なプロセスや社会的に構築された制度、すなわち学校、大学、そして最近拡大しているオンライン・コミュニティを通じて行われます。このように「有効な」知識であると思われているものは、社会的に構築されたものでもあるのです。
構成主義者たちは学習を常に変化し続けるプロセスであると考えます。概念や原理の理解は、時間をかけて徐々に進化し、深みを増していきます。例えば、非常に幼い子は、温度の概念を実際に触って理解します。年齢を重ねるにつれて、温度は数字で表すことができるようになると分かってきます。例えば、マイナス20℃というのが非常に冷たいというように。(マイナス20℃がありふれたことであるカナダ・マニトバ州にでも住んでいれば別でしょうが。)科学を学ぶようになると、例えば熱とはエネルギーが移転する一つの形態として、さらには原子や分子の運動と関係するエネルギーの一つの形態であるというように、違った理解をするようになります。各段階での「新しい」要素は、それ以前の理解と統合される必要があるとともに、分子物理学や化学などの他の関連する構成概念とも統合されなければなりません。
ですから「構成主義者」の教員は学習者に対し、内省や分析を通じて自身の意味づけを展開すること、意識化と内的なプロセスの進行を通じて知識の層を徐々に重ねること、そしてそれを深めていくことを非常に強調します。リフレクション(内省)、セミナー、ディスカッション・フォーラム、小規模のグループ・ワークやプロジェクト活動は、キャンパス内で行われる教育手法であり(詳細は第3章で論じます)またオンラインでの協働学習や実践共同体は、オンライン学習(第4章)における構成主義的な手法として重要です。
問題解決型授業は、客観主義的な手法、つまり「専門家」が事前に用意した問題を解決するための一連の手順やプロセスをあらかじめ確定しておくという方法で取り組むことができますが、構成主義的な手法でも取り組むことができます。構成主義的な手法では、教員がどの程度まで問題解決に向かって誘導するかということについて、全く誘導を行わない、一定の指針を与える、問題解決に関連する情報源としてあり得るものを学生に指示する、特定の解決方法について学生にブレイン・ストーミングさせるといった段階まで、さまざまに変えることができます。学生は、おそらくグループで作業することになるでしょうが、相互に助け合いながら、問題に対する解決方法を比較し合うでしょう。問題への「正しい」答えは1つとは言えないかもしれませんが、グループは問題解決について、どこまで合意されているかという基準に照らし合わせながら、ある解決方法が他の解決方法より優れていると判断していくことになるかもしれません。
実際、おそらく教員は、まずは学生たちが均質であると見なしながら職務を果たそうとするでしょうし、「適切な」結果を達するプロセスに導くよう直接的な手伝いをしようとするでしょうから、構成主義といっても様々な「度合い」があると捉えることができます。しかし根本的な違いは、学生が自分なりの意味を組み立て、その意味を「現実」と照らし合わせて検証し、さらに一層新しい意味を組み立てていくことを目指しながら作業しなければならないという点にあります。
教育へのテクノロジーの応用についても、構成主義者たちの考え方は、行動主義者たちの考え方と異なります。構成主義の観点からは、現代のコンピュータ・ソフトウェアよりも大脳は柔軟であり、適応しやすく、かつ複雑であると考えます。感情、動機付け、自由意志、価値観、広範な感覚のような、人間だけが持つ要因は、コンピュータの動作と人間の学習を大きく区別しています。このように考えるならば、人間の学習を行動主義的なコンピュータ・プログラムの制約に閉じ込めようとするよりも、コンピュータ科学者に人間の学習方法を反映した学習支援ソフトウェアを作らせる方が、より教育的だと考えられます。このことはセクション4.4で詳しく論じます。
構成主義的な手法は、どのような知識領域にも応用でき、また実際に応用されてきましたが、一般的には人間学、社会科学、教育学など、どちらかと言えば定量的ではない学問分野での教育において用いられています。
1. 構成主義的な手法によって「教育」し、あるいは学習することがもっとも適切なのは、どのような知識領域でしょうか。
2. 構成主義的な手法では適切な教育を行うことができないのは、どのような知識領域でしょうか。
3. それぞれの理由についてあなたの意見を述べてください。
Rogers, C. (1969) Freedom to Learn Columbus, OH: Charles E. Merrill Publishing Co.
構成主義については多くの書籍がありますが、最適なものは初期の編者・研究者による研究業績です。特に以下のものが当てはまります。
Piaget, J. and Inhelder, B., (1958) The Growth of Logical Thinking from Childhood to Adolescence New York: Basic Books, 1958
Searle, J. (1996) The construction of social reality. New York: Simon & Shuster
Vygotsky, L. (1978) Mind in Society: Development of Higher Psychological Processes Cambridge MA: Harvard University Press
認識論に関する立場にはもう一つ、結合主義<コネクティビズム>があります。これは近年になって、とりわけデジタル社会に関連して登場した考え方です。結合主義は、今でも正確さを求めながら進化し続けており、多くの批判的研究に注目されながら大きな論争が続いています。
結合主義では、あるネットワーク上にある全ての「ノード(結合点)」を繋いでいくことが新たな知識形態を生み出すと考えられています。Siemens (2004) は、知識とは個々の参加者のレベルを超えたところで生まれ、常に移動しながら変化していくものであると述べています。ネットワークの中での知識はいかなる公的な組織によっても制御したり生み出したりすることはできず、組織は常に情報が流れ続ける世界に「プラグを差し込み」、そこから意味を引き出してくることができる(そしてそうするべきである)ものであるとされます。結合主義における知識は混沌としたものであり、ネットワーク上のノードの間でやり取りが生じたり、情報が出入りしたりするたびに常に変化する現象と捉えられます。また、ネットワーク自体も無数にある他のネットワークと相互に結合しています。
結合主義の重要性について、提唱者はインターネットが知識の本質を変えていると主張します。Siemensから再度引用しますと「パイプの中を流れている内容よりも、パイプそのものが重要」なのです。
Downes (2007) は、構成主義と結合主義の違いを次のように明確に区別しています。
結合主義では「意味を組み立てる」というようなフレーズは意味をなさない。結合は結び付くという過程を経て自然に成立するものであり、何らかの意図的な行為によって「組み立てられる」ものではない。(中略)したがって結合主義においては、知識を移す、知識を作る、あるいは知識を確立するといった概念は実在しない。むしろ学習のための実践をしようとするときに行う活動によってこそ、自分自身や自分の属する社会をある種の(結合的な)方法で成長・発展させるのである。
Siemens (2004) の主張は、ネットワーク上での結合と情報の流れ方こそが個々人を超えて存在する知識に繋がるということです。意義のある情報の大きな流れの中に飛び込み、その中で重要な流れを追うことで、学習したことが能力になります。彼は次のように論じます。
結合主義の学習モデルは、学習がもはや内的な活動でも個人的な活動でもない社会が大規模に変化する際のものである。学習(実用知識)は、私たち自身の外側(組織やデータベースの中)に存在しうる。
Siemens (2004) は、結合主義における原理を次のように述べます。
Downes (2007) は次のように述べています。
そもそも結合主義とは、知識が繋ぎ目と繋ぎ目のネットワーク上に広く拡散していると捉える考え方である。つまり学習とは、このようなネットワークを構築する能力と、ネットワーク上を自由に移動する能力から構成されるという主張である。(中略)[結合主義が]指し示す教育学とは次のようなものである。
(a)(筆者自身が多様性、自律性、公開性、結合性と呼んでいる特徴に基づいて分類する)「うまくいく」ネットワークとはどのようなものであるか、その記述に努める教育学。
(b)(筆者自身がモデリングやデモンストレーションと分類する)教員側の実践と、学習者側の実践や内省について、双方の記述に努める教育学。この実践のネットワークは、個人にも社会にも繋がっている。
Siemens、Downes、および Cormierは、最初の大規模公開オンライン講義 (MOOC) である Connectivism and Connective Knowledge 2011を立ち上げました。この目的の1つは結合主義的な学習法について説明すること、そしてもう1つの目的は結合主義的な学習法に基づくモデルを提供することでした。
Siemens や Downes のような結合主義者は、教員の役割に関して、ややあいまいな立場になりがちです。なぜなら結合主義が注目するのは、個々の参加者、ネットワーク、情報の流れ、そして結果として生じる新しい形の知識の方だからです。教員の主たる目的は、学習者を一つの方向に向かわせる最初の学習環境や文脈を与えることと、学習者を「うまく」ネットワークに繋げることができるように、個々の学習環境の構築を支援することにあるように感じられます。そして情報の流れや各個人の自律的な内省に接することで、結果として学習が自動的に発生するというプロセスが想定されているようです。この種の学習を支援する公的な組織は必要ありません。むしろこの種の学習は特にソーシャル・メディアに大きく依存しています。また、ソーシャル・メディアは既に全ての参加者がアクセスできるものになっているからです。
教育および学習に結合主義的な手法を導入することについては、数多くの批判があります(セクション3.7を参照)。このような批判の一部については、実践方法が改良され、新しい評価ツールが導入され、大人数での協同学習の体系化が進み、より多くの経験を積み重ねていけば、いずれ克服できるでしょう。結合主義の最も重要な意義は、インターネットや新しいコミュニケーション・テクノロジーの爆発的普及が学習にもたらす意義を徹底的に再検証しようとする、まさに初めての理論的な試みだということです。
1. 結合主義的な手法によって「教育」し、あるいは学習することがもっとも適切なのは、どのような知識領域でしょうか。
2. 結合主義的な手法では適切な教育を行うことができないのは、どのような知識領域でしょうか。
3. それぞれの理由についてあなたの意見を述べてください。
MOOCに関する第5章を読んだ後、あなたの解答を振り返ってみましょう。
AlDahdouh, A., Osório, A., Caires, S. (2015) Understanding knowledge network, learning and connectivism, International Journal of Instructional Technology and Distance Learning, Vol. 12, No.10
Downes, S. (2007) What connectivism is Half An Hour, February 3
Downes, S. (2014) The MOOC of One, Stephen’s Web, March 10
Siemens, G. (2004) ‘Connectivism: a theory for the digital age’ eLearningSpace, December 12.
デジタル時代の教育についての現実的な側面に話を移す前に、デジタル・テクノロジーの発展によって知識の性質が実際に変わってしまったのかという問題に触れておかなければなりません。というのも、もし本当にそうであるなら、教育がどう行われるべきかということだけでなく、何を教育する必要があるかということにも大きく影響するからです。
Siemens や Downes のような結合主義者たちは、インターネットが知識の性質を変えたことを主張しています。そして今日における「重要な」知識、あるいは「有効な」知識は、かつての形態の知識、とりわけ学術的な知識とは異なるものになっていると述べました。Downes (2007) は、新たなテクノロジーによって、学習の脱制度化への道が開かれたと論じています。Wired誌編集者で現在は Ted Talk のCEOを務める Chris Anderson (2008) は、大規模なメタデータにおける相互依存が、新しい知識の創造に対する「伝統的な」科学的アプローチに取って代わるものとなりうると主張しました。
Googleの創立理念は「このページをあのページと比べても、なぜ良いのか分からない」というものだ。入ってくるリンクの統計がそうだというなら、それで十分だ。意味論や因果関係に基づく分析は必要ではない。(中略)これは今日まで用いられてきた他の全てのツールを置き換える、大規模データと応用数学による一つの世界がある。言語学から社会学にいたる人間のあらゆる行動理論との決別だ。分類学、存在論、心理学など忘れてしまえ。自分自身がなぜそれをするのか、その理由を知っている人なんてどこにもいない。重要なのはみんながそれをやっているということであり、我々はこれまで不可能だった、高いレベルでの追跡を行い、測定できるということだ。十分なデータがあれば、数字がそれ自体の証明となる。
しかし、ここでのターゲットは広告ではない。科学だ。科学的手法は検証可能な仮説を中心に築かれてきた。ほとんどの場合、このようなモデルは科学者の頭の中でイメージされてきたシステムなのだ。そしてこのモデルも検証にさらされる。世界がどのように動いているかに関する理論的モデルも実験によって真偽が判断される。こんなふうにして科学は何百年も続いてきた。科学者たちは相関関係が因果関係ではないことや、XとYに相関があるという根拠だけで結論を導いてはいけないことを受け入れるよう訓練されてきた。単なる偶然の一致の場合があるからだ。そうではなく、その基礎となる2つの事実をつなぐメカニズムを理解しなければならないとされてきたのだ。ひとたびモデルを構築すれば、一連のデータを自信を持って結びつけることができる。モデルのないデータはノイズに過ぎないのだ。しかし大規模なデータを前にしたとき、こうした科学的アプローチ、つまり仮説、モデル、検証は、時代遅れのものになってしまうのだ。
(この文章が、金融派生商品による金融市場の崩壊の前に書かれたものであったことは注記しておく必要があるでしょう。市場の崩壊が生じた原因は、主にそのデータを生み出す基礎理論を、関係者の誰もが理解していなかったからでした。)
Jane Gilbert の2005年の著書『知識の波をとらえる(Catching the Knowledge Wave)』では、知識の性質が変わったという前提をはっきりと打ち出しています。そして Manuel Castells (2000) と Jean-François Lyotard (1984) を引用しながら、次のように論じています(p.35)。
Castells は、知識とは目的ではなく、一連のネットワークとその上で行われる流れだという。(中略)新たな知識とは出来上がった成果ではなく、それを生み出すプロセスなのだ。(中略)新たな知識は、個々人の頭の中で生み出されるのではなく、人々の間で生じる相互作用の中で生み出されるのだ。(中略)
Lyotard によれば、知識の獲得とは頭を鍛えることであるという伝統的な考え方や、知識が普遍的な真実であるという考え方は、時代遅れのものになっていくという。むしろ、真実も、知識も、そして立証の方法もたくさんあるということになるだろう。その結果(中略)伝統的な学問分野を隔てていた境界は消滅し、知識を示すための伝統的な方法(書籍、学術論文など)の重要性は下がっていく。つまり伝統的な学者や専門家の役割は大きな変化を受けることになるだろう。
1960年代にさかのぼれば、Marshal McLuhan は「メディアはメッセージである」と主張しています。つまり情報が描写され、伝達される方法が変わったのです。情報が異なるメディアを通じて伝われば、私たちが注目するポイントも、私たちの理解も変わってしまうのです。もしも情報や知識がこれまでとは異なる形で示されたならば、あるいはこちらの方がもっと重要なのですが、これまでとは異なる形で流れているならば、教育や学習のような教育プロセスにどのような影響が及ぶでしょうか。
確かに知識が描写される方法は変わりつつあります。ソクラテスが「正しい」知識に導くには筆記ではなく、口頭での対話と弁論のみが可能であると批判したことを思い出すべきです。しかし筆記は、知識を恒久的に記録する方法として重要なものです。そして印刷は、書かれた言葉を多くの人々に広げる方法として重要なものです。その結果、学者たちは他の人が書いたものを検証し、内省を通じて、より良い解釈を行うことができるようになり、自らの立場をより正確かつ注意深く論じることができるようになったのです。大量印刷術が発展したことによりルネッサンスと啓蒙思想が生まれ、近代の学問が結果的に印刷媒体にひどく依存するようになったということは、多くの学者が認めていることです。
現在では、学習や内省の対象となるべき知識を記録し伝達する方法は、これ以外にもあります。例えば動画、音声、アニメーション、グラフィックなどです。そしてインターネットは知識を伝達する速度や範囲を桁外れの勢いにまで拡大しています。第6章と第7章でも、このインターネットというメディアは中立的なものではなく、様々な方法で意味を持つものであることを見ていきます。
上述の論者はいずれも、知識社会における「新しい」知識は、知識の商業化ないし商品化にかかわるものだと論じています。「何であるかということではなく、これで何ができるかということで定義されている。」(Gilbert, p.35)「多くの場合、知識を持ち、買い、売るという能力が新しい知識社会の発展に寄与してきた。」(p.39)
知識社会においては、知識の商業目的での利用が特に強調されています。その結果、例えば長期間にわたる研究よりも、すぐに実用化できる種類の知識が重要性を持つことになりました。しかし、純粋知識と応用知識は強く結びついているため、これは経済発展の観点からしてもおそらく間違っているでしょう。
知識の性質についてはさほど大きな問題ではありません。むしろ学習者が知識を獲得し、それがどのように使えるかを学ぶ方法にあるのでしょう。第1章で論じたように、ここで強調しておくべきことは、教える内容にだけ焦点を当てるのではなく、どのようにすれば知識を最もよく応用できるかというスキルを育て、学ばせることができるかということです。また、後述することですが、学習者は教員以外にも多くの情報源があり、重要な教育上の課題とは、膨大な量の知識を管理することなのです。知識は動的で、拡大しながら常に変化しますので、学習者はまず知識を応用するためのスキルを身につけ、そして自ら学び続けられるようになる道具の使い方を身につける必要があるのです。
ところで、これは知識自体が従来とは異なるものになったという意味なのでしょうか。これから述べていきますが、デジタル時代において、知識のある種の側面では確かに相当変化したと言えるものの、他の側面では、少なくとも本質部分においては変わってはいません。ここで特に主張したいのは、学術的知識の価値と目的は大きくは変わっておらず、また変えるべきでもないということです。これから変わるのはその表現方法と応用方法であり、むしろこれらは変えるべきであるということです。
学術的知識は知識の中でも特殊な形式を持つものであり、他の知識、特に個人的な経験にのみ直接的な根拠をおく知識や信念とは一線を画した特徴を持っています。つまり学術的知識とは、知識の二次的な形態であり、理論と証拠に基づいて抽象化と一般化を目指すものなのです。
学術的知識の基本的な構成要素とは、次のようなものです。
透明性とは、知識の源を追跡し、実証することができることを意味します。体系性とは、知識を常に一定の形式(言語、記号、動画)で首尾一貫した形で示すことができ、考案者以外の誰もが解釈できるようになるということを意味します。知識は再現可能であり、いくらでも複製することができます。最後に、知識は他人に伝えることができ、批判を受けることができる形態でなければなりません。
Laurillard (2001) は、世界に対する学習者の直接的な経験を学術的な概念やプロセスの理解に関連づけることが重要であると認めていますが、大学レベルの教育では、直接の経験を超えて、直接的な経験の省察、分析、説明に向けられるべきだと主張します。どんな学問領域であっても、その領域内での学術的知識の性質に特有の約束事や仮説があります。ですから高等教育を受ける学生は、日常的な経験の視点を、それぞれの学問領域にあった視点に切り替えていくことが必要です。
つまりLaurillard は、大学での教育は「本質的には修辞的な活動であり、学生を説き伏せて世界の経験の仕方を変えさせようとするもの」(p.28) と論じます。そしてLaurillard は、学術的知識が二次的性格をもつものであり、言語、数学記号、「その他、世界を記述でき、解釈すべき記号体系」(p.27) に大きく依存しているため、このような意味の媒介を可能にする記号的表現が必要であるということも指摘しています。
もしも学術的知識に媒介が必要であるならば、テクノロジーを使うことに大きな意義があります。言語(読むこと・話すこと)は、知識を媒介するための一つの手段に過ぎません。動画や音声のようなメディアやコンピュータを利用することで、教員たちは他の媒介手段も使えるようになります。
Laurillard の学術的知識の性質についての見解は、学習者同士の議論や弁論、自発的な学習、あるいはクラウド上の知恵を通じて、自動的に知識を構成できるという見方とは対立します。学術的な知識を身につけさせるための教員の役割は、学習者が専門領域における事実や概念を理解することの手助けだけではなく、専門領域の中で知識を獲得し、有効なものとするためのルールや約束事を学習者が理解する手助けにまで及びます。学術的知識は、共通の価値と判断基準を共有するものであり、それ自体を特定の認識論的な方法論へと昇華するものなのです。
知識社会において、イノベーションや商業活動を生み出す知識は、今日の経済発展に不可欠なものとされています。さらに、この種の知識、すなわち「商業的」知識は、学術的知識とは異なるものだと論じられる傾向にもあります。私としては、その通りだと考えることもあれば、それは違うと考えることもあります。
私は知識こそが現代の経済の牽引役であり、天然資源(石炭・石油・鉄)、機械、安い労働力などが支配的な牽引役だった、「古い」産業経済からの大転換を体現しているなどいうような観点から論じようとしているわけではありません。むしろここで反対意見を唱えたいのは、知識の性質そのものが急速な変化を受けているという考え方です。
知識の性質の変化について広く一般化することが難しいと感じるのは、常に様々な種類の知識があったということです。初めて働いた頃の仕事の一つに、1959年のロンドン・イーストエンドの醸造所がありました。私は夏休みの間、雇われていた学生のうちの一人だったのです。仕事仲間の学生の一人に素晴らしい数学者がいました。昼休みのたびに醸造所の正規労働者たちは、私たちから見れば大金をかけてトランプ(ブラグ)で遊んでいましたが、私たちはゲームに参加できずにいました。私の友人の学生が、どうしてもゲームに参加したいと頼み込み、ようやく仲間に入れてもらっていました。彼らはすぐに友人の稼ぎの全てを巻き上げてしまいました。友人は数字や確率は知っていましたが、世の中には賭けトランプ、とりわけ1対1で対戦するのではなく、仲間とチームを組んで対戦するゲームについて、学校では教えてくれない、たくさんの知識が他にあったのです。Gilbert の指摘は、学術的な知識は「日常の」知識よりもずっと教育的価値が高いのが常であるというものでした。しかし「実際の」世界では、いかなる種類の知識であったとしても、価値があるかどうかは文脈次第なのです。このように「重要な」知識を構成するものが何かということについての考え方は変わりうるものですが、だからといって学術的知識の性質もまた変わるということを意味するわけではないのです。
Gilbert は知識社会においては、社会がますます広がる中で、学術的知識よりも応用知識の方に価値が生まれるような変化が生じてきているのに、教育(特に学校制度)の中では、そのことが認識されることも受け入れられることもないまま来てしまっていると論じます。そして学術的知識を数学とか哲学といった狭い専門分野と結びつけて理解する一方で、応用知識とはどのように物事に取り組むかを知るためのものであり、その定義からして学際的な傾向をもつものだと捉えています。Gilbert は学術的知識について次のように述べています(pp.159-160)。
それは権威のある、客観的で普遍的な知識である。抽象的で、厳格で、不変で、難しい。日常の経験について、今ここに存在している知識を超えて、より高いレベルの理解に到達するもの、それが学術的知識である。(中略)それに対し応用知識は実用的な知識であり、学術的知識を実践に投じることで生み出されるものである。つまり応用知識とは経験しながら、現実世界の状況の中で上手く回っていくまで試行錯誤をする中で得られるものである。
学術的知識の定義に当てはまらないタイプの知識としては、経験から作られるもの、伝統技能、試行錯誤、現場作業者の経験を踏まえた微調整の積み重ねによる品質改善、そして言うまでもなくトランプゲームで勝つ方法などがあります。
学術的知識が日常の知識とは異なるものであるということはその通りですが、学術的知識が「純粋」なもので、応用に適さないものだという考えには反対です。そのような定義は狭すぎます。というのも、この定義では職業学校が含まれないことになりますし、工学、医学、法学、経営学、教育学といった学術的知識の「応用」を扱う専門領域も含まれないことになるからです。これらの学問も、人文科学や自然科学のような「純粋な」専門分野と同じように、大学や短大の「価値ある」領域として受け入れられてきたものであり、このような活動は Gilbert がいう学術的知識の基準を全て満たすものです。
学術的知識と応用知識を区別しようとすることは、知識社会やデジタル時代において必要とされる教育についての実質的な点を見失ってしまいます。大切なのは純粋な知識にせよ応用知識にせよ、知識だけではありません。デジタル・リテラシーや生涯学習につながるようなスキル、姿勢、倫理や社会的な態度も重要なのです。
知識とは「課題」あるいは安定した中身のようなものではなく、動的なものです。そして知識は単なる「流れ」ではありません。中身や「課題」は私たちが中身について行う議論や解釈と同じくらい、本当に重要なものです。インターネットで行われるディスカッションの上を寄せては返す「課題」は、どこからやってくるのでしょうか。個人の頭の中で生まれて消えるものではなく、個人の頭の中を流れていき、そこで解釈され、形を変えていくものです。知識とは動的で変わり続けるものです。しかし、どこかの段階で、ほんのひと時であったにせよ、各個人の中でこれが知識だと考えるものに落ち着くはずです。もちろん時を経る中で、その知識も変化し、発展し、より深い理解に進むことになるでしょうが。
つまり (a)「課題」あるいは内容をどのように獲得するかを知ることや、(b)獲得した内容を用いて何をするかを知ることがいっそう重要なのですが、内容それ自体もやはり重要なものなのです。
ですから、応用的なものであろうがなかろうが、学術的な内容を教えるだけでは十分とは言えません。同じくらい重要なのは、学習者たちがどうすれば自らの職業的あるいは個人的な活動の中で情報・内容を発見し、分析し、統合して応用するできるか、どうすれば自らの学習に責任をもつことができるか、どうすれば知識やスキルを獲得するため柔軟で適応性をもつようになれるか、自分自身でできるようになるための方法を知ることです。これら全てのことが必要です。というのも、どのような職業領域でも知識の量は爆発的に増えているため、その領域で起きている全ての展開を暗記することも、その変化に気づくことも不可能になっており、卒業後であってもその領域に関する情報を最新のものにし続ける必要が生じているからです。
そのために学習者は、適切で重要な内容にアクセスし続けることや、そのような内容を見つける方法を知ることが必要であり、そして学んだことを応用し実践する機会をもたなければなりません。このように学習とは、内容とスキルと態度とが組み合わされたものであり、この組み合わせをあらゆる学習領域に応用していくことがますます必要になっているのです。このように述べるからといって、普遍の真理や根本的な原理原則を探求する余地がなくなるという意味ではありません。学習への探求を、広い学習環境の中に埋め込むことが必要なのです。そこには学習に欠くことのできない部分としてデジタル・テクノロジーを使う能力も含まれますが、その能力は当該の学習領域における適切な内容やスキルに結びついたものであるべきです。
さらに、知的産業が成長する中であっても、学術的ではない知識の重要性を無視してはいけません。学術的ではない知識も同程度に価値があることが証明されています。例えば会社においては、社内でのコミュニケーションを上手に行いながら従業員に関する日々の情報を管理し、外部とのネットワークの構築を奨励し、製品やサービスの改善に向けた協力や参画に対して褒賞を与えることが重要になります。
知識の機能性を過度に強調してしまうと「学術的知識」は知識社会とは関係がないことを暗示するかのように捉えられてしまうでしょう。しかし知識社会の基盤になっているものは、学術的知識の爆発的増加なのです。すなわち自然科学、医学、インターネットの発展に繋がった工学技術、バイオテクノロジー、デジタル金融サービス、コンピュータ・ソフトウェア、遠隔通信などの学術的な発展です。実際、知識産業で発展を遂げた国々は、世界最高レベルの大学進学率を誇る国々であることとも偶然に一致しているわけではありません。
このように、学術的知識は「純粋」なものではありませんし、また不変で客観的な「真実」でもありませんが、原理や価値こそが学術的知識を生み出してきたということは重要です。そこに到達できないことも少なくありませんが、学術的な研究の目的は、たとえ知識が動的で、変化し、常に進化し続けるものだったとしても、深い理解、一般的な原理、経験に基づく理論や不変性といったものに手を伸ばそうとすることです。学術的知識は完全なものではありませんが、求められる水準があるがゆえの価値が必ずや存在します。学術的な知識も方法も持たずにいることは、先に進むための燃料が切れてしまったようなものです。証拠はいたるところにあります。学術的知識は、新たな薬物療法を、気候変動に関する新たな理解を、これまで以上に優れたテクノロジーを、そして間違いなく新世代の知識を生み出しているのです。
実際、これまで以上に、厳格さ、抽象性、証拠に基づく一般化、経験的な証拠、合理主義、学問の独立性など、学術的知識に欠かせない要素を維持しなければならない必要性が高くなっています。教育におけるこのような原理により、産業社会と知識社会の両方で急速な経済的成長ができたのです。変わってきたことと言えば、これらの原理だけでは十分でないということです。むしろこのような原理は、教育や学習への新たなアプローチと結びつけることが必要なのです。
既に述べたように、学術的知識の他にも有益で価値のある知識にはいろいろな種類があります。政府や業界はますます職業的・商業的スキルの向上を強調するようになってきています。教員にはこのような知識の育成についても責任があります。特に、手仕事の器用さに必要となる技術、音楽やドラマで演じるための技術、エンターテインメント作品を生み出す技術、スポーツやスポーツ・マネジメントの技術などの形態は、伝統的には「学術的な」知識とは見られてきませんでした。
とは言え、デジタル社会の特徴の一つとして、現在ではこのような職業的なスキルであっても、学術的な知識や、知的・概念的な知識が必要になる割合が非常に高まってきていることが挙げられます。例えば、高いレベルの数学または自然科学(あるいはその両方)に関する知識が、多くの商業的取引や、ネットワーク・エンジニア、エネルギー関連技術者、自動車整備士、看護師その他の健康関連の職種などで必要になりつつあります。このような仕事における「知識」の構成要素は近年ますます増大しています。
仕事の性質も変わりつつあります。例えば、自動車の重要部品ではデジタル化がますます進み、部品は修理よりも交換する場合が増えてきているので、自動車整備士は診断や問題分析を重点的に行うようになってきています。現在の看護専門職は、かつて医師や医学専門家が行なっていた仕事を引き受けるようになっています。現在では働く人の多くが、特に一般の人々のすぐ目の前で仕事するような場合、高い対人関係スキルを習得することが求められています。同時に、第1章で見たように、より伝統的な学術領域では、スキルの育成にますます集中する必要が生じており、それにつれて純粋知識と応用知識の間にある、いわゆる人工的な境界も崩れ始めてきています。
要するに、現在では大多数の職業において、学問を基盤とする知識と、スキルを基盤とする知識の両方を必要としているのです。そしてこれらは統合され関連づけられる必要も生じています。その結果、教育や指導に責任をもつ人々に対する要求が高まっているわけです。とりわけデジタル時代の教員に対するこれらの新たな要求は、教員自身のスキル・レベルを、その要求に合わせて高めていく必要があることを意味しています。
Anderson, C. (2008) The End of Theory: The Data Deluge Makes the Scientific Method Obsolete Wired Magazine, 16.07
Castells, M. (2000) The Rise of the Network Society Oxford: Blackwell
Downes, S. (2007) What connectivism is Half An Hour, February 3
Gilbert, J. (2005) Catching the Knowledge Wave: the Knowledge Society and the Future of Education Wellington, NZ: New Zealand Council for Educational Research
Laurillard, D. (2001) Rethinking University Teaching: A Conversational Framework for the Effective Use of Learning Technologies New York/London: Routledge
Lyotard, J-F, (1984) The Post-Modern Condition: A Report on Knowledge Manchester: Manchester University Press
Surowiecki, J. (2004) The Wisdom of Crowds: Why the Many Are Smarter Than the Few and How Collective Wisdom Shapes Business, Economies, Societies and Nations New York: Random House
さらに Rugg, G. (2014) Education versus training, academic knowledge versus craft skills: Some useful concepts Hyde and Rugg, February 23 も参照
本書では、教育と学習に影響を与える認識論的なアプローチをいくつか拾い上げてきましたが、この他の例を挙げることもできます。例えば神学ではこれらの観点とは異なり、信仰に基づく認識論的アプローチからの見解を述べています。そして私たちはスコラ学の原理をオックスフォードやケンブリッジなどのエリート大学で、とりわけ少人数指導制の中に、今でも見つけることができます。
つまり今日の教育に影響を与えている認識論には様々なものがあると考えることができます。さらに教員自身が、異なる学問領域にまたがる場合だけでなく、同じ学問領域の中でも異なった認識論的な立場をとることがあり、多くの学生を不安がらせ混乱させます。例えば、心理学や経済学のような研究領域では、カリキュラムの中での位置づけが異なる場合、認識論的に異なる根拠を持っていることがあり得ます。具体的にはフロイト学派による分析と、投資家の行動に影響を与える行動要因では、統計の有効性についての評価が分かれるでしょう。認識論的な立場をめぐって、目に見える形で学生との間で意見交換が行われることは滅多になく、同じ学問領域の中でも常に一定というわけではなく、相互に排他的なわけではありません。例えば教員は、あえて初学者に対しては客観主義的な立場を使うようにし、そして学生がそのトピックについての基礎的な事実や概念を学習し終えたところで、構成主義的な見方へと切り替えていくということもあるでしょう。教員は1回の授業の中でも認識論的な立場を切り替えるかもしれませんが、しばしば学生にとって混乱の原因となります。
一般論として言えば、どちらかと言えば構成主義的な立場を私自身は好んではいるのですが、さしあたって、どの立場が優れているなどと選ぶつもりはありません。ここに挙げたような認識論的な立場は、どれをとっても賛成・反対の論拠を示すことができます。しかし知識と、その結果としての教育は、純粋なものでもなく、また客観的な概念でもなく、知識の本質についての多様な価値観や信念から導かれているということに関心を持っておかなければなりません。
さらに近頃では学術的知識など、もはや必要のないものであり、ネットワークを通じた学習や、それを応用した学習に置き換わるだろう、あるいは既に置き換わりつつあるというような議論がなされることがあります。しかし私は、学習する内容と同じくらい、スキルの開発にも重点を置きながら、学術的知識を維持し、さらに発展させていくべきだという強力な理由があるということを示しました。
様々な学習理論は、様々な知識の質についての立場を反映したものです。結合主義という例外はあり得ますが、それぞれの学習理論を支持する何らかの経験的な証拠があることを本章では示しました。理論は人々の学び方がそれぞれ異なることを示してくれますが、その一方で教員がどのように教えたら良いかということを、理論が自動的に示してくれるわけではありません。実際、行動主義、認知主義、構成主義の理論は、全て教育学の外側、つまり実験室や心理学、神経科学、心理療法の中で発展してきたのです。これまで教育者たちは日々の教育実践でこれらの理論をどのように活用していくかを考え出さなければなりませんでした。つまり教育方法をこのような学習理論に基づいて開発しなければならなかったのです。
An audio element has been excluded from this version of the text. You can listen to it online here: https://pressbooks.bccampus.ca/teachinginadigitalagejpn/?p=78
次章では、これまで展開されてきた教育手法と、その認識論的な土台、さらにそれらがデジタル時代の教育で持つ意味について検証します。
1. 教育は高度に複雑な仕事であり、様々な文脈、教科内容、学習者に順応させる必要があります。教育は広く一般化するには向いていません。その一方で、個別の条件に合わせた適応・修正こそ必要ですが、優れた実践、理論、研究に基づいた指針や原則を示すことが可能です。
2. 通常は同じ学問領域で他の専門家たちと共有されているものですが、基盤となる信念や価値観によって、どのように教えるかが決まります。このような信念や価値観はそれぞれの研究領域で「専門家」になるためには必要不可欠な原理であると理解されているのですが、暗黙的なものであり、学生とは共有されないことがよくあります。
3. 学術的知識は他の形態の知識とは区別されるものであり、デジタル時代の今日では、ますます重要性を持つものであることが論じられています。
4. しかし学術的な知識は、今日の社会にとって重要な知識の唯一のあり方ではないことを理解しておかなければなりません。私たち教員は他の形態の知識も存在することや、このような他の知識も、学生たちにとっては潜在的に重要であることを理解した上で、デジタル時代の学生に必要なコンテンツとスキルを幅広く確実に提供できるようにすることが必要です。
Entwistle (2010) は次のように述べています。
「論拠にどの程度の重きを置くか、また、1つの理論が教育学に対してどの程度の価値を持っているかについて、問いかけるべき重要な問題がある。
単に人間がどのように学ぶかを説明するだけでは教授法理論としては不十分である。その理論で学習の質と効率性がどのように改善されるかについて、明確な示唆がなければ理論とは言えない。」
Entwistle の基準と、教育に関するあなた自身の知識と経験を用いて、以下の問いに答えてください。
1. あなたの最も気に入った学習理論はどれですか。またそれはなぜですか。あなたが教えている主なテーマも述べてください。
2. あなたのとっている教育手法は、本章で述べた理論的なアプローチのどれと適合しますか。あなたが教えている時に行なっている活動のうち、その理論と「適合する」ものをいくつか書き出してください。この理論的枠組みの中で、あなたがすぐに教育に採用できそうな他の活動を思いつきますか。
3. あるときは行動主義的、あるときは認知主義的といったように、教える時に異なる理論を組み合わせるということを普段行なっていますか。もしそうであるなら、その理由は何ですか。どんな状況の時に組み合わせますか。
4. 教育実践という点からは本章で示した理論は、どのくらい役に立ちますか。あなたから見て、このような理論は単なる専門用語に過ぎないものでしょうか。役に立たない理論化なのでしょうか。一般的に知られている実践事例の「分類」に過ぎないのでしょうか。あるいは、どのように教えるべきかについての強力な指針になるのでしょうか。
5. ソーシャル・メディアのような新しいデジタル・テクノロジーは、本章で取り上げたような理論にどう影響すると思いますか。新たなテクノロジーでこのような理論は不要になってしまうのでしょうか。結合主義は、他の理論の代わりになるでしょうか。それとも教育や学習に関して、別の見方を付け加えるものに過ぎないのでしょうか。
Entwistle, N. (2010) ‘Taking Stock: An Overview of Research Findings’ in Christensen Hughes, J. and Mighty, J. (eds.) Taking Stock: Research on Teaching and Learning in Higher Education Montreal and Kingston: McGill-Queen’s University Press
認識論、学習理論、そして教育方法の関係についてはさらに Bates, T. (2015) Thinking about theory and practice, Open Learning and Distance Education Resources, July 29 を参照。
本章では一般的に使われる様々な教授法で、キャンパスを中心とする学習環境に重点を置いた範囲で議論していきます。
この章を完了すると以下のことができるようになります。
教育に関する5つの視点を検討し、 デジタル時代との関連性を特に強調しながら、それらを認識論と学習理論と結びつけて考えます。とりわけ、この章では以下のトピックを取り上げます。
加えて、この章には以下のアクティビティーが含まれています。
ほとんどの教員は、その場その場で教える内容と学習者のニーズに応じて、様々な教授法を組み合わせることでしょう。しかし別の教授法と比較検討することで、次のような非常に重要な結論を導くことができます。
クライブ (注意深く妻のジーンに目を向けながら):今日は仕事で何か嫌なことでもあったのかい。
ジーン:気づいてた? そう、あったのよ。とてもいいことが。
クライブ:そんなに八つ当たりしないでくれよ。ドアはバタンと閉めるし、猫には怒鳴るし、間髪入れずに君のデスクの上にある大きなグラスでワインを飲もうとすることに気がつかないわけがないだろう。
ジーン(ワインをつかんで):今日は我慢の限界だったわ。教えているクラスの授業評価アンケートの結果を受け取ったのよ。
クライブ:で、芳しくなかった、と。
ジーン:まずランキング表がおかしいわ。A評価が30%ぐらい、B評価が5%ぐらい、C評価が15%、D評価が15%、E評価が35%。全く正規分布してないのよ! 学生は私のことを好きか嫌いかのどちらかなのに、平均するとD評価なのよ。でね、バカな学部長のハーベイはそれだけを見るわけ。来年度、昇任できる可能性はなくなってしまったわ。だから私が説明しに行ってあげないといけないって思っているのよ。石板タブレットが最新技術だった時代を最後に授業してない、あのジジイにね。
クライブ:それ見たことか、なんて言わないけど…。
ジーン:そんなふうに言わないでよ。 私は講義なんか止めて、もっと学生を参加させようと頑張っているつもりよ。私がやっている教え方を変えろって口を酸っぱくして言ってきたFD(訳注:ファカルティ・ディベロップメント、教育内容・方法等をはじめとする研究や研修を大学全体として組織的に行うこと)の連中をやっつけるぐらいにね。残業だって気にならなかったし、テーブルと椅子を元どおりにちゃんと戻せだなんて言い続けてきた施設課のあんな奴といつまでも対立するのも構わなかったわ。私は授業をすることが大好きだし、とても刺激的だし、大満足していたわ。でも、とどめは学部が試験を変えようとしなかったことよ。私は学生に抽出された標本が何を意味しているか考えさせ、有意性を見るためにいくつもの別の方法を議論させ、問題を解決させてきた。なのに学部が課す試験は統計的な手法と公式の暗記を評価するだけの多肢選択問題。学生が私に怒るのも無理もないわ。
クライブ:でも、いつも言ってたじゃないか。学生は新しい教育方法を気に入ってくれているって。
ジーン:学生に騙されていたってことね。授業評価コメントでは3分の1ぐらいの学生は授業が本当に良いと思っているようだったし、統計学にとても興味を持ったなんて言ってくれる学生もいたのよ。でも、それ以外の学生が求めていたのは試験で使えるような虎の巻でしかなかったみたいだわ。
クライブ:で、どうするつもりなんだい?
ジーン:正直、どうしていいかよく分からないわ。でも私がやっていることは正しいと思っている。大きな変化をくぐり抜けてきた今となってはね。確かに学生は最初に虎の巻がもらえないかもしれないけど、いずれはデータを正しく読み取らなければならなくなるわけなのよね。私が試験のためだけに教えるのなら、学生がもっと高いレベルの理工学の授業を取る場合に、統計を適切に使うことはできないでしょうね。統計について少し知っているかもしれないけれど適切な使い方が分からない、ということになってしまうわ。
クライブ:ということは、学部に試験を変えてもらうようにしなければならないということだね。
ジーン:ええ、うまくいけばいいんだけど。でも、そうなったら他の人たちも教え方を変えなきゃいけないことになるわよね。
クライブ:でも、君が教え方を変えた大きな理由は、大学がいま求められているスキルや知識を学生たちが身につけられていないのではないかと懸念していたからではないのかい。
ジーン:そのとおりなんだけど、問題は学部長のハーベイが私をサポートしてくれないことなのよ。あの人ったら靴下や下着まで保守的と言っていいぐらいなのよね。私がやっていることはただ流行に乗っているだけだと思ってる。あの人が何か言ってくれないと、学部の他の人たちが変わることはないのよ。
クライブ:なるほどね。まあ、とりあえずは落ち着いて、ワインでも飲んで。それからどこかいいところへ夕食に出かけよう。そうすれば私も靴下と下着姿のハーベイを思い浮かべなくて済むだろうし。で、私の話も聞いてくれないかな。
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最初に述べておくべきことは、教授法が何かの学習理論に基づいて行われるべきだという原則やルールはないということです。とりわけ、中等後教育の段階において、自身の教え方が行動主義的あるいは構成主義的であるとされたら、ほとんどの教員は驚くのではないでしょうか。だからと言って、そのような教え方を「理論がない」とするのも正確ではないでしょう。本書ではこれまで、知識の性質についての捉え方が教授法の選択に大きく影響しうることを見てきましたが、この点を強調しすぎるのは賢明ではないでしょう。少なくとも中等後教育の段階では、教えることの大部分は、教員が自分が習ったのと同じ方法を真似する徒弟制モデルに基づいており、経験を積むうちに徐々に改良され、実際に学生がどのように学ぶのかという理論には意識を向けなくなっていくのです。
Dan Pratt (1998) は、5ヶ国の成人教員、253名を調査し「質的に異なる5つの観点で(中略)教育における妥当な観点であることを示しているもの」として以下を明らかにしました。
それぞれの視点は学習の理論と何かしらの関連があることが分かるでしょう。また、このような視点は教授法を運用するにあたって役に立つものなのです。そこでまずは一般的な教授法のいくつかを実践面から見ることにします。そしてこれらが第1章で概説したような知識・技能を養成するのに適切であるかどうかを評価することにします。
様々な教授法については2つの章でまとめることにします。まず第3章ではどちらかと言えば伝統的な学校、すなわちキャンパス中心での教育に由来する設計モデルについて論じます。続く第4章ではインターネット技術を取り入れた設計モデルに焦点を当てることにします。しかし第10章において明らかになりますが、この2つの設計モデルの区別は既に崩れ始めていることをここで指摘しておきます。
学校制度は、それが作られた時代を反映するものです。フランシス・フクヤマは、政治的発展と政治的衰退に関する重要な著作 (Fukuyama, 2011; 2014) の中で、国家に必要不可欠な機能を提供する組織は、往々にして、時とともにもともとの構造に完全に固まってしまい、外的環境の変化に適応できなくなってしまうと指摘しています。したがって、現代の教育制度の起源については、特に検討する必要があると言えます。なぜなら現在の教育と学習は、かなり昔に作られた制度の構造に強く影響を受けているのです。ですから私たちの伝統的なキャンパス中心のモデルによる教育が、デジタル時代にどの程度まで適合するかについて、検討しておく必要があるのです。
大規模な都会の学校、短大、大学は、年齢による階層化、構成する学習者集団、規定された単位時間によって組織化されるものですが、それは産業社会にとって非常に都合が良いものでした。事実、私たちは今なお教育設計の工場モデルと表現してもよい優れた仕組みを持ち、今でも少なからず私たちにとっては基本的な設計モデルとなっています。
設計モデルの中には伝統や慣習の中に埋め込まれてしまっているものもあります。それはまるで私たちが水の中の魚のようである、つまり私たちが生きて呼吸をしている環境であることをただ受け入れるだけでよい状態になっているわけです。教室モデルはその良い例の一つでしょう。教室を中心としたモデルでは、学習者はクラスというグループに編成され、ある期間(1学期や1セメスター)にわたって、同じ場所で、1日にある回数、ある長さの時間、定期的に集まるのです。
このような設計は150年以上も前に決められたものです。そして19世紀の社会的、経済的、政治的文脈の中に埋め込まれました。この文脈に含まれたのは以下のものでした。
150年の期間にわたって、私たちの社会はゆっくりと変化をしてきました。上記のような要因や条件のうちの多くは、もはや存在していません。一方で、今なお残存しているものもありますが、過去の時代よりも目立ってはいません。現在でも工場や大規模産業はありますが、小規模な会社も多くあり、かつてよりも大きな社会的、地理的な流動性もあります。そして何よりも仕事と教育の両方を様々な形でうまく進めることができる新しいテクノロジーが大きな発展を遂げました。
以上のことから、教室設計モデルが融通の効かないものであるなどと言うつもりはありません。このような全体的、組織的な枠組みの中で、教員は長い間、多種多様な教授法を採用してきました。しかし、とりわけ私たちが所属する学校組織の構造は、私たちがどのように教えるかに強い影響を与えます。ですから教室モデルを中心に作られている教授法のうち、どれが今日の社会にふさわしいと言えるのかを検討しなければなりません。また、これはさらに難しいことなのですが、今日のニーズにより良く応えられるよう、新しい学校組織を作ったり、学校組織の構造を変えたりすることができるのかどうかも検討する必要があるのです。
Fukuyama, F. (2011) The Origins of Political Order: From Prehuman Times to the French Revolution New York: Farrar Strauss and Giroux
Fukuyama, F. (2014) Political Order and Political Decay: From the Industrial Revolution to the Globalisation of Democracy New York: Farrar Strauss and Giroux
教室での教育形態のうち最も伝統的なものの1つは講義です。
[講義とは] 聞き手に何かを学んでもらいたい話し手による説明であり、ほとんど途切れることがないものである。
Bligh, 2000
この具体的な定義が重要です。つまり講義とは教員と学生との間で行われる質疑やディスカッションで意図的に中断されるという状況を考慮していないからです。教員と学生の間や、学生の間で相互にやり取りを行う形態の講義については、次のセクション3.4で論じることにします。
伝達型の講義の由来は、古代ギリシャ・ローマ時代に遡ることができます。少なくともヨーロッパの大学の歴史が始まった13世紀にあるといって間違いないでしょう。「講義」(lecture) という言葉はラテン語に由来しますが、もともとは読書という意味です。13世紀の頃には、綴じられた本は非常に稀少なものでした。ローマ帝国が崩壊した後の暗黒時代に、ヨーロッパでは多くの文書が破壊されてしまっていました。そのため、たいていは古代ギリシャ・ローマ時代の大変に貴重な巻物の断片や選集を典拠として入念に手作業で作られ、修道僧によって挿絵をつけられたものか、アラビア語圏の原典から翻訳したものを本にしていました。結果、大学はそれぞれの本を1冊しか保有していないのが普通であり、その本は世界で唯一のものであったかもしれないのでした。このため図書館とその蔵書は、大学の評判を決める極めて重要なものだったのです。教授たちは図書館から、その唯一の本を借り出して、文字通り学生たちに読み聞かせなければなりませんでした。学生たちは教授が読み聞かせたものを忠実に書き留めていたのです。
講義という形態自体は、学びの口頭伝承として、他と比べてもはるかに長い歴史があります。つまり知識が世代から世代へと、口伝えによって引き継がれていくのです。このような文脈では「認められた」知識が首尾よく伝達されるために、正確さや権威(あるいは知識へのアクセスを統制する権力)が重要となります。したがって、 伝達される情報が正しいものであると証明するためには、正確に記憶すること、反復すること、権威ある原典を引用することが重要だったわけです。古代ギリシャの英雄伝説、後の時代ではバイキングの英雄伝説が、知識を口頭伝承によって保つ力を示す例と言えるでしょう。そして今でも多くの種族の地域社会における神話や伝説では、このような口頭伝承が続けられています。
上に示す13世紀の本からの挿絵は、1233年、イタリアのボローニャで、ドイツのハインリヒ7世が大学生に講義を行なっている様子です。驚くべきことは状況が今日の講義とかなり似通っているということです。学生はメモをとっています。後ろで話をしている者もいます。1人は明らかに眠っています。もし仮にリップ・ヴァン・ウィンクル(訳注:「眠ってばかりいる人」を意味する慣用句、日本で言う「浦島太郎」のようなもの)が800年の眠りの後に現代の講堂で目を覚ましたとしたら、自分がどこにいて、何が行われているかを正確に理解できることは間違いないでしょう。
講義という形態には、長きにわたって疑問が呈されてきました。サミュエル・ジョンソン (1709-1784) は200年以上も前に講義についてこのように述べています。
人々は今では(中略)全てが講義によって教えられるべきであるという奇妙な考えを持つようになってしまった。だが、私には講義というものについて、その講義の元になっている本を読み聞かせることと同等の効果があるとは思えない(中略)講義はかつては役に立つものであったのだが、現在では、誰しもが読むことができ、本も多くあるのだから、講義は必要ないのだ。
Boswell, 1791
注目すべきなのは、印刷機、ラジオ、テレビ、インターネットが発明された後でさえも、伝達型の講義は、権威のある教員が学生の集団に向かって話すという特徴を持っており、多くの学校における教授法の中で主要なものとしてあり続けていることです。クリックするだけで情報が得られるデジタル時代においてさえもなのです。これほどまでに長く続いているものには何か意味があるに違いない、ということは言えるかもしれませんが、しかし近年起こった変化の全て、とりわけデジタル時代に必要となった知識や技能を鑑みると、伝達型の講義が教授法として最も適切なものかどうかについては考え直す必要があるでしょう。
サミュエル・ジョンソンの意見をどのように捉えるにしても、実際、講義の効果については非常に多くの研究が行われてきました。それは1960年代に遡り、現在も続いています。講義の効果の研究を分析したもので最も信頼できるものとしては Bligh (2000) があります。Bligh (2000) では、講義と他の教授法の効果を比較した様々な研究やメタ分析を要約し、以下のような結果が一貫して得られているとしています。
Bligh (2000) は学生の注意、記憶、動機付けに関する研究も検討し、次のように結論しています。(p.56)
このことからも、少なくとも単調にならないように変化をつけて興味喚起することがないのであれば、講義は20〜30分以内に収める方が良いと考えるべき(中略)証拠があることが分かるだろう。
このような研究が示してきたのは、情報を理解、分析、応用し、長期記憶に留めておくためには、学習者は積極的に教材に取り組まなくてはならないということです。講義が効果的であるためには、学習者が情報を知能的に操作する活動を伴っていなくてはなりません。もちろん講義を行う教員の多くは、このようなことを講義中に立ち止まってコメントや質問を求めたりすることで行うのですが、そうではない教員も多いのです。
繰り返しになりますが、上述のような知見が長きにわたって得られており、現在では YouTube の映像が8分ほど、TED talks であれば最大でも20分であるにも関わらず、 多くの教育機関での講義は今でも標準で50分か、それ以上のものを中心として編成されています。運が良ければ学生が質問したり議論したりする時間が最後に数分ある、という状況なのです。
研究からは次の2つの点を結論づけることができます。
長年にわたって教育機関は講義を助けるためのテクノロジーを追加することに莫大な投資をしてきました。 パワーポイント、複数のプロジェクタとスクリーン、学生の反応を記録するためのクリッカーや、ツイッター上で 「物言いをつける」ためのチャンネルを作り、学生が講義について(実際のところ多くの場合は教員についての)コメントをリアルタイムでできるようにすることさえも試してきました。(これは講義する側にとって、あまり気持ちの良くない形であり、苦痛の種になるのは間違いないのですが。)学生は授業にタブレットやノートパソコンを持ってくるように指示され、特に大学では最新の設備を備えた講義教室に莫大なお金が投資されています。しかしこのようなことは全て、表面的な取り繕いに過ぎません。講義の本質が情報伝達であることに変わりはないのです。そして現在においては、伝達される情報の全てが難なく入手でき、他のメディアや、もっと学習者に利用しやすい形で無料で利用できるのです。
私がある大学で仕事をした時、全ての学生がノートパソコンを持参しなければいけない授業がありました。そして少なくとも授業中に、講義と関連する活動で学生がノートパソコンを利用する時間がありました。しかし大多数の授業では、この活動に授業時間の25%以下の時間しか使われていませんでした。残りの時間のほとんどは学生が教員からの話を聞くだけになってしまい、ノートパソコンは勉強とは関係ない、特にオンライン・ゲームのポーカーで遊ぶといったような他の目的で使われる結果となったのです。
教員はしばしば学生たちが「授業とは無関係なことを同時に行なっている」という理由で、携帯電話やタブレットのようなテクノロジーの利用に対して不満を述べているのですが、これは論点がずれています。もし携帯電話やノートパソコンを持っている学生がほとんどだとしても、それでも講義教室に実際にやって来るのはなぜなのでしょうか。ポッドキャストや動画の形でその講義は提供できないのでしょうか。また、学生が講義を聞きに来るとして、なぜ教員は資料を見つけるというような目的で、携帯電話、タブレット、ノートパソコンを学生に使わせるようにしないのでしょうか。学生を小さなグループに分けて、オンラインで調べてグループとしての答えを出させ、クラスで共有するといった活動を行わないのはなぜなのでしょうか。講義を行うことになっているのなら、講義自体を興味深いものに変えることを目指すべきです。そうすれば学生は授業と無関係なオンラインの活動で注意をそらすこともありません。
それでも講義という形態にはまだ使い道があります。一例として、私は新任の研究教授の就任記念の講演に出席しました。この講演は教授が行なった共同研究に関するものであり、数種類の癌や他の病気の治療法につながったものを総括するという内容でした。これは一般向けの講演でしたから、当該分野の一流の研究者だけでなく科学についての背景知識がない一般の人々も満足させる必要がありました。教授は非常に良くできた視覚資料と例え話を交えながら講演を行いました。講演の後に懇親会があり、ちょっとしたワインとチーズが来聴者に用意されていました。
この講演がうまくいったのにはいくつかの理由がありました。
McKeachie and Svinicki (2006, p.58) は講義は次のような目的に最も適していると考えています。
重要なのは最後の点です。よく主張されるのは、講義の本当の価値とは、教授が専門家として、あるトピックや問題にどのようにアプローチしているかの1つのモデルを学生に示すことであるということです。したがって講義で重要なことは学生が読書するだけでも得られる内容(事実、原理、考え)の伝達ではなく、講義で扱うトピックについての専門家としての考え方だというのです。ただし、このような議論を支持する主張には以下の3つの問題点があります。
ひょっとするとデジタル時代においては、上述の McKeachie and Svinicki の提案にあるような活動は、講義をする教員の側ではなく、学生の側で行う方がはるかに重要なのかもしれません。
もちろん講義が非常にうまく機能する場合もあるでしょう。しかしデジタル時代においては、通常、授業の標準モデルは講義であると考えることはできないのではないでしょうか。より良い学習につながる、もっと効果的な多様な方法を教育課程の中で見つけることができるはずです。
ここまでの話を考慮すると、21世紀に入っても講義という形態がしぶとく残っていることについて、何らかの説明が必要ということになるでしょう。そのうちのいくつかを列挙してみましょう。
この問いの答えはどれくらい先の未来を見越しているかによるでしょう。システムはなかなか変わらないということを考慮すると、講義はあと10年はまだ優位であるだろうと思われます。その後は、ほとんどの教育機関で1週あたり3回の講義を13週にわたって行うという授業は姿を消すのではないでしょうか。その理由はいくつかあります。
このことで講義が完全に失われてしまうというわけではありません。講義は特別な目的で行われるものとなり、おそらくマルチメディアを使って同期的あるいは非同期的に行われるようになるでしょう。 特別な目的とは次のようなものです。
講義は教員が自分のことを学生に知ってもらったり、自身の興味や熱意を伝えたり、学生を動機づけたりする機会を与えてくれます。このようなことは学生にとって、多様な学習経験を構成する、比較的小さな要素の1つにすぎないのですが、それでも重要な要素なのです。
講義の役割と未来について、詳細な情報を踏まえた別の見方については Christine Gross-Loh, 2016 を参照してください。
Bates, A. (1985) Broadcasting in Education: An Evaluation London: Constables
Bligh, D. (2000) What’s the Use of Lectures? San Francisco: Jossey-Bass
Boswell, J. (1791), The Life of Samuel Johnson, New York: Penguin Classics (edited by Hibbert, C., 1986)
Gross-Loh, C. (2016) Should colleges really eliminate the college lecture? The Atlantic, 14 July
McKeachie, W. and Svinicki, M. (2006) McKeachie’s Teaching Tips: Strategies, Research and Theory for College and University Teachers Boston/New York: Houghton Mifflin
教員であれば直感的に認識していることですが、研究者は有意味学習と暗記学習を明確に区別しています。 (Asubel, 1978) 有意味学習においては、学習者は暗記することや事実、思想、原理の表面的理解にとどまらず、それらの事実、思想、原理が学習者自身にとってどのような意味を持つかを、より深く理解することなります。Marton and Saljö は、大学生が実際にどのように学習を行うかを検証する研究を行い、学習への深いアプローチと表面的なアプローチを区別しています。 (Marton and Saljö, 1997 などを参照) 深いアプローチを選ぶ学生は、もともと学習内容に内発的な興味を持っている傾向にあるとされます。このような学生は、あるトピックについて、もっと知りたいから学ぶという動機を持っています。一方、表面的なアプローチを選ぶ学生は、どちらかと言えば道具的な動機を持っていると言えます。学習への興味は主に合格点を取る、あるいは資格を取るといった必要性があるかどうかによって駆り立てられるものだからです。
Marton and Saljö に続く研究(例えば Entwistle and Peterson, 2004)では、学生がもつ最初の学習への動機付けだけでなく、その他の様々な要因も、学生が学習にどうアプローチするかに影響することを示しています。とりわけ、一般的に以下のような場合に、学生が学習に対して「表面的な」 アプローチをとると言えます。
他方、学習への「深い」アプローチがみられるのは、次のようなことに重点が置かれる場合です。
Laurillard (2001) と Harasim (2010) が強調しているのは、学生は常に具体的なものと抽象的なものの間を行き来しながら、論理、証拠、議論といった学問的な基準に基づいて、学問的知識を作り上げていく必要があるということです。その代わりに必要となるのが強力な教員の存在であり、対立する考え方を示す中で議論を行なっていきます。そして教員は当該学問分野のルールや基準の範囲内で、それぞれの主張や融和を促し、議論に発展性を与えながら展開させることになるのです。Laurillard はこのような学習のことを「修辞的効果を身につける練習」と呼び、世界について様々な観点から学習者たちに考えさせるようにしました。この実現のためには対話やディスカッションが不可欠となるのです。
構成主義者たちは知識について、主に社会的なプロセスを通して習得されると考えています。また、そのプロセスの中で、学生たちは表面的な学習を超えて、深いレベルでの理解に至る必要があるとしています。一方、結合主義者たちも学習へのアプローチでは学習者同士をつなぐことを非常に強調しており、全ての学習者がお互いにやり取りしたり議論したりしながら学んでいると考えています。そこでは学習者自身の関心事と、その関心事が他の参加者の関心事とどの程度結びついているかの両方によって学習が進められていきます。グループ全体で考えるならば、各自の関心事はさまざまかもしれませんが、参加する人数が非常に多ければ、全ての学習者が議論する関心事は1つにまとまっていく可能性が高くなります。
ここまでで言及してきた理論と調査を組み合わせて考えると、デジタル時代に求められる学習の形は、学生同士や教員-学生間で頻繁に対話を行うことだと言えるでしょう。対話はあらかじめ議論の項目を決めて行われることが普通ですが、次のセクション以降では伝統的に教育者がこのような形式での学習を、これまでどのように進めてきたかについて検討します。
ゼミとは集団で集まることである。(実際に顔を合わせる、またはオンライン上で。)例えば話題の選定や各学生への課題についてなど、集団としての学習体験をどのようにデザインするかは教員の責任であるが、少なくとも集団に属する学生は教員と同等に活発に学習に参加する。
チュートリアルとは学生と教員の1対1あるいは非常に小さい集団(3〜4名)の学生と教員との間で行われる授業である。学生が考えを示したり議論したりすることについては、少なくとも教員と同様に活発に参加することになる。
ゼミは6名程度から30名程度までの人数になることもあります。 一般的な認識としては、ゼミは学生数が比較的少ない場合に、最もうまくいくとされています。したがって、ゼミは大学院レベルか学部の最終学年でよく見られる学習形態と言えます。
ゼミにもチュートリアルにも非常に長い歴史があり、少なくともソクラテスやアリストテレスの時代に遡ることができます。ソクラテスもアリストテレスも古代アテネの貴族に仕える専属教師でした。アリストテレスは若いころのアレキサンダー大王の専属教師であり、ソクラテスは哲学者プラトーの専属教師でした。しかしソクラテスは自らが専属教師であることを否定しており、当時の古代ギリシャで一般的であった「教師は学生というカップに中身を注ぐ水差しである」という考え方に反対していました。むしろプラトンによれば、ソクラテスは対話と質問を使って「何が本当で、真実で、良いものかを自分自身で見つけられるように手助けをした」(Stanford Encyclopedia of Philosophy) というのです。このことから、ゼミやチュートリアルは極めて構成主義的な教授・学習のアプローチであると言えるかもしれません。
ゼミやチュートリアルは様々な形態をとり得ます。似たようなことは中等教育の学校でも行われますが、特に大学院レベルでよくある形態では、教員が予習課題を一部の学生に割り当てておき、その課題について当てられた学生はゼミで他の学生に発表し、議論をしたり、批評をしてもらったり、改善するための提案を受けたりするというものです。各回のゼミでは2〜3人の学生しか発表の時間が取れないかもしれませんが、学期全体では全ての学生に順番が回ることになります。別の形態としては、事前にゼミに参加する全員に対して、先端的な文献課題や研究をしてくるよう指示しておき、ゼミの時間には、事前学習の成果を生かした包括的な議論を行うために教員が論点を紹介するという方法もあります。
チュートリアルはゼミの特殊な教育形態の一つで、アイビーリーグの大学や、特にオックスフォード大学やケンブリッジ大学の教育の特徴であると見なされています。チュートリアルは教授と2人の学生だけで行われることさえあります。一人の学生は気づいたことを発表し、教授はその学生が想定していることについて厳しい質問を投げかけながら、もう一人の学生をも議論に引き込んでいくという、ソクラテス的な方法にきっちりと基づいて行われることが多いです。
このような対話に基づく学習形態であるゼミもチュートリアルも、教室という文脈の中だけではなく、オンラインでも行われます。オンラインでのディスカッションについてはセクション4.4で詳しく議論することにしますが、ディスカッションをオンラインで行う場合と対面で行う場合とを比較すると、一般的には相違点よりも類似点の方が多いと言えます。
多くの教員にとって理想の教育環境とは、ソクラテスが菩提樹の下で、3〜4人の熱心で、やる気のある学生に囲まれているイメージでしょう。残念ながらこのような環境は、一部のエリート集団を相手とする教育機関や、高い学費の教育機関以外では実現不可能です。高等教育は大人数を対象におこわなれるという現実があるからです。
しかし学生数が25〜30人のゼミは非現実的というわけではありません。それは公立大学の学部教育であっても同様です。さらに重要なことですが、学生たちがデジタル時代に最も必要になるであろうスキルの習得の促進につながる教育は、このようなゼミの形態でも可能になるのです。ゼミは学生のニーズに合わせて、教室でもオンラインでも行うことができますので、柔軟性が高いものと言えるでしょう。ゼミは各々の学生が予習をして臨む場合に最も効果があることは間違いありません。しかし最も重要なことは、教員がこのような形態で教えることができる能力を持っていることであり、伝達型の講義を行う場合とは別の能力が必要です。
高等教育を受ける学生の数が増加したことは問題ですが、それが全てではありません。例えば、教えるコマ数が少なく、主に大学院生を教えている上級(シニア)の教授などは、学部レベルの大人数クラスでも伝達型の講義を行なってしまうことになるでしょう。仮にシニアの教授や経験豊富な教員が一人でも多く伝達型の講義を辞めて、学習すべき内容を学生に発見させながら分析させるような授業に変えていくことができれば、より多くの時間をゼミ型の授業に充てられるのではないでしょうか。
こういったことはコストに関わる問題ではあるのですが、組織的な問題、つまり何を選ぶか、そして優先すべきことは何なのかという問題でもあるのです。学生にデジタル時代に必要なスキルを身につけさせたいのであれば、大人数の伝達型の講義ではなく、ゼミ型の教授・学習アプローチを、これまで以上に取り入れていくことで、より良い結果が生まれるでしょう。
実践によって学ぶという形態は Pratt が提唱する5つの教授アプローチの1つです。 (Pratt & Johnson, 1998) Bloom らが精神運動スキル (psycho-motor skills) を第3の学習領域としたのは1956年のことでした。実践を通しての学習は、特に運動スキル (motor skills) を教える際に一般的に用いられています。運動スキルの学習の例としては、自転車に乗るための学習や、あるスポーツができるようになるための学習などがあります。しかし高等教育の場においても、実践を通して学習する例はあります。教育実習、研修医、実験室での学習などがそれに当たります。
実際、このような実践的学習の大きな括りの中にはいくつかの異なるアプローチや用語があります。具体的には経験的学習、協同学習、冒険学習、徒弟制などですが、ここでは様々な実践的学習のアプローチを包括的に指す用語として「経験的学習」を使うことにします。
徒弟制とは、特に実践を通じて学生に学ばせることを可能にする方法の1つです。これは職業訓練と結び付けられることが多く、経験を積んだ職人や見習いを終えた職人が手本を示し、見習い工はそれにしたがって作業し、それに対するフィードバックを職人が与えるというものです。一方で、中等後教育に携わる教員に対して、教授法を(少なくとも暗示的に)訓練するためにも徒弟制が非常によく使われています。徒弟制による教育方法は様々な領域で応用が可能なのです。
徒弟制のような仕組みは、大学教育のうちでも、特に大学教員養成のための暗黙的かつ標準的なモデルとして広く使われていますが、まずは他の仕組みによる経験的学習とは区別して論じることにしたいと思います。
徒弟制は目に見えない現象ではないということを念頭においておくのが良いだろう。伝統的な徒弟学習であれ、認知的な徒弟学習であれ、この学習形態には重要な要素がいくつか含まれている。すなわち徒弟制とは学習に関する1つの捉え方であり、教員や学習者には具体的な役割と方略があり、明確な発達段階があることである。しかし大抵の場合、徒弟制の観点からは、人間は一歩引いたところから物事を学ぶことはできないということを知っておく必要がある。むしろ人間は、信頼に値する動態的で独特な、本物の実践が行われている渦の中に積極的に参加することで学んでいくのだ。
Pratt and Johnson, 1998
Schön (1983) は、徒弟制について「きちんと定義されておらず、問題が生じるということが頻繁に発生し、曖昧だったり、不明確だったり、無秩序だったりするという特徴を持つ」実践の状況でうまく機能すると指摘しています。徒弟制による学習では、実際に何かを行うことについて学ぶこと(アクティブ・ラーニング)だけでなく、どのような文脈で学習成果を応用できるかということへの理解も求められます。さらに、その分野で専門家たちが確立している実践、慣習、価値観を学び、理解し、埋め込むことに関係する社会的、文化的な要素があります。
Pratt and Johnson (1998) は「ある特定の領域の知識を完全に習得している、または特に優れた技能をもつ、あるいはその両方を兼ね備える人」と定義される「マスター・プラクティショナー」となる人の特徴として、次のようなものを明らかにしています。
さらに Pratt and Johnson (1998) は、それぞれ異なるものですが、互いに関連がある2つの徒弟制の形態を区別しています。すなわち伝統的な徒弟制と認知的な徒弟制です。伝統的な徒弟制による学習体験は、運動スキルや手工業スキルの養成に基づいていますが、これは教える側と学ぶ側が段階的に手順を学びながら徐々に習得していくことを伴います。
認知的な徒弟制、つまり知的な面での徒弟制のモデルは、伝統的な徒弟制学習とは異なるところがあります。というのも、この学習形態は運動スキルや身体スキルの学習の場合と比べて可視化しにくいからです。Pratt and Johnson (1998) によると、このような状況では教員や学習者が知識や技能を応用するとき、双方が何を考えているのか言葉で述べなくてはなりません。そして知識が作られていく状況を明らかにしなければなりません。知識がどのように構成され、応用されるかは、それがどのような状況で発生しているかが極めて重要です。
Pratt and Johnson (1998) では認知的・知的モデルについて5つの段階を提案しています。 (p. 99)
Pratt and Johnson (1998) では、このような徒弟制のモデルが経験の浅い大学教員にとって、どのように機能するか、具体例を挙げています。 (pp.100-101) また、認知的な徒弟制では討論する場、すなわち以下のような機会が必要であると主張しています。
意思疎通が十分に図れるディスカッションや、単一の視点からではなく、実際の場面から生じた現実の場面に本格的に学習者が入り込む機会があること。このように主体的に関与し、階層的に経験を積み重ねていくことからのみ、初心者は熟練していくのである。
大学における徒弟制モデルの大きな課題は、たいていはそれが体系的には行われていないということです。若手の大学教員、新たに大学教員の職に就いた人が、自身が教わった教授たちを観察するだけで自ずと教え方を身に付けるだろうと考えることは、運を天に任せるようなものなのです。
教育の徒弟制モデルは、対面授業でもオンライン授業でも機能するものですが、オンラインの環境があるのであれば、通常は対面との混合型で行うことが最適でしょう。
徒弟制による教育プログラムにおいて、教材をオンライン上に移すようになっている教育機関がありますが、その理由の1つは認知的学習の要素が多くの職業で急速に必要なものとなっているからということです。仕事をするために、数学、電気工学、電子工学に関する高い学術的知識がますます必要になってきているのです。このような徒弟制学習の「アカデミック」な部分は、たいていはオンラインでも対面の場合と同様にうまく扱うことができ、そしてオンラインになることで、見習い期間中の労働者は勤務時間外でも勉強することができます。結果、雇用主にとっても、時間の節約にもなるわけです。
一例として、カナダのバンクーバー・コミュニティ・カレッジには、1セメスター13週で提供している車のボディの修理についての実習コースがあります。そのプログラムは既に就業しているけれどもまだ資格は取れていないという州内の労働者に対して、10週分の授業をオンラインで行います。バンクーバー・コミュニティ・カレッジでは、理論的な部分の学習と、車のボディの修理の手順や実践方法については、多数の映像の視聴によるオンライン学習にしています。受講生は全て、既に熟練職人の監督下で働いているので、映像で見た手順の一部をその監督下で実践することができるというわけです。実習コースの最後の3週では、学習者が実際に大学に出向いて、特定の技能について手ほどきを受けます。試験が行われ、その技能を修得している者については、そのまま仕事に戻ってもらうことになります。こうすることで、その技能を身につける必要性が最も高い受講生の指導に集中できるのです。
このような半遠隔プログラムにおいては、企業と大学の間での協力関係が不可欠であり、これによって大学は、職場の「親方」となる職人との協働ができるようになります。特に職業訓練が著しく不足しているような場合に有効であり、技量不足の労働者を熟達した職人のレベルに引き上げることができます。
徒弟制の教育モデルの主な長所は次のように要約することができます。
他方、徒弟制のアプローチをとるにあたっては以下のような難しい制約がいくつかあります。それは大学教員を育成する場合に特に当てはまります。
それでもやはり徒弟制モデルが徹底的かつ体系的に使われるのであれば、非常に入り組んだ現実世界の状況の中でも、非常に有効な教育のためのモデルとなるでしょう。
Pratt, D. and Johnson, J. (1998) ‘The Apprenticeship Perspective: Modelling Ways of Being’ in Pratt, D. (ed.) Five Perspectives on Teaching in Adult and Higher Education Malabar FL: Krieger Publishing Company
Schön, D. (1983) The Reflective Practitioner: How Professionals Think in Action New York: Basic Books
実際のところ、上記のタイトルは包括的であり、この中には、経験的学習、協働学習、冒険的学習、徒弟制といった、様々なアプローチや専門用語が含まれます。このように多岐にわたる実践的な学習へのアプローチを含む大きな傘のような概念として、ここでは「経験的学習」という言葉を用いることとします。
この領域では、John Dewey (1938) 、そして最近では David Kolb (1984) といった、様々な多くの理論提唱者がいます。
サイモン・フレイザー大学では、経験的学習を次のように定義します。
実践を通して学ぶ機会に学生が戦略的、積極的に関与し、その活動を振り返ること。そうすることで、教室内外の多くの状況において、学生が理論的な知識を実際に使ってみる力をつけさせることができる。
現実世界の状況の中に学習を埋め込むことを目的とした様々な設計モデルには、以下のようなものがあります。
ここでは経験的学習を設計し提供していくための主な方法の中でも、特にテクノロジーの利用に関するものに重点を置いた議論を進めていきます。なぜならこれはデジタル時代に必要な知識をつけるために必要だからです。(より詳細な分析については、Moon, 2004 を参照。)
経験的学習が重点を置いているのは、実際的な専門技術を得るばかりでなく、概念的な洞察を得るために学習者が何かを実践した経験を自ら振り返るという点です。Kolbの経験学習モデルは、次の4つの段階があることを提案しています。
経験的学習はカナダ・オンタリオ州のウォータールー大学における主要な教授形態です。大学のWebサイトには、Association for Experiential Education による経験的学習が効果的に働く条件が列挙されています。ウォータールー大学では20,000人以上もの学生が経験的学習プログラムで学んでいます。
トロントにあるライアソン大学も経験的学習が広く使われている教育機関です。この詳細を説明したWebサイトもあり、教員向けとしても使われています。次のセクションでは、上記の4つの原則が適用される様々な方法を検討することにします。
経験的学習には様々な設計モデルがありますが、共通する特徴もたくさんあります。
今日では実験室での授業は、科学や工学の教育には欠かせないことが当然であると考えられています。また、作業室やアトリエは、職業訓練の多くの形態や、創造的芸術の発達のためには非常に重要であると考えられています。実験室、作業室、アトリエでの学習には、以下のような重要な役割や到達目標があります。
実験室での授業が持つ教育的に重要な価値としては、学習者が具体的なもの(現象の観察)から抽象的なもの(現象の観察から得られる原理や理論の理解)へと進んでいくという点があります。また、実験室での学習によって、学習者は科学や工学が持つ、きわめて重要な教理上の解釈に触れることになります。つまりいかなる考えであっても、それを「真実」と見なすためには、厳密に定められた方法にしたがって検証しなければならないとする考え方です。
昔からある教育用の実験室や作業室での教育に対しては、科学者、技術者、職人が今日必要としている設備がなく、経験できることが限られているという大きな批判があります。科学装置、工学機器、工作機械がだんだんと複雑で高価なものになるにつれて、特に中等教育の学校以下では、こうした装置などに学習者が直接触れることは、ますます難しくなっています。そして現在では、大学でさえもそうなっているのです。さらに言えば、昔からあるような教育用の実験室や作業室には大きな投資が必要であり、規模を変更することは簡単にはできません。これは教育の機会を素早く拡大するのには非常に不利です。
実験によって科学を教えることは既に確立されていますが、歴史的に見れば、比較的最近になって発展したものであることは念頭に置いておくべきでしょう。1860年代には、オックスフォード大学もケンブリッジ大学も実証的に科学を教えようとはしていませんでした。そこでトーマス・ハクスリーは、王立鉱山学校(かつてはロンドン大学の系列の専門学校の1つ、のちにインペリアル・カレッジ・ロンドンとして独立)で、学校の教員を対象とする科学教授法の専門課程を開発しました。その教育内容には実験科学を学生に教えるための実験室の設計方法も含まれていました。この教授法は学校や大学で今でも最も広く用いられています。
しかし同時に、19世紀以来の科学や工学の進歩により、科学的な検査や妥当性の検証のための別の形態が開発されました。少なくとも学校や大学ではほとんど見かけることがない実験室、例えば、原子核加速器、ナノテクノロジー、量子力学、宇宙探査などのための実験室です。このような場面では、現象を観察したり記録したりするには遠隔操作やデジタル技術を使うよりほかありません。また、実験室、作業室、アトリエで行う作業の目的を明確にしておくことが重要です。遠隔ラボやシミュレーション、経験的学習のような新しい技術を使った方が、実用的、効率的、効果的な方法で同じことができるかもしれないからです。しかしこのような新しい技術の詳細については後ほど検討することにしましょう。
問題解決型学習(problem-based learning、以下PBL)として体系化された最も初期の形態は、1969年にカナダのマクマスター大学医学部のハワード・バローズらが開発したもので、次第に他の多くの大学や小中高の学校へと広がっていきました。この手法がますます多く使われるようになっている領域では知識基盤が急速に拡大しており、学習者は限られた期間の学習では全ての知識を身に付けることができません。学習者はグループで作業しながら、既に知っていること、知る必要があること、どこでどのようにして問題の解決につながる新しい情報を得ることができそうなのかを把握していきます。この学習の過程を促したり導いたりするためには、従来型の PBL ではチューターと呼ばれていた教員の役割が極めて重要になります。
扱う領域によって、詳細な手順はある程度は異なっていることも多いのですが、PBL は非常に系統だった手法に従いながら問題の解決を行うことが一般的です。以下は、典型的な例の1つです。
マーストリヒト方式によるPBLチュートリアルのための7つのステップ
これまで、最初の5つのステップでは、20人から25人という小規模な対面授業による指導形式がよく採用され、6つ目のステップでは個人や4〜5人の学習者によるグループでの授業外での学習が必要とされ、7つ目のステップでは教員も交えて、全員で集まって達成されてきました。しかしこのような手法はブレンド型の学習にも適しています。というのは6つ目のステップ、すなわち「解決方法について調査する」ことについて、主にオンラインで行うのです。教員によっては、同期型のWeb会議と、非同期型のオンラインディスカッションを使い、全ての学習過程をオンラインで運営する人もいます。
問題解決型学習のカリキュラムを完成させるためには大変な労力が必要です。まずはテーマとする問題を注意深く選定し、勉強が進むうちに少しずつ複雑さや難しさが増えていくようにしなくてはならないからです。さらにカリキュラムに必要な要素の全てを含むような形で、問題を選定しなくてはなりません。多くの場合、問題解決型学習は学習者も難しいと感じます。いくつかの問題を解決するために必要な基本的な知識基盤が整っていない初期の段階では特に顕著です。この状況を表すため「認知的過負荷」という用語がよく使われてきました。したがって同じトピックを扱う場合であっても、講義の方がより迅速で内容が凝縮された形で扱うことができるという主張もあります。
評価についても注意深い検討が必要です。とりわけ、最終試験が成績評価の大きな割合を占めている場合には、内容を漏れなく取り扱えているかだけではなく、問題解決ができるスキルも評価しなければなりません。
しかし Strobel and van Barneveld, 2009 のような研究では、問題解決学習が学習者の学習意欲を高めるばかりでなく、学習内容を長期的に記憶しておくことや「再現可能」なスキルを発達させることにも長けていることが分かっています。現在では「純粋」な PBL の手法には多くのバリエーションがあります。例えば題材とする内容について、まずは講義や事前の講読課題など、どちらかと言えば伝統的な方法で扱った後に、解決すべき問題を設定していくといった形式です。
事例に基づく教授法では、学習者は複雑な現実世界のシナリオについて読んだり議論したりすることで、分析的に思考し、それを基にした判断を下すスキルを発達させることができる。
University of Michigan Centre for Research on Teaching and Learning
事例に基づく学習は時として PBL の変形版とみなされますが、それ自体が一つの設計モデルであると考える場合もあります。事例に基づく学習では PBL と同様、あらかじめ用意された探究課題に沿った学習が用いられます。しかし通常、学習者には事例を分析する際に援用できる知識をある程度、事前に持っていることが必要とされています。また、事例に基づく学習という手法は、PBL よりも柔軟であることが一般的です。事例に基づく学習は、経営教育、法学教育、医療臨床業務において特によく見られますが、その他の分野においても使うことができます。
Herreid(2004) は事例に基づく学習について、11の基本的なルールを示しています。
また、医療における臨床業務の例を用いて、Irby (1994) は事例に基づく学習の5つのステップを推奨しています。
事例に基づく学習は「正しいか、誤っているか」というような明確な解決策がない、複雑で分野をまたぐトピックや問題を扱う場合や、学習者が相反する説明のどちらかを評価して決定しなければならない場合に、特に役に立ちます。さらに事例に基づく学習は、ブレンド型での学習環境でも、完全なオンライン学習環境でも、いずれもうまく機能するでしょう。Marcus, Taylor and Ellis (2004) では獣医学の分野で、事例に基づく学習のプロジェクトをブレンド型で行うにあたり、次のような設計モデルが用いられました。
図3.6.3.3 オンライン学習教材を含むブレンド型学習の一連の流れ
(図中、左から順に「2〜4時間の講義」「2時間の実技」「少人数グループによる2時間のオンライン事例研究」「2時間の事例まとめ」)
(Marcus, Taylor and Ellis, 2004)
もちろん、扱うテーマが必要としているものに応じて、その他の構成にすることも可能です。
研究課題に基づく学習は、事例に基づく学習によく似ていますが、それよりも長期間であり、広範囲に及ぶ傾向があります。また、サブトピックを選んだり、作業を準備・計画したり、研究課題を実行する方法を決めたりするという点で、より学習者の自主性や責任が伴うものになります。一般的に研究課題は現実世界の問題に基づいて作られるものです。そのため学習者は責任感や当事者意識を持って学習活動を行うことができるのです。
同様に、研究課題に基づく学習をうまく行うための適切な実践方法や運用基準がいくつかあります。例えば、Lamer and Megendoller (2010) では、良い研究課題について、以下の2つの基準を満たしていると主張しています。
研究課題に基づく学習の主なリスクとしては、その研究課題の動きをコントロールできなくなり、学生だけでなく教員さえも必要不可欠な学習目標を見失ってしまうことや、重要な内容領域が抜け落ちてしまう恐れがあることです。したがって、研究課題に基づく学習には、教員の入念な計画と監督が求められます。
探究に基づく学習 (inquiry-based learning) は、研究課題に基づく学習と共通しているところもありますが、教員の役割が少し異なっています。研究課題に基づく学習では、教員があらかじめ「研究推進のための質問」を用意しておき、学習過程の中で学習者を導いていくという積極的な役割を果たします。一方、探究に基づく学習では、必要があれば教員に手助けや指導を求めることができますが、学習者自らがあるテーマについて調べて研究したいトピックを選び、研究計画を練り、結論まで向かうことになります。
Banchi and Bell (2008) は、以下に示すように、探究には異なるレベルがあり、学習者は最初のレベルから始め、その他のレベルを経て「真の」あるいは「開かれた」探究のレベルへと到達する必要があると述べています。
タイトル:探究に基づく学習のレベル
左端:教員の関与の高低
上図から分かるように、最後のレベルは大学における卒業論文の作成過程の特徴を表していると言えます。しかし探究に基づく学習では、この段階の探究は全ての校種において意義があると主張されています。
経験的学習の支持者はオンライン学習に対して、強く批判的であることが多いです。オンラインでは学習を現実世界の事例に埋め込むことができないというのです。しかしこれはオンライン学習の捉え方を単純化しすぎています。経験的学習の支援や促進のためのオンライン学習を効果的に利用できる状況は十分に考えられます。例えば以下のような状況です。
実際、現実世界での経験的学習が実行不可能である、危険すぎる、費用がかかりすぎるというような状況もあります。オンライン学習であれば、実際の状況をシミュレーションしたり、ある技能を習得する時間を短縮したりするのに役立てることができます。フライト・シミュレーターは長きにわたって民間航空会社のパイロットの訓練に使われており、訓練中のパイロットが基本的な事柄を習得するために実機に乗らなければならない時間を減らすことを可能にしています。旅客機のフライト・シミュレーターを構築して運用するには、現在でも非常にコストがかかります。しかし、最近では本物に近いシミュレーションを作るコストが以前よりも劇的に下がっています。
ロイヤリスト・カレッジの教員たちは、カナダ国境サービス庁職員の研修を行うため、オンライン・ゲームである「セカンド・ライフ」の中に、本物と全く同じように機能する「バーチャルな」国境検問所と自動車を作りました。学生のそれぞれが検問所の職員役として自分のアバターで、カナダへの入国を希望する旅行者役のアバターに質問をします。全てのやり取りはセカンド・ライフ上での音声通信を利用します。旅行者役は学生の中から選ばれ、別の部屋で演じることになります。1人の学習者は3人〜4人の旅行者に国境通過検問を行います。そしてクラス全体でそのやり取りを観察して、やり取りが行われている状況や応答の仕方について議論をします。また、別に設けられた自動車検査のためのサイトでは、完全に分解できる仮想的な自動車を扱っています。これによって学生は密輸品が隠されうる全ての場所について学ぶことができるわけです。
そしてロイヤリスト・カレッジ内の自動車店に実際に出向いて、本物の車で検査を実践してみることで、このような学習が強化されることになります。税関や入国審査官の職に就く学生は最終成績評価のひとつとして、尋問の技術が評価されることになります。「セカンド・ライフ」上での国境検問所シミュレーションを利用した最初の年の学生は、それを使わなかった以前のクラスよりも28パーセント高い成績を収めました。2年目のクラスはさらに9パーセント高い成績を収めることとなりました。詳細についてはこちらから見ることができます。
ブリティシュ・コロンビア州立司法学校の危機管理教育部門のスタッフは、Praxisというシミュレーションを開発しました。現実世界のシミュレーションを訓練プログラムに導入することで、扱う緊急事態は現実味を帯びたものなります。Praxis には Web 経由で参加できることから、 体験的で双方向性のあるシナリオに基づいた訓練を、時と場所を選ばずに実施できるという柔軟性があります。典型的な緊急事態の中には、危険な化学薬品を貯蔵している倉庫での大きな火事があります。このようなシナリオでは例えば、消防、警察、救急隊員、役所の技術職員の「訓練生」となる初期対応者が、自分の携帯電話やタブレットで模擬通報を受けます。そして教わった手順に従いながら、また、その手順を自分の携帯端末で参照しながら、熟練したファシリテータが操作する素早い展開のシナリオにリアルタイムで対応することが求められます。全てのプロセスは記録され、後で対面での報告会が行われます。
繰り返しになりますが、ほとんどの場合、教育の設計モデルは、ある特定のメディアに依存しているわけではありません。このような知識の移転は様々な配信方法を用いて、容易に行うことができます。実践によって学ぶことは、デジタル時代に必要なスキルの多くを発達させるために重要な方法の1つなのです。
経験的学習の様々な設計をどう評価するかは、どのような認識論的立場をとるかによっても変わります。構成主義者ならば経験的学習を強く評価するでしょう。客観主義の強力な信奉者であれば、経験的学習のアプローチに対して非常に懐疑的になることが多いでしょう。にもかかわらず、問題解決型学習は科学や医学を教える多くの教育機関で非常に一般的です。また、研究課題に基づく学習は多くの分野や校種をまたいで使われています。経験的学習が適切に用いられれば、学生の興味を引きつけることができ、より長期にわたって学習した内容を記憶しておくことにつながるという証拠が得られています。経験的学習の支持者は、より深い理解が促され、問題解決、批判的思考、より良いコミュニケーション・スキル、知識マネジメントのようなデジタル時代に必要なスキルを発達させることができると主張しています。とりわけ経験的学習によって、学習者は分野の範疇を超えた非常に複雑な状況や、知識の及ぶ範囲を制御しづらい内容領域に対処することができるようになるのです。
その一方で、Kirschner, Sweller and Clark (2006) のように、経験的学習における指導は、往々にして「無誘導な」ものであるという批判的な主張もあります。また、PBL の効果についての「メタ分析」の結果がいくつか示されています。それらによれば PBL を行なっても問題を解決する能力に変化はなく、基本的な科学の試験の得点も低く、勉強時間は PBL で学んだ学生の方が長く、PBL の方が失うものが大きいというのです。Kirschner, Sweller and Clark (2006) は次のように結論づけています。
統制された研究からの全ての証拠を見る限り、初級〜中級の学習者を教える時、構成主義に基づいて指導を最小限にするよりも直接的にしっかりと指導する方が良いことを示している点でほとんど一致している。かなりの背景知識を持っている学習者に教える場合であっても、学習に際してきちんと指導することが、明示的な指導を行わない手法と同様の効果であるという場合がほとんどである。
経験的学習の手法でカリキュラム内容をもれなく扱うようにするためには、教え方の再構成と詳細な計画立案を十分に行う必要があります。つまりそれは多くの場合、教員研修を大規模にやり直し、注意深く説明を行ない、学習者に対する準備をしてもらうようにしなくてはならなくなるということです。学習者に現実世界に即したタスクを与えるだけで、指導も支援もすることがなければ効果は見込めないとするKirschner et al. (2006) はその通りだと言えるでしょう。
とは言え、経験的学習の多くの形態において、教員からの強い指導は行われ得るものであり、実際にも行われています。また、経験的学習とそうでない学習を行った学習者を比較する場合、効果測定のために行う知識を測るテストでは、経験的学習のみで育成されるスキルを測る問題を含めるよう注意しなくてはなりません。記憶と理解に大きく偏りがちな伝統的な方法と同じような測定方法に基づくものになっていてはいけないのです。
ここまでの議論を考慮すると、デジタル時代に必要な知識とスキルを伸ばすために経験的学習を利用することには賛成です。しかし当然のことながら、その設計モデルと結びつけた最適な実践方法に従いながらうまく行われなくてはならない、ということを主張しておきたいと思います。
Banchi, H., and Bell, R. (2008). The Many Levels of Inquiry Science and Children, Vol. 46, No. 2
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この節では、Pratt が言及する残り2つの教育の視点である養育と社会変革について簡単に論じることにします。
教育についての養育的な視点を理解するには、親の役割から考えてみるのが最適でしょう。Pratt (1998) は以下のように述べています。
私たちは「うまくいっている」親が子どもに対して理解し共感することを期待する。そうすれば、どんなに難しいことであっても、心のこもった思いやりと愛情のある指導をしてくれるだろう。養育的な視点を持つ教育者は、親の場合とは異なる問題について、様々な文脈で、そして様々な年齢層に対する教育に取り組むものである。しかしその根底にある特性や関心事は親の場合と同じである。教わる内容をどれくらい身に付けることができたかよりも、学習者の効力感や自尊心に関わる問題こそが、学習の成功を測る究極の基準となるのである。
ここで強調されていることは、教員は学習者の興味関心に焦点を当て、学習者が学ぶ方法を重要視しつつ、学習している時の発言や考えに対して注意深く耳を傾け、「経験の共感的承認」という適切な形で支援を与えることです。このような考え方の背景の一部には、人は非常に幼い時から自律的に物事を学習しているという観察があります。ですから学習者の持つ「自然な学習傾向」を抑制するのではなく、奨励し、学習意欲の分析から決定される適切な学習課題へと導くことができる環境を作り出すことが大切なのです。
ニューヨーク州立大学のエンパイア・ステイト・カレッジでは成人教育におけるメンター制 を導入していますが、これは本節で述べたような養育的視点を非常に細かいところまで取り込んだものとなっています。
Pratt (1998, p.173) は次のように述べています。
社会変革の視点を持つ教員は、より良い社会を作ることに関心があり、自らが行う教育はその目的に貢献するものであると捉えている。この考え方の独自性は、明確な理想、すなわち、より良い社会秩序という考え方に繋がる諸原理に基づいている。社会変革の視点を持つ教員たちは、単一の方法で教えるわけでもなければ、一般的な知識について固有の視点を持っているわけでもない。(中略)これらの要因は、全て個人としての行動上の理想に基づいて決定づけられている。
社会には変化が必要であり、社会変革者はこの変化を起こす方法を知っているという捉え方は、ある意味では、認識論的な立場としての教育理論ではないと言えるでしょう。
養育的視点にも、そして社会変革の視点にも、同様に長い歴史があり、これまで以下のように述べられています。
教育を養育的・社会変革的な視点からみることは重要です。なぜなら、それらは結合主義についての信念あるいは仮定を映し出しているからです。事実、Illich は早くも1971年の段階で先進的な技術による「学習の網」の利用を支持する、驚くべき発言をしています。
仲間同士を繋げるネットワークの働きは単純なものになるであろう。利用者は名前とアドレスで自らを特定し、どのような活動の仲間を求めているか記述する。コンピュータは同様の内容を記述している人の名前とアドレスを送り返す。このような単純で便利なものが、今まで世間一般で価値を持つ活動に大規模に利用されることがなかったのは驚くべきことである。
このような状況は今日、確かに存在しています。学習者は情報や知識にアクセスするために必ずしも教育機関を経由する必要はありません。ますます多くの情報や知識がインターネットを通して入手できるようになっているからです。MOOC は共通の興味関心を見つけるのに役に立ちます。とりわけ結合主義者による MOOC は、共通の興味関心のネットワークや、自発的な学習のための環境を提供することを目的としています。デジタル時代は学習に必要な技術的なインフラや支援を提供してくれているのです。
教育に関する全ての視点の中で、養育モデルと社会変革モデルは、学習者中心のモデルとして一二を争うものです。これらのモデルは人間の性質について非常に楽観的な考え方に基づいています。つまり、人間は必要なものを探し出して学ぶものであり、似たような興味や関心を持っている人の中から献身的に面倒を見てくれる教育者を見つけ出し、個々人は自らが学びたいことを見つけ、しかもそれを最後までやり抜く能力を持っているという考え方です。このような考え方は抜本的な変革を求める教育の視点であるとも言えます。それは公教育や私教育がもつ政治的、支配的側面からの脱却を求めているからです。
養育モデルと社会変革モデルのそれぞれの視点において、学習を成功させるために教員が果たす中心的な役割に関する見解の違いがあります。Pratt にとっては学習を育むことが教員の中心的な役割であると考えます。Illich や Freire などは、職業的に訓練された教員は、どちらかと言えば個々の学習者にではなく、むしろ国家のために働くようになる傾向があると考えます。また、これらの教育モデルを支持する人々は、学習者にとって必要な支援を提供するのは、ボランティアの指導者や、ある理想や社会的目標に基づいて組織される社会集団であると考えています。
養育モデルと社会変革モデルによる教育には当然ながら短所もあります。それは次のようなものです。
養育的アプローチにおいて、教員は非常に献身的で無私な取り組みを行い、学習者の要求やニーズを最優先しなくてはなりません。一方、教員は教育内容についての専門家であるにも関わらず、知識を伝達したり共有したりすることを、学習者が「受け入れる用意できた状態」(レディネス)になるまで控えておかなくてはならないことも多いのです。結果として、教育内容の専門家としてのアイデンティティーや必要性が大きく否定されてしまうことにもなりかねません。
とは言え、社会変革モデルも養育モデルも、デジタル時代に重要な以下のような側面が含まれています。
Freire, P. (2004). Pedagogy of Indignation. Boulder CO: Paradigm
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教育方法、学習理論、認識論的立場が直接的に関係していることはあるのですが、いつもそうであるとは限りません。表を作って、それぞれの教育方法をある特定の学習理論に当てはめてみたり、理論を特定の認識論に当てはめてみたりしたくなるものですが、残念ながら教育とは、コンピュータ・サイエンスのようにきれいに整理できるものではないのです。したがって、存在論に基づいて直接的な分類を試みることは、誤った理解をしてしまうことになるでしょう。例えば、伝達型の講義形式であれば、行動主義アプローチではなく認知論的な学習アプローチを促進するように構成されることもあるでしょう。1回の講義が情報伝達、実践的学習、ディスカッションといった複数の要素を組み合わせた形になることもあるかもしれません。
純粋主義的に考えるならば、教員が認識論の違いを超える方法を使うのは論理的に一貫性がなく、学生にとって混乱を招くものになるかもしれません。しかし、教えることは本質的に実践的な仕事ですから、教員はその仕事が達成されるために必要なことを行います。例えば学生がその意義について情報に基づく議論をしたり問題解決を始めたりする前に、事実や原理、標準的な手順や方法の意味を学習する必要があるとします。このような場面では、教員は基礎を固めるために行動主義的な方法から開始し、コースや専攻プログラムが進んだ後の段階になって構成主義的な方法へと移ることも十分に考えられます。
MOOC や録画した講義のようなテクノロジーの利用により、ある特定の教育方法や取り組みが再現されることはあります。しかし多くの点で、教育方法、学習理論、認識論はある特定の技術や配信手段と関係なく存在するものです。とは言え、第8章・第9章・第10章で見るように、様々なテクノロジーが教育を変えるために利用されることがあるでしょう。個々のテクノロジーの特徴や「アフォーダンス」(そのテクノロジーで実現可能なこと)次第では、ある教育方法が他の教育方法よりも容易に進化することもあります。
以上のことから、多様な教育方法だけでなく学習理論や基になっている認識論を分かっている教員は、ある場面でどう教えるのが良いのか、適切な判断ができる可能性が非常に高いでしょう。また、後でも触れますが、このような理解をしていることが、ある特定の学習タスクや場面に合ったテクノロジーを適切に選ぶ際に役立ちます。
本章の主な目的は、教室での教育方法のうち、学習者がデジタル時代に必要な知識やスキルの発達を助ける見込みが高いものを、教員の視点から読者が特定できるようにすることでした。このような判断を下すために必要な情報や道具が全て出揃うのは以降の章を読んだ後になりますが、学習者の性質、事前の知識や経験、扱う分野・内容で求められること、教員や学習者が置かれている制度的な状況、学習者が将来的に従事するであろう仕事の場面など、様々な要因を考慮しながら判断することになるでしょう。しかし少なくとも現時点で判断できることがあります。
まずは以下のような、必要とされる様々なスキルを区別できるようになります。
また、指導内容の観点からも、学習者に情報をただ伝達するような教え方ではなく、学習者が情報や知識を活用できるように教える必要なことも分かるでしょう。
教員には気をつけておくべき重要なポイントがあります。
デジタル時代においては、演習形式や徒弟制というような、ある特定の教育方法を選ぶだけでは不十分なのです。また、伝達形式の講義や演習形式というような方法だけでは十分な学習環境とは言えず、対象領域の中で必要なスキルの全てが伸ばされるということは考えにくいでしょう。学習者がスキルを伸ばすために必要なことは、場面と関連があり、練習やディスカッション、フィードバックの機会を含むような、豊かな学習環境を提供することなのです。その結果、様々な教育方法を組み合わせることになるのです。
本章では主に教室、つまりキャンパス中心の教育へのアプローチに焦点を当てましたが、次章ではオンライン・デジタル技術を組み入れた様々な教育方法を検討していきます。ですからこの時点で、演習形式、徒弟制、あるいは養育的アプローチのようないずれかの1つの方法が、デジタル時代に必要な知識やスキルを伸ばすのに最良の方法であると結論づけるべきではないでしょう。同時に、これまで主たる教育方法として採用されてきた伝達型の講義形式の限界が、より一層明らかになってきています。
教室あるいはキャンパス中心の教育方法について、本章で扱った内容は、完全かつ包括的なリストを意図してまとめたわけではありません。様々な教育方法があり、いずれも特定の状況の中では合理的であるということを示すのが目的です。指導者は、その時に扱う内容と、その時の学習者のニーズの両方に応じて、様々な方法をうまく組み合わせながら利用するのが普通でしょう。それでも本章で示したような様々な教育方法の比較検討から、以下のような主要な結論をいろいろと導くことができます。
この章を読み終わると、以下のことができるようになります。
加えて、この章には以下のアクティビティーが含まれています。
ラルフ・グッドイヤーはアメリカ中部の公立の研究大学に勤める歴史の教授である。彼は72名の学部生が受講しているHIST 305「歴史的研究方法論」の授業を担当している。最初の3週間、以下のような話題・内容で15分のビデオ講義を行なっていた。
学生たちはラルフが示したスケジュールにしたがって動画をダウンロードした。最初の3週間で学生たちが課されていたのは次のような内容である。
1) 週に2回ずつ1時間のクラスに出席し、事前に視聴した動画に基づくテーマでの議論を行うこと。
2) 教授が関連する話題を投稿するので、大学の学習管理システム(LMS)のディスカッション・フォーラムで、オンラインのディスカッションを行うこと。
3) 成績認定のため、それぞれの話題について少なくとも1回、オンラインで有益な議論を行うこと。
4) よく知られている歴史的研究方法論に関する教科書を読むこと。
4週目、ラルフは学生たちを6名ずつ、12のグループに分けた。そしてそれぞれにアメリカ国外のいずれかの都市の過去50年ほどの歴史について調査するよう指示した。学生たちは大学図書館の所蔵物はもちろん、オンライン素材による新聞記事、画像、調査報告書など、見つけた素材なら何でも含めて良いということにした。また、レポートをまとめる際、以下の条件に従うことを義務付けた。
学生たちは一連の作業を行うために5週間を与えられた。
最後の3週間では、それぞれのグループが口頭発表し、教室内とオンラインで補足説明・討論・質疑応答を行うことになっていた。教室内での口頭発表は録画され、後でオンライン上でも利用できるようになっていた。そして科目の最後では、学生たちが他のチームを評価することになっていた。ラルフはそれぞれの学生による評価を考慮しながら、理由を添えて点数を調整することにしていた。また、それぞれの学生にも、グループごとの点数と教室内やオンラインでの討論参加の度合いに基づいて個々人の成績をつけた。
ラルフは学生たちが仕上げた課題の品質の高さに対し、驚いた、そして満足しているとコメントした。「私が気に入ったのは、学生たちが歴史について学ぶのではなく「歴史的研究」を行なっていたことだよ。」
事実に基づきますが、若干の脚色を加えています。
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オンライン学習は教室・キャンパス中心の教育において、ますます影響を強めてきていますが、とりわけ重要なことは、教育や学習における新しいモデルや設計を先導しているということです。
最初の商業映画が世に出た時、それまでの歌やダンス、パントマイム、漫才、曲芸などの軽喜劇をスクリーンに転じただけのものでした。その後、D.W. Griffith の Birth of a Nation によって映画のデザインは変化し、当時のシネマでは独自の技術、例えば全景ショットや画面のパン、戦闘シーン、いわゆる特撮などの映像効果などが取り入れられてきました。
同じような発展がオンライン学習においても生じてきています。最も初期の頃には2つの独立した影響が生じていました。教室での教育に由来するデザインと、紙教材やマルチメディアを用いた遠隔教育の流れを受け継いだデザインです。しかし時が経つにつれ、オンライン学習に特有の性質を十二分に活用した新しい教育デザインが誕生してきました。オンライン教育への移行には学習環境の変化を伴います。さて、ここからは教育手法に関する話から、教育デザイン、すなわち教育手法をどのように学習環境へ適応していくかということについて述べていきますが、これは教室でもオンラインでも同じなのかもしれません。
まずは教室での教育方法に関して、かつての姿から少しずつテクノロジーを取り入れていき、最終的に教育設計の原則論につなげていきましょう。歴史あるものから学べることもあるはずです。
授業を自動的に録画する技術は、もともと普段から授業に出ている学習者に対し、オンラインで授業をいつでも繰り返し閲覧できるようにし、教室での学習を強化するという目的から生まれたものでした。つまり宿題や復習のためのものだったというわけです。
録画された講義を自分たちで閲覧し、その後の授業においてディスカッション等でフォローするという反転授業の形式も、同様の意図で開発されていますが、授業設計者にとって、録画授業による最も大きな影響は、Coursera や Udacity、edX などが提供する大規模オンラインコース(xMOOCs)でした。しかし、このような MOOC であっても実際は教室での授業設計モデルが基本となっています。MOOC と教室との主たる違いとしては、(実質的には大学の多くの授業もそうですが)MOOC は誰にでもオープンであり、MOOCs は無制限に、かつ遠隔地から受講可能であることが挙げられます。これらは重要な違いではありますが、MOOCs の研究成果の一部として多くの授業が細かく分割されて録画されるようになったということはあっても、授業設計としては著しく変わったわけではありません。
学習管理システム (LMS) は、パスワードで管理されたオンラインの学習環境に教師や学習者がログインして学習することを可能とするシステムです。例えば Blackboard や Desire2Learn、Moodle のような、ほぼ全ての LMS は実際には教室設計モデルを再現してきました。例えば、週単位でのモジュールがあり、教員はクラス内の学習者に対して同時に教材を提示できます。大勢の受講者がいる場合はそれぞれにつく指導者単位での小グループに分けられ(オンラインでの)ディスカッションの機会が与えられ、学習者はほぼ同じペースで教材を用いて学習し、最後にテストやレポートによる評価があります。
現在では動画や音声も LMS に導入されつつありますが、教室での講義と比較した場合、教材設計上の大きな違いとしては、話し言葉ではなく書き言葉で、オンラインディスカッションは同期ではなく非同期で、コース教材はいつでもどこでもインターネットを通じて閲覧できるという点が挙げられます。これらは実際の教室と比べると重要な違いであり、熟練した教員であれば、教室での授業で行なっているように LMS を導入したり、自らの教育方法や学習目標に合うように調整したりすることもできます。そして LMS の運用の基本的な方針は実際の教室と同じです。
しかし残念ながら LMS を使った授業でも、単に事前に録画した動画をインターネットに掲載したり、PowerPoint で作成した講義ノートの PDF を載せたりするといった、多くのオンラインプログラムと同様の形でのオンライン授業設計で進んでいます。LMS は従来の教室型の授業設計を超えるための柔軟性も兼ね備えており、これこそが重要なのですが、良いオンライン授業の設計はオンライン学習者ならではの特別な要求にも応える必要があり、このような視点からも教室型の設計とは異なる設計が必要となります。
古いワインはボトルが新しかろうが古かろうが、良いものであり続けます。ここで問題となるのは、教室型の設計がデジタル時代での変化に適応するか否かです。しかしテクノロジーを付け加えたところで、あるいはオンラインで従来と同じ設計を取り入れたところで、その結果は自動的に必要とされる状況に変化するわけではありません。
つまり新しいテクノロジーの教育的な側面につながる設計をじっくりと見据えることが重要です。なぜなら教育設計をかなり変更し、テクノロジーのもつ特徴を十二分に引き出すことができない限り、物理的な教室での授業を模倣しようとして、結果的に劣ってしまうことになるからです。もし MOOCs で行われているような講義の録画や、コンピュータによる多肢選択クイズのような新たなテクノロジーが、結果的に多くの学生の記憶を高めたり、学習効果を高めることにつながったとしても、デジタル時代に求められる高度なスキルには不十分かもしれません。
また、単に新しいテクノロジーを教室型の設計に加えるだけでは、最終的な結果を変えることができず、技術的な面、教員の時間的な面のそれぞれにおいて、コストだけを高めてしまう可能性もあります。
しかし最も重要な理由は、オンラインで学んでいる学生は、教室とは異なる学習環境で学んでいるので、教育設計もそれに合わせる必要があるということです。このことは本書の残りの部分でも十分に議論していきます。
新しいテクノロジーが最初に使われる場合、教育においても例外なく、独自の可能性が見定められるまでは従来型の教育設計の焼き直しとなります。しかしデジタル時代におけるニーズや、新しいテクノロジーに秘められた独自の特徴を教育に有効活用しようとしているのであれば、そのための基盤的な教育設計モデルの変更が必要となるでしょう。
他にもオンライン教育の設計に影響を与えたものとして、軍隊での教育や遠隔教育で用いられていたものがあります。
ADDIE に関して書かれた書籍は多数あります(Morrison, 2010 や Dick and Carey, 2004 などを参照)。ADDIE とは以下のものを意味しています。
E-LEARNING の実施にあたって:公認研修の体系化のための道具一式
左上から時計回りに
PREPARATION(事前準備)どのように実施するか、誰が実施主体となるかプロジェクトの目標
ANALYSE(分析、予算の10%)
DESIGN(設計、予算の36%)
DEVELOP(開発、予算の35%)
IMPLEMENT(実施、予算の4%)
EVALUATE(評価、予算の7%)
ADDIE はテクノロジー基盤型教育の設計のために、専門家として活躍するインストラクショナル・デザイナーの多くが用いています。ADDIE は紙ベースであれ、オンラインであれ、質の高い遠隔学習の設計のための基準として使われてきました。また、企業における eラーニングや研修でも広く活用されています。ADDIE には様々なバリエーションがあります。私が好むのは「PADDIE」であり、Planning または Preparation が最初に加わります。このモデルはぐるぐると回るように利用されるものであり、評価の結果が次の分析に、さらに設計や開発の改善へと繋がっていきます。ADDIE が広く利用されている理由の1つには、このモデルが大規模で複雑な教育設計にも利用できる点があります。ADDIE の起源は第二次世界大戦の時、ノルマンディー上陸作戦における非常に複雑な作戦を遂行するために開発されたシステム設計に遡ります。
多くのオープン大学、例えばイギリスのオープン大学(以下、OU)やオランダのOU、カナダのアサバスカ大学やトンプソン・リバース・オープン大学などは、複雑なマルチメディア遠隔教育のコースを運営するために、ADDIE を今でも広く活用しています。20,000人の入学者とともにイギリスで OU が開かれた1971年当時、OU はラジオ、テレビ、特別に設計された印刷教材、教科書、論文の別刷などの教材が課題図書として学生に郵送で届けられ、20名ほどの大学関係者、メディア作成者、コース作成のためのテクノロジー支援スタッフ、大勢のチューターや上級カウンセラーによる学習支援の配信などを含めた学習グループが地域別に用意されました。2年間におよぶコースの作成と運営には、組織的なインストラクショナル・デザインなしでは不可能でした。2014年時点では200,000人以上の学生を抱えていますが、今でも OU は強力なインストラクショナル・デザインのモデルを使っています。
ADDIE とインストラクショナル・デザインのモデルの起源はアメリカですが、イギリスの OU が高品質な教材を開発することに成功したという事実は、他の多くの施設における遠隔教育で、小規模なスケールの ADDIE の利用に影響を与えてきました。さらに言えば、1人の教員と1人のインストラクショナル・デザイナーだけでも利用できます。少しずつ遠隔教育のオンライン化が進んできてからも ADDIE は存続しており、多くの教育機関で、インストラクショナル・デザイナーたちは大規模講義、ブレンド型学習、完全オンラインのコースなどの再設計に今でも利用されているのです。
これだけ成功してきた理由の1つは、良質な設計と密接に関係していたからでしょう。つまり明確な学習目標があり、入念に構造化された教材コンテンツがあり、教員および学生の実施プロセスのコントロールが可能で、メディアが統合され、関連性の高い学習者の活動があり、理想とされている学習目標とその評価が強く結びついているなどの諸要素です。これらの要素の中には ADDIE に取り入れられるものもあれば、取り入れられないものもあるのですが、ADDIE は体系的かつ綿密に連携させて導入することができる設計原則です。また、質の高い多くのコースを設計・開発する際の有益な管理ツールです。
ADDIE はどのようなサイズの教育にも利用できますが、巨大で複雑なプロジェクトほど適しています。少人数のコースや、単純あるいは伝統的な教室での授業設計に ADDIE を利用する場合、1人の教員の利用を妨げる要因は特にありませんが、コース設計やコース運営にかかる費用がかさんでしまったり、かえって余計なものになってしまいます。
ADDIE に関する2つ目の批判としては「着手のための大量の荷物」とも言えるほどに設計や開発に重きが置かれており、コース配信時の教員と学習者の間のやり取りがさほど重視されていないという点が挙げられます。このため構成主義者からは学習者ー教員間の相互交流に注意が十分に払われておらず、行動主義的な教育アプローチが重視されていると批判されます。
他に、5つの段階それぞれに関しては分かりやすく記載されていても、それぞれの段階でどのような意思決定をしていくべきかについての説明がないという批判もあります。例えば、異なる技術をどのように選ぶのか、どの評価手法を選ぶべきなのかといった運用基準や手順は提示されていません。教員が意思決定をするにあたっては、ADDIE 以外のところで判断する必要があります。
ADDIE を必要以上に勧めることは、結果として非常に複雑な設計となってしまい、教員、インストラクショナル・デザイナー、編集者、Web デザイナーなどが関与する必要性から、実際に配信できるまでに2年近くかかってしまうといったことも起こりえます。設計や運用体制が複雑になればなるほど、コスト的に超過してしまう可能性や、プログラミングにかかる費用が非常に高額になってしまうこともあります。
私が主に批判するのは、このモデルがデジタル時代にとって全く柔軟性にかけているという点です。教員はどれだけ速く、新たに開発される教材コンテンツや、新しいテクノロジー、日々開発されるソフトウェアに気を配りながら、常に変化する学習者の能力に対応しているのでしょうか。ADDIE はこれまでよく使われてきましたし、教育や学習のための良い設計の礎となってきましたが、多様な変化を伴う学習コンテンツを扱うにあたって、あまりに予定調和的で連続的なものであり、柔軟性にかけるモデルとなってしまっています。より柔軟な設計モデルについては4.7節で扱います。
Dick, W., and Carey, L. (2015). The Systematic Design of Instruction. New York; 8th edition Pearson
Morrison, Gary R. (2010) Designing Effective Instruction, 6th Edition. New York: John Wiley & Sons
学習に対する構成主義の手法とインターネットの発展が同時に発生したことにより、構成主義的な特徴を持つ新しい教育方法が次第に作られてきました。従来は「コンピュータを介したコミュニケーション」(CMC) や「ネットワークによる学習」と呼ばれていましたが、Harasim(2012) は「オンライン協調学習理論」(OCL) と名付けました。Harasim は OCL について、以下のように述べています。(p.90)
OCL の理論は学生がともに励ましあい、支援しながら知識の習得を目指すための学習モデルを提示します。ここでいう知識とは、発明や新しい方法を作り出す方法の探究であり、そのことを通じて課題を解決するために必要となる構造化された知識を探求することを意味します。そのため、正解と考えられる内容を丸ごと暗唱するような学習とは異なります。 OCL の理論では学生が活動的になり、相互に関わり合うことを奨励していきますが、学習や知識の構築にとって、この方法で十分であるとは考えてはいません。(中略)OCLの理論では、教員は学習者に対するフェローではなく、知識コミュニティや、その専門領域における最先端の研究に繋げる役割を担います。学習は概念の取り替えであると定義され、知識を構築ための重要な鍵となるものです。学習活動はその専門領域における規範、概念の学習を強調する対話のプロセスによって示され、導かれる必要があります。そして知識が構築されるのです。
OCL は認知的発達に重点を置く「対話による学習の理論」(Pask, 1975) や「深い学びの状態」(Marton and Saljø, 1997; Entwistle, 2000)、「学術的な知識の発達」(Laurillard, 2001)、「知識の構成」(Scardamalia and Bereiter, 2006) の諸理論を土台とし、これらを統合して作られています。
オンライン学習の初期の頃は、インターネット上でのコミュニケーションとして実現可能なことを重要な研究課題としている教員もいました (例えば、Hiltz and Turoff, 1978) 。彼らの教育手法は学生同士または学生と教員との間で行われる、主に非同期のオンラインでのディスカッションによって次第に知識が構成されていくという考え方に基づいていました。
オンラインでのディスカッション掲示板は1970年代に遡ります。しかし1990年代の World Wide Web の誕生、高速なインターネット・アクセス、そして現在ではほぼ全てにおいてオンライン・ディスカッション機能を持っている LMS の開発が組み合わされた結果、実際に使われ始めたと言えるでしょう。そして、このようなオンライン・ディスカッション掲示板について教室でのセミナーと比べると、いくつかの違いがあります。
Harasim は対話を通じて知識構築を行うための3つの段階の重要性について強調しています。
Harasim はこの段階を「最終段階」と呼んでいますが、実際にはこの段階が本当の意味で最後になることはありません。なぜなら学習者にとって、ひとたびアイデアの収集、整理、収束が行われはじめると、さらに深いレベルまでその流れが継続していくことになるからです。この段階における教員の役割は重要であると考えられています。それは学習を促進させるためのプロセスの進行、適切な学習素材の提供、学習者の学びに自信を持たせる活動だけにとどまらず、知識コミュニティやその科目領域の代表者として、その領域で核となる概念、実践、基準、原則が学習サイクルの中に完全に統合されているかどうかを確認しなければなりません。
Harasim はこのプロセスを次の図で提示しています。
別の重要な要素として、OCL モデルにおいては、ディスカッション・フォーラムは教育のための重要な構成要素であり、教科書や動画講義、LMS に掲載される文字情報を補足するために用いるような副次的な付け加えというような位置付けではないということです。教科書や課題図書、他の学習素材もディスカッションを促進するために選ばれることはありますが、その逆になることはありません。これは重要なデザイン上の原則であり、「伝統的な」オンラインコースにおいて学生がディスカッションに参加しないという教員からの不平不満がなぜ発生するを説明するためにも使われます。多くの場合、オンライン・ディスカッションは講義内容と比べると二次的に利用されるものであったり、その運用や設計において知識構築を支援することが念頭に置かれていないことが原因となります。そのため学習者はディスカッションについて、オプション的な位置付けや追加課題としてしか捉えることがありません。なぜなら彼らにとって直接的な成績や評価への影響が見えてこないからです。このことはディスカッション・フォーラムに参加することで評価を与えるということが的外れであることの説明ともなります。ディスカッションに参加することが外発的な動機であってはならず、ディスカッションに内発的な動機によって参加しなければならないからです。(例えばBrindley, Walti and Blashke, 2009 を参照)
探求の共同体モデル Community of Inquiry Model (CoI) は OCL モデルにある程度、似通っています。 Garrison, Anderson, Archer (2000) は以下のように定義しています。
教育的な意味をもつ探求の共同体とは、個人の集合であり、目的のある対話の中で一人一人がお互いを批評しながら高めあっていきます。そして、一人一人が自分自身の趣旨を築き上げ、相互理解の承認を通じた省察を行なっていきます。
Garrison, Anderson, Archer は探求の共同体には以下の3つの重要な要素があるとしています。
しかし CoI は設計というよりも理論に近いものです。それは3つの影響力に対してどのような活動や状態が必要となるかを示していないからです。OCL と CoI の2つのモデルは競争しあうものというより、むしろ相補的なものなのでしょう。
CoI の原典が2000年に出版されて以来、とりわけオンライン学習に関する3つの「影響力」の重要性を指摘する非常に多くの研究が行われています。どのようなものがあるかについてはこちらをクリックしてください。幅広い領域の研究者や教育者がオンライン協調学習や探求の共同体の研究に注力してきており、成功に導くための方略やデザイン原則について、高い次元での見解の集約と賛同がなされています。学問的・概念的な発展に向けて、ディスカッションは教員の手で効果的に管理運営する必要がありますし、学生がアイデアを発展させながら新しい知識を構成できるようにするため、教員は十分な支援を行う必要があります。
このような研究成果の一部として、そして OCL にも CoI にも影響を受ける必要性のなかったオンライン教育の指導者たちによって、以下のようなデザイン原則が(オンライン)ディスカッションの成功と関連づけられてきました。
これらの問題については、Salmon (2000)、Bates and Poole (2003)、Paloff and Pratt (2005; 2007) でより深く議論されています。
学生は様々な期待や背景を持って学習を経験するために集まります。その結果、ディスカッション主体の協調学習に参加しようとすると、学生間でしばしば文化的な違いが生じることがあります。最終的にこのことが原因となって、伝統的な学習・教育の手法よりも教育効果が相当低くなってしまう場合もあるでしょう。教員は言語、文化、認識論の点で困難を感じている学生に気を配る必要がありますが、オンラインのクラスでは学生はどこからでも参加することができるため、なおさら重要な課題となります。
多くの国では教師の権威に重きが置かれており、教師から学生への情報伝達としての教育が行われています。文化圏によっては、教師の意見に対して批評したり異を唱えることは失礼であると判断されるところもあります。場合によっては、他の学生に対する批評であっても失礼になってしまうかもしれません。教師が主体となる権威主義的な文化においては、他の学生の意見は無関係なものであり、全く重要視されないこともあるでしょう。一方で、文化によっては直接的な指導を行うのではなく、口承によって物を伝えることに重きをおくところや、物語に沿った形での教育が重視されるところもあります。
そのため、オンライン学習活動に構成主義的なアプローチによる設計が利用された場合、学生にとっては大きな負担になることもあります。これは、構成主義的な学習アプローチに不慣れな学生に対しては特別な支援が必要となる可能性があることも意味します。例えば、クラス全体に対する投稿の前に、一度教員にメールで下書きを送らせて確認するといったものが考えられます。オンライン学習における比較文化の問題については、Jung and Gunawardena (2014) や the journal Distance Education, Vol. 22, No. 1 (2001) を参考にしてください。
教育に対してテクノロジーを用いる際の方法は千差万別であり、コンピュータ支援型学習に見られる客観主義的な利用法と、ティーチング・マシンと、これまで人間の教員が行なってきた活動の一部をコンピュータによって置き換えようという取り組みがみられる人工知能の教育利用とでは全く異なります。オンライン協調学習においては、テクノロジーの利用は教員の置き換えではなく、社会的な対話を通じて支援され構築された、知識構築に基づく特定の方法によって学習を発展させることで、教員と学生との間のコミュニケーションを増加し、改善することを目的としています。さらに、このような社会的な対話は手当たり次第によるものではなく「足場かけ」の学習になるように運用されています。
ですから、このモデルには2つの主たる長所があります
一方で、いくつかの限界もあります。
協調学習に関しては、対面であれオンラインであれ、多くの長所や短所があります。オンラインでの協調学習と、よく設計・運営された教室型でのディスカッション主体の教育とでは、ほとんど違いはないと言えるでしょう。繰り返しになりますが、配信方法は設計方法と比べると、それほど重要ではありません。実際、どちらの文脈においても有効に機能するからです。つまり同期型であれ非同期型であれ、遠隔であれ対面型であれ、実施することができます。
しかし協調学習がオンラインでも同様に実施できるということに関しては、十分な証拠があります。これは重要であり、必要に応じて、デジタル時代における多様な学習者が求める方法に合った柔軟な方法で配信できます。また、常に万能であるわけではないにせよ、オンラインの教育を成功に導くために必要な方法については、現在ではよく知られています。
Bates, A. and Poole, G. (2003) Effective Teaching with Technology in Higher Education: Foundations for Success, San Francisco: Jossey-Bass
Brindley, J., Walti, C. and Blashke, L. (2009) Creating Effective Collaborative Learning Groups in an Online Environment International Review of Research in Open and Distance Learning, Vol. 10, No. 3
Entwistle, N. (2000) Promoting deep learning through teaching and assessment: conceptual frameworks and educational contexts Leicester UK: TLRP Conference
Garrison, R., Anderson, A. and Archer, W. (2000) Critical Inquiry in a Text-based Environment: Computer Conferencing in Higher Education The Internet and Higher Education, Vol. 2, No. 3
Harasim, L. (2012) Learning Theory and Online Technologies New York/London: Routledge
Hiltz, R. and Turoff, M. (1978) The Network Nation: Human Communication via Computer Reading MA: Addison-Wesley
Jung, I. and Gunawardena, C. (eds.) (2014) Culture and Online Learning: Global Perspectives and Research Sterling VA: Stylus
Laurillard, D. (2001) Rethinking University Teaching: A Conversational Framework for the Effective Use of Learning Technologies New York/London: Routledge
Marton, F. and Saljö, R. (1997) Approaches to learning, in Marton, F., Hounsell, D. and Entwistle, N. (eds.) The experience of learning: Edinburgh: Scottish Academic Press (out of press, but available online)
Paloff, R. and Pratt, K. (2005) Collaborating Online: Learning Together in Community San Francisco: Jossey-Bass
Paloff, R. and Pratt, K. (2007) Building Online Learning Communities: Effective Strategies for the Virtual Classroom San Francisco: Jossey-Bass
Pask, G. (1975) Conversation, Cognition and Learning Amsterdam/London: Elsevier (out of press, but available online)
Salmon, G. (2000) e-Moderating: The Key to Teaching and Learning Online London: Taylor and Francis
Scardamalia, M. and Bereiter, C. (2006) Knowledge Building: Theory, pedagogy and technology in Sawyer, K. (ed.) Cambridge Handbook of the Learning Sciences New York: cambridge University Press
コンピテンシー基盤型学習は学習者がどのようなコンピテンシー(能力・適性)やスキルを身につけたいかを特定するところから始まり、学習者自身のペースで(通常は指導者の協力を仰ぎながら)完全習得できるようにします。学習者は自分たちが必要とするコンピテンシーやスキルのみを学ぶこともあります。これらは「バッジ」などの認証を得ることも増えてきていますが、履修証明や学位などの認定と結びつけることも可能です。
学習者は集団で学ぶより、むしろ個々に、大抵はオンラインで学ぶことが多いです。学習者が既にあるコンピテンシーやスキルを完全習得しており、テストなどの形でそれ以前の学習の評価がなされたのであれば、その範囲を再び学び直すことなく次のコンピテンシーレベルに進むことも可能です。コンピテンシー基盤型の学習は一般的な教室型での学習モデル、すなわち学習者が他の学習者と同じ内容を同じ速度で学ばなければならないモデルとは全く異なるものを目指しています。
実践的あるいは職業上必要となるスキルやコンピテンシーを身につけるという点において、コンピテンシー基盤型学習の価値は明らかですが、より抽象的であったり学問的なスキルを身につけたりする教育の場面でも徐々に使われるようになっており、時には集団で学ぶコースや専攻プログラムにおいてもコンピテンシー基盤型教育が使われるようになっています。
米国の Western Governors University は4万人近い学生を抱える、コンピテンシー基盤型学習の先駆者です。しかし教育省の支援により、米国では近年ますますコンピテンシー基盤型学習が盛んになってきています。他にコンピテンシー基盤型学習に力を入れているのは Southern New Hampshire University、 成人や雇用者向けに設計された College for America、Northern Arizona University、そして Capella University などです。
コンピテンシー基盤型学習は特に人生経験のある成人学習者で、型通りの教育や研修を受けることなくコンピテンシーやスキルを高めてきた人たちに適しているかもしれません。例えば、学校や大学を中退してしまった後で学びの環境に戻ろうと希望していながらも過去の学びは認めてもらいたいという人たちや、何らかの特別なスキルのみを学習したいと考えている人たちには向いているでしょう。コンピテンシー基盤型学習は大学のプログラムを通じて提供されることもありますが、完全オンラインとしての提供が増えています。なぜなら、このようなプログラムを学びたい学生の多くは既に仕事に就いている、あるいは仕事を探している状態にあるからです。
様々な手法がありますが、Western Governor のモデルは多くの重要なステップを示しています。
多くのコンピテンシー基盤型プログラムの特徴は、雇用者と教育者との間で共同で行われる、高い次元で達成するにはどのようなコンピテンシーが必要なのかを特定する作業です。この一部は第1章で見てきましたが、問題解決や批判的思考などは、高い次元の例として考えられるかもしれません。コンピテンシー基盤型学習では抽象的で漠然とした目標を、具体的で測定可能なコンピテンシーに分割していくことに挑みます。
例えば、Western Governors University (WGU) ではそれぞれの学位について、大学評議会は高い次元のコンピテンシーの組み合わせを定義し、契約を締結した各分野の専門家によるチームが、特定の能力に関する10領域程度の高次元のコンピテンシーを選び、さらにそれらを30領域程度のコンピテンシーに分解し、これら1つ1つのコンピテンシーが達成できるようなオンラインコースが組まれていきます。それぞれのコンピテンシーは、その修了者が職場で専門家として知っておくべきことや、そのキャリア形成に役立つような内容に基づいて設計されます。学位は30領域のコンピテンシーが全て達成された時に授与されることになります。
学習者や雇用者のニーズに合う、いろいろな意味で少しずつ進んでいき(直前のコンピテンシーに基づいており、順番に学んでいく発展的なコンピテンシーになっている)、首尾一貫する(全てのコンピテンシーを達成することで、ビジネスや職業として求められる知識やスキルが完成する)コンピテンシーを定義することは、おそらくコンピテンシー基盤型教育において最も重要で、最も難しい部分となります。
WGU では、第三者が作った既存のオンライン・カリキュラムや、出版社との契約に基づいて電子教科書のような素材を利用しながら、自校の専門家チームがコースを作成します。また、無料で利用ができる教育用素材の利用が年々増加してきています。WGU では LMS を利用していませんが、各コースに対して特別にデザインされたポータルサイトを活用しています。電子教科書は追加費用なしで学生に提供される契約が WGU と出版社との間で交わされています。科目群はそれぞれの学習者のために事前に決定されており、選択科目はありません。毎月、新しい学生が入学しており、自分たちのペースでそれぞれのコンピテンシーに向けて学んでいきます。
既にコンピテンシーを習得している学生に対しては、2つの方法で専攻プログラムを短縮しても構わないことになっています。1つは既に関連領域で獲得している適当な分野(一般教育、作文技術など)の単位を振り替えるという方法です。もう1つは準備が整ったと考えるタイミングで試験を受けるという方法です。
これも施設によって異なります。WGU では約750名の学習支援者を雇用しています。学習支援者には「学生支援者」と「コース支援者」がいます。学生支援者は、その学習項目に対して何らかの学位(多くの場合は修士号)を有しており、少なくとも2週間に1回、それぞれの学習者のコース学習の進捗管理を行いながら、それぞれの学習者に電話で連絡します。学生支援者は学習者の主な連絡相手となります。1人の学生支援者は約85名の学習者を受け持ちます。それぞれの学習者は最初の日から学習支援者と共に学びを開始し、卒業までその関係を続けます。学習支援者はそれぞれの学習者の進度の決定や学習の支援を行い、困難を感じている時には手を差し伸べるという役割があります。
コース支援者には通常、高度な学位が必要であり、多くの場合は博士号を有しています。コース支援者はそれぞれの学習者が必要な時には、さらに手助けをします。学習テーマにも依存しますが、コース支援者は1人につき約200〜400名の学生を受け持ちます。
それぞれの学習者は学生支援者やコース支援者にいつでも(何度でも)連絡することができます。学習支援者は通常業務日の間は学習者からの連絡に対応することを求められています。学習支援者はフルタイムの勤務ですが、フレックス制であり、通常は自宅からの業務となります。学習支援者は比較的給与が良いのですが、学習支援のための徹底的な訓練を受けています。
WGU はレポート、ポートフォリオ、プロジェクト、学生のパフォーマンス観察、そしてその科目にふさわしいコンピュータ採点による課題を、詳細なルーブリックと共に用いています。評価はオンラインで提出され、人の目による確認が必要であれば、認定された評価者(WGU が評価する研修を済ませた専門家)がランダムに割り当てられ、合否判定を行います。もし学生が不合格であった場合、評価者はどの領域でコンピテンシーが不十分であったかのフィードバックを行います。学生は必要であれば課題の再提出を行うこともできます。
学生は事前の評価としての形成的評価、および試験監督のもとで行われる総括的評価との両方を受けることになります。WGU ではオンラインでの監督つき試験も増加しており、動画での個人確認のもと、自宅から試験を受けても構わないことにしています。この場合、顔認識の技術によって登録された学生が受験していることを確認できるようにしています。教育や医療の分野では、学生の実技や実践を現場で専門家(教員、看護師など)が評価します。
コンピテンシー基盤型教育の支持者たちは以下のような数々の長所を提示しています。
そのため、WGU、University of Southern New Hampshire、Northern Arizona University など、コンピテンシー基盤型を少なくとも一部において利用している大学では年30〜40%の入学者増が見られています。
主な短所としては、学習環境によってはうまく機能しないことがあるという点です。
コンピテンシー基盤型学習は学習デザインにおいても比較的新しい取り組みですが、雇用者の間では一般的になってきており、例えばスキルの再習得を求めている成人学習者や、中間管理職に就きたいと考えていて、なおかつスキル目標が比較的手の届くところにあるという成人学習者にとっては適していると言えます。一方、コンピテンシー基盤型学習は全ての学習者に適しているわけではありません。高度な職業、抽象度が高い知識、創造的な問題解決、意思決定、批判的思考が求められるスキルなどの育成においては限界があります。
この箇所を執筆した際には、コンピテンシー基盤型学習に関する文献や研究について、他の教育手法と比べて文献が非常に少ない状態でした。コンピテンシー基盤型学習は近年になって発達してきた分野であり、初期の頃は訓練に重点を置いた手法となっています。このような理由により直近の文献を参照するには限界がありました。この分野についてさらに理解を深めるためには、以下の文献が参考となります。
Book, P. (2014) All Hands on Deck: Ten Lessons from Early Adopters of Competency-based Education Boulder CO: WCET
Cañado, P. and Luisa, M. (eds.) (2013) Competency-based Language Teaching in Higher Education New York: Springer
Garrett, R. and Lurie, H. (2016) Deconstructing CBE: An Assessment of Institutional Activity, Goals and Challenges in Higher Education Boston MA: Ellucian/Eduventures
Rothwell, W. and Graber, J. (2010) Competency-Based Training Basics Alexandria VA: ADST
Weise, M. (2014) Got Skills? Why Online Competency-Based Education Is the Disruptive Innovation for Higher Education EDUCAUSE Review, November 10
The Southern Regional Educational Board in the USA has a comprehensive Competency-based Learning Bibliography
教育設計を進める際には多くの場合、複数の学習理論を組み合わせることになります。実践共同体には経験学習、社会構成主義、結合主義などが含まれており、学習理論を厳格に分類することの限界を示しています。実践はますます複雑になる傾向があります。
自分たちの関心事や情熱を共有している人の集まりであり、定期的な交流を通じ、その内容をより良くできるよう学んでいくためのもの。
Wenger, 2014
実践共同体の背景にある考え方は非常にシンプルです。それは「私達はみな、日常生活の中で、自分たちを認識できるコミュニティから学びを得ている」というものです。実践共同体はどこにでもあります。ほぼ全ての人がいくつかの実践共同体に属しています。これは同僚や仲間、専門領域や取引先、余暇、興味関心(例えば読書会など)に限りません。Wenger (2000) は実践共同体について、興味関心によるコミュニティや地理的なコミュニティとは異なり、実践の共有が含まれているものであると論じています。実践の共有とはすなわち、物事の作法が参加者の中でかなりの程度で共有されているという意味です。
Wenger は実践共同体について以下の3つの重要な特徴があるとしています。
Wenger (2000) は、個々人は実践共同体に参加することで学習しますが、より重要なこととして、集団での活動を集めることで、より新しい、より深いレベルでの知識が生まれてくるこということを議論しています。例えば、もしも実践共同体が様々なビジネスのプロセスの中心に位置するのであれば、あらゆる組織に対して非常に有益な結果を生むことになるでしょう。Smith (2003) は以下のように説明しています。
(略)実践共同体は作業に影響を及ぼします(中略)。その可能性は、変化の速い仮想経済において、歩みの遅い伝統的な階層社会に内在している全ての問題に打ち勝つためにも重要です。実践は構造化されていない問題を扱う場面でも効果的な手法として観察され、そして伝統的に構造化された領域の外へ知識を拡大していくためにも有益です。また、共同体のコンセプトは長期的に組織を拡大、発展、維持させる手段であると認識されています。
Brown and Duguid (2000) はXerox 社の現場での修理担当カスタマーサービスの営業部門を中心として成長してきた実践共同体について記しています。Xerox の営業担当者たちは朝食や昼食の時の気軽な打ち合わせで、業務上の助言や秘訣を共有しはじめました。そして Xerox 社ではこのような相互交流と創造の場に価値があることを見出し、最終的には Eureka プロジェクトとして世界中の販売員でネットワークを共有できるようにしました。Eureka データベースは100万ドルものコスト削減に寄与したと推定されています。Google や Apple のような企業においても、多くの専門家が知識を共有するための実践共同体を奨励しています。
テクノロジーは広範囲に実践共同体を支援するツールを提供しています。Wenger (2010) は以下の図で表現しています。
多くの実践共同体には決まったデザインというものはなく、いつの間にかできているという傾向があります。実践共同体には自然なライフサイクルがあり、コミュニティである必要性がなくなった時に終わりを迎えます。しかし現在では、実践共同体の有効性を維持し、改良するにはどのようにしたら良いかについての理論や研究がたくさん行われています。
実践共同体の究極的な成功は、コミュニティの構成員自身による活動によって決定づけられるものですが、Wenger, McDermott and Snyder (2002) は、効果的かつ持続的な実践共同体を生み出し、特にコミュニティの運営に関与するための7つの重要な原則を発見しています。これによると実践共同体の設計者には、以下が求められます。
そのコミュニティがうまくいくことを保証し、また、共通の関心領域から大きくぶれることなく構成員の興味に合う形に少しずつ重点を置くように変化していくことを保証することが求められます。
実践共同体の内から外に向かう「新たな論点の紹介と話し合い」、そして外から内に入ってくる「新たな論点の導入と話し合い」の両方を促します。
この全てが参加できるようなコミュニティにしましょう。
(1) 最も積極的で中心的な参加者
(2) 定期的に参加しているが積極的には貢献せず先導的な立場は取らない参加者
(3) おそらく大多数でコミュニティの周辺から自分たちが深く関与できる活動や話し合いが行われる時だけの参加者
公的な場での話し合いと同じように、より私的な個人またはグループでの活動を奨励することで、実践共同体は強化されます。例えば、個人単位で活動についてブログを書くこともあるでしょう。また、小規模なオンライン・コミュニティで生活区域や職場が近い者たち同士が非公式に対面で会う機会を設けようとするかもしれません。
意見や話し合いを通じて、コミュニティに最も価値を与えるものは何であるかを明確に突き止めようとする試みを取り入れるべきです。
共通の関心事や物事の捉え方に重点を置くだけでなく、話し合いや行動のために、大胆な視点や挑戦的な視点を取り入れると良いでしょう。
参加者の時間的制約や興味関心が許す範囲の中で、参加者を定期的に結びつける活動や重点項目を決めておくことが求められます。
その後の研究において、実践共同体の参加者に効果を与える、いくつかの決定的な要因が見つかっています。その中には、以下が含まれます。
EDUCAUSEは高等教育における実践共同体をデザインし育てていくための、段階的なガイドを開発しています。(Cambridge, Kaplan and Suter, 2005)
最後に、例えば協同学習や MOOCs など、他の分野にも関わる研究が、実践共同体の設計や開発に関係する情報を与えてくれる場合もあります。例えば実践共同体は、秩序と無秩序の間でバランスが求められています。あまりに体系化されすぎているところにたくさんの参加者がいれば、何を話し合ったらいいのか、気詰まりを感じてしまうかもしれません。逆にあまりに体系化されていない場合、参加者はすぐに興味関心を失ってしまうか、当惑してしまうことでしょう。
グループやオンライン行動に関する他の知見、例えば他者を尊敬すること、オンラインでのエチケットを観察すること、話し合いの中で特定の個人が場を仕切ろうとしないことなども全て当てはまる傾向にあります。しかし多くの実践共同体では自浄能力がはっきりしていますので、運用上の規則を確立し、参加者にもその規則を守らせることは、まさに参加者自身の責任と言えるでしょう。
実践共同体はインフォーマル・ラーニングを強力に象徴するものです。実践共同体は共通の興味関心や課題に取り組んでいくために、自然に発展していきます。元来、実践共同体は公的な教育組織の外側に置かれる傾向がありました。多くの場合、参加者たちは公式な認定を求めているのではなく、日常生活での課題を解決したり、より良い方法を求めたりしています。さらに、実践共同体は特定のメディアに依存するものではありません。参加者は対面で打ち解けた場面や、職場で行われることもあるでしょう。もちろんオンラインの実践共同体や、仮想的な実践共同体に参加することもできます。
ここで示しておきたいのは、実践共同体は、変わりやすく不確実で、複雑かつ曖昧な状況を特徴とするデジタル世界においても、非常に効果的であるかもしれないということです。生涯学習に関する需要の大部分は今後、協調学習、知識や経験の共有、クラウド・ソーシング(ネット上の一般人にわずかな報酬でアイデア提供や開発業務を委託すること)などを通じて、実践共同体と自己学習が埋め尽くすことになるでしょう。このようなインフォーマル・ラーニングの提供は、赤十字、グリーンピース、UNICEF、あるいは地域政府などの非政府組織や慈善事業で、彼らが所属する領域におけるコミュニティに関わる方法を模索している団体によって行われています。
このような学習者のコミュニティは広範囲で無料で利用できるため、大学が提供する高価な生涯学習プログラムの競争相手にもなっています。このことは大学にとって脅威であり、現在の中等後教育が資格認定を独占している状況を今後も維持していくために、インフォーマル・ラーニングへの認識について、より柔軟な準備を進めていく必要性が生じてきています。
大規模かつオープンなオンライン・コース (MOOCs) は近年における重要な開発成果であり、オンラインでの実践共同体の展開に活用されてきました。MOOCs については第5章で詳細を述べていきますが、MOOCs と実践共同体との関係性についてはここで述べておく意義があるでしょう。現在、数多くみられる教授主義的な xMOOCs では、実践共同体はほとんど考慮されていませんでした。そこで使われているのは情報伝達的な教育方法であり、専門知識が少ないと考えられる学習者に向けて、専門家が情報を発信するような使い方だからです。
一方、結合主義的な MOOCs では、世界中に散らばっている専門家たちが、共通する興味・関心領域に集まってくるという理想的な形をとっています。結合主義的な MOOCs は仮想空間における実践共同体により近い存在であり、同じようなレベルの参加者との知識の共有を重視しています。
しかし現時点での結合主義的な MOOCs では、必ずしも先行研究が示している実践共同体の最良の方法を取り入れながら発展しているわけではありません。また、新たに仮想的な実践共同体を立ち上げるには MOOC 提供者の協力が必要で、MOOC のソフトウェアに対してアクセス権限を与えてもらう必要があります。
実践共同体がデジタル時代において、ますます重要になってくる可能性は大きいです。しかし実践共同体が従来型の教育の代わりになると考えるのは誤りでしょう。教育を設計する際、唯一の「正解」となる手法はありません。集団が違えば、ニーズも変わってきます。実践共同体は、生涯学習者のようなある種の学習者にとっては、既存の教育の代替になることでしょう。参加者が当該領域に関してある程度の知識を持っていれば良い成果が期待できるでしょう。そして個人的に貢献ができれば、さらに建設的な方法で議論に参加できれば、一層の効果を発揮することでしょう。このことは少なくともこれまでの考え方に基づく一般的な教育や研修で学んだ何らかのことが、うまくいっている実践共同体に参加しようとしている人々にも必要であることを示しています。
現在の世界は流動的、複雑なもので、不確実性が高く、曖昧な状況であることははっきりしています。しかしインターネットのおかげでソーシャル・メディアが使えるようになり、地球規模での知識の共有が求められる必要性が出てきました。今後、仮想的な実践共同体は一般的で、重要なものとなることは間違いないでしょう。賢明な教員であれば、特に生涯教育の場面で、実践共同体のモデルの強みをどう活かすか考えることでしょう。しかし、単に一つの興味関心の下にたくさんの人が集まったとしても、効果的な学びに繋がる可能性は低いでしょう。実践共同体のモデルを一層効果的にするためにはこれらのデザイン原則に注意を払うことが必要なのです。
1. あなたが所属している実践共同体はどのようなものか説明できますか。その共同体は成功していますか。また、本節で概観した主要な設計上の原則に当てはまっていますか。
2. 実践共同体について、あなたの教員としての仕事を支援してくれるように改良する方法は何か思いつきますか。
3. 対面でのコミュニティでは必要ではなかったもので、オンラインでの実践共同体を成功させるために特に必要なものはありますか。
Brown, J. and Duguid, P. (2000) Balancing act: How to capture knowledge without killing it Harvard Business Review.
Cambridge, D., Kaplan, S. and Suter, V. (2005) Community of Practice Design Guide Louisville CO: EDUCAUSE
Smith, M. K. (2003, 2009) ‘Jean Lave, Etienne Wenger and communities of practice’, the encyclopedia of informal education, www.infed.org/biblio/communities_of_practice.htm.
Wenger, E. (2000) Communities of Practice: Learning, Meaning and Identity Cambridge UK: Cambridge University Press
Wenger, E. (2014) Communities of practice: a brief introduction, accessed 15 July 2019
Wenger, E, McDermott, R., and Snyder, W. (2002). Cultivating Communities of Practice (Hardcover). Harvard Business Press; 1 edition.
Wenger, E., Trayner, B. and de Laat, M. (2011)Promoting and assessing value creation in communities and networks: a conceptual framework Heerlen NL: The Open University of the Netherlands
This document presents a conceptual foundation for promoting and assessing value creation in communities and networks. By value creation we mean the value of the learning enabled by community involvement and networking.
For an interesting critique of this paper, see:
Dingyloudi, F. and Strijbos, J. (2015) Examining value creation in a community of learning practice: Methodological reflections on story-telling and story-reading Seminar.net, Vol. 11, No.3
マイク:おお、ジョージじゃないか。お前が UBC (ブリティッシュ・コロンビア大学) で取ってる奇妙なコースのことをアリソンとラヴィッシュに聴かせてやってくれよ。
ジョージ:やあ、お二人さん。いやあ、すごいコースなんだよ。僕が受講している他のコースとは全く違っててねえ。
ラヴィッシュ:どんなコースなんだい?
ジョージ:テクノロジー企業を新しく始める方法だよ。
アリソン:一体どうしたの?あなた、教育専攻の修士課程にいるわよね?
ジョージ:うん、そうだよ。このコースでは教育で使われる新しいテクノロジーに注目しているんだけどね。それでテクノロジーを一つ選んで、会社の作り方を学ぶんだ。
マイク:ジョージ、本当かよ?じゃあ、社会主義の原理とか、公教育の重要性とかはどうなるんだい?そういうのはもう一切合切諦めて、太った資本家にでもなろうってのかい?
ジョージ:ううん、そんなのじゃないよ。このコースでやろうとしているのは、学校や大学で上手にテクノロジーを使うにはどうしたらいいかを考えることなんだよ。
マイク:でも、儲ける方法とかもやるんだろ?
ラヴィッシュ:マイク、ちょっと黙っててくれないか。おいジョージ、聴かせてくれよ。俺、興味あるんだ。実際に経営学を勉強しているからな。お前、まさか13週間で会社を作る方法を勉強しているのかい?やれやれ、ちょっと待ってくれよ。
ジョージ:どちらかと言えば起業家になる方法かな。リスクがある中でこれまでと違ったことをやったりする。
マイク:もちろん他人の金でだよな?
ジョージ:うーん、本当に君はこのコースに関心があるのかい?それとも僕に苦難を味わわせたいだけなのかい?
アリソン:マイク、ちょっと黙っててよ。ところでジョージ、もう何かテクノロジーは選んだのかしら?
ジョージ:だいたいね。このコースではほとんどの時間をかけて教育分野で利用できそうな新しいテクノロジーのことを調べて分析しているんだけど、一つテクノロジーを選んで、調査して、それをどうやって教育に活かすか計画を立てて、しかもそれを使ってどうやってビジネスにつなげるかを考えるんだ。でも僕が思うに、このコースの本当の目的はどうやってテクノロジーで教育や学習を改善したり、変えたりできるかを考えることじゃないかなあ。
ラヴィッシュ:それで、一体どんなテクノロジーを選んだのかい?
ジョージ:ラヴィッシュ、そんなに結論を急ぐのは良くないよ。このコースでは2つの軍隊風の基礎訓練があってね、一つはエドテック市場の分析、もう一つは起業するための能力、つまり起業家になるためにはどうしたら良いかを知ることなんだよ。マイク、どうして笑ってるんだい?
マイク:お前が戦闘服を着て、砲火の下を這い回りながら、それでいて手には本を持っているなんて笑えるな。
ジョージ:まさか、そんな軍隊風の基礎訓練じゃないよ。完全にオンラインなんだ。先生が最初にいくつかテクノロジーを示してくれるんだ。でも多すぎて、あっという間に制限時間が過ぎてしまうぐらい次々と出てきてね、何を調査するかほとんど時間がないんだよ。そこでみんなで協力し合うんだ。多分これまで50種類以上の製品やサービスを調べたはずだよ。そしてみんなで分析結果を共有するんだ。今のところ3つまで絞り込めたんだけど、近いうちに1つに決めなきゃいけない。そして YouTube でうまく宣伝しないといけない。それが成績に繋がるんだ。
ラヴィッシュ:何だって?
ジョージ:みんなでほとんどの製品を調べ終わったら、次にそれを売り込むための短い動画をYouTubeで作ることになるんだよ。どんなテクノロジーを選んだとしても、その事例を8分以内の動画にしないといけない。それで成績の25%が決まるんだ。
アリソン:わあ、それは大変ね。
ジョージ:うん。みんなで助け合ってやってるよ。試し撮りしたのをみんなで見せ合ってあれこれ意見を出し合うんだ。それで何日かしてから完成版を提出するんだよ。
アリソン:他にはどんなことで成績が決まるの?
ジョージ:25%は失読症の学習者を助けるダイバスターっていう名前の製品を分析する課題で決まるんだ。僕は主に教育的な意味での長所と短所を分析したんだけど、これは商業的にも行けると思うね。別の課題で、これも25%分なんだけど、何か一つ製品やサービスを選んで、その応用事例を考えないといけなかった。僕の場合はある製品を使って一つの単元を教えたんだ。4人のチームなんだけどね、僕らのチームは無料で使える既製のオンライン・シミュレーション・ツールを使って、とある化学反応を教える簡単なモジュールを作ってみたんだよ。それから最後の25%分は議論や課題にどのくらい貢献したかで決まるのさ。
ラヴィッシュ:何だって?自分で自分の成績を決められるのか?
ジョージ:そうじゃない。自分でやったことを全部集めてポートフォリオみたいなものを作って、それを先生に提出するんだ。それを見て貢献の度合いによって成績をつけてくれることになっている。
アリソン:でも、まだよく分からないんだけど、カリキュラムってどうなってるの?どんな教科書を読まされるの?何を知ってなきゃいけないの?
ジョージ:うん。それが2つの軍隊風の基礎訓練なんだ。でも本当はね、僕ら学生がカリキュラムを作るんだよ。先生が言うには最初の週の課題は教育に関連がありそうな新しいテクノロジーにどういうものがあるのかを考えることだってね。そして8種類の中から選んでグループを作ったんだ。これまでたくさんいろいろなことを学んだよ。インターネットでいろいろな製品を検索して分析しただけだけどね。みんな、なぜその結論に至ったかを考えて正しく説明しなきゃいけないからね。どんな教育理念を持っているんだろう、とか、どんな基準で製品を選んだり拒んだりしているんだろう、とか、これってふさわしいツールなのかな、とか。でも会社が潰れてしまったり、テクノロジーがもうサポートされなくなったりで、いい教材がなくなってしまうのは残念だよね。何よりも勉強になるのはテクノロジーの別の使い方を考えることだよ。これまで別の教え方なんて考えたことがなかったのにね。テクノロジーは人生を楽にするだけのものだと思ってたけど、このコースのおかげで本当の可能性を考えることができるようになったよ。今になって思うんだけど、学校をデジタル時代に向かって振り回すためにも、もっといい立ち位置に立てたような気がするんだ。
アリソン:(ため息)うーん、それって学部と大学院の違いってことにならない?そんなこと、もっと教育のことを知ってからじゃないと、やっちゃダメだと思うわ。
ジョージ:どうだか分からないね。たくさんの起業家が教育のためのツール開発から手を引いたようには思えないし。
マイク:ジョージ、ごめんな。俺、お前が大金持ちになるのが待ちきれんわ。じゃあ次はお前が何か飲み物を買ってきてくれるよな?
このシナリオは教育工学専攻の修士課程プログラム(ブリティッシュ・コロンビア大学大学院)に基づいて書かれています。
教員は David Vogt と David Porter で、インストラクショナル・デザイナーの Jeff Miller が支援しています。
Adamson (2012) は次のように述べています。
個々のビジネスが膨大かつ複雑であり、混乱や不確実さが相互に結合しているような世界を支えている仕組みのこと。原因と結果という連続的なプロセスが次第に関連性を失っていくため、知的労働者たちは新しい方法や解決策を考える必要がある。特に知的労働者は、変わりやすく不確実で、複雑かつ曖昧な(Adamson は VUCA 環境と呼んでいます)状況に対応する必要があります。これは確実に教員にも当てはまります。なぜなら新しい技術を活用し、様々な個性のある学習者に対応し、教育機関に対しても変化が求められるような、急激な変化を伴う世界で仕事をしなければならないからです
例えばコース設計に注目してみましょう。教員はどれだけ速く新しいコンテンツを開発し、日々入れ替わるような新しい技術やアプリに気を配り、常に変化する学習者の気質に注意し、デジタル時代に求められる知識やスキルを育成しなければならないという圧力にどのように対応すれば良いのでしょうか。変わりやすく不確実で、複雑かつ曖昧な環境においては、柔軟な思考、ネットワーキング、情報収集や分析などの抽象的な「スキル」レベルを設定しない限り、事前の学習成果を設定することさえ困難です。学習者は知識運用に関して、どこで関連する情報が得られるか、どのように情報にアクセスするのか、その情報をどのように評価し適切に利用するのか、といった主要なスキルを身につける必要があります。これは学習者に対して少しずつ知識を与えるところから始め、理解させ、練習させ、意見を求める機会を与えます。これによって知識の理解力を測定し、評価を行いながら、現実世界での問題解決に対応させていきます。
このためには、変わりやすく不確実で、複雑かつ曖昧な世界で求められる知識やスキルを学習者が身につけることができる、豊富で常に変化する学習環境を用意する必要があります。
このモデルの設計思想を表現するには困難な理由が2つあります。1つは、アジャイルな設計には唯一のアプローチというものが存在しないことです。その環境に応じて適用する方法を変えることができます。もう1つの理由は、もともと小規模な開発でのみ利用されており、過去数年間、技術やメディアの利用が容易な場面で使われきたもので、これを教員やコース設計者が元来の趣旨である標準的な設計思想ではない場面で導入し始めたのです。つまりアジャイルな設計というもの自体がまだまだ発展の途上であるということです。しかし、このことはソフトウェアの設計者たちも同様に直面してきたことです。(例えば、Larman and Vodde, 2009 や Ries, 2011などを参照)ひょっとすると教育設計において応用できる知見があるのではないでしょうか。
ここで最初に「アジャイルな」設計と、ADDIE モデルから派生したラピッド・インストラクショナル・デザイン (Meier, 2000) やラピッド・プロトタイピングとを区別しておくことが重要です。ラピッド・インストラクショナル・デザインやラピッド・プロトタイピングでは、特に企業研修におけるコースやモジュールをすばやくデザインすることができますが、設計者たちは ADDIE モデルと同じように、決まった順序で反復しながら進めていきます。ただし、この流れは ADDIE モデルよりも圧縮された流れで進みます。ラピッド・インストラクショナル・デザインやラピッド・プロトタイピングは、アジャイルな設計の一種と考えられることもありますが、以下に示すような重要な要素が不足しています。
ADDIE が100人のオーケストラで、複雑な楽譜と長時間のリハーサルを必要としているとすれば、アジャイルな設計はジャズ・トリオで、一回の演奏のために集合したら次の演奏まではバラバラになっているというものです。コースの開始前には短い準備期間しかありませんが、コースをどのように進め、どのようなツールを使い、学習者にどのような活動をさせるか、あるいは学習者をどのように評価するのか、などはコースの進行とともに決められていきます。
教える側にしてみれば、多くの場合は数人が実際の設計に関わり、普段はめったに会うことのない1~2名の教員と1名のインストラクショナル・デザイナーが、学習者からのフィードバックや学習者の進捗などを基に、コースを運営していくことになります。ただしコースの進み具合によっては、より多くのコンテンツ関係者が何らかの理由で招集されたり自発的に参加したりすることもあります。
コースで発達させようとしている中核的なスキルが変化しにくいものであったとしても、扱われるコンテンツは非常に柔軟であることが多く、湧き上がってくる興味関心や知識、それまでの学習者の経験に基づいて利用されます。例えば、シナリオEの ETEC522 に対しては、総合的な学習目標は教育の先駆者やイノベータに求められるスキルの獲得であり、これについてはコースが繰り返されても変化することなく残ります。しかし技術は急速に新しい製品、アプリ、サービスを毎年のように生み出していることから、コースのコンテンツは毎年大きく変化しています。
また、学習活動や評価の手法についても変化を受けやすくなっています。これは学習者たちが新しいツールや技術を使えるようになると、学習にも利用することができるようになるからです。学習者は自分たちでコアとなるコンテンツを探し出し、管理し、自由に使うツールを選ぶことができるということがよくあります。
アジャイルな設計は、新しいツールやソフトウェアの可能性を教育に活用することを目的としており、少なくとも時には副次的な学習目標を変えることをも意味しています。これは、技術の進化で新しいことができるようになることに伴って、学習者を育てるためのスキルも年々変化していくということを意味するのかもしれません。ここで重要なことは、新しい技術によってこれまでと同じことがやりやすくなるのではなく、デジタル世界にますます関係が深い、これまでとは異なる成果のための努力が求められるということです。
例えば ETEC 522 では、学習開始時点では LMS は利用しませんでした。その代わりに WordPress で作成された Web サイトが使われました。なぜなら学習者も教員と同様に、コンテンツを投稿していたからです。しかし他の年にはコースのコンテンツとしてモバイル学習が取り上げられていたため、コースではアプリやその他のモバイル機器が重要な要素として扱われてました。
メロディー、リズム、曲の構成といった共有された枠組みの中で多くのジャズトリオがうまくいくように、アジャイルな設計も、最も良い方法による原則によって形作られています。最も良いアジャイルな設計は「良い」教育設計の原則に紐付いており、例えば明確な学習目標の存在、学習目標に関連した評価方法、手厚い学習支援、即時的かつ個別化されたフィードバック、アクティブ・ラーニング、協調学習、そして学習者からのフィードバックに基づくコースのメンテナンスが、豊富な学習環境に含まれています(付録A を参照)。時には実験的な理由により、意図的に最も良い方法から離れた実践が行われることもありますが、コース全体にリスクに与える影響を避けて実験することから、通常は小規模な違いしかありません。
通常、アジャイルなコース設計は現実世界にぴったりと当てはまるように行われます。そして大部分、あるいは全てのコースは、登録された学習者以外にも開かれることがあります。例えば、YouTube での最新ビジネス紹介のように、ETEC 522 の多くは、そのテーマに興味のある人達に広く開かれています。これにより、起業家が新しいツールやサービスの紹介をするために、あるいは経験したことを情報交換するためにコースへアクセスしてくることもあります。
他にも、カナダの大学が開発した南米研究についてのコースの事例があります。このコースにはオープンかつ学生によって運営されている Wiki があり、それを利用して学生たちはそれぞれが立てた最近の話題についてオンラインでディスカッションを行うことができました。このコースはアルゼンチン政府が国営化しているスペインの石油会社、Repsol でも同時に積極的に利用されていました。数人の学生たちがアルゼンチン政府の活動に対して批評的なコメントを投稿したところ、翌週、たまたまこのコメントをネット検索中に見つけたアルゼンチンの大学の教授が、政府の政策を擁護する詳細な返信を行なったことがありました。その後、このトピックはコースの公式なディスカッション・テーマとして扱われるようになりました。
このようなコースは部分的にのみ公開されていることもあります。過激なテーマはパスワードで保護されたディスカッション・フォーラムで扱われ、それ以外の部分は公開されているということもあります。このような設計が繰り返し行われる中で、さらに明確な設計原則が他にも登場してくるかもしれません。
アジャイルな設計の主な長所の一つは、学習者を変わりやすく不確実で、複雑かつ曖昧な世界に備えさせることに重点が置かれているということでしょう。これは学習者がデジタル社会で求めれられる多くの特別なスキル、すなわち知識マネジメント、マルチメディアによるコミュニケーション、批判的思考、イノベーション、その領域で必要とされるデジタル・リテラシーなどの育成支援を明確な目的としています。アジャイルな設計がうまく利用されていた環境では、学習者はその教育設計が非常に刺激的で楽しいものだったということに気づいていたでしょうし、教員は熱意を持って前向きに教えることができたでしょう。アジャイルな設計では ADDIE モデルによる手法よりもコースを迅速かつ、はるかに低コストな初期投資で開発・提供することができます。
しかしアジャイルな設計は非常に新しく、先行研究も少なく、まだ評価もなされていません。コンピュータソフトのアジャイルな設計との類似点から学ぶことができるとは言え、これに関する「学校」や統一見解としての原則も存在していません。実際、アジャイルな設計の大部分は他の教育手法、例えばオンラインでの協調学習や経験学習が網羅していると論じられる可能性もあります。しかし、それぞれのコースや専攻プログラムが表面上では大きく違っていたとしても、挑戦的な教員は ETEC 522 と同じような方法でコースを設計し始めており、関連性や形状を決める基本的な設計原則には一貫性があります。(キャンパス内での利用ですが、ETEC 522 とは全く異なる他のアジャイルな設計事例としては McMaster University の Integrated Science program があります)。
確かにアジャイルな設計は教員がリスクを負う覚悟が必要ですし、成功するかどうかは、教員自身が優れた実践経験の持ち主である、または革新的かつ創造的なインストラクショナル・デザイナーによる強い支援を得ている、あるいはその両方であるということに、強く依存しています。また、アジャイルな設計思想に基づく研究成果が少ないため、これがどこまで通用するのかについては、まだよく分かっていません。例えば、この手法は比較的小規模なクラスではうまくいきますが、どのぐらいの規模までうまくいくのでしょうか。成功事例では、学習者が既に学習領域について十分な基礎知識を持っていたからという可能性もあります。それでも私はアジャイルな設計を用いた教育に期待しています。それはアジャイルな設計が変わりやすく不確実で、複雑かつ曖昧な世界で求められるニーズによく合致していると考えるからです。
Adamson, C. (2012) Learning in a VUCA world, Online Educa Berlin News Portal, November 13
第3章と第4章では様々な教育方法と設計手法を扱ってきました。これ以外にも多くの教育方法・設計手法を含めることができるでしょう。まだ扱っていないものとして例えば MOOCs がありますが、MOOCs に関連する設計方法については第5章で扱うことになります。
教育手法と、その手法に基づく授業設計は、教えようとしている場面がどのようなものであるかということに強く依存します。しかし重要な基準は、学習者がデジタル時代において必要となる知識やスキルを習得するのに適した手法・設計になっているかという点です。他に考えられる重要な尺度としては、学習領域による要求、教えようとする学習者の性格、利用可能な学習素材などが挙げられます。そして何よりも学習支援の観点で重要なものは、あなた自身が「良い教育を構成するものは何か」についての捉え方と信念です。
第3章と第4章で扱われた教育手法は一般的にそれぞれが独立しているものではありません。両者は混在することもあり、ある程度までは等しいこともあります。しかし混在させることには限界があります。考え方は首尾一貫している方が、学習者だけでなく、教員であるあなたにとっても混乱が少ないでしょう。
では、どのようにして適切な教育手法を選ぶべきでしょうか。図4.8.1 に1つの方法を示します。ここでは表の見出しにある5つを基準として選びました。
それぞれの手法は、どのような認識論に基づくでしょうか。その手法では、学ばなければならない知識の全体像について、硬直した「正しい」形として学習を設計しているのでしょうか(客観主義的)。それとも学習とは動的な過程であり、知識とは発見されるべきものであると捉えながらも、常に変化するものとして提示しているのでしょうか(構成主義的)。あるいは知識とは繋がりの中にあり、様々な解釈は結節点、すなわちネットワーク上の他人から得られると考え、知識の創造や伝達にはそれぞれの結節点で他人と繋がることが重要であるという観点なのでしょうか(結合主義的)。それとも認識論的には中立であり、同じ教育手法を様々な認識論的立場から捉えるのでしょうか。
それぞれの手法は、標準化された学習目標を採用した産業社会に役立つような学習の形態に繋がるのでしょうか。高等教育を受ける比較的少数のエリートや、社会における上位層を見極め、選び出すことに役立つのでしょうか。同じような能力を持った学習者集団に対する学習の容易な運営を可能にできるのでしょうか。
それとも柔軟なスキル開発を促進し、デジタル世界において求められる知識の効果的な管理に役立てることができるのでしょうか。新しいテクノロジーでできることを適切に教育で利用することを可能にし、支援していくのでしょうか。変わりやすく不確実で、複雑かつ曖昧な世界で、学習者が必要とするような教育支援を提供できるのでしょうか。学習者を支援して世界市民にすることはできるのでしょうか。
それぞれの手法は、深い理解や他領域への応用が可能な学習に繋がるものなのでしょうか。学習者が選んだ領域で、その専門家に成熟することは可能なのでしょうか。
それぞれの手法は、今日の多様な学習者が求めるものに合致しているでしょうか。オープンかつ柔軟な学習へのアクセスを奨励するものでしょうか。絶えず変化している環境において、教員が自身の教育手法を順応させるのに役に立つでしょうか。
これらは私の評価基準ですので、他の評価基準があっても構いません。コストや時間なども重要な要素でしょう。しかし、この表を以上のような基準で作成したのは、私自身が様々な手法や設計モデルの中でどの位置にいるのか、より良く考える手助けになるからです。手法や設計モデルを特定の基準に当てはめた時、特に重要なものには3つ星を、弱いものには1つ星をつけています。また、該当しない項目にはn/aを付けています。繰り返しになりますが、あなた自身も可能な限り、これらのモデルにランクを付けてみてください。このように表現しているのは私が構成主義者だからです。もし私が客観主義者であれば、どうしようもない評価尺度を利用することを勧めてしまっていたことでしょう。
21世紀型の学習、学術的な品質、柔軟性の3項目全てが高い評価になったのはオンライン協調学習です。経験学習やアジャイルな設計も高い評価となっています。伝達型の教育は最も低い評価となっています。これは私の好みにかなり近い評価です。しかし、もしあなたが500名を超える土木工学の1年生に教えるとしたら、評価結果は私のものとは大きく異なることでしょう。ですから図4.8.1は気づきを得るためのものとして使ってください。一般的な提案ではありません。
最後に、それぞれの手法の概観から、教育の質に関する主要な論点を簡単に述べてみましょう。
これ以外にも、議論すべき重要な教育手法である MOOCs があります。これは次の章で扱います。
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あなたの主要な課題領域とレベルを記してください。その後、以下の設問に答えてみてください。
(訳注:第5章では MOOC と MOOCs の両方が出てきます。この違いは英語の単数形・複数形によるもので、原文が Course の意味で使われている場合は MOOC、Courses の意味で使われている場合は MOOCs と訳し分けていますが、日本語では単複の区別がありませんので、どちらもほぼ同じものを指すと考えていただいて結構です。)
Massive, Open, Online Courses(大規模・オープン・オンライン・コース、MOOCs)は、高等教育のあらゆるテクノロジーの中で最も破壊的であり、それゆえ最も物議を醸しています。
この章を読み終わると、読者は
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この章では下記の項目について扱います。
加えて、この章には以下のアクティビティーが含まれています。
この YouTube 動画を観るには、画像をクリックしてください。この動画への反応を知りたい方は「Coursera スタイルのMOOCs の良いところ、悪いところ」をご覧ください。
MOOC という用語が最初に使われたのは、カナダのマニトバ大学の公開講座部門が2008年、ある講座を提供した時です。学位取得の必要単位には算入されない「結合主義と結合的知識」(CK08) は George Siemens、Stephen Downes、Dave Cormier によって設計されました。この講座は学費を払っている27名の学生が受講したほか、オンラインでも無料公開されました。教員たちが大いに驚いたのは、無料のオンライン版に2,200人もの学習者が集まったことでした。Downes はこの講座と後続の類似の講座について、その設計から connectivist(結合主義)、すなわち cMOOC と分類しました(Downes, 2012)。
2011年の秋、スタンフォード大学の2人のコンピュータ科学の教授、Sebastian Thrun と Peter Norvig は「AI(人工知能)入門」という MOOC 講座を開始し、16万人以上もの受講生を集めました。この講座に続いて、まもなく2つのコンピュータ科学の領域での MOOCs 講座を、スタンフォード大学の Andrew Ng と Daphne Koller が始めました。Thrun はその後 Udacity を、Ng と Koller は Coursera を設立しました。両社とも営利企業であり、独自に開発したソフトウェアを用いて大規模な受講生の受け入れと教育プラットフォームの構築を可能にしました。両社は他の主要な大学に報酬を支払ってパートナー契約を結び、このプラットフォームを通じて独自の MOOCs 講座を提供できるようにしました。近頃 Udacity は方向性を変え、職業訓練や企業研修の市場に注力しています。
2012年3月、マサチューセッツ工科大学(MIT)とハーバード大学は、edX という名称のオープンソースの MOOCs プラットフォームを開発しました。edX にもオンライン受講登録や授業配信の機能がありました。edX も主要な大学との間で MOOCs 配信に関するパートナー契約を結んでおり、各大学は無償で授業を edX を使って配信できますが、中にはパートナー加入のためにお金を払う大学もありました。他にも、イギリスのオープン大学による FutureLearn など、様々な MOOCs プラットフォームが開発されています。これらを通じて提供される MOOCs の大多数はビデオ講義と機械採点によるテストに基づいているため、Downes はこれらを xMOOCs と呼び、より結合主義的な cMOOCs と区別しています。
2015年3月には、全世界での MOOCx 講座の数は 4,000を超え、そのうち1,000講座がヨーロッパの教育機関によるものでした。
Downes, S. (2012) Massively Open Online Courses are here to stay, Stephen’s Web, July 20
近年、教育の世界で MOOCs (Massive Open Online Courses) の発展ほど議論を呼んでいるものはおそらくないでしょう。作家の Thomas Friedman は、2013年に New York Times 上で次のように書いています。
高等教育を改めて考えてみると、MOOCs ほど可能性があるものは他には見つからないだろう。アメリカは比較的少額のお金を使えば、エジプトの村に場所を確保して25台程度のコンピュータを設置して高速の衛星インターネット接続を導入し、地元の教員をファシリテーターとして雇い、オンライン講義を受講したいエジプト人を誰でも招くことができるのだ。世界最高レベルの教授による授業をアラビア語の字幕つきで。修了証を発行するためにほんのわずかなお金を支払うだけで、世界中の最高水準の教授による最高レベルのオンライン講義を受講して、全ての学習者が独自の学位を作り出せる日が間もなくやってくる。MOOCs は教え方、学び方、そして雇用に至る道筋を変えてしまうだろう。
他の多くの人々も、Clayton Christensen (2010) が教育の世界を激変させると論じたように、MOOCs を破壊的なテクノロジーの一例とみなしています。その一方で、MOOCs はそれほど大した問題ではなく、教育コンテンツを配信するための新しい仕組みにすぎず、教育の根幹には影響を及ぼさないと論じている人もいます。特に、デジタル時代に必要とされる種類の学びには至らないという主張です。
MOOCs は、教育の大改革に繋がると考えられる一方で、新しいテクノロジーが現れる時に、特にアメリカで頻繁に起こるような、度を過ぎた単なる誇張の一例にすぎないとも考えられるのです。私から見れば、MOOCs は重要な意味を持つ進展であると言えますが、同時にデジタル時代に必要な知識やスキルの育成を行なうには難しい限界もあると言えるように思います。
これから見ていくように MOOCs は教育設計の守備範囲をますます拡大しつつある用語なのですが、共通する特徴を持っています。
Coursera によると、設立された2011年以降の4年間で、最大規模の講座では1,200万人以上が登録し、24万人が受講したそうです。最も初期の頃の MOOCs に見られた何十万という膨大な数の登録者数は、その後の MOOCs では必ずしも同様だったわけではありませんが、それでもかなりの人数です。例えば2013年にブリティッシュ・コロンビア大学が Coursera を通じて複数の MOOCs 講座を提供したところ、最初の募集でそれぞれの講座に 25,000人から19万人が登録しています。(Engle, 2014)
しかし、このような実際の数値よりも重要なのは、MOOCs は拡張可能性が無限大であるということです。MOOCs で講座を提供している教育機関が、登録者を新たに1人追加する限界費用はほぼゼロですから、技術的には最終的な人数制限を設ける必要がないのです。とは言え、現実にはこの理屈どおりにはいきません。登録者数の増加に比例して中核となるテクノロジーやバックアップ、通信帯域といった費用が増加するので、以下で見るように MOOCs を提供する組織に連鎖的な費用が発生する可能性があります。しかし、膨大な登録者数の中では新たに1人を追加することで発生する費用が極めて小さいため、事実上は無視できるのです。おそらく拡張可能性は MOOCs の特徴の中でも、とりわけ政府機関からの注目が非常に大きい部分ですが、忘れてはならないのは、これはテレビやラジオにも備わっている特徴であり、MOOCs だけが持つものではありません。
MOOCs への参加者に必要なものはコンピュータやモバイル機器、そしてインターネットへのアクセスだけです。しかし、ビデオ配信を利用する xMOOCs ではブロードバンド通信が最も重要であり、おそらく cMOOCs にも望ましいでしょう。しかし利用者数の増加に比例して認定バッジや修了証につながる評価に手数料を要する MOOCs が増えつつあります。少なくとも初期の頃は、参加者は無料で利用できたのですが。
重要な点として、Coursera を通じて配信されている MOOCs の講座は完全にはオープンではないという点があります。(教育において何が「オープンであること」を構成するのかについては第10章を参照。)Coursera は教材に対する権利を有しています。そのため Coursera の許可なく別の目的で利用したり再利用することはできません。そして講座が終わるとき、Coursera のサイトから削除される可能性もあります。また Coursera のプラットフォームに MOOCs 講座を開ける教育機関であるかどうかは同社が決定することから、教育機関にとっては Coursera がオープンに利用できるというわけではないのです。一方で edX はオープンソースなプラットフォームであり、edX に参加している教育機関であればどこでも、教材の権利をどうするかの扱い方を自分たちで決め、独自の MOOCs 講座を提供することができます。cMOOCs は一般的に完全にオープンですが、参加者個人が教材の全てとは言わないまでも多くを作っているため、各個人が教材の権利を有しているのかどうか、そして教材がどれくらいの期間利用できる状態にあるのか、いつでも明確なわけではありません。
また MOOCs 以外のオンライン教材にもインターネット上でオープンかつ無料で利用できるものが多く、MOOCs 教材よりも再利用しやすい形態であることも付記されるべきでしょう(第10章を参照)。
少なくとも MOOCs は本来の意味からも全てオンラインで提供されるものですが、教育機関ではキャンパス内でのブレンド型による学習で MOOCs の教材を使えるよう、権利保有者と交渉を行なっている事例がますます増えています。言い換えれば、キャンパス型の教育機関が MOOCs を使う学習者の支援を、授業を通じて教員が行なっています。例えばサンノゼ州立大学に通う学生は、Udacity の MOOCs の教材を使い、講義、課題図書、試験を利用しながら学習しました。教員は授業時間を使い、少人数での活動やプロジェクト学習、試験によって、進捗状況を確認したのです (Collins, 2013)。MOOCs の様々な活用方法については、セクション5.3でさらに詳細に論じます。
繰り返しになりますが、講座をオンラインで提供することは MOOCs に固有の特徴ではありません。アメリカだけで700万人以上の学生が通常の学位プログラムの一環として、オンラインで受講して単位を取得しているのです。
MOOCs を他の大多数のオープンな教材と区別している特徴は、MOOCs で提供される内容は、一つにまとまった講座として構成されている点です。
しかし受講者にとっては、このことは必ずしも明確ではありません。MOOCs の多くでは講座を首尾よく終えた受講生に修了証や電子バッジを発行していますが、今までのところ、このような証明が MOOCs を提供している教育機関であっても、入学選考の際に有利になったり、単位認定されたことはありません。
MOOCs が備える全ての主要な特徴は、MOOCs 以外の形態にも存在していることが分かります。しかし MOOCs に独特なのは4つの主要な特徴の組み合わせであり、とりわけ MOOCs は大規模で運用することができ、参加者にオープンかつ無料で提供されているという事実にあるのです。
Christensen, C. (2010) Disrupting Class, Expanded Edition: How Disruptive Innovation Will Change the Way the World Learns New York: McGraw-Hill
Collins, E. (2013) SJSU Plus Augmented Online Learning Environment Pilot Project Report San Jose CA: San Jose State University
Engle, W. (2104) UBC MOOC Pilot: Design and Delivery Vancouver BC: University of British Columbia
Friedman, T. (2013) Revolution Hits the Universities New York Times, January 26
本節では、主な MOOC の設計について分析します。ただ、MOOCs は比較的新しい事象であり、設計モデルは常に進化し続けています。
MOOCs はもともとスタンフォード大学の教授らによって、その後しばらくして MIT やハーバード大学の教員によって開発が進められましたが、非常に行動主義的であり、情報伝達モデル的です。すなわち中核となる教育は短い講義を録画したオンライン動画で行われ、コンピュータによって自動採点試験が組み合わされ、時には相互評価も用いられます。このような MOOCs は、Coursera や Udacity、edX のようにクラウドを基盤とする専用のソフトウェア・プラットフォーム上に構築されています。
xMOOCs とは、Coursera や Udacity、edX によって開発された講座を指す用語として Stephen Downes (2012) が提唱した造語です。本稿執筆時点(2015年)では、xMOOCs は最も一般的な MOOC です。xMOOCs では教員は講座の設計に大きな自由度を持っているため、細かい点を挙げていくと多種多様です。しかし、一般には xMOOCs には次のような共通の設計上の特徴があります。
xMOOCs は専用に設計されたプラットフォーム用ソフトウェアを用いています。これにより大規模人数での参加者の登録、デジタル教材の保存、オンデマンドでの教材配信が可能になるほか、評価や受講生の取り組みの追跡が自動化できます。そしてソフトウェアを提供している企業が受講生のデータを収集し、分析することもできます。
xMOOCs はオンライン配信されているということ以外は標準的な講義形式を採用しています。すなわち録画された動画講義を受講生がオンデマンドでダウンロードするのです。動画講義は通常10〜13週間にわたって毎週更新されます。初期の頃は50分講義だったのですが、経験が蓄積された結果、より短い再生時間(時には15分ほど)の動画を用いる xMOOC もあり、動画の区切りが多くなる傾向があります。同様に xMOOC で提供される講座の長さそのものが短くなりつつあり、中にはわずか5週間で終わるものも出てきました。動画制作の手法も様々です。大学での対面式の講義を録画して蓄積したものをオンデマンド配信するという講義録画型から、スタジオでの本格的な撮影を行うもの、授業を行なっているパソコンのデスクトップを教員自身が再生しながら録画するようなものまで様々です。
受講生はオンライン上のテストを終えるとすぐに自動フィードバックを受け取ります。このようなテストは通常、講座期間中であれば常に受験できる状態にありますが、単に受講者へのフィードバックのためだけに使われる場合もあります。これは成績優秀者のための賞を決めるためかもしれません。あるいは講座の最後でオンライン試験として実施され、これに基づいてその講座の最終成績や修了証の発行のために使われることもあります。ほとんどの xMOOC 上の課題は多肢選択式の自動採点問題ですが、コンピュータ科学の講座ではプログラミングの一部や、数学の公式を扱うような場合もあり、回答にテキストや公式の入力を求めたり、ごくまれにですが短文回答を受講生に求めたりもします。そしてこのような問題もコンピュータが自動採点します。
xMOOCs の中には実験的に受講生をランダムに小集団に振り分け、相互評価させる手法を試している事例もあります。特に回答形式が自由な問題や価値判断が問われるような課題でこのような手法が使われます。ですが、この方法はうまくいかないことが多いです。というのも、小集団に属するメンバー間で習熟度に差があったり、講座への関わり方において参加者に様々なレベルがあるからです。
場合によっては、スライドのコピーや補助的な音声ファイル、他の素材へのURL、オンライン上の論文などが受講者に提供されることがあります。
受講者たちが質問を投稿したり、手助けを求めたり、講座の内容について意見したりするための場所が備わっています。
議論や意見がどれくらい管理されるかは、おそらく xMOOCs に備わった他のどの特徴よりも多種多様です。たとえ管理なるものが存在したとしても、それは受講者全体に向けられており、参加者の一人一人を対象としているわけではありません。膨大な数の参加者が受講して意見を書き込むわけですから、 MOOC 講座を実施している教員(たち)による個々の意見の管理は、事例がないわけではありませんが、ほぼ不可能です。教員の中には質問や意見に全く返信しない人もいますので、そのような場合には参加者は他の参加者の反応に頼らざるを得ません。また、教員の中には意見や質問の中から「お手本」を取り上げ、それらに対する返信を投稿する人もいます。中にはボランティアや有給のティーチング・アシスタント (TA) に依頼して、受講者の多くが共有している関心事を洗い出してもらい、教員や TA が対応するという場合もあります。しかしほとんどの場合は受講者同士がお互いに意見し合ったり、質問に回答し合ったりしています。
xMOOCs では、コンピュータによる最終試験の成績に基づいて講座を優等な成績で修了したとみなすと、何らかの顕彰を行うのが通例となっています。しかし本稿執筆時点では MOOC が発行するバッジや修了証は、MOOC 講座を提供している教育機関によってすら、正規の授業単位や入学用途としては用いられていません。これは MOOC の講義がキャンパスに通う学生に対して行われる内容と同じであっても同様です。そして、このような MOOC の修了証明が雇用主に受け入れられたという記録もありません。
xMOOCs の学習分析に関して出版された情報は、本稿執筆時点ではそれほど多くありませんが、 xMOOC のプラットフォームには受講者とその成果である「ビッグデータ」を収集し、分析する機能が備わっています。これにより少なくとも理論上では、教材や設計において改善しなければならない箇所や、受講生に対して自動的にヒントを表示すべき箇所を、教員はすぐに知ることができます。
そのため xMOOCs は高品質な教材を配信し、主に受講生へのフィードバックのためコンピュータによる自動評価を行い、受講生と学習プラットフォームのあいだに生じるあらゆる主要なやり取りを自動化するという、情報伝達モデルに重点を置いた教授モデルを主に採用しています。受講生個人と講座の責任者である教員との間では直接的なやり取りはほとんど行われませんし、教員は受講生たちのコメントに対してある程度の一般的な回答を寄せる程度です。
最初の cMOOCs は2008年にカナダのマニトバ大学で開講された、講座に関わる3人の教員によって始められました。cMOOCs はネットワーク上での学習に基づいており、受講者たちはソーシャル・メディアを利用し、他の受講生たちとのやり取りや議論に参加しながら学習を進めます。cMOOCs には標準的なプラットフォームはありません。Web放送や受講者のブログ、ツイート、ハッシュ・タグで同じトピックをブログとツイートで共有できるソフトウェア、オンラインのディスカッション・フォーラムの組み合わせによって cMOOCs が構成されます。cMOOCs を起ち上げて自ら参加する専門家もいますが、受講者たちの興味関心や貢献によって成り立っているものがほとんどです。そして一般的には、公的な成績評価は行われません。
cMOOCs と xMOOCs は全く異なる教育理念に基盤を置いています。cMOOCs では繋がりを持つこと、とりわけ受講者たちが講座の内容に深く関わることに重きを置いています。公式には教員が存在しないこともありますが、「ゲスト」として招かれた教員が、その講座のためにWeb放送やブログ執筆を行うことはあります。
cMOOCs の主要な設計原理について、Downes (2014) は次の4つを指摘しています。
このように、cMOOCs の提唱者にとっては、学習は xMOOCs のように、専門家が知識のない人に情報を伝達によって生じるものではなく、参加者たちの間での知識の共有や伝搬によって生じるものなのです。
cMOOCs では、このような主要な設計原理の特徴がどのように実践されているのか、ひとつひとつ細かく特定していくことには多少の困難を伴います。それは cMOOCs は、発展しながら繰り返し実践されるという事情があるからです。実際、大多数の cMOOCs ではこれまで、MOOC の組織づくりや宣伝、議論の発端となるコンテンツの「結節点」を提供する際、いくらかは「専門家」の手を借りてきているからです。つまり、cMOOCs の設計面での運用は xMOOCs と比べ、未だ発展の途上にあるのです。
しかし、cMOOCs の主要な設計実践としては、ひとまず以下のものが挙げられるでしょう。
そのため cMOOCs では、主に学習者の自発性に基づいてネットワーク化する手法を用います。学習者はオープンなソーシャル・メディアを通じて相互に繋がり、各自が貢献しながら知識を共有するのです。コンテンツの配信や学習者支援について、あらかじめ決まっている教育課程や、教員ー学習者という正式な関係はありません。参加者は他の参加者による貢献から学び、学習共同体の中で生成されるメタ的な知識に学び、参加者自身が行なった他者への貢献を振り返ることから学びます。このため、関心や実践に基づく学習共同体に見られる数々の特徴を持つことになるのです。
ここまで xMOOCs と cMOOCs の設計について慎重に述べてきました。両者の理念や理論的な違いについては Mackness (2013) や Yousef et al. (2014) にも同じような指摘がありますし、cMOOCs のもともとの設計者の一人でもある Downes (2012) 自身も同様に述べています。
しかし、ここで強調しておきたいのは、MOOCs の設計は進化し続けており、多くの変種を生み出しているという点です。Yousef et al. (2014) はこの点について、次のように図示しています。
Yousef et al. の用語を使うならば、smOOcs は small open online courses を、bMOOCs はキャンパス内で実施される対面型授業とのブレンド型で利用される MOOCs をそれぞれ表します。
しかし Chauhan (2014) は以下のように、MOOC の教授モデルをさらに細かく分類しています。
Hernandez et al. (2014) は Open University of Portugal が開発した MOOC を iMOOC と呼んでいます。iMOOC は xMOOC や cMOOC の両方を兼ね備え、さらにグループ協働学習や足並みを揃えた指導のような、単位が発行されるオンライン講座にも見られる特徴を備えています。ブリティッシュ・コロンビア大学や、その他の多くの教育機関が開発した MOOCs では、オンライン上の議論や参加者からのコメントを、ボランティアや有償のアシスタント、教員が管理しています。このような MOOCs の設計は単位取得を目指すオンライン講座に近いものですが、誰にでも開かれているという点で異なります。
時が経つに連れて MOOC の設計が進化することは、さほど驚くべきことではありません。この発展には3種類の明確に区別できる段階があるように思われます。
MOOC の設計と、どのように MOOCs が使われるかについての革新的な試みは、今後もきっと続くでしょう。
しかしこのような発展が、MOOCs の定義や目標について、中でも特に大規模性とオープン性について、大きな混乱の種になるかもしれません。もし学外からの参加者が大学で行われている「閉じた」授業に参加するために高額な参加費を支払わなければならない場合、あるいは、学外から参加する前に一定の基準にしたがって選抜されなければならない場合、それは本当にオープンと言えるでしょうか。MOOC という用語が意味するのは、慣例に縛られないオンラインでのあらゆる提供物なのでしょうか。あるいはオンライン上で行われる、あらゆる連続的な教育講座を意味するのでしょうか。例えば SPOC がどのように典型的な連続する教育講座と異なるのか、 LMS ではなく記録された講義を用いること以外では何が異なるのか、なかなか理解できないでしょう。設計面と理念に大きな違いがあるにも関わらず、結局のところオンライン上の授業が全て MOOC と表現されてしまう危険さえあるのです。
このような個々の革新的な試みは、多くは教員個人が主導した結果ではありますが、基本的には歓迎されるでしょう。しかし参加者になろうとしている人々に対して公正を期すのであれば、それらがもたらす結果について注意深く検討する必要があります。MOOCs を設計する教員個々人は、それが教育理念と矛盾していないことを確認し、なぜ従来型のオンライン授業ではなく MOOC を選ぶのかを明確にしなければなりません。これは公的な評価が行われる際には特に重要です。正式には入学していない学習者や、学生として登録されていない者への評価の状況は、明確で一貫している必要があるのです。
キャンパス内で行われている授業と MOOCs を混合することは、さらに大きな混乱を招きます。現在のところ、まず MOOC を構築してから、学内の授業にどう適用できるかを検討するという戦略が採られているようです。しかし設計面からは、まず単位取得が可能な従来型のオンライン授業を構築してから、他の参加者に向けてどのようにオープン化できるかを検討するほうが良い戦略ではないでしょうか。他の戦略としては、コース専用の Wiki や学生ブログのような、オープンなソーシャル・メディアを用いて公式な授業へとアクセスを広げていく方が、本格的な MOOC を構築するよりも良いのかもしれません。
「ブレンド型」のMOOC を実験的に活用しているほとんどの教育機関において、学内の教育に MOOCs 教材を組み込む政策的合意について、現時点ではあまり考えられていないように思われます。仮に MOOC 参加者が、学内で行われている授業の受講生と全く同じ内容を履修しており、評価も全く同じだった場合、その教育機関は首尾よく講座を終えることができた学外から参加している MOOC での受講者に単位や入学許可を与えるのでしょうか。もし認められない場合、それはなぜでしょうか。このような問題を扱った教育機関の理事会を対象とした優れた議論については Green (2013) を参照してください。
さて、MOOC の発展の中には、どうやらオープン型の学習に関して政策的に手つかずのままになっているものがあるようです。いずれどこかの時点で教育機関はオープン型の学習に関して、明確で首尾一貫した戦略を打ち立てる必要があるでしょう。そこには、どのように提供されるのがベストなのか、どのようにすれば公的な学習と相互互換できるのか、どこまでオープン型の学習は教育機関の財政上の制約に対応できるのか、そして MOOCs と他のオープン教育リソース(OERs)と単位取得可能な従来型のオンライン授業が目標達成のために一致できる点はどこなのかといった論点が含まれます。この話題については第10章で詳しく扱います。
1. MOOC と呼べるのはどういう場合でしょうか。あるいは呼べないのはどういう場合でしょうか。MOOC に共通する特徴とは何でしょうか。MOOC は今でも役に立つ用語なのでしょうか。
2. 仮にあなたが MOOC を設計するとして、誰をターゲットとするでしょうか。それはどんな種類の MOOC でしょうか。どのような学習評価を行いますか。その MOOC を実施した後、うまくいったことをどのように評価しますか。どのような基準を使いますか。
3. ゼロから MOOC を作るのではなく、あなたの担当する1つ以上の授業をこれまで以上にオープンにする方法について何か思いつくことはありますか。MOOC と比較してその方法にはどのような長所と短所があるでしょうか。
Chauhan, A. (2014) Massive Open Online Courses (MOOCS): Emerging Trends in Assessment and Accreditation Digital Education Review, No. 25
Downes, S. (2012) Massively Open Online Courses are here to stay, Stephen’s Web, July 20
Downes, S. (2014) The MOOC of One, Valencia, Spain, March 10
Green, K. (2013) Mission, money and MOOCs Association of Governing Boards Trusteeship, No. 1, Volume 21
Hernandez, R. et al. (2014) Promoting engagement in MOOCs through social collaboration Oxford UK: Proceedings of the 8th EDEN Research Workshop
Mackness, J. (2013) cMOOCs and xMOOCs – key differences, Jenny Mackness, October 22
Yousef, A. et al. (2014) MOOCs: A Review of the State-of-the-Art Proceedings of 6th International Conference on Computer Supported Education – CSEDU 2014, Barcelona, Spain
標準的な学術的基準による徹底した分析の結果、学内の教育と比較して MOOCs は学術的厳密さの点で上回り、はるかに効果的な教授法である。
Benton R. Groves(博士課程大学院生)
xMOOCs に感じる大きな懸念は、デジタル世界で必要とされる高度な知的スキルの習得について、現在の設計ではこれ以上進めないのではないかという点である。
Tony Bates
本稿執筆時点ではほとんどの MOOCs は誕生から4年未満であり、MOOCs についての研究は端緒についたばかりで、刊行されているものはわずかです。現在の MOOCs 研究の多くは MOOCs を提供している教育機関自身が行なっており、入学や履修登録に関する報告か、教員自身による自己評価の形態をとっています。Coursera や Udacity のような商用プラットフォームを提供する企業は莫大なビッグデータを所有しているのですが、限定的な研究結果しか提供していないのが残念です。また edX が設立される際にパートナーになった MIT とハーバード大学は、主に自分たちの講座に関して研究を行なっています。現時点では xMOOC、cMOOC のどちらについても独立性の高い研究はごくわずかです。
しかし私はこれまで MOOCs の強みと弱みについて考察しているあらゆる研究を可能な限り利用しようとしてきました。そして私たちがはっきりと認識しておくべきは、ここで議論している MOOCs という現象が、政治的、感情的、そして多くの場合、非理性的な観点から評価されており、確かな論拠が蓄積されるまで、しばらく待たねばならないということです。
ここで述べておくべきもう1つの論点として、私が MOOCs の評価に用いる基準は、MOOCs がデジタル時代に必要とされる学びに繋がりうるかどうかである、ということを書き添えておきます。言い換えれば、第1章で定義した知識やスキルの習得に役立つのかどうかということです。
MOOCs、中でも xMOOCs は、コンピュータとインターネットがあれば、誰にでも無料で世界最高レベルの大学から提供された高品質の教育コンテンツを利用することができます。このこと自体が素晴らしく価値のある条件です。この意味で MOOCs は教育の提供への有益な広がりだと言えるでしょう。誰がこのことに異論を唱えるでしょうか。もちろん私はそんなことはしませんし、MOOCs についての議論をさらに進めようとは思いません。
しかし MOOCs は唯一の解放された無料の教育形態というわけではありません。インターネット配信ほどの力はありませんし、影響力も限られているかもしれませんが、図書館の書籍、オンラインで広く公開された無料の教科書、そして放送による教育も無料で利用できます。このような費用のかからない教育の初期のあり方から、私たちは今なお MOOCs に当てはめるべきことを学べるのです。
このような教育形態は、公的な単位取得に基づく教育の必要性を置き換えることはありませんでしたが、これらを補強し、強化するために書籍、教科書、教育番組などが利用されてきました。ですから MOOCs も非常に優れた価値のある、教育を継続することができる、そして気楽に教育を受けることができるツールであると言えます。とは言え、以下で見ていくように、MOOCs は人々が十分に教育を受けている場合にこそ最大の効果を発揮します。
問題となるのは、MOOCs が利用者に開放された無料の教育手法であるため、特に発展途上国では従来の高等教育のコストを必然的に押し下げることや、需要そのものを消し去ってしまうというような議論が行われる時です。(5.2節の Friedman のコメントを参照してください)
これまで発展途上国では地上放送や衛星放送を通じた様々な教育提供の試みが行われてきました。(Bates, 1985)しかしこれらは全て、様々な理由でアクセス機会の増大やコストの削減に失敗してきました。中でも非常に重要なこととして以下のような問題点がありました。
また、発展途上国に一番必要なのはスタンフォード大学の教授による高品質の授業ではなく、高校レベルの授業なのです。そしてアフリカでも携帯電話は広く普及していますが、通信帯域幅は非常に狭いのです。例えば YouTube の典型的な動画をダウンロードするのに2米ドルかかりますが、これは多くのアフリカ人の1日あたりの所得に相当します。ですからストリーミング動画による講義が有効かと尋ねられたら、非常に限定的だとしか言いようがないでしょう。
MOOCs は発展途上国では無益であると言っているわけではありません。むしろ、このことが意味するのは以下の点です。
ところで、オープン教育リソースという意味では MOOCs が常に開放されているというわけではありません。例えば Coursera や Udacity では許諾なしでの教材の再利用に制限がありました。edX のような開放されたプラットフォームでは、教員個人や教育機関ごとに教材の再利用を制限できます。ただし、多くの MOOCs は1〜2年間だけ存在して消えていきます。そのため MOOCs 上の教材を別のコースや別の専攻プログラム上で再利用することが難しくなっています。
最後に、MOOCs の大部分には無料で参加できますが、MOOCs の提供側には相当のコストがかかります。この点は 5.4.8 でさらに掘り下げて論じます。
Ho et al. (2014) の報告によると、ハーバード大学と MIT の研究者らは edX を通じて提供された17の MOOCs 講座のうち、全受講者の66%、修了証を得た受講者の74%が学士号以上を有しており、71%は男性、平均年齢は26歳でした。また、この報告と他の研究によると、受講者のかなりの割合(40〜60%)はアメリカ国外から参加しており、高品質な大学教育へのオープン・アクセスに強い関心が寄せられていることが示唆されました。
コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジの研究者らである Hollands and Tirthali (2014) の報告は「MOOC の中では活発」な62の教育機関における80人以上のインタビューに基づいており、次のように述べています。
MOOC プラットフォームから得られたデータが示しているのは、MOOCs は世界中の何百万人もの人々に教育機会を提供しているということである。しかし MOOC に参加する人々の大部分は、既に十分な教育を受けていたり、被雇用状態にあり、講座に集中して取り組める人々はごくわずかである。全体としてデータが指し示しているのは、現在の MOOCs は教育を「平民的なものにしている」とは言い難く、教育へのアクセスという点での格差は解消しているというよりも、むしろ現状では拡大している可能性がある。
MOOCs への要求を満たす人々とは、大学が行う継続的な教育の多くと共通しているように、高い教育を受け、ある程度の年齢の、雇用された層なのです。
edX の研究者ら (Ho et al., 2014) は edX が提供する17の MOOCs 講座には以下のような様々なレベルでの関与があったことを報告しています。
Hill (2013) は Coursera の参加者を次の5つのタイプに分類しています。
Engle (2014) は Cousera 上で開講したブリティッシュコロンビア大学の MOOCs 講座にも次のような類似のパターンを見つけました。他の研究でも同種の報告が行われています。
通常、修了証を取得できる人は登録者の5〜10%程度であり、MOOC に少なくとも一度は積極的に関わった人の10〜20%程度なのです。しかし修了証を取得した人数は絶対的に大きいのです。edX では17の講座で43,000人以上、ブリティッシュコロンビア大学では4つの講座で8,000人以上、1つの講座では2,000〜2,500人になります。
Milligan et al. (2013) は 2,300人の登録者のうち cMOOC 講座の半分程度を終えた29人を抽出し、インタビューを行なった結果、cMOOCs にも次のような類似の関与パターンが存在することを報告しています。
MOOCs はそれがどういったものであるかを基準に審査される必要があります。例えば、他には存在せず、有益な、公的ではない教育の形態として。このような結果は公的な教育ではない放送教育(例えばヒストリー・チャンネル)についての研究にとてもよく似ています。視聴者にヒストリー・チャンネルで放送されている全てのエピソードを見せ、最後に試験を受けさせるようなことを期待する人は誰もいないでしょう。Ho et al. (p.13) は xMOOCs への関与レベルの違いを次の図で説明しています。
ここで、1985年に私がイギリスの放送教育について書いた一節を引用します (Bates, 1985)。
(p.99) タマネギの中心に核をなす、わずかな学習者が講座全体を真剣に学習し、受験できる場所で最終評価や試験を受ける。その小さな核の周囲には、いくぶん大きな層をなす学習者がいて、試験は受けないものの地元で開講される授業や通信教育には登録する。さらに、より大きな学生の層が存在し、放送を視聴するだけでなく付属の教科書を買いもするが、授業には参加しない。そして、最も大きな集団は単に放送を視聴しているだけである。最後のこの集団の中にさえ、様々な人が存在するだろう。ほぼ定期的に番組を視聴する人から、(またもやこの人数の方がはるかに多いのだが)番組を1回だけ視聴する人まで。
さらに私はこうも書きました (p. 100)。
疑い深い人はこう言うかもしれない。効率的に学ぶことができたと言われている人というのは、講座に勤勉に取り組み、最終試験で優等な成績を修めることができたごくわずかな人たちにすぎないだろうと。(中略)これに対する反論として考えられるのは、もし放送教育がなければそのトピックに関心を寄せることすらなかった人々に興味をもたせることができた時点で放送教育は成功だったと。つまり重要なのは教材に触れた人々の数なのだ、と。(中略)しかしここで問うべきは放送教育が、本当にそれがなければ興味を持たなかった人たちに教育を施したのかどうか、あるいは既に十分な教育を受けた人たちに別の機会を提供しただけにすぎないのではないか、ということだ。(中略)公的ではない放送教育の恩恵を最大限に受けているのは、より良い教育を受けているイギリスやヨーロッパの人々であるということを示す非常に多くの証拠が存在しているのである。
全く同じことが MOOCs についても言えるのではないでしょうか。知識基盤型産業で働く人々にとって欠かせないのは、新しい知識に簡単かつオープンにアクセスできることであるというデジタル時代にあって、MOOCs はそれらの知識にアクセスするための貴重な手段になるでしょう。しかしここで論じるべきは、より効率的に同じことができる方法があるかどうかということです。ですから、公的ではないものの継続性が求められる教育にとって、MOOCs は有益な貢献であると考えられますが、真に革新的であるとは言いがたいのです。
これは容易には答えられない質問です。というのも、2014年現在、この疑問に答えようとしている研究があまりにも少ないのです。その理由の1つは次のセクションで見るように、MOOCs での学びの評価は大きな課題として残っているからです。また、少なくとも2種類の研究が存在します。学びの量を測定する量的研究と、MOOCs 内での学習者の実体験を記述することで間接的にどのような学びを得たのかを探る質的研究です。
本稿執筆時点で MOOCs による学習に関する量的研究で最も目を見張るべきは Colvin et al. (2014) です。この研究では MIT の物理学入門の MOOC 講座での「概念学習」が調査されました。この研究では MOOCs 講座での様々な受講者の学習実績を、物理や数学の知識を持たない人々と、既に十分な知識を持っている物理教員のような人々との間で比較しただけでなく、従来型の大学内授業で同じカリキュラムを受講した学生たちの学習実績とも比較しています。その結果、どの組み合わせの間でも本質的な学習量に大きな違いは見られなかったのですが、学内での授業を受けた学生というのは、前の学期の授業を修了できず、再履修していたという学生だったということは述べておく必要があるでしょう。
この調査は、教育テクノロジーにおける比較研究の結果として、それほど大きな違いは得られないということを示す典型例です。他にも学習者の属性が違うといったような多様性があるのですが、これは配信方法(講義か MOOC か)と同様に重要な要素でした。また、この MOOC の設計は、一定の考えに基づいて作られた質問に対する正しい答えを出せるかどうかに重点を置いた、行動主義的〜認識主義的な学習アプローチをとるものであり、第1章で述べた、デジタル時代に必要なスキルの育成を目指しているわけではありません。
MOOCs 内での学習者の実体験についての研究、特に MOOCs を使ったディスカッションに関する研究は、例えば Kop (2011) のようにたくさん存在します。 例外はありますが、一般的に MOOCs ではディスカッションは監視されておらず、他の受講者と繋がったり回答したりすることは受講者に任されています。しかし学術的な学びに必要な高レベルの概念分析能力を育成する際に MOOCs のディスカッションの有効性から判断することについては強い批判もあります。深い概念学習を行うには通常、学習者に対して、誤解や思い違いを正すための的確なフィードバックを与えるとともに、論拠の提示や議論の明確さといった、学術的な学びの基準が満たされているかを確実にすることが求められるため、専門家による介入が必要とされます。また、より深く理解するために必要な情報の提供と指導の機会を設けておくことも必要です (Harasim, 2013) 。
そして教員からの介入がなければ、あるいは内容が難しければ、講座の規模が大きくなればなるほど受講者は「過負荷、不安、喪失感」を感じる可能性が高くなります (Knox, 2014)。Firmin et al. (2014) が示しているのは、教員による「励まし、そして学習者の努力と関与への支援」があれば、MOOCs 講座に参加している全員にとって、良い結果に繋がるということです。専門家が行うべき役割を担わなければ、他の受講者からのコメントやフィードバックという点で、受講者は質的に多様な情報に立ち向かうことになります。また、協働的・協調的なグループ学習の成功に必要な条件に関する研究がたくさん存在しているのですが(例えば Dillenbourg (1999) や Lave and Wenger (1991) )こうした知見はこれまで一般的に MOOCs におけるディスカッションの管理にほとんど活かされていません。
反論の1つとして、少なくとも cMOOCs ではネットワーキングやコラボレーションに基づいて、学術的な学びとは本質的に異なる、新しい形態の学びを生み出している、したがって MOOCs はデジタル時代の学習者のニーズに適合しているのだというものがあります。特に成人の参加者は、Downes and Siemens の主張によれば、高いレベルの概念学習を身につける手立てを自己管理することができます。MOOCs は「需要」に基づくものであり、同じようなことに関心を持つ他の学習者や、自らの学習を支援してくれる専門家を探しているという個々の学生の関心を満たしているのです。また、多くの人にとっては、深い概念学習の必要性はこの関心に含まれないのかもしれません。おそらくそこに含まれるのは、事前に持っていた知識を新しい特定の文脈でうまく活かしたいという気持ちなのです。MOOCs が特に有効に機能するのは既に高水準の教育を受けている人々に対してのようです。そして正式な教育で習得した多くの概念的スキルを MOOC に参加する時に持ち込んでくれることから、そのような事前の知識やスキルを持っていない人々への手助けにも貢献するのです。
時間の経過とともに経験が蓄積されつつあり、MOOCs は小規模なグループ作業に関する研究から得られた知見のいくつかを、大人数のグループ作業にも取り込み、応用しているようです。例えば MOOCs の中には「ボランティア」として学習共同体の指導者を利用しているものがあります (Dillenbourg, 2014) 。米国国務省は MOOCs 参加者を育成するために、使節団や領事館を通じて MOOCs 合宿を開催してきました。この合宿にはフルブライト奨学生や大使館職員が含まれており、海外からの MOOC 参加者のために講座の内容やトピックについて率先した議論を行なっています (Haynie、2014) 。ブリティッシュ・コロンビア大学など一部の MOOCs 提供校では教育助手の小集団に対して、MOOCs 上のフォーラムに目を配り、貢献するために手当を支払っています (Engle, 2014) 。Engleは、限定的とは言え効果的であった教員たちによる介入の他に教育助手を活用することで UBC MOOCs はよりインタラクティブで魅力的なものになったことを報告しました。ただし誰かにお金を支払って MOOCs を巡視や支援してもらうには当然ながら提供校へのコストを増加させます。ですから、MOOCs で非常に大規模なグループでのディスカッションを効率的に管理するためには、新しい自動化技術の開発が欠かせません。エジンバラ大学ではオンライン上のディスカッション・フォーラムを巡回し、支援や励ましが必要であると判断された学生に、予め用意されたコメントを直接送信する自動「教員ボット」の実験をしています (Bayne, 2014) 。
これらの結果と手法は、単位が発行されるオンライン学習にとって教員の存在が成功のための重要な鍵となるという先行研究と一致しています。しかしその一方で、まだ学生に備わっていない深い概念学習を定着させるのに必要な支援と構造化を MOOCs が提供することになるのであれば、やるべきことはまだたくさんあります。デジタル時代に必要なスキルの育成は、膨大な数の参加者を扱うならば、さらに大きな課題となる可能性があります。参加者たちがどのような条件の下で、実際に MOOCs から何を学んでいるのか、確固たる結論を引き出す前に、もっと多くの研究が必要でしょう。
MOOCs に参加する膨大な数の受講者を評価することが大きな課題であることは明白です。複雑な課題ではありますが、ここでは簡単な説明にとどめます。ただしセクションA.8では、様々な種類の評価について一般的な分析を示します。また Suen (2014) は、これまでに MOOCs で用いられてきた評価について、包括的でバランスのとれた概要を説明しています。本節は Suen の論文に大きく依拠しています。
今日に至るまでの MOOCs における評価は、主に2種類あります。 1つ目は、定量的に測定できる多肢選択問題や、数式または「正しいコード」を入力して自動的にチェックできる回答ボックスに基づくものです。通常、受験者には採点された回答の種類に応じて、正解・不正解といった単純なものから、より複雑なものまで、即時フィードバックが与えられますが、全ての場合において、このプロセスは完全に自動化されています。
事実や公理、公式、方程式、あるいは明確で正しい答えがあるような形式の概念学習について直接テストする場合、この方法はうまくいきます。実際、オンライン上でただちにフィードバックを与える仕組みはなかったものの、1970年代というかなり以前から、イギリスのオープン大学では多肢選択問題のコンピュータによる自動採点が行われていました。ただし、この評価方法は深層的または「変容的」な学習のテストでは十分機能するとは言い難く、特に創造的思考や独創的思考など、デジタル時代に必要な知的スキルの評価には適していません。
MOOCs で試みられている2番目のタイプの評価は、参加者がお互いの作業を評価する方法です。相互評価は新しいものではありません。この評価法は伝統的な教室での形成的評価や、単位取得ができる一部のオンライン教育でうまく使われてきました (Falchikov and Goldfinch, 2000; van Zundert et al., 2010) 。さらに重要なことですが、相互評価は学習者が他者の成果物を評価する過程を通して、深い理解と知識を向上させることができる強力な方法であると考えられてきました。そしてこの方法はデジタル時代の学習者が他者を評価するために必要な批判的思考のようなスキルを育成することにも役立ちます。
しかし相互評価がうまく機能するには、教員が採点指標、ルーブリック(確立された指示書き)、評価基準の提供に密接に関わり、学生の評価について、教員が定めた採点指標の範囲での一貫性が保たれているかを確認し、必要に応じて修正することが重要なのです。教員は MOOCs 上に採点指標やルーブリックを提供することはできますが、不可能ではないにしても多数の受講生が相手では、複数の相互評価の綿密なモニタリングは困難です。そのため MOOC 受講者は、成果物を「公正」に、あるいは正確に評価するだけの知識や能力を持っていないかもしれない、あるいは全く持っていない他の受講生から、無作為に評価されることに腹を立ててしまうことが多いのです。
MOOCs における相互評価の限界を回避するため、全採点の平均化に基づく調整型相互評価やベイズ推定モデル (Piech et al., 2013) など、様々な試みが取り入れられてきました。しかし、こうした統計的なテクニックを使うことで相互評価のエラーを減らすことができたとしても(あるいは増やしてしまったとしても)評価者の思い違いによる判断ミスの問題を解決するまでには至っていません。特に受講生の大半が MOOC 講座で学ぶ重要な概念を理解できていない場合には大きな問題になります。このような場合に相互評価を取り入れたとしても、盲人が盲人の手を引く状態になってしまいます。
これも採点を自動化する数々の試みが行われてきた分野の1つです (Balfour, 2013) 。この手法は徐々に高性能になってきていますが、現在のところ正確な評価に関して文法や綴り、文章構成のような、主として技術的なライティング能力の測定にとどまっています。残念ながらここでも、高い水準の知的スキルが表現されているエッセイを正確に測定しているわけではないのです。
特に xMOOCs では、講座の到達度を測定する最終試験(通常は機械採点)に基づいて、受講者に修了証や「電子バッジ」が付与されることがあります。
アメリカで認定された学位授与機関の学長から成るアメリカ教育評議会 (ACE) は、Coursera の MOOCs プラットフォームで5つの講座について単位認定の推薦を提議しました。しかし審査の責任者 (Book, 2013) は次のように述べました。
ACE 設置認可が行なっているのは、既に認定を受けている機関から提供される講座であることを認定しているだけです。その審査は学習成果を評価するものではなく、講座の内容に焦点を当てたものであるため、学習成果の教育学的な有効性に関する全ての疑問については不問としているに過ぎません。
実際、MOOCs を提供している教育機関のほとんどは、自分たちが発行した修了証を入学や学内プログラムの単位として認めていません。このように MOOCs 提供校であっても自分たちの教育に自信が持てないことほど、MOOCs での評価の質について雄弁に物語っていることはないでしょう。
MOOCs における評価を議論の対象とするには、評価の背後にある意図を精査する必要があります。評価の背後には様々な異なる目的があります。(セクションA.8を参照)相互評価と機械による自動採点で得られる即時的なフィードバックは、形成的評価にとって非常に有益です。受講者は自分たちが理解したことを確認し、重要な概念についての理解を深めるのに役立てることができるからです。一方、cMOOCs における学びは Suen が指摘するように、受講者間で行われるコミュニケーションとして測定されるので、知識の検証は cMOOCs 上の仲間たちの採点に委ねられます。つまり cMOOCs に参加した全ての受講者が正しいと信じるものを足し合わせた結果ですから、正式な評価は不要なのです。ただしこのようにして学んだことは必ずしも「学術的に」検証された知識にはならないのですが、公正を期すために書き添えるならば、そもそも「学術的な正しさ」は cMOOCs 支持者の関心事ではありません。
学業評価は、学生の学力の測定だけでなく、学生の流動性(大学院への入学など)、そしてさらに重要なこととして、雇用機会と昇進にも影響する一種の通貨です。学生の視点に立った場合の通貨の妥当性とは、認定が正当か否か、そして移転が可能であるか否かということが欠かせません。これまでのところ MOOCs は考え方や原理、プロセスに関する理解と知識の評価(これだけでも価値あることだと思いますが)を超えた、受講者の学習成果を正確に評価できることの論証はできていません。MOOCs が論証することができたのは、デジタル時代に必要とされる深い理解、知的スキルの開発や評価することはできていないということです。 確かに、これは MOOCs と他の形態のオンライン学習とを分かつ特徴である、大規模性という制約がある中では不可能なのかもしれません。
MOOCs に対して教育機関が寄せている期待についての調査で、 Hollands and Tirthali (2014) はブランドの構築と維持が MOOCs を立ち上げる上で2番目に重要な理由であることを見出しました。(最も重要なのは勢力範囲を広げることであり、それも部分的な知名度の向上の試みと捉えることもできるでしょう。)MOOCs の利用による教育機関の知名度の向上は、スタンフォード大学、マサチューセッツ工科大学、ハーバード大学など精鋭が集まるアイビー・リーグの大学が先導しているほか、Coursera は基盤システムへのアクセスを「トップクラスの大学」のみに制限しています。MOOCs を開始した多くの大学はしばらくの間、単位取得できるオンライン学習コースへの移行を見送っていたため、先陣的効果を与える結果となりました。MOOCs は実際には遅れてやってきたエリート教育機関が、オンライン学習の「先駆者」という行列の先頭に一気にジャンプするための手段を提供したのです。
特定分野の専門知識をMOOCs を使うことで、これまでよりもはるかに広い範囲に向けて公開することは明らかに理にかなっています。アルバータ大学における恐竜学、MITにおける電子工学、ハーバード大学における古代ギリシア英雄について学習する MOOCs 講座がこれらの例です。間違いなく MOOCs は教員個々人の知識の質を広げるのに有用です。一般的に教員は生涯、大学の中だけで教えるよりも MOOCs 講座を通じて多くの学生に知識を届けることに喜びを覚えるものです。そして MOOCs は教育機関が提供する講座やプログラムの質をちょっとだけ見せるための良い方法でもあります。
しかし MOOCs が実際に知名度の向上に与える影響を測定することは困難です。Hollands and Tirthali は次のように指摘します。
MOOC に関連する活動の結果、多くの機関がメディアから大きな注目を集めていますが、こうした新しい決断が知名度の向上に及ぼす影響を切り分けて測定することは困難である。ほとんどの教育機関は、知名度の向上に関するメリットをどのように把握し、定量化するかについて考え始めたばかりだ。
とりわけ上位レベルの教育機関は、既に優秀な学生を惹きつける魅力を持っていますので、正規の大学プログラムへの応募者数を増やすためには MOOCs は必要ありません。これまでのところ、このような教育機関が MOOCs の修了を正課の学位プログラムへの入学に認めている例はないのです。
そして、他の全ての機関が MOOCs を提供し始めると、知名度の向上の効果は次第に頭打ちになります。実際、ジョージア工科大学の MOOCs 講座の1つが突然破綻した時のように (Jaschik, 2013) 、質の低い教育や授業計画を何千人もの人々に公開することは、教育機関の知名度に悪影響をおよぼす可能性があります。しかし、概して、ほとんどの MOOCs は他の形式の教育や広報活動の利用よりも、多くの人々に対して知識や専門的な知見を広めるといった点で、学校の評判を高めることに成功しています。
MOOCs の主な強みの1つは、参加者が無料で MOOCs を利用できることです。繰り返しになりますが、このことは現実的にというよりも、原理的にそうであると言えます。というのも MOOCs を提供する側は、特に評価にかかる費用として、一定の料金を請求しても良いのです。そして MOOCs は参加者には無料であるかもしれませんが、提供する側にはかなりの費用がかかります。また xMOOCs と cMOOCs とでは費用には大きな違いがあります。後者の開発にかかる費用は一般的に言えばはるかに安上がりですが、たとえ cMOOCs であっても開発費用がかかる可能性や、実際にかかっている場合があります。
MOOCs の費用について現段階では決定的な結論を引き出せる十分な事例がないため、MOOCs の設計と提供にかかる実際の費用についてはこれまでのところほとんど情報がありません。しかしデータならあります。オタワ大学 (University of Ottawa, 2013) は、Coursera が大学に提供した数字と、単位取得できるオンライン講座の開発コストに関する知見に基づいて、xMOOCs の開発費用を約10万ドルと見積もりました。
Engle (2014) は、ブリティッシュ・コロンビア大学が提供する5つの MOOCs 講座の実際の費用について報告しています。(実は UBC MOOCs の講座数は4つだったのですが、そのうちの1つが2パートに分割されていたのです。)UBC MOOCs には、他の MOOCs には必ずしも当てはまらない2つの重要な特徴があります。 第一に、UBC MOOCs はスタジオを用いた本格的な制作環境からデスクトップ録画まで、多種多様な動画制作方法を利用していたため、開発費用は動画制作技術の高度さによってかなり異なります。第二に、UBC MOOCs は、オンライン上の議論に目を配り、学生からのフィードバックを受けて授業教材を調整または変更する有給の学術助手を多用したため、同様にかなりの配信費用がかかりました。
UBC 報告書の付録Bには、合計の試算として 217,657 ドルと記載されていますが、これは学術的な支援、つまりおそらく最も重要な費用である教員の時間コストを除外しています。学習支援は初年度の総費用の 25% に達しました。(教員の費用を除く)。報告書の図1の動画教材制作費(95,350ドル)と動画教材制作に費やされた費用の割合(44%)から計算すると、教員の費用と運営費用(プログラム管理や諸経費)を除いた直接経費は 216,700ドル、つまり MOOC 講座1つあたり、有給の学術助手の費用も含め、約 54,000ドルと推定されます。一方で、費用の範囲も同じくらい重要です。集中的にスタジオ制作を利用した MOOCs の動画制作費は、他の1つの MOOC の動画制作費の6倍以上でした。
単位取得を目的としたオンライン講座および遠隔教育における主なコスト要因や不確定要素は、Rumble (2001) および Hülsmann (2003) による先行研究から比較的明らかになっています。 私は同様の原価計算方法を用いて、ブリティッシュ・コロンビア大学のオンライン修士課程の7年間にわたる費用を追跡し、分析しました (Bates and Sangrà, 2011) 。このプログラムでは、主に学習管理システムを中心的なテクノロジーとして利用し、教員が講座を開発し、オンライン上での学習者サポートと評価を提供したほか、登録者数が多いときは追加で補助教員からの助けを得ました。
私がUBCプログラムの費用を分析したところ、2003年の開発費用は1講座あたり約2万ドルから2万5千ドルだったことが分かりました。しかし7年間かかった講座の開発費用は全体の15%未満であり、主にこのプログラムの最初の1年程度の時に発生しました。オンラインでの学習者サポートと学生評価の提供を含む配信費用は合計の3分の1以上を占め、当然のことですが講座が提供される年ごとに発生しました。このように、単位取得のできるオンライン学習では、配信費用はプログラムが存続する期間にわたって開発費用の2倍以上になる傾向があります。
MOOCs 、単位取得のできるオンライン授業、そして大学で行われる教育の主な違いは、MOOCs の場合、学習者サポートや教員による評価がありませんので、実際上はそうでない場合があるにしても、原則として全ての配信費用を削減できることです。
xMOOCs の提供には明らかに多大な機会費用が含まれています。当然と言えば当然ですが、MOOCs 講座の提供に際しては最も高く評価されている教員が関わります。大規模な研究大学では、そのような教員の授業負担は最大でも年間4〜6科目でしょう。ほとんどの教員は MOOCs に無償で関わってくれますが、教員の時間は有限です。それは、少なくとも1学期分の授業負担の1科目分(授業負担の25%以上に相当)を割いてしまうこと、または研究に費やされる時間が xMOOCs の開発と配信に奪われることを意味します。さらに、5〜7年程度は行われる単位取得可能な授業とは異なり、MOOCs 講座では多くの場合、一度か二度しか開講されません。
しかし xMOOCs の開発費用は、MOOCs 講座を担当する教員の時間分を除外したとしても、動画を利用しますので、学習管理システム(LMS)を利用した単位取得可能なオンライン授業の開発費用のほぼ2倍になる傾向があります。教員にかかる費用を含む場合、とりわけ教員に必要な MOOC 講座で公開する授業実践に費やす余計な時間、例えば動画撮影のためのリハーサルの時間などを考えると、xMOOCs の製作費用は同じ長さの授業時間の単位取得可能なオンライン授業と比べると3倍近くにもなります。xMOOCs でのコンテンツ配信には動画の代わりに LMS などの安価な方法の利用や、講義録画システムを使った教室講義の動画を再編集することもできますし、実際に行われている事例もあります。
そうは言っても、学習者サポートや学術的な支援を必要としなければ、MOOCs の配信にかかる費用はゼロであり、ここに節約できる大きな可能性があります。つまり受講者1人当たりの費用を計算した場合、単価は非常に低くなります。コースの修了証明書を取得した学生1人当たりの費用で計算したとしても、オンラインまたは大学内の授業で優等な学生の費用よりもはるかに安上がりです。ひとつの MOOCs 講座の開発に約10万ドルかかり、5,000人の参加者が修了証明書を手にした場合、学生1人当たりの平均費用は20ドルです。しかし MOOC の受講生と大学院修士課程の学生では同じ種類の知識とスキルがあると評価することが当然のはずですが、このようなことは通常ありません。
ここで問題となるのは MOOCs が学習者サポートも人間による評価にかかる費用もなく成功するかどうか、あるいはこちらの方が一般的な判断基準ですが、学習の質を損なうことなく、MOOCs による「自動化」で教育配信にかかる費用を大幅に削減できるかどうかです。しかし現在のところ、高次の学習能力と「深い」知識という観点からは、MOOCs でこのようなことが可能であるという証拠は何もありません。このような種類の学習を評価するには、知識を測るための課題を準備する必要があります。また、通常そのような課題の評価には人間による採点が必要となり、結果として費用がかかることになります。そして、これまでうまくいっているオンライン単位取得プログラムの先行研究では、オンラインにおける教員の積極的な参加がオンライン学習を成功させるための重要な要素であることが分かっています。ですから、適切な学習者サポートと評価は MOOCs にとって依然、大きな課題なのです。MOOCs はある程度の知識を教えるのには良い方法なのですが、他の種類の知識を教える際には、遅かれ早かれ大きな構造上の問題にぶつかります。残念ながら、MOOCs で教えるのが難しいのはデジタル時代で最も必要とされる種類の知識なのです。
持続可能なビジネス・モデルの観点から、私立財団からの多額の寄付や基金から支出することで、優秀な大学は xMOOCs に移行することができましたが、ほとんどの教育機関ではこのような形での資金調達は困難です。Coursera と Udacity にとっては MOOCs 提供機関にプラットフォーム利用料を課したり、バッジや証明書の発行に課金したり、受講者データを販売したり、企業からスポンサー料を集めたり、直接広告を掲載したりするなど、様々な方法を取り入れることで、成功するビジネス・モデルを創り出す機会があります。
しかし特に公立の大学では、これらの収入源のほとんどは利用できない、あるいは許可されていないため、たとえ MOOCs で使われる素材を学内の授業で再利用する場合でも、MOOCs への多額の投資をどのように回収すれば良いか、見通しは不明です。MOOC 講座を提供するたびに、オンライン単位取得プログラムに回せる労力や資金が奪われるのです。そのため教育機関は、オンライン学習のための資金をどこに投資するかについて、難しい決断を迫られています。MOOC 講座を首尾よく修了できた時に単位を付与する何らかの適切な方法が見つからない限り、乏しい資金を MOOCs に投じるという決断は困難です。
本章で分析した MOOCs の長所と短所に関する要点は次のようにまとめることができます。
Balfour, S. P. (2013) Assessing writing in MOOCs: Automated essay scoring and calibrated peer review Research & Practice in Assessment, Vol. 8.
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前節までの議論から分かるかもしれませんが、MOOCs を取り巻く賛成意見と反対意見は均衡状態にあります。しかし、MOOCs の価値についての明白な質問、そして MOOCs 登場前にも学部課程と大学院課程ではオンライン学習が取り入れられており、10年以上にわたって実質的ではありながらも静かに進歩していたという事実を考えるならば、次のような疑問が生じるかもしれません。なぜ MOOCs はこれほどまでにメディアから注目されているのでしょうか。特に政府の政策立案者、経済学者、そしてコンピュータ科学者が、なぜ MOOCs を熱心に支持するようになったのでしょうか。なぜ MOOCs に脅かされる恐れのある多くの大学や短大の教員からだけでなく、MOOCs をもっと支持してもおかしくない、オンライン学習の多くの専門家(例えば Hill, 2012; Bates, 2012; Daniel, 2012;Watters, 2012)からもこれほどまでに強い拒絶反応が起こっているのでしょうか。
MOOCs に関する議論は、MOOCs の長所と短所について、冷静で合理的な証拠に基づく分析に頼っているのではなく、感情や自己利益、恐怖、または教育の現実についての無知から引き起こされている可能性が高いことを理解する必要があります。ですから、何が MOOC 熱を引き起こしているのか、政治的、社会的、経済的要因を探ることが重要です。
私が MOOC 熱の本質的な理由と呼びたいのは、MOOC とはこういうものだからです。スタンフォード大学の教授である Sebastian Thrun、Andrew Ng、Daphne Koller が最初に開設した MOOC が世界中から20万人以上の登録者を集めたこと、それらの講座が無料で行われたこと、そしてアメリカ中のメディアが圧倒されるような超一流の私立大学の教授たちが行なったということは驚くに値しません。どういう見方をしたにせよ、それだけで大きなニュースだったのです。
MOOCs が登場するまでは、スタンフォード大学、MIT、ハーバード大学、カリフォルニア大学バークレー校など、米国の主要なアイビー・リーグ大学や、トロント大学やマギル大学など、カナダで最も権威のある大学などの多くは、いかなる形でのオンライン学習もほとんど無視していました。(唯一の例外は MIT で、その教材の大部分は OpenCourseWare プロジェクトを通じて無料で入手可能でした。)
しかし、2011年までに、単位取得ができる学部課程や大学院課程という形で、カーネギー・メロン大学、ペンシルベニア州立大学、メリーランド大学など、アメリカの他の多くの非常に名高い大学や、カナダの多くの一流大学などでオンライン学習が深く浸透し、米国では3つの授業のうちほぼ1つがオンライン受講になったほとです。さらに、少なくともカナダではオンライン講座の修了率が高く、質の面でも大学内の授業と一致しているケースが多かったのです。
それまでオンライン学習を無視していたアイビー・リーグや他の有名大学でも、2011年までは注目しようとしなかったのですが、MOOCs に着手することにより、これらの名門大学は技術革新の面でも先駆者となることができました。一方、それと同時に、厳しく選抜した、非常に個人的で高価なキャンパスでの教育を、オンライン学習から遠ざけたのです。言い換えれば、MOOCs はこれらの有名大学にオンライン学習を模索するための安全な実験の場を提供し、アイビー・リーグの大学は MOOCs、そして間接的にオンライン学習全体に対して信頼性を与えたのです。
2011年以前の数年間、様々な経済学者や哲学者、そして産業界の専門家たちは、新しい技術が次々と出現し破壊的な変化を受ける次の大きな領域は教育分野であると予測していました(例えば Lyotard, 1979; Tapscott (undated); Christensen, 2010)。
単位取得が可能なオンライン学習では、ブレンド型学習を通じて、大規模な混乱の兆候もなく、静かに大学教育の主流へと吸収されていきましたが、大きな変化を伴う MOOCs が現れたことで、教育分野における破壊的イノベーションの理論を裏付ける証拠となったのです。
初期の MOOCs が全て起業家のコンピュータ科学者によって開発されたことは偶然ではありません。Ng とKoller は、すぐに民間営利企業として Coursera を作り、その直後に Thrun が Udacity を創業しました。続いて MIT のコンピュータ学者である Anant Agarwal が edX を率いました。
最初の MOOCs は非常に典型的なシリコン・バレーの新興企業でした。つまり、明晰なアイデアがあり(クラウドに基づく比較的単純なソフトウェアで数字を処理する大規模なオープン・オンライン・コース)、どのように機能するかを見るために市場に投入され、あらゆる障害や問題をさらにテクノロジーとアイデアで解決する(この場合は、学習分析、自動採点、相互評価)。そして小さなゴミのような諸問題が消えたあとで持続可能なビジネス・モデルを構築するというような。
その結果、初期の MOOCs のほとんど全てが、オンライン教育の成功事例に関する教育理論や、オンライン学習における成功・失敗につながる諸要因を扱った先行研究を完全に無視していたことは驚くにはあたりません。また、結果として実際に MOOCs を修了するのが参加者のごくわずかであることも驚くべきことではありません。やるべきことはたくさんあるのですが、これまでのところ Coursera や、規模は小さいものの edX は、オンライン学習の教育者や先行研究を無視し続けています。彼らはむしろ自分たち自身の研究をやりたいのでしょうが、それは単に車輪の再発明に過ぎません。
MOOC 熱を引き起こす全ての理由の中で、ビル・クリントン氏によるこの有名な選挙スローガンは最も印象に残るものです。2008年に起きた悲惨な金融危機の影響は2011年まで続き、中でも米国の連邦政府の財政は深刻な影響を受けました。
景気後退により、アメリカの各州は深刻な税収不足に陥り、高等教育制度の財政的要求を満たすことができなくなりました。例えば、米国最大規模を誇るカリフォルニア州の短大制度は、2008年から2012年の間に州の予算を約8億900万ドルが削減され、その結果、50万人が授業を受けられない事態に陥りました (Rivera, 2012) 。無料の MOOCs は、州知事の Jerry Brown の目には天から授けられた恵みと映ったのです(例えば To, 2014 を参照)。
政府の資金が急激に削減された結果、授業料が急上昇し、高等教育の実質コストが急上昇しました。米国の授業料は、過去10年間で年4%のインフレ率と比較して年7%で増加しています。ここでついに高等教育の高コストを抑える方策が現れたのです。
しかし、2015年までには米国の経済は回復しており、州の財源も歳入を取り戻していますので、高等教育のコストに対する根本的な解決策を求める圧力は緩和され始めています。経済が回復してもなお MOOC 熱が続くかどうかは興味深いところですが、より費用対効果の高い高等教育の追求が消えることはないでしょう。
ここで述べたものは全て MOOC 熱を駆り立てる強力な要因であり、だからこそ MOOCs の強みと弱みを明確かつ冷静に判断することがますます重要なのです。唯一の判断基準は MOOCs を使うことで、知識基盤型の社会で必要とされる知識とスキルを学習者が身につけることができるかどうかです。その答えはもちろんイエスであり、ノーでもあります。
正規の教育を低コストで補完するものとして、MOOCs はかなり有用ではありますが、完全な代替にはなりません。現在のところ MOOCs で学べるのは基本的な概念的学習やその理解、そして限定的な活動における知識の応用です。MOOCs は実践的なコミュニティを構築するのに役立つかもしれません。このようなコミュニティでは、既に教育を十分に受けたり、あるトピックについて深く共有された情熱を持っている人々が互いに学び合うことができます。
しかし、明らかに現時点での MOOCs は、変容的学習や深い知的理解、複雑な代替案の評価、そして証拠に基づく意思決定には繋がっていませんし、専門性に基づく学習者支援や、より質的な評価をしっかりと行わないのであれば、繋がることは決してないでしょう。その実現には少なくとも相当の費用をかける必要があります。
結局のところ選択肢は2つしかありません。つまり、MOOCs にもっと多くのリソースを投入し、コストを劇的に増加させることなく根本的な欠陥のいくつかが解決されることを願うか、あるいは、デジタル時代の学習者のニーズという点で、より費用対効果の高い学習成果が得られる他の形態のオンライン学習に投資するか、のどちらかなのです。
Bates, T. (2012) What’s right and what’s wrong with Coursera-style MOOCs Online Learning and Distance Education Resources, August 5
Christensen, C. (2010) Disrupting Class, Expanded Edition: How Disruptive Innovation Will Change the Way the World Learns New York: McGraw-Hill
Daniel, J. (2012) Making sense of MOOCs: Musings in a maze of myth, paradox and possibility Seoul: Korean National Open University
Hill, P. (2012) Four Barriers that MOOCs Must Overcome to Build a Sustainable Model e-Literate, July 24
Lyotard, J-J. (1979) La Condition postmoderne: rapport sur le savoir: Paris: Minuit
Rivera, C. (2012) Survey offers dire picture of California’s two-year colleges Los Angeles Times, August 28
Tapscott, D. (undated) The transformation of education dontapscott.com
To, K. (2014) UC Regents announce online course expansion, The Guardian, UC San Diego, undated, but probably February 5
Watters, A. (2012) Top 10 Ed-Tech Trends of 2012: MOOCs Hack Education, December 3
MOOCの熱狂について愉快に考えたいときは:
North Korea Launches Two MOOCs
“What should we do about MOOCs?” – the Board of Governors discusses
注:上記の2つのブログ投稿は風刺であり、フィクションです!
私はよくMOOCs に批判的な代表格とみなされますが、長年オンライン学習を支持してきた私にしてみれば、やや驚くべきことです。実際、私は MOOCs が重要な発展であると確信していますし、特定の条件下であれば非常に大きな教育的価値があると信じています。
しかし、いつだって背景は重要です。教育への需要や市場は1つだけではなく、たくさんあります。18歳で高校を卒業する学生は、何らかの経営教育を必要としている家族持ちの35歳のエンジニアとは全く異なる需要を持っているでしょうし、全く異なる背景で学びたいと思っているでしょう。 同様に、妻のアルツハイマー病の早期発症に苦労し、切実な助けを求めている65歳の男性は、高校生またはエンジニアと比べて全く異なる状況にあります。教育プログラムを設計するとき、それぞれの人に適する方法は異なるのです。こうした様々な背景を一気に解決できる特効薬や解決策はありません。
次に、あらゆる形態の教育について言えることですが、MOOCs をどう設計するかは非常に重要です。適切に設計されていない場合、特定の学習者が特定の背景で必要とする知識やスキルを育成できないという意味で、MOOCs はその学習者にとってほとんど、あるいは全く価値がありません。しかし設計を変えれば、MOOC はその学習者のニーズを十分に満たすことができます。
もっと具体的にお話ししましょう。cMOOCs には計り知れない可能性があります。というのも、生涯学習は今後ますます重要になるでしょうから。献身的で熱心な他の学習者と協力して共通の問題や関心のある分野について取り組むために、高い教育を受けている知識のある人々を世界中から集めることができる可能性は、教育だけでなく世界に広く改革をもたらすでしょう。
ただし、現在これを cMOOCs で行うことはできません。なぜなら、組織に所属しておらず、オンライン上のグループをどのように運営すればうまく行くかについて、既に知られている知見を利用していないからです。しかし、これらの教訓を学んだ上で適用すれば、cMOOCs は地球規模の健康や気候変動、市民権、およびその他の「優れた民間事業」の分野で、私たちが直面する大きな課題のいくつかに取り組むための素晴らしいツールになります。cMOOC の長所は、変革する意欲と力を持っている人々だけでなく、全ての参加者が取り組む問題を定義して解決する力を持っていることです。この章を締めくくるシナリオF では、cMOOCs をそのような「優れた民間事業」に利用する事例をご紹介します。
シナリオF で登場する MOOC は正式な教育に代わるものではなく、正式な教育を始めるにあたってのロケットのようなものです。この MOOC の背後にあるのは非常に強力な組織による資金源で、初期の推進力、操作の簡単なソフトウェア、全体的な構造、組織と編成を提供し、また、稼働時に重要な人的資源を提供します。しかし、それが教育機関である必要はありません。公衆衛生当局や放送機関、国際慈善団体、または共通の利益を持つ団体の連合体組織なども該当するでしょう。そして当然のことながら、たとえ cMOOCs であったとしても、企業や政府の利益によって操られる危険があるかもしれません。
xMOOCs が本当に脅威となるのは、学部レベルの多くの大学で行われている大規模な対面式の講義に対してです。MOOCs はそのような講義を置き換えるためには一層効果的な方法となるでしょう。xMOOCs は相互的であり、ずっと残るものですから、学習者は何度でも教材を見返すことができます。また、MOOC 講座を受け持つ教員たちが、MOOCs は教室での講義よりも優れていると主張しているのを聞いたことがあります。教員は教室での授業よりも MOOC により心を配り、努力を注いでいるのです。
しかし、私たちは大学のキャンパス内で、なぜこのような方法で教えているのかを疑問に思うべきです。今や教育用コンテンツはインターネット上のあらゆる場所(MOOCs を含む)で自由に利用できるようになりました。求められているのは情報管理なのです。つまり学習者自身が必要な知識を特定し、教育用コンテンツを評価し利用する方法を理解しなければなりません。xMOOCs はこのようなことをしてくれません。情報を事前に選択してパッケージ化するだけです。xMOOCs に対する私の大きな懸念は、デジタルの世界で必要とされる高次の知的スキルを伸ばすための、現在の設計が持つ限界です。残念ながら xMOOCs は21世紀型スキルを教えるためには全く適していない設計をキャンパスでの教育からオンラインに移しているだけなのです。一流大学の講義が配信されているからといって、必ずしも学習者が高度な知的スキルを身につけることになるとは限りません。さらに重要なことですが MOOCs では評価という観点からは、比較的少数の学習者しか達成しているとは言えず、このような学習者も主に知識の理解と限られた応用でしかテストされていないのです。
私たちは、デジタル時代のスキルの育成という点で MOOC よりも優れた教育的手法を持っていますし、実践してきました。例えば大学で行われている問題解決型学習や、発問に基づく学習がそうですし、単位取得が可能なオンライン授業では協働学習のような構成主義的なアプローチを利用する学習がそうですが、このような方法は簡単には拡大できるものではありません。深い知識を持つ専門家とそうではない初学者との間での相互作用は、今なお決定的に重要な意味を持ちます。このような相互作用を通じて物事の深い理解が可能になり、学びによって学習者は世界を異なる視点から捉えることができるようになり、根拠に基づく高い次元での批判的思考、複雑な代替案の評価、高いレベルでの意思決定ができるようになるというわけです。今日までのコンピュータ技術はこの種の学習を発展させるという点においては極めて不得手です。このような理由から、単位取得に基づく授業やオンライン学習においては教員と学習者の比率をなるべく小さくすることを目指す必要があり、同時に教員と学習者の間での相互作用には、多大な注意を払わなければならないのです。
しかし xMOOC は継続的な教育の一つの形態として、あるいは幅広い教育提供の一部となり得るオープンな教材としての価値があります。また、大学で行われる教育においても価値のある補助教材になりうるでしょう。ただし従来の教育や、単位取得できる現在のオンライン学習の設計に代わるものではありません。継続的な教育の一つの形態であるならば、修了率が低いことも、正式な単位が取得できないことも、大して重要ではありません。しかし MOOC を正式な教育の代替と考えるならば、それがたとえ教室での講義に代わるものであったとしても、修了率と学習評価は非常に重要なのです。
本当の危険は MOOCs が高額な公的高等教育制度を損なう可能性があることです。一流大学が無料で MOOCs を提供できるのであれば、なぜ低品質で高コストの州立大学が必要なのでしょうか。そのリスクは、はっきりと2層に分かれています。一方では比較的少数の優秀な大学が富裕層や特権階級に仕え、たっぷりの報酬につながる知識とスキルを育むのですが、もう一方では大衆が MOOCs で提供される授業を受け、そのような授業のために州立大学は最小限で低コストの学習者サポートを提供するのです。こんな具合になってしまうと、社会的、経済的には大惨事になる可能性が高いでしょう。というのも、この制度ではこれからの時代、優良な仕事に必要とされるであろう高次のスキルを持った十分な数の学習者を育成できないからです。自動化によって、ごく少数のエリートを除いてあらゆるまともな仕事が消滅すると信じているなら話は別ですが。(これは小説『ハンガー・ゲーム』の世界ですね。)
単位取得が可能なオンライン教育の場合、コンテンツは5年間で総コストの15%未満を占めます。質の高い成果と高い修了率を確保するために必要な主な費用は学習者サポートに充てられ、これこそが最も重要な学習機会を提供します。政治家やメディアによって喧伝されているような MOOCs は、この点において見事に失敗しています。一般的に教育のオープン化を目指す動き、特に MOOCs が、アメリカや他の国々でイデオロギー的および商業的な理由から、意図的に公教育を弱体化させようとする武器として使われることがないかどうか、よく注意する必要があります。オープン・コンテンツや OER、MOOC は、誰にとっても高品質であるという保証に自動的に結びつくわけではないのです。結局のところ、資金が充実した公的高等教育制度は、依然として大多数の人々に対して、高等教育への入口を保証する最善の方法なのです。
そうは言っても、そのシステムにも改善の余地は大いにあります。MOOCs やオープン・エデュケーション、そして新しいメディアは、改善に必要な多くの有望な方法を与えてくれます。次に紹介するシナリオF は、社会変化の中で必要とされる学びに対して MOOCs が与えてくれる可能性の一つです。ただし MOOCs は単位取得が可能なオンライン学習の利用、オープン学習、遠隔教育における先行研究によって分かっていることを基盤にしながら、多様な学習ニーズに適した方法で、講座やプログラムを設計しなければなりません。このような環境では MOOCs は1つの重要な部品になり得るのですが、異なるニーズを満たす他の形態の教育に代わるものではありません。
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あなたは財政問題に悩む中規模研究大学の副学長です。学長は理事会から、教育と学習における戦略的革新を、約5%の来年度運営予算削減の中で進めるよう求められています。
有力な理事会メンバーの一人は、財政問題の解決策として、大学が MOOCs を開発することを強く推し進めています。
学長は MOOCs に関する大学の戦略がどうあるべきか、そして MOOCs が教育および学習のための全体的な戦略にどのように当てはまる見込みがあるか、理事会に提出する説明文書の作成をあなたに求めました。あなたはどのように答えますか。
このWebセミナーでは世界中の参加者と話し合います。
ディスカッションや参加者のコメントなど、このトピックに関するWebセミナーの記録は、ここをクリックするとアクセスできます。
このWebセミナーでは、25分間のプレゼンテーションと、それに続く20分間の質疑応答が行われます。
このWebセミナーは、2015年9月29日にオンタリオ州の Contact North (Contact Nord) によって開催されました。
ここまでで教育と学習のための異なる設計モデルの議論を終わります。次の4つの章ではメディアの選択や配信方法の決定の詳細について議論します。ですが、まずは未来の MOOCs がどのようなものか、シナリオF で見てみましょう。
ベス・カーター:みなさんおはようございます、BBCラジオのベス・カーターです。Open University が昨日アナウンスしたところによりますと、同校の今や世界最大というオンライン講座に50万人が登録したそうです。この OU の MOOC 講座ではみなさんにおなじみの話題を扱っています。加齢と、それに伴う困難と機会についてです。
スタジオにはこの講座でコーディネーターを務めるジェーン・ダイソンさんをお招きしています。ジェーンさんは55歳で社会事業に関わってこられたそうですが、これほど大規模なテクノロジーに基づく講座を行う人には見えませんね。どうしてこんなことになったんですか?
ジェーン・ダイソン:(笑)ぜんぶ私のせいなんです!私は何年も前に OU を卒業していまして、OU のオンライン同窓会が、世界で最も緊迫した課題について卒業生に意見を求めていたんですね。このような課題に OU がどう対応できるのかと。私は最近、お年寄りやそのご家族、時には雇用主に対して、加齢とともに浮上する様々な課題についてたくさんアドバイスをしているんです。
OU にはこのような課題に関するたくさんの講座やオンライン教材がありますが、利用には学位取得のために登録しないといけません。そうすれば教材は手に入りますが、サポートが何もないんですね。それに、いくら OU でも正規の授業で扱うには課題があまりにも多すぎるんですよ。ですから私が提案したのは、様々な人たちが関わる MOOC 講座を開いてはどうかということでした。医療従事者や公務員、介護士、家族、そして最も重要な老人自身が、問題や課題、どういったサービスが利用できるのか、自分たちにできることは何かについて話し合えると思ったんです。
ベス・カーター:それからどうなりました?
ジェーン・ダイソン:OU から、地元の OU オフィスに来てくれと依頼があり、何人かのスタッフと会いました。そこで、このような講座をコーディネートする意思はあるかと尋ねられました。
ベス・カーター:MOOCs についてもう少し教えてくれませんか。MOOCs は約10年前は話題になりましたが、そこから下火になり、最近ではあまり聞きませんね。この MOOC 講座がこれほどの人気になった理由はなんですか?
ジェーン・ダイソン:初期の MOOCs の問題は、参加者が迷子になってしまうことでした。多くの MOOCs は講義だけで、参加者が互いに助け合うことは参加者次第だったんです。組織というものがなかったのです。OU が行なったのは「加齢」MOOC 講座に登録した人にとても単純なオンラインのアンケートに答えてもらい、どこに住んでるかとか、加齢についての専門家かどうか、本人が老人なのかその家族なのかといった、詳細を尋ねました。そのデータにもとづいて自動的に参加者をグループに分け、各グループに様々な参加者が混じるようにしました。
ベス・カーター:なぜそれが重要なのですか?
ジェーン・ダイソン:OU の教育技術センターは初期の MOOCs について研究を行なっていて、大規模なオンライン授業でうまくグループが機能するにはどうしたら良いかという課題を扱っていました。センターは KMI と呼ばれる OU の他の研究グループと共同で調査を行なっていたのですが、KMI は参加者をグループ分けするのに私たちが利用しているソフトウェアを開発している部局で、このおかげでグループ内の議論で浮上した課題について各グループに十分な数の専門家やサポートが配置されているんです。
ベス・カーター:それはどのように機能するのでしょうか?
ジェーン・ダイソン:話題にのぼる課題や話題の種類は信じられないほど多様です。例えば、父親や母親が認知症を患っているんですが、どうすれば助けになるのか分からない、切羽詰まっているという家族がグループのメンバーにいます。また、お年寄りのメンバーの中には、自分のことは自分でできると思っているのに家族から家を追い出されそうだと感じている人もいます。公務員のメンバーの中には、仕事量が多すぎてクビになりそうとか、訴えられそうになっている人もいます。そして、ただ単に年老いて孤独で、誰かと話したいというメンバーもいるのです。こうした参加者を全員オンライン上の議論フォーラムに入れると、その結果は驚くべきものです。大事なことは同じグループの中に助け舟の出せる十分な専門知識を持つ人をちょうどよい具合に混ぜること、そして、議論を仕切れる人をグループに入れることです。私たちはイギリスだけでなく、参加者のいる国々で利用できるサービスの膨大なリストを持っています。ですからこの講座はある意味では自助的な支援サービスなのですが、より大きな実践コミュニティに所属しているというわけです。
ベス・カーター:海外からの学生についてお話したいのですが、私の理解では、参加者のおよそ半数がイギリス以外からだとか。
ジェーン・ダイソン:そのとおりです。加齢人口の問題はイギリスだけのものではありません。OU は世界中のオープン大学と非常に緊密な繋がりを持っています。この講座の開始について話し合っているとき、OU は他のオープン大学のいくつかを訪問し、講座の参加に関心があるかどうか尋ねました。現在、この講座は英語で提供されているのですが、オランダ、ドイツ、フランス、スペイン、日本、カナダ、アメリカ、そして他の多くの国々から参加者が集まっています。他にスペインではスペイン語、バスク語、カタルーニャ語で教材を提供するミラーサイトを設けていますが、この議論フォーラムはカタルーニャのオープン大学が管理を担当しています。そのため、スペインだけでなくラテン・アメリカからの参加者もいます。私たちはまもなく中国のオープン大学とも同様の合意を結ぶ予定です。そうすればさらに50万人の参加が見込まれます。嬉しいことに参加者がたくさんいますから、常にバイリンガルの参加者がいて、ある言語で起こった議論を別の議論に翻訳してくれるんです。
ベス・カーター:次に何をするおつもりですか?
ジェーン・ダイソン:この加齢についての講座で常に議論の的になっている大きな問題のひとつは心の健康についてです。もちろんこれはお年寄りに限りません。この講座では既に国会に対して孤独な老人へのより良い福祉を求める請願書を提出しました。おそらく今後数年のうちにこの分野で明るい進展があると思います。OU は心の健康について同様の MOOC 講座を検討中のようですし、喜んでお手伝いしたいですね。
ベス・カーター:ありがとう、ジェーン。来週はオンライン・ギャンブルについてカウンセラーをお招きして議論します。
これはイギリスのオープン大学における2014年の教育・学習計画の一貫として開発された仮説シナリオです。
この章を読み終わると、以下のことができるようになります。
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教育におけるメディアとテクノロジーの本質と役割を理解し、メディアとテクノロジーを適切に使いこなせるようになることは、デジタル時代における教育を上手に進めるためにも欠かせません。この章はメディアの選択と利用について考えていく3つの章のうちの最初の章です。
この章では教育におけるテクノロジーの土台について重点的に述べます。そして以下のテーマを扱います。
加えて、この章には以下のアクティビティーが含まれています。
電子工学の技術者であっても、この写真の中で使われているテクノロジーの全てを列挙せよと言われたら、きっと困ってしまうことでしょう。いずれも2014年の時点での北米の家庭娯楽用のシステムで使われているものです。その答えはテクノロジーが何を意味するのかによります。
答えはもちろんこれら全てです。そして、これらを統合できる全てのシステムです。実際のところ、たった1枚の写真の中で使われているテクノロジーと言っても非常に多く、列挙しきれません。私たちはデジタル時代に浸かりきっています。教育分野は比較的、テクノロジーの導入では遅れていると言えますが、それでも例外ではありません。なぜなら学習も人間にとっては基本的な活動であり、テクノロジーが介入してくることとの相性は良いのです。場合によっては非常に良いとも言えるでしょう。さて、テクノロジーが浸透している時代では、教育の世界ではテクノロジーはどのような役割を果たすでしょうか。どのような長所(あるいはアフォーダンス)があり、そして何がテクノロジーの限界点なのでしょうか。何のために、どのようなテクノロジーを使うべきなのでしょうか。
以下の各章では、教育の文脈において理論的根拠と実用性の両面に基づいた、意思決定のためのフレームワークやモデルを提供することを目的とします。
これは簡単なことではありません。柔軟であるけれども、背景となる非常に多くの要因を、十分に扱えるようなモデルを与えるためには、深いレベルでの哲学的・技術的思考、そして実際に挑戦してみること必要です。例えば、教育に関する理論や信念は、様々なテクノロジーの選択と利用に強く影響を与えることでしょう。技術的な側面では、テクノロジーを分類することがますます困難になっていくでしょう。テクノロジーの進化があまりにも速いからというわけではありません。テクノロジーには異なる多くの強みやアフォーダンスがあり、どのような背景で使われるかによっても変化していくのです。実用的な側面として、単に教育におけるテクノロジーの特徴だけに注目するというのは間違いでしょう。他にも社会的や組織的な面、コストや利用のしやすさについても考えなければなりません。やはり教育や学習のためのテクノロジーの選択と利用は、その背景、価値、信念を軸に据えるのであれば、厳密な科学的根拠や理論の下で進めて行くべきなのです。つまり、たった1つの「最善の」フレームワークやモデルというものは存在しないでしょう。その一方で、急速に進化するテクノロジーを考えた場合、教員たちはテクノロジーによる決定(MOOCs?他の何か?)に対して開かれています。あるいは、このような選択や利用へ導いてくれるモデルがなければ、完全に教育からテクノロジーを締め出してしまうこともできるでしょう。
実際、教育のためのテクノロジーに関しては、答えを出さなければならない基本的な問いがまだあるのです。例えば、
このような問いは、のちにこの本で正面から取り組むべき難問です。しかし学生たちに教えなければならないカリキュラムに直面している教員の姿を考慮するならば、そして学習方法を探している学習者の姿を考慮するならば、あるテクノロジーを使うべきかどうか、それとも別のテクノロジーを使うべきかどうか、何らかの実用的なガイドが必要となることでしょう。この章と次の章では、学習体験が最適化されるように、このような問いに効果的かつ実践的に答えることができるモデルやフレームワークを示します。
ではここで、教育や学習のためのテクノロジーの選択について、あなたの今の考えをまとめてみましょう。
教育におけるテクノロジーの役割についての議論は、少なくとも2500年前に遡ります。教育におけるテクノロジーの役割とその影響について、より良く理解するためには、少しだけ歴史を振り返ってみなければならないでしょう。なぜなら過去の歴史から学ぶべき教訓があるからです。Paul Saettler による The Evolution of American Educational Technology(アメリカにおける教育テクノロジーの発達)(1990) は歴史的観点に立つ最も充実した記録の一つです。しかしこの記録は1989年で止まっています。それ以降、多くのことが起こりました。Teemu Leinonen も最近の出来事について貴重な記述を行なっています。(詳細はLeinonen, 2010を参照のこと) こちらも参照してください。: The Evolution of Learning Technologies.
ここで述べようとしていることは、ごくわずかな範囲での教育テクノロジーの歴史と、これについての個人的な振り返りです。
公式な教育における最古の手段は話し言葉によるものでしょう。つまり人間の声です。長い目でみると、口頭でのコミュニケーションは多くの場面でテクノロジーを促進し、支えてきました。古代においても口伝という方法で、物語や民俗的な事柄、歴史やニュースが伝えられ、正確に暗記させるための重要な役割を果たしました。現代でもなお、多くの先住民文化の中では口伝は重要な役割を担っています。古代ギリシアでは礼拝やスピーチは、人々が学び、学習に合格するための手段でした。ホメロスのイーリアスとオデュッセイアは口承詩であり、公演を目的としていました。これらを学ぶためには、人々は書かれたものを読むのではなく聞いて記憶し、そして文字ではなく朗読によって伝えなければなりませんでした。
しかし紀元前5世紀までには、古代ギリシアでも書かれた文書がかなりの数で存在していました。もしソクラテスの記述を信じるのであれば、以降の教育はますます堕落のらせんを辿っていることになります。プラトンによると、ソクラテスは暗唱ではなく、文字で書いたものを見ながら暗唱するふりをした生徒(パイドロス)を捕まえました。ソクラテスは、神テオスがエジプトの王に「記憶と知恵の両方に使える手段」として、どのように文字を与えたかという話をパイドロスに聞かせました。王は感心しませんでした。むしろ王は、
文字で書くと魂に物忘れを埋め込んでしまう。人々は記憶の訓練を止めてしまうに違いない。書かれたものに頼り切るのが目に見えている。内側にある記憶に頼らなくなってしまい、外側にある記号を手段にしてしまう。お前たちが見つけたものは記憶のための方法ではない。思い出すための方法だ。真実の知恵などない。それは教養の真似事に過ぎない。確かに何も教えないで学生たちに多くのことを伝えることはできる。しかし結局ほとんど身につけずに終わってしまう。知恵ではなく、知恵があるといううぬぼれに満たされた人間など、仲間にとって重荷になるだけだ。
Phaedrus, 274c-275, Manguel, 1996 を原典とする再和訳
私の以前の同僚たちもソーシャル・メディアについては同じように語っています。
石盤は12世紀のインドで、そして黒板とチョークは18世紀に移る頃に使われ始めました。第二次世界大戦が終わった頃、米軍はオーバーヘッド・プロジェクタを訓練の用途で使い始めました。その後、米軍での講義で一般的になり、1990年頃に電子プロジェクタとパワーポイントのようなプレゼンテーション用の機材へと大規模に置き換わるまで使われました。すなわち米軍こそが最もテクノロジーを使った場所であり、主に軍用やビジネス目的で使ったと言えます。つまり当初は教育目的ではなかったのです。
電話は1870年代に遡ります。多くの人が利用し、膨大な費用がかかったことから、遠隔教育を含め一般的なアナログ型の電話は、主要な教育用ツールには決してなり得ることがなかったものの、1970年代以降は音声会議を補うためのメディアとして利用されてきました。専用のケーブルやシステムと、専用の会議室を利用したテレビ会議は1980年代から利用されています。ビデオ映像を圧縮する技術の開発と、比較的安価なビデオ・サーバーが2000年代初頭に開発されたことにより、2008年の講義録画システム、すなわち教室での講義を録画したりストリーミング放送で流したりする仕組みの導入に繋がりました。インターネットを介した Web セミナーは、講義を届けるために広く用いられています。
このようなテクノロジーのうち、教育において、口頭でのコミュニケーションが基盤とならないものは何も登場していません。
教育において、文字、すなわち書き言葉の役割にも長い歴史があります。聖書によるとモーセは、十戒を書き言葉として伝えるために、おそらく紀元前7世紀頃には石盤への彫刻を使ったようです。ソクラテスは書き言葉の利用には強く反対していたとのことでしたが、言葉を書き記すことにより、伝達が解析しやすくなり、長い文での推論がしやすくなり、議論がはるかに伝わりやすく、歪みなく複製できるものになりました。その結果、一瞬で終わってしまう話し言葉のもつ性質が、ますます分析や批評の対象として広がっていきました。15世紀のヨーロッパでの印刷技術の発明は非常に破壊的なものであり、今日のインターネットと同様、多くの人が書き言葉による知識をはるかに容易に利用できるようになりました。書き言葉に対する印刷技術の爆発的な普及は、ますます多くの政府関係者や商業関係者に文字を読んで分析することを要求するようになり、ヨーロッパにおける公式な教育の急速な発展に繋がりました。ヨーロッパでのルネサンスや合理主義的啓蒙運動の発展、迷信や思い込みを推論や科学で打ち壊した背景には様々な要因が関係していましたが、印刷術がこの大きな変化の鍵を握っていたと言えます。
19世紀の輸送インフラの改善、そして1840年代に安価で信頼性の高い郵便システムが生まれたことで、1858年のロンドン大学による外部学位プログラムとしての最初の公式な通信教育が登場しました。ロンドン大学による通信教育は、現在でもロンドン大学国際プログラムとして継続されています。1970年代には高度な教育設計に基づいて特別に開発された、イラストが豊富な印刷媒体による教材を利用した統合的な学習活動を伴う、オープン大学による通信教育が行われています。
1990年代半ばに開発されたWebを基盤とする学習管理システムの発展に伴い、デジタル化された文字によるコミュニケーションはインターネット上での主要な通信手段となり、現在は講義録画システムも利用されています。
英国放送協会 (BBC) は1920年代、学校のための教育ラジオ番組を放送を開始しました。 1924年に BBC で放送された最初の成人教育のためのラジオ番組は「人間と昆虫の関係」であり、同年、BBC の新しい教育ディレクターである J.C. Stobart は Radio Times で「放送大学」への構想を打ち出しました (Robinson, 1982)。テレビが最初に教育のために用いられたのは1960年代であり、学校教育と成人教育を対象としていました。(現在でも BBC の王権法人団体設立許可における6つの目的のうちの1つは「教育・学習の推進」です。)
1969年、英国政府は BBC との協定によって大学レベルの番組を広く届けることを目的とした、オープン大学 (OU) を設立しました。ここでは OU の専門職員が執筆した印刷教材と、BBC のテレビ番組やラジオ番組を組み合わせることで学習コースをまとめました。ラジオ番組では主に口頭での伝達を想定していましたが、テレビ番組では講義形式はあまり取り入れられませんでした。その代わりに一般的なテレビ番組の手法である、ドキュメンタリーやプロセスの実演、事例紹介などに重点を多く置いていました (Bates, 1985を参照のこと)。言い換えれば、BBC はテレビ独特の「アフォーダンス」(この詳細は後で詳細します)に注目していたのです。時が経つにつれて録音用カセットや録画用カセットのような新しいテクノロジーが登場したこともあり、特に OU 番組でのラジオによる生放送は削減されましたが、現在でも世界中で一般的な教育番組が放送されています。(例えばカナダの TVOntario、アメリカの PBS、ヒストリー・チャンネル、ディスカバリー・チャンネルなど。)
テレビの教育への利用は1970年代から実験的に行われてきましたが、とりわけ世界銀行や UNESCO のような国際機関が発展途上国における教育の万能薬として利用するようになってから急速に世界中に広まりました。しかし発展途上国では電力不足、費用面、公共の場で利用可能なテレビの安全性、気候、教員たちからの反発、そして現地の言語や文化における問題が徐々に明らかになってきたことなど、こうした希望に対する実現可能性の低さが明らかになってきたことで急速に衰えていきました(例えばJamison and Klees, 1973などを参照のこと)。衛星放送は1980年代には利用できるようになっており「世界一流の大学から学問に飢えている全世界の人々に向けて配信する」希望が生まれましたが、同様の理由で急速に廃れていきました。しかし1983年に独自の人工衛星、INSAT を打ち上げたインドでは、現地で作られた教育テレビ番組を国内のいくつかの言語で全国で放送し、インド製のアンテナとテレビ受信機を学校や地域のコミュニティ・センターに配置しました (Bates, 1985)。インドは本書執筆時点の2015年でも人工衛星を使った遠隔教育を、国内で最も貧しい地域に対して提供しています。
1990年代、デジタル圧縮と高速インターネットが利用可能になったことにより、映像を作成し配布する際のコストが劇的に低下しました。そして映像の記録にかかるコストの低下は講義録画システムの開発にも繋がりました。インターネットがあれば、いつでもどこでも学生は記録された講義を視聴し、復習することができるようになったのです。マサチューセッツ工科大学 (MIT) は2002年、OpenCourseWare プロジェクトを経て、録画講義を無料で一般公開し始めました。YouTube は2005年に始動しましたが、Google によって2006年に買収されています。YouTube は短めの教育素材としてますます利用が増加し、ダウンロードやオンライン・コースとの統合が行われるようになっています。YouTube を使ったカーン・アカデミーは2006年に開始され、方程式やイラストのためにデジタル黒板を採用し、重ね撮りされた音声による講義が提供されています。アップル社は2007年に iTunesU を創設し、大学授業のビデオ教材やその他のデジタル教材が収集され、誰でも無料でダウンロードできるポータルサイトになりました。
講義録画システムが登場するまでは、学習管理システム (LMS) は基本的な教育のデザイン機能を統合するだけのものでした。そのため教員は教室型の授業をLMSに合わせて再設計する必要がありました。一方、講義録画システムでは、標準的な講義中心のモデルから変える必要がなく、いわば PowerPoint や黒板に書くだけのスタイルに支えられた、本来の口頭での伝達に先祖返りしたような印象でした。このような理由から口頭での伝達は今日でも強力に生き残っていますが、新しいテクノロジーに組み込まれながら馴染んできています。
本質的な話として、プログラム学習の開発では人間が介入することのないコンピュータ化された教育を目的としています。ハードウェアとソフトウェアの設計と、学習内容や評価のための質問を出題するための情報を構造化しておいたものを使い、学習者の知識をテストして迅速にフィードバックが提供されます。B.F.スキナーは1954年、行動主義理論に基づきプログラムされた学習におけるティーチング・マシンの実験を開始しました。(セクション2.3を参照)
スキナーのティーチング・マシンは、コンピュータを基盤とする学習の最初の形態の一つでした。コンピュータによるテストは、人間よりもはるかに容易に評価できるので、結果的に MOOCs では最近になってプログラム学習が息を吹き返してきています。
PLATO はもともとイリノイ大学が開発した一般的なコンピュータによる教育システムで、1970年代後半までには世界中のおよそ12の教育機関のメインフレームコンピュータを繋いだ数千台の端末から構成されるようになりました。PLATO はほぼ40年間に渡って非常に成功したシステムで、掲示板、メッセージ・ボード、オンライン・テスト、eメール、チャット・ルーム、インスタント・メッセージ、リモート画面共有、マルチ・プレーヤー・ゲームといった、オンラインでの主要な機能を組み込んでいました。
人工知能 (AI) を介して教育プロセスを複製しようとする試みは1980年代半ばに始まりました。最初に焦点が当てられたのは算数教育でした。しかし過去30年間に渡る大規模な教育研究への投資にも関わらず、ほとんどの結果は期待はずれに終わりました。コンピュータには学習者が学習する時、あるいは学習に失敗する時に起こる多種多様な現象に対応しきれないということが分かったのです。最近は認知科学や神経科学において詳細な研究が行われていますが、本書執筆時点では、基礎科学と科学的知見に基づいた特定の学習行動の分析や予想との間の溝は、依然として大きいです。
さらに最近では学習者の行動に基づいて反応を分析し、最も適切な分野に行き先を変えるという、適応学習も進化してきています。また、活動状況など学習者に関するデータを収集し、他のデータと結びつけて分析する、ラーニング・アナリティクスも関連する開発領域であると言えます。これらの開発については、セクション6.7 でさらに詳細に説明します。
1982年に開発されたアメリカの ARPANET はインターネット・プロトコルを利用した最初のネットワークでした。1970年代後半、ニュージャージー工科大学のマレー・トロフとロクサーヌ・ヒルツは、大学内部のコンピュータ・ネットワークを使い、ブレンド型学習の実験を行いました。彼らは教室での授業とオンライン・ディスカッション・フォーラムを組み合わせました。そしてこれを「コンピュータ媒介コミュニケーション」(CMC) と呼びました (Hiltz and Turoff, 1978を参照)。カナダのゲルフ大学では1980年代に、CoSy と呼ばれるソフトウェア・システムを開発し、販売しました。このソフトはオンライン上のディスカッション・フォーラムをスレッド化できるもので、現在の LMS に含まれる機能の先駆者です。1988年、イギリスのオープン大学は DT200 という科目を提供しました。ここでは OU の伝統的なメディアである印刷教材、テレビ番組、オーディオ・カセットに加えて、CoSy を利用したオンライン・ディスカッションでの議論を加えました。この科目には1,200人の登録学生がいたことから、最も古い「大規模オンライン科目」の一つとなりました。その後、コンピュータを利用した自動化またはプログラム学習と、ネットワークを利用した学生・教員間での相互のコミュニケーションの間で見解の相違が生じていくことになります。
ワールド・ワイド・ウェブが公式に立ち上がったのは1991年でした。ワールド・ワイド・ウェブは基本的にはインターネット上で動くアプリケーションの一つであり、一般の利用者がプログラミング言語に頼ることなく、文書やビデオ、その他のメディアを作ったり、リンクしたりできるものでした。最初のWebブラウザである Mosaic は1993年に利用できるようになりました。Web以前の時代では、文書を読み込んだり、インターネット上で素材を探したりするためには、長く時間のかかる方法が必要でした。1993年以降、様々なインターネット検索エンジンが開発されてきましたが、1999年に開発された Google は代表的な検索エンジンの一つとして浮上してきました。
1995年、Web上では WebCT(のちのBlackboard)のような学習支援システム (LMS) の開発ができるようになりました。LMS は学習目標を書いたり、学習者が活動したり、宿題について質問したり、ディスカッション・フォーラムになったりする「スペース」を提供するだけでなく、コンテンツを読み込んで整理することができるオンライン教育環境です。最初の完全オンライン・コースとして単位取得できるものは1995年に始まりました。LMS を使ったものもあれば、単に教材を PDF やスライドで読み込むだけのものもありました。教材は主に文書や画像でした。2008年頃に講義録画システムが現れるまで、LMS はオンライン学習が提供される主流な手段でした。
2008年までには、カナダの George Siemens、Stephen Downes、Dave Cormier はWeb技術を利用して、専門家の主催するWebセミナーでのプレゼンテーションやブログ投稿をリンクし、参加者側でもブログ投稿やツイート機能が提供された最初の「統合的な」大規模オープン・オンライン・コース (MOOC) の学習コミュニティを、2,000人以上の登録者を迎えて開始しました。これらのコースは誰に対しても開かれていましたが、正式な評価はありませんでした。2012年にはスタンフォード大学の教授が2人で講義録画を中心とした人工知能に関する MOOC を立ち上げ、10万人以上の学生を集めました。以降、世界中で爆発的に MOOC は広がっています。
ソーシャル・メディアはコンピュータ技術からすればサブカテゴリにすぎませんが、その開発は教育テクノロジーの中で独自の歴史的な発展を遂げています。ソーシャル・メディアは異なる幅広いテクノロジーを網羅しており、ブログ、Wiki、YouTube 動画、スマートフォンやタブレットのような携帯端末、Twitter、Skype、Facebook などを含んでいます。Andreas Kaplan, Michael Haenlein (2010) はソーシャル・メディアを以下のように定義しています。
インターネットによるアプリケーションの集合体であり、利用者間で独自に生み出したコンテンツの作成や交換ができる。そして仮想的な共同体やネットワークを使って情報やアイデアの作成・共有・交換ができる。
ソーシャル・メディアは若い世代や21世紀になって生まれた世代と強く結びついています。別の言い方をすれば、本書執筆時点では中等後教育の学生の多くと言えます。ソーシャル・メディアは公式な教育とも統合されつつあり、現在ではその教育的な価値は、例えば教室での学習の周辺にオンラインの学びの場を作ったり、講義の途中でツイートしたり、教員が評価したりするといった、非公式な教育の場面でも使われるようになってきています。このような学習に対する非常に大きな可能性は、第8章・第9章・第10章で詳しく述べていきます。
教育は長い時間をかけて徐々にテクノロジーを取り入れ、馴染んできていることが分かります。ここで学んでおくべきテクノロジーの、教育への利用における過去の有益な教訓が、いくつかあります。とりわけ、新たに発生したテクノロジーに関する主張は、真実でも、また新しいものでもないという可能性があるということです。また、新しいテクノロジーが古いテクノロジーを完全に置き換えてしまうことは滅多にありません。通常、古いテクノロジーは無線通信など、より専門的で「ニッチ」な領域で生き残ったり、例えばインターネットにおける動画のように、より「豊か」なテクノロジー環境の一部として組み込まれたりすることで生き残ります。
しかし、デジタル世代とそれ以前の全ての世代を区別するテクノロジーの発達は急速に進化しており、私たちの日常生活の中に浸透してきています。ですから、少なくとも教育テクノロジーの立場からは、インターネットの影響については、教育における1つのパラダイム・シフトとして記述しておく方が公平です。私たちは今なお、その影響を吸収しながら応用していく段階にあります。次のセクションでは、異なるメディアとテクノロジーが教育に果たす重要性について、より深く検討していきます。
ここに示した問題のうちのいくつかは、以下の節で明らかにしていきます。
Bates, A. (1985) Broadcasting in Education: An Evaluation London: Constables
Hiltz, R. and Turoff, M. (1978) The Network Nation: Human Communication via Computer Reading MA: Addison-Wesley
Jamison, D. and Klees, S. (1973) The Cost of Instructional Radio and Television for Developing Countries Stanford CA: Stanford University Institute for Communication Research
Kaplan, A. and Haenlein, M. (2010), Users of the world, unite! The challenges and opportunities of social media, Business Horizons, Vol. 53, No. 1, pp. 59-68
Leitonen, T. (2010) Designing Learning Tools: Methodological Insights Aalto, Finland: Aalto University School of Art and Design
Manguel, A. (1996) A History of Reading London: Harper Collins
Robinson, J. (1982) Broadcasting Over the Air London: BBC
Saettler, P. (1990) The Evolution of American Educational Technology Englewood CO: Libraries Unlimited
Selwood, D. (2014) What does the Rosetta Stone tell us about the Bible? Did Moses read hieroglyphs? The Telegraph, July 15
哲学者や科学者は、非常に長い期間にわたってメディアとテクノロジーの性質について論じてきました。日常言語では私たちはメディアとテクノロジーを区別することなく利用する傾向があるため、これらの区別は困難です。例えば、テレビは多くの場合、メディアとテクノロジーの両方に当てはまります。インターネットはメディアでしょうか。それともテクノロジーでしょうか。それがどうしたというのでしょう。
私はメディアとテクノロジーには違いがあるということを議論したいと考えます。そしてこの区別は、いつ、どのように利用するかという運用基準を求めている際には特に重要です。テクノロジーそのものに注目しすぎることは危険です。そして特に教育において、テクノロジーが利用される際の個人的、社会的、文化的な背景の中では、十分にその危険性が認知されていません。教育や学習では「メディア」と「テクノロジー」という用語は、その選択や利用について考えることまで含めた様々な意味を持っています。
テクノロジーには多くの定義があります。(優れた議論がWikipediaにありますので参照してください)本質的には、テクノロジーには、ツールについて基本的な言及をしたものから、テクノロジーを用いて開発したシステムまで、幅広い定義があります。ですから、
教育テクノロジーの面では、私たちは広義のテクノロジーとはどういうものであるかを考えておかなければなりません。インターネットのテクノロジーとは、単に道具の寄せ集めではなく、コンピュータや通信、ソフトウェアや規則、手続きや約束事を束ねたシステムなのです。しかし私は早速ここで「人類の知識における現状」という非常に幅広い定義を破り去ろうと考えます。ひとたび定義してしまうと、生活の様々な異なる側面を包含してしまいます。そして扱いにくい曖昧な定義になってしまう恐れがあるからです。
私自身、教育におけるテクノロジーとは、教育や学習を支援するための物や道具であると考える傾向があります。ですから、コンピュータや学習管理システムなどのソフトウェア、伝送や通信ネットワークの全てがテクノロジーです。そして印刷された本もテクノロジーです。テクノロジーとは多くの場合、電話回線やインターネットなど、テクノロジー・システムとして機能することを可能にするような、ツールと技術的なつながりの組み合わせも含みます。
しかし、私にとっては、テクノロジーやテクノロジー・システムは、それ自体の意味を伝えたり、作ったりするものではありません。何かをするように指令するまで、あるいは作動するまで、または人がテクノロジーと対話を始めるまで、彼らはただそこに座っているのです。では、ここでメディアについて見ていきましょう。
メディア(mediumの複数形)は同様に様々な定義を持つ語ですが、教育や学習に関連するテクノロジーの定義とは別の点で2つに区別される意味を持つ語であることを提案します。
‘medium’ という単語はラテン語から来ていますが、中間物という意味と、仲立ちや解釈をするものという意味があります。中間物を運ぶテクノロジーと同様、メディアは能動的なコンテンツの作成、意思疎通、そしてそれを受け取り理解する人を必要とします。
私たちは音や視覚などの感覚を使ってメディアを解釈します。この意味では、私たちはメディア「チャンネル」として文字情報、画像、音声、動画を捉えることができます。これらは意味のあるアイデアやイメージを仲立ちするものだからです。つまり、私たちがメディアを使う全てのやり取りは、現実の解釈であり、例えば文字を利用した著述、絵やデザインを利用した画像、おしゃべりや台本、録画することを利用した音声や動画といった、通常は人間を介する何らかの形式を含むのです。しかしメディアには2通りの参加方法があることに注意して下さい。一つは情報を作る側、もう一つは情報を受け取り、それを解釈しなければならない側です。
メディアはもちろんテクノロジーに依存しますが、テクノロジーは単にメディアの一つの要素に過ぎません。つまり私たちはインターネットについて、単に技術的なシステム、あるいは意味や知識を運ぶことを手伝ってくれる、独自性を持つ形式、あるいは象徴システムを運ぶものとして考えることができるでしょう。このような形式や象徴システム、そして独自性を持つ特徴(例えばTwitterの140字制限)は、情報を作る側にとっては計画的に作られるものであり、利用者の側には正しく解釈されるものである必要があります。さらに言えば、少なくともインターネットでは、人々は知識を作る側でもあり、そしてその意味を解釈する側でもあるのです。
このような文脈では、コンピュータの利用も一つのメディアであると捉えることができるでしょう。私はここで「コンピュータ」ではなく「コンピュータの利用」という用語を使います。というのは、確かに「コンピュータの利用」でもコンピュータを使うこととさほど変わりませんが、「コンピュータの利用」とすることで、何らかの形での参加や、構文の解釈を含むからです。メディアとしてのコンピュータの利用は、アニメーションやオンラインのソーシャル・ネットワーキング、検索エンジンの利用、デザインやシミュレーションの利用を含みます。Google の主要なテクノロジーには検索エンジンがありますが、私は Google を一つのメディアであると分類します。それは、Google にはコンピュータの利用の際の検索支援技術の他に、コンテンツとその提供者、そして検索の際に使う単語を決める利用者が必要だからです。つまり、意味の作成、やり取り、解釈の有無こそが、テクノロジーがメディアに変化するための追加の要件となるのです。
(訳注:原文では「コンピュータの利用」は computing という用語が使われています。この語には「コンピュータによる計算」という意味もありますが、第6章・第7章では「コンピュータの利用」で統一しました。)
教育のために知識を表現するという観点からは、以下のメディアを考えることができます。
それぞれのメディアの中には、小分類があります。例えば、
さらに言えば、これらの独自性を持つ象徴システムは、このような下位分類の中にも、やり取りに影響を与える様々な手法があります。例えば小説の筋書きと登場人物の利用、写真の構成、音声に効果を与える抑揚、映画やテレビにおける場面カットと編集、そしてコンピュータの利用の中ではユーザー・インターフェイスあるいはWebページのデザインです。異なる象徴システムとその意味の解釈との関係は、それ自体が研究対象であり、記号論と呼ばれます。
教育では、教室での授業もメディアとして考えることができます。また、テクノロジーやツールが利用されています。(例えば、チョークや黒板、 PowerPoint とプロジェクター)しかし主要な構成概念は、リアルタイムであり、同じ時間、同じ場所で、教員の介入や学習者とのやり取りがあるということです。オンライン教育、つまりコンピュータやコミュニケーション・ネットワークとしての意味でのインターネット、そして中核テクノロジーとしての LMS を使う場合は別の教育メディアであると考えることもできるでしょう。しかしこれは教員や、オンライン学習に欠かせない要素であるインターネットならではの独自性を持った背景の中にあるネット上の学習素材と、学習者の間で起こるやり取りでもあります。
教育的な観点からは、知識をどのように伝えるかという点において、メディアは中立的あるいは「客観的」なものではないということを理解しておくことが重要です。メディアは良くも悪くも、意味の解釈に対して、ひいては私たちの理解に対して、何らかの影響を与えるようにデザインされ、使われているのです。ですからメディアがどのように機能するのかという知識がデジタル時代の教育には欠かせないのです。とりわけ私たちの学習を促進するためには、テクノロジーよりもむしろメディアをどのように設計し適用するのが最も良いのかを知っておく必要があるでしょう。
長い時間の中で、メディアは一層複雑なものになってきました。例えばテレビのような新しいメディアでは、映像というメディアに対して、例えば音声のような、それよりも前の時代のメディアの構成要素を含んでいます。デジタル・メディアやインターネットは、例えば文字、音声、動画のような従来のメディアをますます取り込み、統合させています。また、新たなメディアの構成要素、例えばアニメーション、シミュレーション、インタラクションを加えつつあります。デジタルメディアがこのような多くの構成要素を取り込むようになると「豊富なメディア(リッチメディア)」になります。つまりインターネットの持つ大きな利点は、文字、画像、音声、動画、コンピュータの利用に代表されるメディアを全て含むことができるというわけです。
メディアが持つ第2の意味はさらに広いものであり、産業全体、あるいは特定のテクノロジーの周辺で構成される人間の活動における重要な領域を指します。例えば映画やテレビ、出版、そしてインターネットです。このように様々なメディアには、知識を表したり、構成したり、通信したりする、それぞれの方法があります。
ですから、例えばテレビでは、ニュース、ドキュメンタリー、ゲーム番組、アクション番組といった様々な体裁があります。一方、出版では小説や新聞、コミック、伝記などがあります。それぞれの体裁は重なりあう時もありますが、メディアの中には他のメディアとはっきり区別できる象徴システムがあるものです。例えば映画の中では、カット、フェード、クローズ・アップなど、他のメディアのものとは著しく異なっている技術があります。このように全てのメディアは独自の特徴や伝統を持っており、意味を引き出す方法や、解釈方法を補助したり、変化させたりしています。
最後に、報道機関に与える強い文化的背景があります。例えば、Schramm (1972) は、しばしば放送局では教育番組において、教員とは異なる専門的な基準や「品質」を評価する方法があることを発見しています。(そしてこのことはオープン大学のために作られた BBC の番組を評価するという私の仕事をとても興味深いものにしてくれています。)今日、この専門的な基準の「格差」は、テクノロジーを教育のために利用するという価値観や信念という点において、コンピュータ科学者と教育者の間にも垣間見ることができます。最も生々しく言うならば、誰が教育のためのテクノロジーの利用に責任を持つのか、誰が MOOC のデザインやアニメーションの利用について決定権を持つのか、というようなコントロールの問題に帰着します。
それぞれのメディアには、それぞれの教育効果や、できることがあります。同じ教育内容を異なるメディアに移しただけでは、そのメディアが持つ独自の性質の活用に失敗するだけでしょう。そのメディアをさらに前向きに使いましょう。これまでとは違った、より良い教育ができるようになります。そうすれば学生もより深く効率的に学べるはずです。この説明のために、教育メディアの研究者としての私自身の初期の事例を見てみましょう。
1969年、私は研究員としてイギリスのオープン・ユニバーシティに職を得ました。この時、大学は王権法人団体設立許可を受けたばかりでした。私はそこで任命された20人目のスタッフでした。私の仕事は簡単でした。BBC との提携によって低コストで単位を与えない遠隔教育プログラムを提供しようとしていたナショナル・エクステンション・カレッジ (NEC) が試作品として作った番組について調査していくというものでした。NEC では当初、プリント教材と、オープン大学が提供するラジオ放送・テレビ放送からなる一種の統合コース・モデルを開発しようとしていました。
同僚と私は、NEC の授業を受けている学生たちに毎週、アンケートを郵便で送っていました。このアンケートでは選択肢が決まっている設問と自由回答の設問があり、各コースを構成するプリント教材と、放送教材に対する学生たちの反応について尋ねました。我々はそれぞれのマルチメディア遠隔授業の設計の際に、どんな要素がうまくいき、どんな要素がうまくいかなかったのか調べていました。
私が分析を始めた時に特に気になったのは、自由回答の設問で書かれたテレビやラジオについての反応でした。プリント教材への反応は「冷めた」ものであり、合理的、冷静、批判的、建設的な意見が寄せられる傾向がありました。放送教材では逆に「熱い」回答が寄せられました。熱狂的、強く支持する、あるいは強い批判、時には敵対的、そして批判的な意味での建設的な意見は稀でした。ここに何か研究すべき事柄があるような気がしていました。
異なるメディアが学習者たちに与える影響は異なる、ということを素早く得られたことは最初の発見でした。しかしどのようにメディア同士が異なっているのか、なぜ異なっているのかに気づくまでにはかなりの時間がかかりました。以下に示すのは OU のオーディオ・ビジュアル研究グループで、私が同僚との共同研究で見出した結果の一部です。(Bates, 1985)
当時(そしてその後も長らく)Richard Clark (1983) などの研究では、異なるメディアを「適切で科学的な方法」で分析した際、有意差は認められなかったと主張していました。具体的には、教室での授業やテレビやラジオや衛星などの他のメディアとの間に差はなかったのです。今日でも、私たちはオンライン学習に関しては同様の結果を得ています。(例えば Means et al, 2010)
しかし(適合研究もしくは準実験的研究と呼ばれる手法を除けば)研究者たちが使う比較研究の手法として、これらは全く同じ条件のもとで行われなければならないという制約があります。つまり、科学的に厳しい条件で比較をするためには、仮に教室で授業をしたのであれば、テレビで授業をした場合と比較しなければならないのです。テレビのドキュメンタリー番組のように異なる方法を取り入れた場合、それは比較したことにならないのです。教室を基盤とした比較研究のためには、テレビで可能なこと、つまり教室での授業よりも優れたことは全て取り除かなければなりません。実際、Clark の主張において、2つの条件の間に学習の違いが見られたときは、この違いは異なる教育条件、つまり非教室空間での教授法が用いられた結果だったというのです。
重要な点は、異なるメディアは異なる方法で学習者を支援するために使われうるということです。このことで学習成果も異なってくるのです。ある意味では Clark のような研究者の主張が正しかったと言えるでしょう。教育手法こそが問題であると。しかし別のメディアを利用することで、より簡単に学習方法を支援することができうるのです。私たちの事例では、ドキュメンタリー風のテレビ番組を使って、分析力、理論的構築の応用、利用方法を理解させることを目的としています。一方、教室での講義は、学生に理論的構築の方法を正しく理解させようとすること、そして正確に思い出せるようにすることに重点を置いています。つまり、テレビ番組での学習効果を、教室での講義と同じ方法で評価するよう求めることは、テレビ番組の潜在的な価値を測定するには不当な方法です。この例では、両方の教育方法、つまり理解を促すためには言葉による説明の後でドキュメンタリー的手法を使った方が良かったのでしょう。(テレビ番組では両方ができる点に注意してください。教室での講義では片方しかできません。)
おそらくもっと重要なのは、多くのメディアを使うことが、1つのメディアを使うことよりも優れているという考え方です。様々な手法を使うことは、異なる好みを持つ学習者を学習に向かわせることに役立ちます。そして科目内容を別のメディアによって様々な方法で教えることにも役立ちます。その結果、より深い理解や、場面にあった様々なスキルの習得につながることでしょう。一方で、このような取り組みはコスト面においては不都合です。
オンライン学習では、文字、静止画、音声、動画、アニメーション、シミュレーションなど、幅広いメディアを組み込むことができます。私たちはインターネットの中で使われるそれぞれのメディアが持つ特性を理解する必要があります。また、その特性に応じて使い分け、時には統合することでより深く理解させ、幅広い学習成果やスキルを発達させていく必要があるでしょう。異なるメディアを使うことで、学習の個性化や個別化、つまり異なる学習スタイルや必要性に応じて、学習者をより良く引き合わせていくこともできるようになります。最も重要なことは、私たちは単に教室での指導を MOOCs のようなメディア授業に合わせるのは止めるべきであり、オンライン学習の良さが十二分に引き出せるように設計し直すべきなのです。
教育や学習のための適切なテクノロジーの選択に興味があるなら、あるテクノロジーの技術的側面だけを見るべきではありませんし、そのシステムが置かれている、より広い視野だけで捉えるべきでもありません。さらに言えば、教室で教える教員として、私たちが普段から抱えているような教育上の信念で捉えるわけにも行きません。私たちはそれぞれのメディアの独自性を、形式、記号体系、文化的価値の観点から検討する必要もあるでしょう。このような独自性は、メディアやテクノロジーのアフォーダンスと呼ばれるようになりつつあります。
メディアの概念を「テクノロジー」の概念と比べた場合、はるかに「柔らかく豊かな」ものであり、解釈の仕方が人によって異なる上、その定義は困難です。しかし「メディア」は便利な概念で、1対1の顔を合わせてのコミュニケーションをメディアに含めて考えることもできます。また、テクノロジー自体が意味を伝える手段ではないという事実も認めることができます。
新しいテクノロジーが開発され、メディア体系に組み込まれていくにつれ、古い形式や方法は新しいメディアへと引き継がれていきます。教育も例外ではありません。新しいテクノロジーはクリッカーや講義録画のように古い形式に「適応」していきます。あるいは私たちは学習管理システムと同様、仮想空間内に教室を作ろうとします。一方、メディアとしてのインターネットに備わった独自の特徴を活用する、新しい形式や記号体系、組織的設計が次第に発見されるようになってきました。こうした独自の特徴を同時進行ではっきりと観察することは、時に困難な場合があります。しかし私たちが日々開発しようとしている、e-ポートフォリオ、モバイル学習、アニメーションやシミュレーションのような無料の学習用素材、大規模な自律学習、オンラインのソーシャルグループは全て、インターネットに独特の「アフォーダンス」を活用した事例なのです。
さらに重要なことがあります。メディアを利用する際に避けて通れないことですが、なぜそのメディアを使うかについての意味を解釈する必要性を考えるのであれば、記号体系、文化的価値、組織の特徴を、コンピュータが認識し、理解し、適用できるといった、はるかに大きな能力を持つまでの間、少なくとも教育現場においてコンピュータを人間の代わりに使うのは大きな間違いでしょう。なぜならこれらを「読み取ること」は、異なるメディアの特性を知るためには欠かせない要素だからです。そして教育メディアとしてのインターネットの有用さや適切さを判断する方法として、教室の指導における記号体系、文化的価値、組織の特徴だけに頼ってしまうことも同様に間違っています。
私たちが正しく仕事をしようと考えるのであれば、教育の目的に応じた適切なメディア選択の際には、それぞれのメディアの利点と限界をより深く理解しておかなければなりません。しかし多様な背景上の要因が学習に影響を与えていることを考えると、メディアやテクノロジーの選定作業はどこまでも複雑になってしまうことでしょう。一方、教育領域においては、効果的な意思決定を単純なアルゴリズムや決定木で行うことは不可能です。しかしそうであったとしても、インターネットに依存しきっている現代社会では、それぞれのメディアを最大限に活用する方法を見極めるための運用基準が多少はあります。このような基準を開発するためにも、私たちは特に文字、音声、動画、コンピュータの利用それぞれにしかないアフォーダンスについて探求していく必要があるのです。これが次の章で取り上げる課題です。
Bates, A. (1985) Broadcasting in Education: An Evaluation London: Constables (out of print – try a good library)
Bates, A. (2012) Pedagogical roles for video in online learning, Online Learning and Distance Education Resources
Clark, R. (1983) ‘Reconsidering research on learning from media’ Review of Educational Research, Vol. 53, pp. 445-459
Kozma, R. (1994) ‘Will Media Influence Learning? Reframing the Debate’, Educational Technology Research and Development, Vol. 42, No. 2, pp. 7-19
Means, B. et al. (2009) Evaluation of Evidence-Based Practices in Online Learning: A Meta-Analysis and Review of Online Learning Studies Washington, DC: US Department of Education (http://www.ed.gov/rschstat/eval/tech/evidence-based-practices/finalreport.pdf)
Russell, T. L. (1999) The No Significant Difference Phenomenon Raleigh, NC: North Carolina State University, Office of Instructional Telecommunication
Schramm, W. (1972) Quality in Instructional Television Honolulu HA: University Press of Hawaii
If you want to go deeper into the definitions of and differences between media and technology, you might want to read any of the following:
Bates, A. (2011) Marshall McLuhan and his relevance to teaching with technology, Online learning and distance education resources, July 20 (for a list of McLuhan references as well as a discussion of his relevance)
Guhlin, M. (2011) Education Experiment Ends,Around the Corner – MGuhlin.org, September 22
Salomon, G. (1979) Interaction of Media, Cognition and Learning San Francisco: Jossey Bass
教育に対して有効に作用するそれぞれのメディアやテクノロジーの特性やアフォーダンスを正しく理解することで、それぞれのメディアやテクノロジーの長所と短所を明確にすることができます。そして、テクノロジーにどのような共通した特徴があるのか、あるいは違った特徴があるのかを知ることができます。
見ておくべき特徴は幅広く様々ですが、ここでは特に教育にとって重要な3つの観点に注目してみましょう。
これらの特徴を別々のものとしてではなく多面的な状態として見ていきます。以降ではメディアやテクノロジーが設計された、あるいは使われた形態に応じて、多面体上での異なる点に相当するものとして考えていきます。
大きく構造的に捉えるならば、「放送」メディア、すなわち主に一対多であり一方向であるメディアか、主に多対多なメディア、つまり双方向または複数につながる「コミュニケーション型」であるメディアかで区別できます。コミュニケーション型のメディアには、複数の利用者の間で通信の「権利」が均等に与えられるようなものも含まれます。
例えばテレビ、ラジオ、印刷教材は、主に放送型、あるいは一方向でのメディアです。利用者あるいは「受信者」は、「受信」した内容を別の内容に解釈したり、意図的に無視することはあったとしても「メッセージ」を変えることができないからです。ここでは動画を配信する技術(地上波放送、衛星放送、ケーブルテレビ、DVD、インターネットなど)については重要ではないことに注意しておく必要があります。いずれにせよ「放送」であり、一方向のメディアであることには変わりありません。インターネット技術の中にももともと一方向のものがあります。例えば、研究機関のWebサイトは主に一方向の情報伝達技術を利用しています。
放送メディアや放送テクノロジーの1つの利点は、全ての学習者に確実に同じ内容の学習教材が届けられることが保証されていることにあります。これは教員が十分な資格を持っていない、あるいは教員の質がまちまちな国では特に重要なことです。また一方向の放送メディアでは、伝達内容の品質を確実に保ちながら、配信組織が内容制御や情報統制をすることができます。放送メディアや放送テクノロジーは「客観的」な教育と学習が良いと考える人に支持される傾向があります。なぜなら「正しい」知識を、教育を受ける人全員に伝えることができるからです。一つの欠点は、教員と学習者の間でのやり取りを提供しようとするならば、追加の方法が必要だということです。
電話、テレビ会議、電子メール、オンライン・ディスカッション・フォーラム、ほとんどのソーシャル・メディアやインターネットはコミュニケーション・メディアやテクノロジーの例であり、これらの全てで利用者はコミュニケーションやお互いの通信ができます。また理論的には、少なくとも全ての利用者に対して技術的に平等な「権力」が与えられています。コミュニケーション・メディアの教育的意義は、教員と学習者の間でのやり取りを可能にするということです。そしておそらくもっと大きな意義は、たとえ参加者同士が離れた場所にいたとしても、ある学習者は他の学習者とのやり取りが可能であるということでしょう。
この分類については、もっとはっきり述べなければならない曖昧なもので、必ずしも厳密なものではありません。ますますテクノロジーは複雑なものになりつつあり、幅広い機能を提供できるようになっています。特にインターネットは単一のメディアとは言い切れないものであり、むしろこれまでとは異なる、そしてしばしば逆の特徴を持つ様々なメディアやテクノロジーが統合されているものです。さらには、ほとんどの技術はある程度柔軟なものであり、別の方法でも利用できます。しかしテクノロジーを広げすぎると、例えば放送メディアを使って xMOOC のように一層相互的なやり取りをできるようにしようとするならば、往々にして歪みが生じるものです。私はこの分類は有効であると感じますが、一方でそれぞれのメディアや技術の特性とはこういうものであると教義のように考える立場も分からなくはありません。つまり私はそれぞれの事例を別々に捉えているのです。
たとえ学習管理システム (LMS) のディスカッション・フォーラムのような機能によって双方向でのコミュニケーションができるとしても、私は LMS の主たる分類は放送メディアや一方向の技術であると捉えています。また、LMS の通信機能にディスカッション・フォーラムのような機能を追加する場合、主にプラグインとしてそこにたまたま埋め込まれているものは、格好いい見た目のデータベースに過ぎないということを主張されても構いません。実際、教育で必要な機能を全て盛り込みたいと考えるのであれば、様々な技術を組み合わせなければならないということに気づくことでしょう。そしてコストは増大し、複雑なシステムにならざるを得ません。
Webサイトはその設計の度合いに応じて、この範囲内のどこかに置かれます。例えば、航空会社のWebサイトでは、その会社の完全な管理の下、フライトを見つけたり、予約したり、座席指定したりすることができるという相互性を持ち合わせています。これはコミュニケーションとは言えませんし、Webサイトを書き換えることもできませんが、少なくとも何らかの相互性があり、ある程度までは個人的な好みに編集することができます。しかしフライト選択画面で表示されている文言を変更することはできません。だからこそ私は特徴について話したいのです。利用者とやり取りできる航空会社のWebサイトは放送メディアの数よりも少ないです。しかしこれとて「純粋な」コミュニケーションメディアではありません。航空会社が自身のWebサイトを制御しているため、顧客と航空会社ができることは同等ではありません。
ここで強調しておきたいことは、例えば YouTube やブログのように、コミュニケーション・メディアよりもむしろ放送メディア的と考えられる技術が多いものがある一方、例えば Facebook ページ上での個人的な話題のように、主にコミュニケーション・メディアでありながら、放送メディアの技術を一部利用しているというなソーシャル・メディアもあるということです。Wiki は明らかに「コミュニケーション」メディアと言えるでしょう。他のテクノロジーを導入せずに大きく変えることは難しいという特徴がある点は否めませんが、テクノロジーに対する教員、教材作成者、利用者の意図的な介入がテクノロジーのどこかの側面に影響を与えるかもしれないことは改めて強調されなければなりません。
放送メディアやコミュニケーション・メディアを使う際、教員の役割も全く違ったものになる傾向があります。放送メディアでは中心的な役割は教員にあり、教員自身が内容を選択して配信することが多いです。xMOOCs は優れた例です。しかしコミュニケーション・メディアでは、オンライン協働学習やオンライン・セミナーでよくあるように、教員の役割は依然として中心的なものですが、実践コミュニティ、すなわち cMOOCs のように、参加者全員、あるいはその多くの協力によって作られる学習の場面では、教員は中心的な立場ではないということもあるでしょう。
このように「権力」がどの側面にあるかは重要だと考えられます。ところで利用者や学習者が特定のメディアやテクノロジーを操る場面では、どんな「権力」があるでしょうか。歴史的に捉えてみると近年は学習者に大きな「権力」が移っていくような流れがあるように感じられます。より大きなコミュニケーション・メディアへの動き、そして放送メディアから離れていく動きは、教育に対して深い意味を持つものでしょう。もちろん社会にとっても同様です。
このような分析の手法は教室での指導のようなテクノロジーを使わないコミュニケーション手段、あるいは「メディア」にも当てはめることができます。小さいセミナーではコミュニケーション的な側面があるのに対し、講義形式には放送的な側面があると言えます。図6.4.3ではいくつかの一般的な技術について、オンライン・メディア、教室、放送的/コミュニケーション的な連続体に沿って並べてみました。
練習問題を行うときは、以下のことに注意しておくことが重要です。
したがって、あるメディアやテクノロジーが、放送メディア的かコミュニケーションメディア的かという連続体の中で、どこにぴったり当てはまるかについて考えることは、教育および学習の場面で使われるメディアやテクノロジーを決定する際の一つの要因です。
以下に挙げたものはどうでしょうか。
1. どれがメディアでどれがテクノロジーなのでしょうか。確認してみましょう。両方に当てはまるということもあるかもしれません。では一体どのような条件で、そう言えるのでしょうか。
2. あなたの経験から、それぞれのメディアやテクノロジーを図6.4.3の中に置くとしたらどこでしょう。なぜでしょうか。このことも書き留めておきましょう。
3. 分類上、何が簡単で何が難しいのでしょうか。
4. この連続体はあなたの教育でどのメディアやテクノロジーを使うかを決める際、どのように便利なのでしょうか。何が決めるのに役に立ちますか。
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メディアやテクノロジーが異なると、時間と空間における動作が異なります。これらの側面は重要です。なぜなら学習が容易になることもあれば困難になることもあり、また学習者を制限することもあれば一層柔軟にすることもあるからです。実際、時間と空間には密接に関係する2つの側面があります。
これらの違いはかなり明確でしょう。ライブ性のメディアとは定義上、対面型のイベントであり、講演会やセミナー、あるいは1対1の指導です。「ライブ」イベントでは参加者全員が同じ時に同じ場所にいることが必要です。ロック・コンサートの場合もあります。スポーツ・イベントや講演会の場合もあります。例えばセミナーのようなライブ・イベントは、感情的に強く保持された信頼を築こうとする時や、挑戦的な態度や地位に向かわせようとする時など、個人的な関係が重要である場合にうまく機能します。(学生の場合もあれば教員の場合もあります。)ライブ講義の教育的な利点は、学習者の強い感情に訴えることで、実際に発生する知識の転移を超越した励ましや勇気づけが行えるかもしれないことです。そして感情的な「力」を与えることで、学習者たちが学習する前にいたところから、新たな高みに上昇させる手助けをすることができるかもしれません。ライブ・イベントは定義上、一時的なものです。このことはよく覚えておく必要がありますが、一方で繰り返すことができないという特徴があります。もし繰り返す場合には、違った経験になるでしょうし、別の学習者に対しても行われることになるでしょう。つまり、ライブ・イベントには強い定性的あるいは感情的な要素があります。
一方、記録されたメディア、例えばビデオ・カセットやオーディオ・カセットの場合、それを所有する人であれば永久に利用できることになります。書籍や印刷物も同様に記録されたメディアです。記録されたメディアの重要な教育的意義は、学習者が同じ教材を、学習者に都合の良いタイミングで何度でも無制限に利用できるということです。
もちろんライブ・イベントも録音録画しておくことはできますが、記録されたメディアの映像を見ることと、生で同じスポーツの試合を見ることでは、違う体験をすることでしょう。とりわけ録画されたスポーツの試合では一般的に感情的な側面での感覚は低下します。特に試合の結果を知っている場合は尚更でしょう。「ライブ」のイベントを「熱い」、記録されたイベントを「冷たい」と考える人もいるのではないでしょうか。良い小説など、記録されたメディアであっても感動することはあったとしても、書かれた場面に居合わせることに比べたらはるかに異なる体験になるでしょう。
同期テクノロジーはコミュニケーションに関わる全ての参加者が同じ時間に集まる必要がありますが、同じ場所である必要はありません。
ライブ・イベントは同期メディアの一つの例ではありますが、ライブ・イベントと違い、テクノロジーによって全員が同じ場所に集まらなくても良い、同期的な学習ができるようになっています。ただし全員が同じ時間に集まっておくことが必要です。テレビ会議やWebセミナーは同期テクノロジーの一例であり、「ライブ」で配信されますが、全員が同じ場所に揃っていなくても構いません。同期テクノロジーには、他にテレビ放送やラジオ放送があります。放送される時には「その場所」にいなければいけません。さもなくば見逃します。しかし「その場所」に教員がいなくても構いません。
非同期テクノロジーは参加者が情報にアクセスする場面や、コミュニケーションする場面が時間的に異なっていても構いません。通常、参加者は場所と時間を選べます。全ての記録メディアは非同期です。書籍、DVD、YouTube 動画、講義録画システムによって記録され、オンデマンドでストリーミング配信できる講義、オンライン・ディスカッション・フォーラムは、全て非同期のメディアまたはテクノロジーです。学習者は時空を超えて自らの選択によってこれらの技術にログオンしたりアクセスしたりすることができます。
図6.5.2では時間と空間の組み合わせという観点からまとめた、主要なメディアの違いを示しています。
総合的に見て、非同期あるいは記録されたメディアには膨大な教育的利点があります。それはいつでも情報にアクセスできたりコミュニケーションを取れるというメディア特性があることにより、学習者に対して、より多くの操作性や柔軟性があるからです。教育上の利点は、多くの研究によって確認されています。例えば Means et al. (2010) はブレンド型学習の方が優れていたと述べています。その理由は、オンライン教材が学習者に対して、常に提示されていたために、より多くの時間を学習者が課題に割くことができたからです。
オープン大学での研究でも、学習者は学習コンテンツもフォーマットも全く同じであったにも関わらず、実際のラジオ放送よりもカセットテープに録音された方をはるかに好むということが分かっています。(Grundin, 1981; Bates at al., 1981) しかし音声のフォーマットがカセットテープに置き換わると、停止・巻き戻しのような制御が可能になるため、さらに大きなメリットにつながることが分かりました。また、学習者は放送を録音したカセットテープよりも、「設計された」カセット教材、特に文字やイラストなどと一緒に設計された、あるいは統合されたカセット教材から多くを学んだことが判明しました。これは例えば学生に数学の公式を説明する場合に特に貴重な研究となりました。(Durbridge, 1983)
この研究は同期テクノロジーから非同期テクノロジーへの一手として設計を変更することの重要性を強調しています。例えば、柔軟性や入りやすさという意味では、生の授業を講義録画システムによって録画したものであっても、あるいはいつでも教科書が利用できる状態であったとしても、利点はあることが予測できます。しかし、もしその授業や教科書が非同期型で利用できるよう設計されていたならば、そしてテストやフィードバックなどの活動が組み込まれており、授業を一旦止めて学生が調べ学習をしたり、参考文献を読んだりしてから授業に戻れるようになっていたならば、学習上の利点ははるかに大きいでしょう。
非同期型で記録され、教材資料をストリーミング配信できるように設計されているメディアにアクセスできる能力は教育の歴史の中では最も大きな変化の一つと言っても過言ではないでしょう。しかし高等教育における支配的な考え方は未だライブ講義やセミナーなのです。これまで見てきたように、ライブ型のメディアにも利点はあります。このようなメディアに独特な長所やアフォーダンスを活かすには、もっと対象を絞る必要があるでしょう。
放送メディア/コミュニケーション・メディアの区別と、同期/非同期の区別は別々の次元にあります。これらを区別して配置すると、図6.5.4のように異なる技術として4分割することができます。(ここで示した技術はほんの一部です。図の中に他の技術を追加しても構いません。)
インターネットがなぜこんなにも重要であるのかを考えてみましょう。それはこのようなメディアやテクノロジーを包み込むようなメディアであり、教育や学習に限りなく大きな可能性を与えているからです。私たちが望みさえすれば、インターネットというメディアは教育設計において、ありとあらゆるテクノロジーの特徴や次元を活かし、ほとんど全ての学習状況に当てはまるよう非常に具体的なものにしてくれます。
放送メディア・コミュニケーションメディア・同期・非同期のそれぞれについて長所と短所があることが分かりました。しかし今の段階で述べておかなければならないこととして、これらのテクノロジーをいつ使うか、あるいは結合して使うかを決定するための評価方法が必要であるということは否定できません。つまり特定の文脈における最適なテクノロジーの選択を決定できるような基準を設けなければならないと言えるでしょう。
Bates, A. (1981) ‘Some unique educational characteristics of television and some implications for teaching or learning’ Journal of Educational Television Vol. 7, No.3
Durbridge, N. (1983) Design implications of audio and video cassettes Milton Keynes: Open University Institute of Educational Technology
Grundin, H. (1981) Open University Broadcasting Times and their Impact on Students’ Viewing/Listening Milton Keynes: The Open University Institute of Educational Technology
Means, B. et al. (2009) Evaluation of Evidence-Based Practices in Online Learning: A Meta-Analysis and Review of Online Learning Studies Washington, DC: US Department of Education
セクション6.2では教育工学の歴史をかいつまんで説明しました。つまり、それぞれのメディアの進化が教育の中でどのように描かれてきたかについて、口頭での教育・学習から書き言葉による教育・学習、そして動画、最後にコンピュータの利用の順番で説明したというわけです。それぞれのコミュニケーション手段は通常、情報処理において必要とされる感覚あるいは解釈能力がどのぐらい多いかという点で、メディアの豊富さ(リッチ・メディアの度合い)とともに歩んできました。リッチ・メディアの度合いを定義する別の方法には、そのメディアによる通信で利用される記号体系があります。要するに最初の段階では文字情報しかなかったところに、グラフィックや図画が加わったということです。続いてテレビやビデオが静止画や動画しかなかったところに加わりました。コンピュータは今やインターネットを通じて、文字、音声、動画、シミュレーション、コンピュータ自身による計算、ネットワークも組み込むことができるようになっています。
ここで再び、上に示した図6.6.2を、リッチ・メディアの連続体という観点で見てみましょう。また、あるメディアの設計が連続体の中のどの場所に置かれるかということに影響を与えることもあるでしょう。例えば図6.6.2では、ビデオを利用した教育の様々な形態が青色で示されています。全てではありませんが、多くの場合、Ted Talks は主にテレビ講義のような形態で行われ、さらに xMOOCs にもなり得ます。カーン・アカデミーでは解説の声の他に動的な画像を使っています。また、Armando Hasudungan 氏によるバクテリアの構造を説明した YouTube動画 では、解説の声に加えて手書きの図を使っています。教育テレビ放送ではさらに幅広い映像技術を活用する場合があります。
一方、伝達される方法によって映像が増える場合や、逆に減る場合があったとしても、映像の持つ威力は伝達手段という点ではラジオや教科書と比較にならないくらい、はるかに豊かなものになることでしょう。記号体系という点で言えば、ラジオは決してリッチなメディアとは言えません。そしてキャスターが上半身だけ映っている場合であったとしても、記号的な意味ではラジオよりもよっぽど豊かであると言えます。ここでも、規範や評価的判断はありません。ラジオは、その特徴、つまりメディアの持つ記号体系を完全に活用するという意味では「豊か」であると言えるでしょう。上手に作られたラジオ番組は下手に作られたビデオよりも教育的に有効な場合が多いです。しかし知識の表現の面では、ラジオにできることはビデオにできることよりもメディアの豊かさは常に低いです。
しかし、リッチ・メディアを教育や学習のためにどのように利用すべきなのでしょうか。教えるという視点からは、リッチ・メディアは単一のメディアによるコミュニケーションよりも有利です。なぜならリッチ・メディアを使うことで教員はより多くのことができるようになるからです。例えば、特定の日と場所で発生している、数学的推論、実験、医療処置、内燃機関のキャブレターの分解など、過程や手順を観察するために、従来であれば学習者に出席を要求していた多くの活動は録画できるようになり、いつでも視聴することができるようになりました。時には、教室で提示するにはあまりにも高額であったり困難であったりするような現象であっても、アニメーション、シミュレーション、ビデオ録画、バーチャル・リアリティによって提示できたりもします。
さらに、それぞれの学習者は他の学習者と全く同じものを見ることができ、理解できるようになるまで何度でもその仕組みを見ることができます。実演の過程は録画の前の十分な準備によって正確さと明確さが一層確実になります。ビデオ動画と音声による説明の組み合わせは、様々な意味を持つ学習を可能にしてくれます。静止画像に表示させた文字と音声の組み合わせといった単純な組み合わせであっても、単一のメディアによる情報伝達よりも効果的であったことが研究によって分かっています。(例えばDurbridge, 1984を参照)カーン・アカデミーのビデオではダイナミックなグラフィックと組み合わせた音声の力をとても効果的に活用しています。コンピュータは学習者同士のネットワークを作ったり、学習者の入力に対して反応するといった、別の意味での豊富さを追加してくれます。
しかし学習者の視点からはリッチ・メディアでは注意が必要とされています。特に2つの重要な概念は、認知的過負荷とヴィゴツキーの指摘する最近接発達領域です。学習者があまりにも多量かつ複雑な情報にさらされた時、あるいは彼らが適切に処理しきれない程度に高速であった場合、認知的過負荷が起こります。ヴィゴツキーの最近接発達領域とは学習者が手助けなしにできることと手助けが必要なことの間の違いを指します。リッチ・メディアには非常に短い時間に高密度に圧縮された情報が含まれることがあり、その評価は学習者が解釈できるかどうかの準備に大きく依存します。
例えばドキュメンタリー映像は、複雑な人間行動や複雑な産業システムを説明するために有益ですが、学習者にとっては何を探したらいいのか、あるいはそのドキュメンタリー映像の中で描かれているどんな概念や原理を特定するのかといった点において、何らかの準備が必要でしょう。一方、リッチ・メディアの解釈は、デモンストレーションや具体例を使うことで明示的に教えることができるスキルです。(Bates and Gallagher, 1977)YouTube の動画は主に技術的な理由から8分程度の長さに限定されていますが(訳注:かつて YouTube では8分程度の長さの動画しか収録できなかった)これらは連続する50分の動画よりも簡単に吸収することができます。したがって、繰り返しになりますが、リッチ・メディアを教育的に利用する時は、学習者の理解を助けるための設計が重要です。
指導のためのメディアの選択において、最もリッチな、あるいは最も強力なメディアを選びたくなるのは自然な傾向でしょう。しかし、なぜ私はビデオよりもポッドキャストを使おうとするのでしょうか。実はいくつかの理由があるのです。
一般的な話として、まず求められるのは最も単純な伝達手段であり、それを使っていては学習目標が適切に達成できないという場合にだけ、より複雑でリッチな伝達手段を選択すべきでしょう。しかしメディアやテクノロジーを選択する際には、リッチ・メディアを使うかどうかについても考慮すべきでしょう。リッチ・メディアでは単一のメディアでは難しいかもしれない学習目標が達成できるかもしれないのです。
これは教育や学習についての意思決定に影響を与えうるメディアや技術の持つ最後の特徴です。次のセクションでは、全体像と要約を示します。
1. 「まずは最も単純なメディアを探すことが有益な運用基準である」という言説に同意しますか。
2. メディアやテクノロジーの利用にあたっての意思決定をする際、リッチ・メディアであるということはどのくらい重要でしょうか。
3. 図6.6.2で示した様々なメディアの連続体の配置に同意しますか。そうでない場合はどのように考えますか。
Bates, A. and Gallagher, M. (1977) Improving the Effectiveness of Open University Television Case-Studies and Documentaries Milton Keynes: The Open University (I.E.T. Papers on Broadcasting, No. 77)
Durbridge, N. (1984) Audio cassettes, in Bates, A. (ed.) The Role of Technology in Distance Education London: Routledge (re-published in 2014)
Sweller, J. (1988) Cognitive load during problem solving: effects on learning, Cognitive Science, Vol. 12
Vygotsky, L.S. (1987). Thinking and speech, in R.W. Rieber & A.S. Carton (eds.), The collected works of L.S. Vygotsky, Volume 1: Problems of general psychology (pp. 39–285). New York: Plenum Press. (Original work published 1934.)
私はこの章が幾分、抽象的で理論的に見えるかもしれないということを認識しています。しかしどんな学問領域であれ、その裏付けとなる基礎を理解することは大切です。これは教育におけるメディアやテクノロジーを理解する際に、特に強く当てはまります。なぜならこの分野は常に変化しているからです。ある年に主流であった教育メディアが、翌年もっと新しいテクノロジーの進化により、すっかり影が薄くなってしまうことはよくある話です。そのため、このように移り変わりの激しい分野では、毎年毎年いかなる変化が起ころうとも、常に変化しないように感じられる概念や原理に目を向けることが必要です。
この章を通じて強調してきた、我々が目指すべき方向をここで要約しておきましょう。
次の章ではあなたの答えに対して、より多くのフィードバックが提供されるでしょう。
1. 以下に列挙するメディアの主要な教育的特徴を見極める。
2. 様々なメディアに対して、適切な教育的役割を決定するための分析の枠組みを提供する。
3. どんな教育モジュールに対しても、この分析ができるようにする。
加えて、この章には以下のアクティビティーが含まれています。
教育と学習のために利用できるメディアは非常に幅広いです。特に、
前の章では、メディアやテクノロジーの3つの中心的な次元上への配置について明らかにしました。続く2つの章では、教える際にどのメディアを使うべきかを決める方法について説明します。主にこの章では、メディアごとの教育的な違いに焦点を当てます。次の章では、指導に用いるメディアやテクノロジーについて意思決定を行うときに使うモデルや一連の基準について説明します。
教育や職業訓練のために利用されるテクノロジーは、どんな決定であっても学習プロセスについての前提として埋め込まれています。そして私たちはこれまでこの本の中で、いかに認識論的な立場と学習理論の違いが教育の設計に影響を与えるか、そして教員が適切にメディア選択を決定する際に、この違いが与える影響について見てきました。ですから最初のステップは、あなたが何をどのように教えたいのかを決めることです。
このことは第2章・第3章・第4章・第5章で深く扱っていますが、要約すると、教育や学習のためにメディアやテクノロジーを選ぶ必要がある重要な論点が5つあります。
これらは順番に尋ねられるというわけではありませんが、たびたび、そして繰り返し尋ねられる質問です。それはメディアのアフォーダンスによって、別の指導方法や、当初想定すらされなかった学習結果をもたらす可能性があり得るからです。それぞれのメディアに独特の教育的特性を考慮するとき、これらによってどのようなコンテンツが網羅され、どのようなスキルが開発されるかによっては、何らかの変更が発生する可能性があります。したがってこの段階では、コンテンツと学習成果に関する決定は暫定的なものに留めておく必要があるでしょう。
それぞれのメディアにはそれぞれ異なる可能性、つまり学習の種類によって異なる「アフォーダンス」があります。指導の上手さの一つは、メディアと希望する学習成果が最大限に一致するかどうかを見極められることにあります。本章ではこれらの関係について見ていきますが、まずはこの話題についての膨大かつ優れた先行研究の要約から始めましょう。(例えば Trenaman, 1967; Olson and Bruner, 1974; Schramm, 1977; Salomon, 1979, 1981; Clark, 1983; Bates, 1985; Koumi, 2006; Berk, 2009; Mayer, 2009など。)
この領域の研究では、利用するメディアを決める際に考えなければならない3つの中心的な要素があることが示されています。
Olson and Bruner (1974) は、学習には2つの異なる側面があると主張しています。一つは事実、原理、考え方、概念、事象、関係性、ルールと法律に関する知識の習得です。そしてもう一つはこれらの知識をスキルの開発につなげていくための使い方を知ることです。繰り返しますが、これは必ずしも連続的なプロセスではありません。スキルを決定してから、その作業に必要なスキルを支える概念や原理を決定することも有効な方法と言えるでしょう。実際には多くの場合、どんな学習プロセスであっても、学習コンテンツとスキル開発は繋がっています。とは言え、テクノロジーの利用を決める際にはコンテンツとスキルは分けて考える方が便利です。
情報をコード化する際に利用する記号システム(文字、音声、静止画像、動画など)が異なるので、表現できるコンテンツはメディアによって様々に変化します。(Salomon, 1979) 第6章では様々なメディアにおいて、異なる記号システムを組み合わせることができることについて見てきました。記号システムを組み合わせる際にメディアが異なれば、それぞれのメディアを使ってコンテンツを表現する方法も影響を受けます。つまり、同じ科学実験であっても、直接体験すること、書き言葉で説明すること、テレビ放送されたものを録画すること、コンピュータ上でシミュレーションすることの間には違いがあります。また、同じ実験について、違う種類の情報を伝えるために、異なる記号システムが使われています。例えば、熱の概念は直接触ること、数学的シンボル(摂氏800度)、言葉(分子のランダムな動き)、アニメーション、実験の観察によって伝えることができます。私たちの熱に対する「知識」は静的なものではなく、発達段階に応じた結果なのです。学習の大部分は、様々なメディアや記号システムを通じて獲得したコンテンツの心的統合を必要とします。このような理由から、概念や考え方をより深く理解することは、多くの場合、様々なメディアに由来するコンテンツの統合の結果です。 (Mayer, 2009)
そしてメディア自体も、具体的な、あるいは抽象的な知識を扱うことができるかどうかという点において違いがあります。抽象的な知識は主に言語を介して処理されます。全てのメディアは書き言葉や話し言葉の形で言語を扱うことができますが、具体的な知識を伝える能力には違いがあります。例えばテレビでは、抽象的な概念を具体的に伝えることができます。つまり具体的な出来事を動画で、抽象的な出来事の分析は音声で伝えます。うまく設計されたメディア利用は、学習者を具象から抽象へ、そして再び具象へと移動させることができますので、さらにもう一段階、深い理解へと誘うことができます。
メディアはコンテンツを構造化する方法によっても違いがあります。書籍、電話、ラジオ、ポッドキャスト、対面指導は全て直線的かつ連続的に情報を伝える傾向があります。このようなメディアでは並列した活動を提示することができますが(例えば印刷物では別の章で同じ出来事を違う視点から伝えることができます)連続的にそのような活動を提示する必要があります。コンピュータやテレビでは、同時に発生している複数の出来事の間の関係性を、より分かりやすく伝えたり、シミュレーションしたりすることができます。また、コンピュータは通常は予め定義された範囲内で、情報の分岐や異なる経路を辿った場合を扱うことができます。
テーマによっては、どのような情報を組み込むべきかが大きく異なります。例えば自然科学や歴史のような領域では、学問分野の内部で定められた特定の論法によってコンテンツが構造化されます。この構造化は、特定の順序や異なる概念の間の関係を重視するといった、非常に窮屈で論理的なものであるかもしれません。あるいは学習者に対して自由な議論や直感的な考えを要求しながらも、高度に複雑な現象についての検討を必要とするような、開放的で緩やかなものかもしれません。
情報が象徴的に提示される方法と、様々な領域で必要とされる構造を扱う方法の両方がメディアによって異なるのであれば、要求される提示方法とテーマの主要な構造に最もよく適合するメディアを選択しなければなりません。ですから、テーマ領域が異なれば、別のバランスでのメディア利用が必要となるというわけです。つまりメディアの選択と利用には、本当に選ばれたメディアによって、当該分野における提示的要件や構造的要件ときちんと一致しているかどうかを確認するため、それぞれの分野の専門家たちが深く意思決定に関わる必要があるのです。
メディアは様々なスキルを開発するのに役立つことができる範囲も異なっています。ここでのスキルとは知的なものから精神運動に関わるもの、そして感情的(情動的、雰囲気的)なものまでを範囲に含めて良いでしょう。Koumi (2015) は Krathwohl (2002) によるブルームの学習目的の分類 (Bloom, 1956) の改訂版を使い、文字と動画による学習目的のアフォーダンスを Krathwohl の学習目的の分類に割り当てました。
「理解」はほとんどの教育コースにおいて、知的な学習成果の最低限のレベルと言えるでしょう。例えば Marton and Säljö, 1976 のような先行研究では、表層的な理解と深層的な理解を区別しています。最高レベルのスキルは、学習したことを新しい状況に「応用」できることです。このためには分析、評価、そして問題解決のスキルが必要になります。
したがって、最初のステップは、一部のメディアを使うことが学習成果の面で新たな可能性を生み出すかもしれないということを認識しながら、それぞれの学習目標や成果について、コンテンツとスキルの両方から確認することです。
「アフォーダンス」は心理学者の James Gibson (1977) が、ある物体の環境に対する可能性として知覚できるものを説明するために最初に提唱した用語です。例えばドアのノブは利用者に回すか引っ張るかで開けることを知覚させるものであり、平らなプレートのついたドアは押して開けることを知覚させるものです。この用語はインストラクショナル・デザインやヒューマン・マシン・インタラクションを含む、多くの学問分野で取り入れられました。
つまり、あるメディアが持つ教育学的アフォーダンスとは、そのメディアを特定の教育的な用途で利用できうるかどうかということと関係があります。しかしアフォーダンスとは利用者(この場合は教員)の主観的な解釈によるものであり、そのメディアに固有ではないはずの方法で、あるメディアを利用できるということが頻繁にあり得るということに留意しておく必要があります。例えば、動画を使うことで講義を録画して配信することができます。その意味では、講義と動画には少なくとも1つ、アフォーダンスが似ているところがあります。また、学習者が教員の意図した通りにメディアを使わないこともあり得ます。例えば、Bates and Gallagher (1977) は社会科学専攻の学生の一部が、概念の提示ではなく、知識の応用や分析を必要とするドキュメンタリー形式のテレビ番組には反対したことに気づきました。
私自身もそうですが、他の研究者たちは「アフォーダンス」よりも、「メディアの持つ独自の特徴」という言葉を使ってきました。なぜなら「独自の特徴」はメディアを利用する際に、他のメディアでは簡単に真似のできないような特定の用途があることを示唆するからです。したがって、メディアの選択と利用について、より優れた弁別性を持つものとして機能します。例えば、機械的なプロセスのスローモーションを見せるために動画を使うことについて、不可能ではないにせよ、他のメディアによる置き換えはかなり困難です。
メディアの性質について主観的な解釈を取り入れるわけにもいきませんし、メディア自体が柔軟であるという特徴がありますので、結論を急ぐわけにはいかないことには留意した上で、ここから先の議論では、私は一般的なアフォーダンスよりもむしろ、他にはない独特のアフォーダンスに重点を置きながら進めていきます。
続くセクションでは以下のそれぞれのメディアに独特な教育的特徴の一部としてどのようなものであるかの考察を試みます。
厳密に言えば対面授業もメディアの一種ではあるのですが、対面授業に独特な特徴については、配信方法について述べる第9章で詳しく扱います。
それぞれのメディアについての分析を開始する前に重要なのは、この章での私の目標を理解していただくことです。私は決してそれぞれのメディアに独特な教育的特徴について、最終的な一覧を提供しようとしているわけではありません。教育の背景は非常に重要ですし、それぞれの特徴を生き生きと再現できるほど科学は強力なものではありません。ですから私は続くセクションでは、それぞれのメディアについての教育的なアフォーダンスの考え方を提案します。その中でそれぞれのメディアに関する最も重要な教育的特徴について、私の考えを説明しましょう。
しかし、それぞれの学問領域で皆さんは働いているわけですから、一人一人で異なる結論があっても良いでしょう。大切なのはそれぞれのメディアについて、教員の皆さんがそれぞれの学問領域でどのように教育的に貢献できるかを考えることです。そしてそれぞれのメディアの主要な教育的特徴と同様に、学習者のニーズと学問領域の性質の両方を強く理解することが重要です。
メディア間の違いを説明したポッドキャストを聞いてください。(英語)
ポッドキャスト 7.4.1 トニーの毛むくじゃらの犬の物語:再生ボタンをクリックしてください。(41秒)
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Trenaman, J. (1967) Communication and Comprehension London: Longmans
グーテンベルクの印刷術の発明以来、印刷は最も有力な教育技術であり、議論の余地はあるにせよ、少なくとも教員による話し言葉と同じくらい影響力があるものでした。今日でも、教科書は主に印刷された形で提供されており、デジタル形式のものも増えていますが、それでも公式の教育、研修、そして遠隔教育では大きな役割を果たしています。多くの完全オンラインコースは依然として、文字ベースの学習支援システムと非同期でのディスカッションフォーラムが広く用いられています。
なぜそうなのでしょうか。情報技術の最新の動向から考えても、なぜ文字はこんなにも強力な教育メディアであり、今後も変わらないのでしょうか。
文字は様々な形式で提供することができます。例えば印刷された教科書として、テキストメッセージとして、小説として、雑誌記事として、新聞記事として、落書きメモとして、日誌として、エッセイとして、オンラインの非同期型のディスカッションとして。他にもいろいろあります。
文字の重要な記号システムには数学記号を含む書き言葉があります。また静止画像の重要な記号システムには図表や写真、絵画のようなイメージが含まれます。色は、化学、地理学、地質学、美術史など、一部の分野では重要な属性です。
文字に独特な表現力の特徴は次のとおりです。
これらの特徴は他のメディアとも重なる部分がありますが、他のメディアではこれらの特徴を組み合わせたりすることはできませんし、ましてや文字や静止画像ほどの強力な特性をそれぞれのメディアが持っているわけではありません。
この本の最初の部分(セクション2.7)で、私は学術的な知識とは特定の形を持つことで他とは区別できる知識であり、とりわけ直接的な個人的経験のみに基づく知識や信念とは異なるものであることを議論しています。学術的な知識とは推論と証拠に基づいて抽象化と一般化を求めた、二次的な形式の知識です。
学術的な知識の基本的な特徴や基準は、次の通りです。
文字は上記の4つの要件を全て満たしています。このような理由から学術的な学習にも欠かせないメディアなのです。
文字の持つ力には抽象化や証拠に基づいた議論や、書かれたことから独立した分析や批評に適しています。ですから文字は分析、批判的思考、評価などが必要とされるような学術的に高い学習成果を開発する際には特に有効です。
例えば、過程を示したり、手を使う技術を身につけることにはあまり向いていないでしょう。
文字は様々な形式で使うことができますが、ここでは学術的な意味での学習を中心に据えるため、特に本の持つ役割に注目したいと思います。本は学術的な知識を提示するために必要な4つの特徴を全て持ち合わせています。ですから本は学術的な知識の開発や伝達には非常に強力なメディアであることが証明されています。では、ブログや Wiki、マルチメディア、ソーシャル・メディアは、本の持つ学術的な意義をどの程度まで置き換えることができるでしょうか。
実際、新しいメディアでもこの基準のうちの一部は持ち合わせています。また、複製のスピードやどこでも手に入るという意味では、実際のところ付加価値があると言えます。それでもなお、本には独自の特徴があります。本の主な利点は、持続的で首尾一貫性を持つ包括的な議論が、その主張を支持する証拠とともに組み立てることができるということにあります。ブログは限られた範囲でしかこれを行うことができません。(そうでなければブログではなくなるでしょうし、記事やデジタル書籍になってしまうでしょう。)
時に量が重要になることがあります。本の場合、大量の証拠の収集とそれを支持する議論ができ、ある問題点やテーマについて、比較的簡潔で携帯可能な形式で、包括的な説明を行うことができるようになります。証拠や別の角度からの説明、あるいは反対の立場を伴う、一貫性があり十分に支持された議論を行うには、本の「余分なスペース」が必要です。何よりも本には一貫性があり、私たちの注意を常に引きつけようと競い合う、多くの新しい形式のデジタルメディアの混沌や混同に対してうまく釣り合いが取れた、特定の立場からの問題解決を提供できる可能性があります。しかし本よりもはるかに小さい「かたまり」では、全般的にみて統合や理解が難しくなります。
別の側面から見た文字の重要な学術的特徴は、大抵の場合は直線的に書かれており、一旦公開されると永続的であるため、証拠や合理性、一貫性を伴っているかどうか、厳密な異議申し立てや鑑定が可能になるという理由もあるのでしょうが、注意深く精査分析できること、そして常に内容を確認できるということです。記録されたマルチメディアではこのような基準に近づくこともできますが、いっそう手軽に、そしてメディア用語で言うところの平易性を提供することができます。例えば、同じように厳密な(あるいは同じようにずさんな)議論が行われている場合でも、不確定要素や記号システムが多く組み込まれた動画の分析は、直線的に書かれた文字の分析よりもはるかに複雑です。
本の形や技術的な意味での表現可能性について、まだ他に何か重要なところがあるでしょうか。印刷された文字として読むのではなく、iPad や Kindle にダウンロードして読んだとしても、本であると主張して良いのでしょうか。
知識の獲得を目的とする場合は全く同一と言っても良いでしょう。確かに、研究を目的とする場合はデジタル版の方がはるかに便利と言えるでしょう。なぜならiPadを持ち歩くことで何百冊もの本をダウンロードして持ち運んでいるわけですから、同じ本の印刷版を持ち運ぶよりもはるかに好ましいでしょう。電子書籍では書き込むことが難しいという苦情が学生から時折寄せられますが、将来ほぼ確実に利用できるようになる標準機能になるでしょう。
本全体がダウンロードされる場合でも、本としての機能はデジタル版として利用できるという点には変わりありません。しかし、小さな違いがいくつかあります。印刷版をスキャンする方が簡単だと主張する人もいるはずです。これまで印刷版と比較して電子書籍の方が特定の引用を探しにくかったという経験はありますか。確かに検索機能を使うこともできます。しかし、それは正しい単語や、引用されている人の名前を正しく知っている場合に限られます。書籍版であれば、探している内容が正確に分からなかったとしても、ページをめくっていくことで引用すべき箇所を文脈や目視によって素早く探すことができます。一方、探しているものを確実に知っている場合(例えば特定の著者を参照する場合など)では、デジタル版の方がはるかに簡単でしょう。
書籍がデジタルで利用できる場合には、興味のある章だけを選択してダウンロードすることもできるかもしれません。欲しいものが分かっている場合には価値があると言えますが、同様に危険もあります。例えば、私の書いたテクノロジーの戦略的管理に関する本 (Bates and Sangrà, 2011) では、最後の章で本の全体をまとめています。仮にその本がデジタル化されているとしましょう。最後の章だけをダウンロードしたくなりませんか。本を読むことで伝わる重要な主張を全て所有していると言えますか。違いますね。結論に至る証拠は理解できないままになってしまうでしょう。
戦略的管理に関するこの本は事例研究に基づいています。ですから、どのようにそれぞれの事例から結論が導き出されたかを理解することが非常に重要になるでしょう。というのは、読者として結論に自信が持てたかどうかに影響を与えることになるからです。最後の章だけをデジタル版でダウンロードしても、本全体の文脈は分からないでしょう。要約した章だけでなく、本全体を読んでこそ、読者は解釈し、独自の結論を導く自由が与えられるのです。
結論として言えることは、本をデジタル化することには長所と短所があります。しかし最も重要な部分は、通常の書籍と電子書籍ではさほど大きくは変わりません。
私たちは新しいメディアが古いメディアを駆逐してしまうわけではないということを歴史から学んでいますが、古いメディアは新しい「隙間」を見つけるものです。このため、テレビはラジオを完全に消滅させるには至りませんでした。同様に、本は学術知識においては継続的な役割を果たし、学術界でも新しいメディアや形式の脇で(デジタルであろうと印刷されたものであろうと)本は繁栄し続けることでしょう。
しかし、学術的な価値を持つ本はこれまで以上に、その様式と目的がはるかに具体的なものでなければならないでしょう。例えば、統一された議論や一貫したデータが全ての章で共有されるような強い関連性や編集上の影響力がない限り、弱いつながりはあるものの異なる著者たちが独立しながら各章を分担するような形で書かれた本には、もはや未来はないと考えています。何よりも本の持つ機能の一部として、読み手との相互作用や、読み手からの「入力」をこれまで以上に受け入れ、外の世界に対して繋がりを持てるような役割に変わっていかなければならないでしょう。印刷された書籍は今後も生き残るでしょうが、このようなことは不可能です。というのは、デジタル書籍であれば多くの機能を追加できるようになり、環境への負荷も減らしつつ、これまで以上に持ち運びやすく、また転送もしやすくなるでしょう。
最後に、このことは新しいメディアの学術的な利益を無視するための議論ではありません。知識を表現するための静止画像、動画、アニメーションの持つ価値や、他の学習者たちと非同期で交流できる機能、そしてソーシャル・ネットワークの価値は学術界ではまだ十分に活用されているとは言えません。それでも文字や本は今なお重要です。
これについての別の観点は Clive Shepherd 氏によるブログ「伝統的な本を出版することの利点を評価する」をご覧ください。
私は文字と印刷された知識に関する伝統的な重要性があることを鑑み、特に文字および学術的知識に焦点を当ててきました。しかし、文字に独特な教育学的特性は、他の形態による知識にとってはさほど重要ではないかもしれません。実際、マルチメディアが職業教育や技術教育では、より多くの利点を持つのかもしれません。
小学校・中学校・高校ではデジタル時代になっても読み書きが欠かせないものとして残り続けるでしょうから、文字と印刷物は重要な位置を占めることになるでしょう。ですから文字を使った学習は(それがデジタルであれ印刷物であれ)読み書きのスキルを鍛えるために重要であり続けるはずです。
確かに、文字の限界の一つは、効果的に教育や学習に利用しようと思えば、それ自体を読み書きできなければならないという高いレベルの「技能」が必要です。また、確かに教育と学習の大部分は、文字で書かれた内容を正確に読み取る能力の育成に重点が置かれます。デジタル時代においても、マルチメディアのリテラシー能力の発達にはできるだけ多くの注意を払う必要があるべきです。
あなたの教える科目領域で、知識を提示したりスキルを発達させたりするために文字が必要不可欠であるならば、どのような観点が評価に関わるでしょうか。もし学習者に文字を使うスキルの発達を期待するなら、おそらく文字は評価のための重要なメディアと言えるでしょう。学習者は文字を使って抽象化、議論、証拠に基づく推論を提示することで、自身の能力を示す必要があるでしょう。
このような状況においては、多肢選択式の質問に答えさせたり、マルチメディアによるレポートよりも、むしろ文字を使った組み立て、すなわちエッセイやレポートといった方法で回答する必要があるでしょう。
音声、動画、コンピュータの利用など、他のメディアに関しても幅広く研究が行われてきましたが、文字はこれまで基本的なものとして扱われ、他のメディアとの比較を行うための土台としての役割を果たしてきました。その結果、印刷物は特に学術界では当然の存在として扱われています。私たちは現在、他のメディアとの関係を考慮しつつ、文字の持つ独自性にさらに注目すべき段階に来ています。文字と印刷物に独特な特徴について、さらに実証的な研究が行われるまでは、少なくとも文字が学術的な教育や指導の中心に居座り続けることでしょう。
1. あなたが教えているコースの中から1つ選んでみましょう。そのコースでは文字について、どんな重要な表現的機能があるでしょうか。文字はあなたが教える学問領域では知識を提示するために最良なメディアと言えますか。もしそうでないとすれば、他のメディアの中のどのような概念や話題が最も適切なのでしょうか。
2. 本書のセクション1.2に記載されているスキルを見てみましょう。他のメディアではなく文字を使うことで最もよく開発されるスキルはどれでしょうか。文字ベースで教えるにはどうしたらよいでしょうか。
3. あなたは学習のための書籍についてどう思いますか。もう死んでいる、あるいは廃れつつあると思いますか。もしもまだ書籍が学習に有効であると考えるなら、どんな変化が学術書に対して成されるべきだと思いますか。(何かあるならばの話ですが。)もしも新しいメディアに完全に置き換えられてしまったら、何が失われるでしょうか。そして何が得られるでしょうか。
4. どのような条件の下でなら、学習者が筆記エッセイによって評価されるのが適切でしょうか。また、どのような条件の下でならマルチメディア・ポートフォリオが評価に適していると言えるでしょうか。
5. 文字だけが持つ教育的特徴は他にもあるでしょうか。
活版印刷、言語としての構造、教育や文化への歴史的観点から、文字について述べられた出版物はたくさんあるのですが、教育学的な特性という観点で、文字と音声や動画などの現代の他のメディアを比較した出版物は見つかりませんでした。Koumi (2015) は音声と組み合わせた場合の文字について述べています。また、歴史的観点から見ても Albert Manguel の本は魅力的です。
ここに参考文献として示すことができないのは、この領域についての知識が私自身、十分ではないからです。もし参考文献として提案があるならば、私にメールでお知らせください。また、デジタル時代における文字についての独自の教育学的研究は非常に興味深く、貴重な博士論文にもなるでしょう。
Koumi, J. (1994) Media comparisons and deployment: a practitioner’s view British Journal of Educational Technology, Vol. 25, No. 1.
Koumi, J. (2006). Designing video and multimedia for open and flexible learning. London: Routledge
Koumi, J. (2015) Learning outcomes afforded by self-assessed, segmented video-print combinations Academia.edu (unpublished)
Manguel, A. (1996) A History of Reading London: Harper Collins
ある種の機械から発せられる雑音や、日常生活の中で聞こえる低いうなり音のような音には、実際の意味の他にも連想的な意味があります。これは教えられている主な内容と関連があるイメージやアイデアを想起させるためにも利用できます。言い換えれば音声には、ある種の情報を効率よく仲介するために欠かせない場合があります。
Durbridge, 1984
口頭でのコミュニケーションには長い歴史があり、今日でも教室では授業で、そして一般的なラジオ番組で使われています。しかしこの節で私が主に注目するのは録音された音声です。それが教育のためのメディアとしてうまく利用された場合、とても強力であることについて議論します。
音声に独特な教育学的特性に関する研究もこれまで多く行われています。英国のオープン大学のコースでは、専用に印刷された教材を補うものとして、メディア素材に入札を行う必要がありました。メディア素材は当初はBBCによって開発されたのですが、制作予算が限られており高額になってきたので、コース製作者チームはそれぞれ割り当てられた BBC のプロデューサーと連携して、どのようにラジオやテレビが学習をサポートするのかを発注明細書に記載する必要がありました。特にコース製作者チームは、テレビとラジオについて、どの機能が独自に教育に貢献しうるのかを明確にするよう求められました。そして、あるコースの予算配分と開発を終えた後で、番組のサンプルがどの程度これらの機能を満たしているのかという点で評価されました。同様に番組に対する学習者の反応も評価されました。のちに制作手法がオーディオカセットとビデオカセットに移った時にも同じ方法が採用されました。
このように独自の役割を特定してから番組の評価を行うというプロセスを取り入れたことで、OUはその後も数年間にわたり、異なるメディアのどのような役割や機能が特に適切であったかを識別することができました (Bates, 1985)。かつての BBC/OU プロデューサーであった Koumi (2006) はこの調査を続けて行い、音声や動画についてさらにいくつかの重要な機能を発見しました。ちょうど時をほぼ同じくして、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の Richard Mayer は、教育におけるマルチメディアの利用に関する研究を独自に行なっていました (Mayer, 2009)。
オーディオ・カセットからソニーのウォークマン、そしてポッドキャストに至るまで、音声技術に関する開発は継続して行われてきましたが、音声の持つ教育学的特徴はこれだけ長い期間を経ても全く変わっていません。
音声は単独でも利用できますが、他のメディア、特に文字と組み合わせて使われることがよくあります。まず、音声が単独でできることとしては以下が挙げられます。
しかし音声は文字と組み合わせた場合に特に「強力」であることが分かっています。なぜなら学習者にとっては目と耳の両方を同時に使えるからです。音声は以下のそれぞれで特に有益であると考えられてきました。
この手法はのちに Salman Khan がさらに発展させています。動画を使いながら音声を重ねて説明するという組み合わせにより、数学記号、公式、答えを導く際の視覚的提示を行うというものです。
学習者自身が録音された音声を停止したり再生したりできるため、次のような場合には特に便利です。
まず、長所の一部を紹介しましょう。
特に、柔軟性と学習者側にコントロールする「権利」が加わることにより、学習者はしばしば教室でのライブ講義よりも、予め用意された録音と文字教材(スライド付きのWebサイトなど)の組み合わせの方が効率よく学習できます。
もちろん音声による学習コースには短所もあります。
Khan Academy のように、現在では動画と音声を図形などと組み合わせることが増えています。しかし学習者が予め用意された教科書を使って学習している場合など、動画よりも音声だけの方が良い場合が多いです。
では、音声について尋ねてみましょう。
1. あなたが教えているコースの中から1つ選んでみましょう。このコースでは音声について、どんな重要な表現的機能があるでしょうか。
2. 本書の1.2節に記載されているスキルを見てみましょう。他のメディアではなく音声を使うことで最もよく開発されるスキルはどれでしょうか。音声中心で教えるにはどうしたらよいでしょうか。
3. どのような条件の下でなら学習者が録音された音声によって評価されるのが適切でしょうか。どのような評価条件でこれを行うことができるでしょうか。
4. 異なるメディア間の冗長性や重複はどの程度までなら良いことだと考えますか。同じ話題を異なるメディアで伝える際の短所は何でしょうか。
5. 音声だけが持つ教育的特徴は他にもあるでしょうか。
Bates, A. (1985) Broadcasting in Education: An Evaluation London: Constables (out of print – try a good library)
Bates, A. (2005) Technology, e-Learning and Distance Education London/New York: Routledge
Durbridge, N. (1982) Audio-cassettes in Higher Education Milton Keynes: The Open University (mimeo)
Durbridge, N. (1984) Audio-cassettes, in Bates, A. (ed.) The Role of Technology in Distance Education London/New York: Croom Hill/St Martin’s Press
EDUCAUSE Learning Initiative (2005) Seven things you should know about… podcasting Boulder CO: EDUCAUSE, June
Koumi, J. (2006). Designing video and multimedia for open and flexible learning. London: Routledge.
Mayer, R. E. (2009). Multimedia learning (2nd ed). New York: Cambridge University Press.
Postlethwaite, S. N. (1969) The Audio-Tutorial Approach to Learning Minneapolis: Burgess Publishing Company
Salmon, G. and Edirisingha, P. (2008) Podcasting for Learning in Universities Milton Keynes: Open University Press
Wright, S. and Haines, R, (1981) Audio-tapes for Teaching Science Teaching at a Distance, Vol. 20 (Open University journal now out of print).
Note: Although some of the Open University publications are not available online, hard copies/pdf files should be available from The Open University International Centre for Distance Learning, which is now part of the Open University Library.
過去25年間で動画技術は大きく変化し、その結果、動画の作成と配信の両方でコストが劇的に削減されましたが、動画に独特な教育特性はほとんど影響は受けていません。(シミュレーションなど、最近のコンピュータによって生成されたメディアについては、7.5節の「コンピュータの利用」で分析します。)
文字や音声を提供できる機能に加え、流れるように動く画像さえも提供できることから、動画は文字や音声よりもはるかに「リッチな」メディアです。したがって、音声のあらゆるアフォーダンスと文字の一部のアフォーダンスが提供できますが、動画にしかできない独自の教育学的特徴も持ち合わせています。同様に、教育において動画を利用した研究もかなり多く存在しています。ここでもオープン大学での研究 (Bates, 1985; 2005; Koumi, 2006) と Mayer (2009) を示しておきましょう。
リンクをクリックすると以下にリストされている多くの特徴の例が表示されます。
動画は以下のそれぞれに利用することができます。
通常、学習者の動きに結びつくスキルの開発には動画が必要です。大抵の場合、学生の活動は動画の視聴とは別のタイミングで行われますので、動画を一時停止したり、巻き戻したり、再度再生したりできる機能はスキル開発にとって非常に重要です。動画を使うことは、学生にその活動について注意深く考えさせることにもなるかもしれません。
研究によると、動画が講義に直接使われない場合であっても、少なくとも学習の最初の段階では、学習者たちが何を探すべきか、動画での説明があったほうが良いことがはっきりしています。具体的な出来事を抽象的な原理と関連づけるためには、音声によるナレーションを動画に重ねる、観察を強調するために一旦停止させる、番組内容の細かい部分だけを繰り返すといった、様々な技術があります。Bates and Gallangher (1977) では、高次の分析や評価を行うスキル開発のために動画を利用することは、コースや番組の開発に組み込むべき、教えることができるスキルであり、動画を用いることが最高の結果に繋がるということを発見しました。
スキル開発における典型的な動画の用途は次の通りです。
動画が学習において強力である1つの要因は、具体的な事例と抽象的な原理の関係を示すことができるからです。そして通常、動画内では抽象的な原理を具体的な出来事と結びつける際に音楽が使われます。動画は撮影された出来事に学習者が立ち合うことが難しい場合、危険な場合、高価な場合、非現実的である場合に特に有効です。
動画の主な長所は以下の通りです。
これらの機能の他にも、動画は音声の持つ機能の多くを組み込むことができる点にも留意する必要があるでしょう。
動画の主な短所は、以下のとおりです。
このような理由から、動画は教育においては十分に活用されていません。動画は授業設計の中に統合された形式ではなく、後からの思いつきや「追加」として利用されることが多いです。あるいは動画の特性を活用するのではなく、単に教室での講義を再現するために利用されます。
7.4.3節で概説したスキルを開発するために動画が利用されている場合、このようなスキルそのものを評価し、成績に加算することが不可欠です。実際上の評価方法としては教員が選択した動画について、分析したり解釈するよう学習者に指示すること、あるいは学習者自身が自分たちの機器を利用して集めた、または制作した動画を使い、独自のメディアプロジェクトを開発させることが挙げられます。
1. あなたが教えているコースの中から1つ選んでみましょう。このコースでは動画について、どんな重要な表現的機能があるでしょうか。
2. 本書のセクション1.2に記載されているスキルを見てみましょう。他のメディアではなく動画を使うことで最もよく開発されるスキルはどれでしょうか。動画中心で教えるにはどうしたらよいでしょうか。
3. どのような条件の下でなら学習者を評価するにあたって、分析させることや自身の動画を撮影させることが適切でしょうか。どのような評価条件でこれを行うことができるでしょうか。
4. あなたが探したいトピック名の後に動画と入力し、Google検索してみましょう。
あなたが見つけたものに付け加えたいと考える基準をいくつか示します。
残念ながら私がインターネット上で見つけた例のほとんどは、このような基準に合っていないと言わざるを得ません。私がこの節でリンクした動画もありますが、その一部はオープン大学のために製作されています。さて、従来の大学のメディア部門が開発したものは、この基準を満たせますか。
Bates, A. (1985) Broadcasting in Education: An Evaluation London: Constables (out of print – try a good library)
Bates, A. (2005) Technology, e-Learning and Distance Education London/New York: Routledge
Koumi, J. (2006). Designing video and multimedia for open and flexible learning. London: Routledge.
Mayer, R. E. (2009). Multimedia learning (2nd ed). New York: Cambridge University Press.
See also:
コンピュータの利用をメディアと見なすべきかどうかは議論の余地がありますが、私はこの用語を広く利用しています。これはプログラミングのような技術的な意味ではありません。特にインターネットは、文字、音声、動画、コンピュータの利用の全てに対応したメディアですし、分散型コミュニケーションや教育機会を提供する手段としても利用できます。コンピュータの利用もまた急速に発展している分野であり、新しい製品やサービスが常に出現しています。本書ではソーシャル・メディアの最近の動向についてはコンピュータの利用とは別に扱いますが、技術的に見れば下位区分です。ただし、ソーシャル・メディアには、従来のコンピュータの利用を中心とする学習環境ではほとんど見られないアフォーダンスが含まれています。
このような流動的なメディアでは、独自の特性にこだわりすぎることは馬鹿げていますが、この章の目的は絶対的な分析を提供することではなく、教員自身がテクノロジーを選びやすくする考え方を与えることなのです。論点は次の通りです。他のメディアとは異なるコンピュータの利用における教育的アフォーダンスは何でしょうか。(ここでは他の全てのメディア特性を包括するという重要な事実は除きます。)
コンピュータを教育に活用する研究は数多く行われてきましたが、それぞれの教育的な特徴に重点を置いた研究は、これまであまり行われてきませんでした。しかし興味深い調査や開発は行われてきましたし、人間とテクノロジーの間のやり取りに関わる研究も行われてきました。これらよりは少ないものの、注目の度合いという観点から人工知能の研究も行われています。以上の理由から、この節では研究よりも分析と経験に頼った記述になっています。
実際のところ表現力は、コンピュータの利用における教育的な強みとは言えないでしょう。画面サイズが限られているため、文字と音声であれば無理なく表示できますが、動画については若干劣ります。しかも動画は文字と画面サイズを分け合わないといけない場合も少なくありません。ネットワークの帯域幅や画面のピクセル数も問題ですし、ダウンロードにかかる時間が必要です。iPad などのタブレットでは画面品質を大きく向上させていますが、小型のモバイル機器の画面サイズはまさに表現力の制約となるでしょう。プルダウン・メニュー、カーソルを利用したスクリーン・ナビゲーション、タッチ・コントロールやアルゴリズムを利用したファイル・システム、ストレージ・システムなど、コンピュータの利用における従来型のユーザー・インターフェイスは非常に機能的ですが、あまり直感的ではなく、教育的な視点から考えると、かなりの制限になり得ます。
しかし他のメディアとは異なり、コンピュータの利用において、エンド・ユーザー(教育においては学習者)は、メディアとの直接的なやり取りが可能であり、少なくともある程度まではコンテンツに追加したり、変更を加えたり、対話したりするといったことができます。この意味でコンピュータの利用は、仮想的なものであればという条件が付きますが、完全な学習環境に近づきます。
したがって、表現的な側面からは、コンピュータの利用によって次のことができるようになります。
コンピュータの利用を巡るスキル開発は、ここでも同様に教育に対する認識論的アプローチに大きく依存します。また、コンピュータを基盤とする学習に対する行動学的アプローチを通じて、包括的で深い理解に集中することができるかもしれません。さらに通信機能の利用によって、学習者たちの共同作業で作られたマルチメディア作品についての議論を行うなど、構成主義的なアプローチも可能になるでしょう。
このように、コンピュータの利用は(独自性のある用途として)以下のような使い方ができるでしょう。
コンピュータ環境の幅広い利用は、他のメディアではできないスキル開発を補うことに繋がるでしょう。
多くの教員は、自らの仕事がコンピュータで置き換えられてしまうことを恐れ、あるいはコンピュータが教育や学習を非常に機械的な方法で行うと考え、コンピュータの利用には拒否反応を示します。そして人間による教育の必要性はコンピュータによって置き換えることができ、削減できると議論する、誤った情報に取り憑かれたコンピュータ科学者、政治家、業界リーダーたちは、教員たちの考えなど見向きもしないでしょう。しかしどちらの観点も、教育や学習が高度に複雑であること、そしてコンピュータの利用によって教育を柔軟なものにできるという点で誤解しています。
では、ここで教育メディアとしてコンピュータを利用する長所をいくつか挙げてみましょう。
一方、コンピュータを利用する短所については以下のとおりです。
教育メディアとしてのコンピュータの利用の価値を取り巻く問題を考える際、その教育学的側面に割く時間よりも、むしろ管理統制について多くの時間を割く必要があります。教育や学習は複雑です。このため教育や学習にコンピュータを利用するには現場の教員自身が管理統制をする必要があります。つまり教員がコンピュータの利用について主導権を持ち、必要な知識があり、教育学的な長所や短所について研修を受けている場合に限り、コンピュータの利用はデジタル時代の教育に欠かせないメディアとなるのです。
コンピュータの利用と言えば、多肢選択問題と正しい答えの判定を行う評価に関心が持たれる傾向があります。この形式は、理解度の評価や、限られた範囲での機械的手順のテストを行う際に価値がありますが、コンピュータの利用には学習者が作成したブログ、Wiki から eポートフォリオまで、より幅広い評価方法も含まれます。このような一層柔軟な形態によるコンピュータを基盤とする評価は、デジタル時代に生きる多くの学習者が必要とする知識や技能の測定とも整合性を持っています。
1. あなたが教えているコースの中から1つ選んでみましょう。このコースではコンピュータの利用について、どんな重要な表現的機能があるでしょうか。
2. 本書のセクション1.2に記載されているスキルを見てみましょう。このようなスキルを開発するにあたって、どれが他のメディアよりもコンピュータの利用が最も適しているでしょうか。あなたならコンピュータを基盤とする教育をどのように行いますか。
3. 学習者を評価するにあたって、どのような条件の下でなら筆記試験ではなく、学習者自身のマルチメディア・プロジェクト・ポートフォリオを作成させる方が適切と言えるでしょうか。学習者の作品に対して信頼してもらえるような評価条件として、どんなことが必要でしょうか。このような形での評価はあなたにとって余計な仕事になってしまうのでしょうか。
4. 教育の中でコンピュータを利用することに対する主な障壁となるものは何ですか。教育哲学的な理由ですか。実用的な理由ですか。テクノロジーの利用についての研修が不十分なことですか。自信がないことですか。あるいは教育機関による支援がないことですか。これらの障壁を取り除くためには何ができるでしょうか。
ソーシャル・メディアは主にインターネットを基盤とするものであり、またコンピュータの利用の中に含まれますが、ソーシャル・メディアによる教育には、コンピュータを基盤とする学習やオンライン協働学習とは異なる教育メディアとして扱うだけの十分な理由があります。もちろんソーシャル・メディアは他の形態のコンピュータの利用に依存しており、完全に統合されていることもよくあります。主な違いはソーシャル・メディアが学習者に委ねている学習管理の大きさにあります。
2005年頃、新しい種類の Web ツールが一般的な用途として現れ、徐々に教育的な用途でも使われるようになってきました。これらも大まかにはソーシャル・メディアであると表現することができます。なぜならこれらは従来型の「中心から周辺へ」という組織的なWebサイトの情報の押し出しとは異なる Web 利用の文化を反映しているからです。
以下は一部のツールと利用法です。可能な例は他にもいくらでもあるでしょう。それぞれについて教育用アプリケーションとしての利用例を見るにはクリックしてください。
図7.6.2ソーシャル・メディアの例(Bates, 2011、p.25より引用)
種類 | 例 | 応用例 |
ブログ | Stephen’s Web | 個人がWeb上に定期的に投稿することができるようになる。例えば日記や現状の出来事の分析など。 |
Wiki
| Wikipedia UBC’s Math Exam Resources | 無料の共同作業による「出版」であり、人々が情報そのものを寄稿したり作成したりできる。 |
ソーシャル・メディア | 人々を友達や同僚と繋ぐ社会的に有益な道具で、協働学習や交流を可能にする。 | |
マルチメディア・アーカイブ
| Podcasts | 利用者がアクセスし、録音した音声や写真、撮影した動画を蓄積し、ダウンロードしたり共有したりできる。 |
仮想世界 | Second Life | 同じ瞬間に仮想的な場所で人々と擬似的なランダムで繋がったりコミュニケーションしたりできる。 |
多人数によるゲーム | Lord of the Rings Online | 通常は同じ瞬間に、コンピュータによって第三者や第三者グループと競争したり共同作業をしたりすることができる。 |
モバイル学習 | Mobile phones and apps | 利用者はいつでもどこでも様々な形態の情報にアクセスできる(文字、音声、動画など) |
ソーシャル・メディアの主な特徴は、利用者は使いやすい無料の環境で簡単にアクセスし、そこで情報を作成したり広めたり共有したりできることです。通常、唯一のコストは利用者の時間だけです。大抵の場合、州や政府が規制する名誉毀損やポルノなどを除けば、コンテンツへの規制はほとんどありません。あるとすれば利用者自身の判断でしょう。このようなツールを使うことにより、利用者(学習者や顧客)は自らアクセスしてデータを管理すること(例えばオンライン銀行などを通じて)や個人的なつながりを形成すること(例えば Facebook などを通じて)ができるようになります。このため、ソーシャル・メディアをWebの「民主化」と呼ぶ人もいます。
一般的にはソーシャル・メディアは非常に簡単なソフトウェアです。それは、プログラム自体の行数が比較的少ないからです。その結果、新しいツールやアプリケーション(アプリ)が次々と現れており、これらの利用は無料、あるいは非常に低コストです。教育におけるソーシャル・メディアの利用についての広範かつ優れた概説は、Lee and McCoughlin (2011) を参照してください。
「アフォーダンス」の概念はソーシャル・メディアの議論で頻繁に使われています。McLoughlin & Lee (2011) は、ソーシャル・メディアに関連する以下の「アフォーダンス」を示しています。(ただし彼らは Web 2.0 という用語を使っています。)
しかし、ソーシャル・メディアに独自の教育的特徴をもっと直接的に示しておく必要があるでしょう。
ソーシャル・メディアでは次のようなことができます。
ソーシャル・メディアが教育的な枠組みとして上手く設計されている場合、次のような能力の上達が見込まれます。(それぞれをクリックして例をみてみましょう。)
ソーシャル・メディアの長所には以下のようなものがあります。
しかし多くの学習者は、少なくとも学習の初期段階では独立した学習者ではありません (Candy, 1991を参照)。多くの学習者は、最初から一人で学習課題をこなすことができるほどのスキルも自信も持ち合わせていません (Moore and Thompson, 1990)。彼らには構造化された支援や、学習のためのコンテンツ選び、そして学習成果の単位認定が必要です。たとえ学習者が自らの学習を細かく制御できる新しいツールが登場したとしても、それらは必ずしも構造化された受講を不要にさせるわけではありません。しかし学習者が独立して学習できるようになるために必要なスキルは教えることができます (Moore, 1973、Marshall and Rowland, 1993)。ソーシャル・メディアは学習のための方法をより効果的に学習することができますが、それでも多くの事例において、最初の構造化の場面での利用は限定的です。
ソーシャル・メディアの利用は品質的に避けられない問題を提起します。信頼できる正確かつ典拠の確かな情報と、不正確で偏った根拠のない情報の間を自由に行き来できる場合、どのように学習者はこれらを区別したら良いのでしょうか。誰もがあらゆる事柄について一つの考えを持っている時、専門家の意見や知識が意味するものは何でしょうか。Andrew Keen (2007) が述べているように「私たちは専門家の専制政治を馬鹿者の専制政治に置き換えつつあります。」全ての情報は同じというわけではなく、ましてや全ての意見が一致しているわけでもありません。
これらはデジタル時代における重要な課題ですが、課題の一部として存在しているだけでなく、ソーシャル・メディア自身がその解決策の一部になりうる可能性があります。教員は意識的にソーシャル・メディアを使いながら、ソーシャル・メディア自体における知識管理や、責任を持った利用意識を育てることができます。しかしこのような方法で知識やスキルを身につけさせるためには、教員による支援が必要となるでしょう。多くの学習者は学習の中で体系的な理解と指導を求めます。そしてそれを提供するのは教員の責任です。このような理由から、まずは教員による全権的支配と、小説『蝿の王』で砂漠の島を自由に歩き回っているような無秩序な子どもたちとの、ちょうど真ん中を目指す必要があるのです。 (Golding, 1954) ソーシャル・メディアはこのような中間地点になるのでしょう。しかし私たち教員はテクノロジーの選択と利用について、明確な教育理念を持っていなければなりません。
ソーシャル・メディアの詳細については、セクション8.8を参照してください。
1. あなたが教えているコースの中から1つ選んでみましょう。そしてソーシャル・メディアをどのように利用できるか、分析してみましょう。特に:
2. 私はソーシャル・メディアに独特な教育的特徴を表層的にまとめてみました。この章で網羅しきれていないものを何か思いつきますか。
3. この章は、学生自身が自らの機器を持ち込むことについてのあなたの見解にどのような影響を与えますか。
4. あなたは(それでも)教育におけるソーシャル・メディアの価値について懐疑的ですか。マイナス面として捉えていますか。
Bates, T. (2011) ‘Understanding Web 2.0 and Its Implications for e-Learning’ in Lee, M. and McCoughlin, C. (eds.) Web 2.0-Based E-Learning Hershey NY: Information Science Reference
Candy, P. (1991) Self-direction for lifelong learning San Francisco: Jossey-Bass
Golding, W. (1954) The Lord of the Flies London: Faber and Faber
Keen, A. (2007) The Cult of the Amateur: How Today’s Internet is Killing our Culture New York/London: Doubleday
Lee, M. and McCoughlin, C. (eds.) Web 2.0-Based E-Learning Hershey NY: Information Science Reference
Marshall, L and Rowland, F. (1993) A Guide to learning independently Buckingham UK: Open University Press
McCoughlin, C. and Lee, M. (2011) ‘Pedagogy 2.0: Critical Challenges and Responses to Web 2.0 and Social Software in Tertiary Teaching’, in Lee, M. and McCoughlin, C. (eds.) Web 2.0-Based E-Learning Hershey NY: Information Science Reference
Moore, M. and Thompson, M. (1990) The Effects of Distance Education: A Summary of the Literature University Park, PA: American Center for Distance Education, Pennsylvania State University
まず、この章で紹介した様々なメディアに独特の教育的特徴についてまとめてみましょう。
図7.7 では様々なオンライン学習ツールを図示しています。ここでは主に客観主義者(黒)、構成主義者(青)、結合主義者(赤)の認識論的連続体の中にそれぞれを割り当てましたが、他にも2つの次元、すなわち教員側で制御するか、学習者側で制御するか、さらに単位を与えられるものであるか、そうでないか (Credit/Non-credit) についても加えています。この図では、講義やセミナーなどの従来の教育手法を含めて比較することもできます。
図7.7 はそれぞれのツールに関する私の個人的な解釈が含まれています。ですから他の教員の方々がこれらのツールを用途に応じて違った形で図示することもあるでしょう。全てのツールやメディアがここに含まれているわけではありません。例えば音声や動画については含まれていません。また、実際の使い方によって図の中の位置が変わるという場合もあるでしょう。教員だけがコース上でブログ機能を使う場合には、学習管理システムは構成主義的な方法で使うことができ、ブログは完全に教員制御型となるでしょう。ここでは、教育メディアを厳正な方法で分類しようとすることではなく、どのツールやメディアが特定の教育アプローチに最も適しているか、教員が判断する際の枠組みの提供を目的としています。実際、教員によってはメディアやテクノロジーの教育的価値を分析する際の枠組みとして別の方法を好む場合もあるでしょう。
しかし、図7.7 で紹介したいことは、例えば教員が LMS を利用することで一連の教材、運用基準、手順を提供できるということ、また学習者はデータ収集のために携帯電話を使って撮影した、写真のような複数のソーシャル・メディアを組み合わせて課題を仕上げることができるということ、そして教員は課題提出期限を管理できるようになるということです。教員は LMS 上のスペースと仕組みを生かし、学習者に学習教材をeポートフォリオの形で提供します。このポートフォリオには学生自身の作品をアップロードすることができます。小さいグループで学習者たちはディスカッション・フォーラムや Facebook を使いながらプロジェクトを一緒に進めることができます。
上の例は単位認定されるコースでの枠組みの場合ですが、Facebook やブログ、YouTube などのツールに絞ることで、学校機関以外や非公式な学習でもソーシャル・メディアを利用する枠組みを適用できることでしょう。このような応用事例では学習者自身がツールと利用方法を決めることになりますので、どちらか言えば学習者主導型になります。第5章で見たように、最も強力な例は結合主義者、すなわち cMOOCs です。
1. あなたが教えているコースの中から1つ、モジュールまたは主要トピックを選んでみましょう。主な学習目標を特定し、扱う内容領域を選びましょう。
2. この章で述べたそれぞれのメディアの主な特徴を調べ、それぞれのメディアでどのように教えるか考えてみましょう。アクティビティー7.2から7.6のあなたの分析を使ってください。そして、あなたが選んだ機能と教材内容とスキルの関係についてリスト化してみましょう。
3. 図7.7 を利用して、使う可能性のあるツール類やメディアを連続体の中に配置してみましょう。
4. あなたの選択にもう満足しましたか。
心配いりません。まだ終わっていません。次の章では、より現実的に意思決定する方法を説明します。アクティビティーの主な目的は、あなたが教える分野で、様々なメディアがどのように利用できるかを考えてもらうことです。
教育と学習のために利用可能なメディアはとても幅広いです。特に:
この章の主な目的は、教育や学習のためのメディア選択やメディア利用の枠組みとして効率的な手法を提供することです。ここで紹介するのは SECTIONS モデルの枠組みで、次の頭文字をつなげたものです。
この章を読み終える頃には、あなたが教えるどんな教科についても、適切なメディアやテクノロジーを選ぶことができるようになっているはずです。そして、あなた自身の決定をきちんと理由づけることもできるようになっているでしょう。
加えて、この章には以下のアクティビティーが含まれています。
トピックの重要性の割には、教育利用のための適切なメディアやテクノロジーをどのように選択するかについての文献はあまり多くは存在しません。1970年代から1980年代にかけて、このトピックに関する出版物が急増しましたが、あまり有用とは言えないものでしたし、これ以降は比較的少ない状況が続いています (Baytak,日付なし)。 実際、Koumi (1994) も次のように述べています。
与えられたトピック、学習課題、および対象集団に適したメディアを選択するための十分に実用的な理論は存在しない(中略)いかなるモデルにも依拠しないのが最も一般的なやり方である。このような状況であるため、メディアの割り当ては教育的な配慮よりも、むしろ実際の経済的、人的、政治的要因に左右されてきたことも不思議ではない (p.56)。
Mackenzie (2002) のコメントも同様です。
テクノロジーの現状について全国の教員と話し合っていると、彼らは状況がどうであれ、利用可能なテクノロジーに縛られていると感じていることが明らかになっている。テレビと接続したコンピュータセットを持っているなら、それがその教員が教室で使うものとなる。一方、設備の整ったラボで教員用デモ端末に接続されているLCDプロジェクターがある場合は、教員はそれを使うだろう。教員は常に使えるものを最大限に活用しているのだが、これは私たちの仕事である。教員はやりくりするものなのだ。
Mackenzie (2002) は、Howard Gardner の多重知能理論 (Gardner, 1983; 2006) に基づき、以下の決定の流れに沿ったテクノロジーの選択を提案しています。
学習者 → 教育目標 → 知能 → メディア選択
Mackenzie は、Gardner の主張する8つの知性の発達を支援するために、それぞれ異なるメディアを割り当てます。Gardner の多重知能理論はあちこちで試されており、採用されていますし、Mackenzie による異なる知性へのメディアの割り当ては直感的にも納得できます。(もちろん教員たちが Gardner の理論を自らの教育に応用するかどうかが先ですが。)
メディア選択に関して最近の出版物を参照してみると、ここ20年でメディアとテクノロジーが急速に発展したにもかかわらず、私の ACTIONS モデル (Bates, 1995) に修正や追加を行なったものが、今でも代表的なモデルの一つとして利用されています(例えば、Baytak, 日付なし; Lambert & Williams, 1999; Koumi, 2006 を参照)。実際、私自身、遠隔教育向けに開発された ACTIONS モデルに修正を加え、SECTIONS モデルとしています。SECTIONS は遠隔教育に加え、キャンパスでのメディア利用も網羅するものです (Bates & Poole, 2003)。
Patsula (2002) は CASCOIME と呼ばれるモデルを作り出しました。これは、私のモデルの基準の一部を含むものですが、国際的な観点を考慮に入れるために、社会政治的適合性、文化的な親しみやすさ、開放性/柔軟性といった重要な基準を追加しています。 Zaied (2007) は、教員、IT スペシャリスト、そして学生が、メディア選択の基準として何を重視しているかを検証する実証的研究を行い、7つの基準を設けました。そのうち4つは私の基準に相当または類似するものです。残りの3つは、学生の満足度、学生のやる気、専門能力の発達ですが、これらは成功の条件の類であり、決断を下す前に見抜くことは容易ではありません。
Koumi (2006) と Mayer (2009) は、メディア選択のモデルの完成まであと一息でした。Mayer は大規模な研究に基づく、マルチメディア設計の12の原則を確立し、その結果、Mayer がマルチメディア学習の認知理論と呼んでいるものが完成しました。(Mayerの理論の優れた応用については UBC Wiki を参照してください)。さらに新しいところでは Koumi (2015) が xMOOC の設計のためのガイドとして、動画教材と印刷教材の最適な組み合わせと、その利用について決定するモデルを開発しています。
Mayer のアプローチは Koumi の業績と同様、特定のマルチメディア教材をデザインしようとする時、ミクロなレベルで価値があるものです。Mayer のマルチメディア・デザインの認知理論は、単語と画像の最適な組み合わせや、一貫性を確保する、認知的過負荷を回避するといった、従うべきルールを提案してくれています。マルチメディアの特定のアプリケーションを利用するかどうかを決める時は、非常に強力な指針になるでしょう。しかしマクロ・レベルでの応用には困難を伴います。Mayer の関心は認知処理にあるため、彼の理論は異なるメディアのもつ独自の教育的価値や特性については直接扱っていません。Meyer も Koumi も、費用やアクセスなど、メディア選択における教育的ではない問題にはタッチしません。彼らの業績は私の提案と競合するというよりも、むしろ補い合うものです。私はまず、どのメディア(あるいはメディアの組み合わせ)を使うべきかを見出そうとしています。Mayer の理論はその後、実際に設計する時に利用すべき手引きとなるでしょう。Mayer の12の原則の詳細についてはセクション8.5で教育のための機能を扱う際に説明します。
メディア選択のモデルがあまりないことは驚くべきことではありません。1970年代と1980年代に開発されたモデルは、メディア選択に対して非常に還元主義的、行動主義的なアプローチをとっていたため、結果として意思決定の樹形図が何ページにもわたることも多々あり、教育現場では全く実用性のないものでした。さらに重要なのは、テクノロジーが急速に変化すること、授業への適切な教育的アプローチについて様々な競合する見方があること、そして学習をめぐる状況や文脈が非常に多様だということです。 研究と経験に裏付けられた、幅広く適用可能で、実用的かつ管理しやすいモデルを見つけることは困難だということです。
全ての教員、そしてますます多くの学習者は毎日のように、このような決定を下す必要に迫られています。したがって、テクノロジーの選択と応用のためには、次のような特徴をもつモデルが必要になります。
このような理由から、以下では最近の技術・研究・理論の発展を考慮し、いくつかの修正を加えた上で、私の SECTIONS モデルを使い続けることにします。SECTIONS モデルは研究に基づいており、時の試練に耐え、実用的であることが分かっています。 SECTIONS は以下の略です。
以下の節では、これらの基準のそれぞれについて説明し、その後、このモデルの適用方法を提案します。
あなたが教えている、あるいは教える可能性があるコースを選んでください。利用したいと考えるメディアやテクノロジーを選択しましょう。また、ご自分の決定と、そのメディア/テクノロジーにした理由を書き留めておいてください。
この章を読み終えたら、最後のアクティビティー(アクティビティー8.10)が用意されています。章全体を読んだ後で、このアクティビティーの回答と比較してみてください。
Bates, A. (1995) Teaching, Open Learning and Distance Education London/New York: Routledge
Bates, A. and Poole, G. (2003) Effective Teaching with Technology in Higher Education San Francisco: Jossey-Bass/John Wiley and Son
Baytak, A.(undated) Media selection and design: a case in distance education Academia.edu
Gardner, H. (1983) Frame of Mind: The Theory of Multiple Intelligences New York: Basic Books
Gardner, H. (2006) Multiple Intelligences: New Horizons and Theory in Practice New York: Basic Books
Koumi, J. (1994). Media comparisons and deployment: A practitioner’s view. British Journal of Educational Technology, Vol. 25, No. 1
Koumi, J. (2006). Designing video and multimedia for open and flexible learning. London: Routledge.
Lambert, S. and Williams R. (1999) A model for selecting educational technologies to improve student learning Melbourne, Australia: HERDSA Annual International Conference, July
Mackenzie, W. (2002) Multiple Intelligences and Instructional Technology: A Manual for Every Mind. Eugene, Oregon: ISTE
Mayer, R. E. (2009). Multimedia Learning (2nd ed). New York: Cambridge University Press.
Nel, C., Dreyer, C. and Carstens (2001) Educational Technologies: A Classification and Evaluation Journal for Language Teaching Vol. 35, No. 4
Patsula, P. (2002) Practical guidelines for selecting media: An international perspective The Useableword Monitor, February 1
UBC Wikis (2014)Documentation: Design Principles for Multimedia Vancouver BC: University of British Columbia
Zaied, A. (2007) A Framework for Evaluating and Selecting Learning Technologies The International Arab Journal of Information Technology, Vol. 4, No. 2
SECTIONS モデルの最初の基準は学習者です。
メディアとテクノロジーを選ぶ際には、学習者に関して少なくとも次の3つの問題を考慮する必要があります。
高等教育の大衆化による根本的な変化の1つとして、大学教員は現在ますます多様化する学習者を教育しなければならなくなっています。そして徐々に拡大する学習者の多様化は、中等後教育の教員も含む全ての教員にとって、大きな課題となっています。しかし中等後教育の教員にとって、1つのコース内で学習者の違いに合わせて教え方を変えることはあまり一般的ではありませんでした。学習者の多様化が進む中、コース受講者全員にきちんと教えるべきであるならば、全てのコースを様々な教え方で作り上げていく必要があります。
とりわけ対象集団のニーズについては明確にすることが重要です。高校卒業後すぐに大学に入学した1年生や2年生は大学で勉強する際、より多くの支援を必要とする傾向があります。彼らは学習者としての自立度は比較的低いことが多いため、テクノロジーを全面的に利用すれば勉強していけると期待するのは間違っています。しかし特に学習コースの後半で、より自律的に勉強できるよう準備させるために、対面授業での学びに対する代替アプローチを提供し、徐々に導入していくのであれば、テクノロジーは教室での授業のサポートとして役に立つ可能性があります。
一方、既にキャンパスで学生として高等教育を受けた経験があり、現在仕事をしている者にとっては、遠隔地から完全なテクノロジーによって提供されるプログラムは魅力的でしょう。このような学習者は既に上手な学習に繋がるスタディ・スキルを身につけているでしょうし、自分のコミュニティや家族との生活もあるでしょう。彼らにとっては、このようにフレキシブルに学修できることは歓迎すべきことでしょう。
学部の3・4年生は、教室での授業とは別に、オンライン学習コースがほんの1つや2つであっても組み合わせて取れる状況であれば喜ばしく感じるかもしれません。特に、対面授業の一部で追加登録ができなくなっていたり、学費の一部をまかなうためにアルバイトをしている場合は助かるでしょう。
最後に、どんなクラス、どんな学習者グループの中でも、既存知識や言語スキル、および学習スタイルの好みには様々な違いがあります。上手な使い方をすればメディアとテクノロジーはこれらの違いに対応するのに役立つでしょう。繰り返しになりますが、自分の担当する学習者を把握することを念頭におきながら、どんなメディアやテクノロジーを使うべきか決めることが重要になります。これについては第9章でさらに深く論じます。
テクノロジーの選択を決定する全ての基準のうち、これはおそらく最も明確なものです。あるメディアやテクノロジーがいかに教育的に強力でも、便利で手頃な方法でそれを利用できなければ、学習者はそれを使って学ぶことはできません。例えば、ビデオ・ストリーミングは学外の学習者に講義を提供するのに良い方法と考えられるかもしれませんが、学習者の自宅でインターネットに接続できなかったり、ダウンロードに4時間かかったり、1日分の賃金が必要だったりするなら論外です。接続の困難さは発展途上国での xMOOCs の利用に関して特に大きな制約となります。仮に潜在的な学習者がインターネットに接続できたり携帯電話を持っていたりするにしても(50億人はまだこのような状態にありません)、1本のYouTubeビデオをダウンロードするのに1日分の賃金がかかるのは珍しいことではありません (Marron, Missen and Greenberg, 2014を参照)。
教育用途でコンピュータ、タブレット、または携帯電話の利用を計画している全ての教員は、以下の質問に答えられなければなりません。
学習者に各自のデバイスを用意することが期待される場合(このことは、ますます合理的な方法になっています。)
学習者は(指導者と同様に)コースまたはプログラムに登録する前に、これらの質問に対する答えを知る必要があります。これらの質問に答えるために、あなたやあなたの部署では、学習者が各自のデバイスを何に利用するかを把握しておかなければなりません。仮にノートパソコンで行う作業が追加的なものだったり些細なものだったりするのであれば、学習者にノートパソコンを購入する費用を払わせることは無意味です。つまり、あなたの側で何らかの事前計画が必要だということです。
教育機関が学習者のテクノロジー利用について適切な方針を整えているだけで本当に助かります。(セクション 8.7を参照)。使いたいテクノロジーをサポートする明確な方針やインフラがその機関にない場合、仕事はますます大変なものになってしまいます。
それを利用できるかという問題と、どうテクノロジーを選ぶかという問題に対する答えは、教育機関としてのサービスだけでなく、あなた自身が決める教育目標によっても影響を受けることでしょう。例えば一流大学であれば、学習者に特定のデバイスの利用を義務付け、経済的な理由で指定のデバイスの購入や利用が困難な一部の学習者だけを援助することもできるかもしれません。しかし、もしもその教育機関の使命が、従来の教育機関には入学できない学習者や、高等教育に関して不利益を被っている人々、失業者、ワーキング・プア、より高度な教育や訓練を必要とする労働者に門戸を開くことならば、学習者が利用できるかどうか、使っても構わないと思うのはどんなテクノロジーなのかを見つけ出すことが決定的に重要になります。また、もしもその教育機関の方針が、講座を受講したい人は誰でも受講できるようにすることならば、既に自宅にある機器(通常は娯楽目的のために購入されたもの)を利用できることが極めて重要になります。
考慮すべきもう一つの重要な要素は、障害のある学習者への対応です。例えば聴覚障害のある学習者と視覚障害のある学習者に、それぞれ文字や音声による支援を用意するといったことです。 幸いなことに今はユニバーサル・デザイン規格という、一般的な範疇の中できちんと確立された慣行と規格があります。 ユニバーサル・デザインは次のように定義されています。
「学習のためのユニバーサル・デザイン」(Universal Design for Learning: UDL)とは、多様な学習者が混在する集団のニーズを満たすための意図的な指導デザインを指します。 普遍的にデザインされたコースは、情報を提供する複数の手段と学習を評価する柔軟な方法を取り入れることによって、全ての学習者のニーズを満たすことを目指します。 さらに UDL は学習者の興味を引き出すための複数の手段も含みます。普遍的にデザインされたコースでは、障害をもつ特定の学習者集団を想定して設計されるのではなく、むしろ幅広いグループの学習ニーズに対応するように設計されています。
Brokop, F. (2008)
教育と学習を支援する部署がある多くの教育機関では、特定のコースがユニバーサルデザインの規格を満たすよう教員への支援を提供することができます。 BCcampus には、アクセシビリティ基準を満たすWebベースの教材を作成するのに非常に役立つガイドがあります。 Norquest College と eCampus Alberta は、オンライン教材を障害のある人にとってアクセスしやすいものにするための、より詳細なガイドを公開しています。
異なる種類のテクノロジーやメディアに対する好みが学習者によって異なることについては疑問の余地がないように思えます。指導設計にはこのような違いにも対応しなければなりません。視覚重視の学習者には図やイラストを利用すべきでしょうし、聴覚重視の学習者には講義やポッドキャストが合うでしょう。優勢な学習スタイルを識別することでメディアやテクノロジーを選ぶ際の強力な基準になると思われるかもしれません。しかし話はそれほど単純ではありません。
McLoughlin (1999) は、教材設計のための学習スタイルに関する先行研究を深く再考し、認知的・知覚的な学習スタイルの違いにも、Kolb (1984) の経験学習モデルの違いにも対応できるよう、指導を設計することはできると結論づけています。Schroeder (1993) はミズーリ・コロンビア大学において Myers-Briggs の性格指標を用いた新しい知識の吸収(インテイク)に関する研究を数年間かけて行い、新入生は具体的に考える傾向があり、抽象的な考えや曖昧さに抵抗を感じることを明らかにしました。
しかし大学教育の主な役割は、抽象的思考のスキルを養成し、学生が複雑さや不確実性に対処できるよう手助けすることです。 Perry (1984) が明らかにしたように、高等教育における学習は発達の過程なのです。ですから、そのような「学問的」スキルをもたずに大学に入学する学生が多いのは当然とも言えます。実際のところ、学習者の学習スタイルのような違いの分類方法を、メディアやテクノロジーの選択・利用に当てはめようとするには大きな問題があります。 Laurillard (2001) が指摘するように、学習スタイルを外から眺めても役に立ちません。学習は文脈の中で見なければならないのです。ある分野での思考力が他の分野にうまく転移するとは限りません。様々な分野に特有の考え方があるからです。科学においては論理的・合理的に考える人が、必ずしも気の利く夫や優れた文学評論家になるわけではありません。
大学教育の目的の一つとして、当該対象分野において広く行き渡っている考え方を理解し、場合によってはそれに反論することが含まれます。学習者中心の教育は重要ですが、学習者はその分野に特有の論理や基準、価値観を理解しなければなりません。彼らには反論される経験も必要でしょうし、既存の枠から外れて考えることも推奨されるでしょう。このことは彼らが好む学習スタイルとは相反するかもしれません。実際、指導法を学習スタイルに合わせることの有効性に関する研究は、よく言って曖昧なものに過ぎません。例えば、Dziubanら (2000) はセントラル・フロリダ大学において、Long による学習スタイルの反応行動分析を、対面授業とWeb基盤型オンライン授業を2つに分けた学生グループに適用しました。そこで分かったことは、学習スタイルの違いによってオンライン講座から脱落しそうかどうかは予測することができず、同様に自立した学習者は他のタイプの学習者よりも、オンラインで優れた学習をする可能性が高いとは言えないということでした。
学習スタイルにおける限界をコース設計の指針に据えるということは、学習者の違いを無視するという意味ではありません。学習者のいる場所から始めるべきなのは確かです。特に大学レベルでは、個人的な経験に基づく具体的な学習から、新しい文脈や状況に適用できる抽象的で省察的な学習へと、徐々に学習者を移行させる戦略が必要になります。第7章で見たように、テクノロジーはこの目的を達成するために特に役立つ可能性があります。
例えば、コースを設計する際は、同じコース内に学習の様々なオプションを用意しておくことが重要になります。そのための方法の1つは、コースが適切に構成され、関連する「コア」な情報を学習者全員が簡単に利用できるようにすることですが、同時に学習者が新しいコンテンツや異なるコンテンツを探す機会も用意することも必要です。そのコンテンツは、基本原則にはっきりと関連づけられた具体例を含み、テキストや図表、ビデオなど様々なメディアで利用できる方がよいでしょう。第10章で見るように、オープン教育リソースが利用しやすくなるにつれて、利用可能なコンテンツをこのように「豊富な」形で提供することは、かなり行いやすくなるでしょう。
同様にテクノロジーによって、Web記事の調査、オンライン・ディスカッション・フォーラム、同期型プレゼンテーション、eポートフォリオによる評価、オンライン・グループワークなど、幅広い学習活動が可能になります。活動の幅が広ければ、学習者の多様な好みが満たされやすくなりますし、学習者たちにとって最初は抵抗があるような活動や学習法に、自ら関わっていくための手助けにもなります。このような設計方法は異なる学習スタイルを満たすために複数バージョンのコースを開発するよりも効果が高まる可能性があります。いずれにせよ、異なるスタイルの学習者のために複数バージョンのコースを開発する方が実用性が高いということは滅多にないでしょう。異なるメディアを異なる学習スタイルに合わせようとするのは避け、その代わりコースまたはプログラム内に、様々なメディア(文字・音声・動画・コンピュータの利用)を用意するようにしてください。
デジタル技術を用いた学習に対する学習者の好みについて、これまで様々な想定がなされていますが、注意が必要です。一方で、Mark Prensky や Don Tapscott などテクノロジーの教育への利用に熱狂的な研究者たちは、今日の「デジタル・ネイティブ」は前の世代の学習者とは異なると主張します。彼らによれば、現在の学習者はネットワーク化されたデジタル世界の中に暮らしており、自分たちの学習も全てデジタル世界にネットワーク化されることを期待している、ということになります。特に教授たちが学習者の先端技術の利用を過小評価する傾向があることは事実です。むしろ教授たちは新しい技術については教育に取り入れるという点で出遅れていることが多いと言えます。ですから可能な限り、学習者が現在使っているデバイスやテクノロジーについては、常に最新情報を得るようにしましょう。
その一方で、全ての学習者が高度な「デジタル・リテラシー」を持ち、新しい技術が教育に使われるべきであると決めつけるのは危険です。Jones と Shao (2011) は、ヨーロッパ、アジア、北アメリカ、オーストラリア、南アフリカの国々の関連出版物の調査を含む 200件以上の適切な参考資料を用いて「デジタル・ネイティブ」に関する文献の徹底的なレビューを行い、次のような結論を導いています。
ブリティッシュ・コロンビア大学で、学習用テクノロジーに関するインタビューを受けた卒業生は、以下の点を明確にしました。まず、それが彼らの成功に貢献する限り(ある学生の言葉を借りれば「それで良い成績が取れるなら」)、喜んで学習のためにテクノロジーを使うということです。一方、どんなテクノロジーが自分たちの勉強に最適かを決めるのは教員の責任だとも言っています。
Jones & Shao が言っていないことにも注意を払うことは重要です。彼らはソーシャル・メディアや、個人的な学習環境、あるいは協働学習が不適切だとは言っていません。学習者や労働者のニーズが変化しないとか、重要でないとは言っていません。このようなツールやアプローチを採用することは、特定の世代の学習者が何を求めているかについての誤った見解に基づくのではなく、全ての学習者のニーズや、全ての対象分野のニーズ、そしてデジタル時代に関わる学習目標に対する全体的な見方に基づくべきなのです。
要約すると、教育にテクノロジーをうまく適用した場合、その大きな利点の一つは、学習者に様々な方法で学ぶ機会を提供し、教育を学習者の違いに適応させることが一層容易になることです。したがって、メディア選択の最初のステップは、あなたが教える学習者を理解し、彼らの類似点と相違点、彼らがどんなテクノロジーを既に利用しているのか、あなたのコースに関わるデジタル・スキルのうち、どんなスキルを既に持っていて、どんなスキルが不足しているかを把握することです。そのためには教育において、幅広いメディアを利用する必要があります。
あなたが担当する学習者を知っておくことはとても重要です。特に、メディアやテクノロジーについて決定するために適切な状況に備えるには、以下の情報が必要です。
これらの質問に答えるのに必要な情報は、様々な方法で入手できます。それでもやはり不十分な証拠をもとに決定を下さなければならないことも多いでしょうが、潜在的な学習者についての情報が正確であるほど、メディアとテクノロジーについての選択がより良いものになる可能性が高まります。しかし、ほぼ間違いなく多種多様な学習者が入ってくるでしょうから、授業設計はそれに対応させる必要があります。
上記の質問のうち、即座に答えられるものはどれくらいありますか。
どのような追加情報が必要ですか。また、それはどこで入手できるでしょうか。
BCcampus and CAPER-BC (2015) B.C. Open Textbook Accessibility Toolkit Victoria BC: BCcampus.
Brokop, F. (2008) Accessibility to E-Learning for Persons With Disabilities: Strategies, Guidelines, and Standards Edmonton AB: NorQuest College/eCampus Alberta
Dziuban, C. et al. (2000) Reactive behavior patterns go online The Journal of Staff, Program and Organizational Development, Vol. 17, No.3
Jones, C. and Shao, B. (2011) The Net Generation and Digital Natives: Implications for Higher Education Milton Keynes: Open University/Higher Education Academy
Kolb. D. (1984) Experiential Learning: Experience as the source of learning and development Englewood Cliffs NJ: Prentice Hall
Laurillard, D. (2001) Rethinking University Teaching: A Conversational Framework for the Effective Use of Learning Technologies New York/London: Routledge
Marron, D. Missen, C. and Greenberg, J. (2014) “Lo-Fi to Hi-Fi”: A New Way of Conceptualizing Metadata in Underserved Areas with the eGranary Digital Library Austin TX: International Conference on Dublin Core and Metadata Applications
McCoughlin, C. (1999) The implications of the research literature on learning styles for the design of instructional material Australian Journal of Educational Technology, Vol. 15, No. 3
NorQuest College (2008) Accessibility to E-Learning for Persons With Disabilities: Strategies, Guidelines, and Standards Edmonton AB: ECampusAlberta
Perry, W. (1970) Forms of intellectual development and ethical development in the college years: a scheme New York: Holt, Rinehart and Winston
Prensky, M. (2001) ‘Digital natives, Digital Immigrants’ On the Horizon Vol. 9, No. 5
Schroeder, C. (1993) New students – new learning styles, Change, Sept.-Oct
ほとんどの場合、教育におけるテクノロジー利用は手段であって目的ではありません。ですから学生や教員が、教育用テクノロジーの使い方を学んだり、そのテクノロジーをうまく機能させたりするために、多くの時間をかけなくてもよいことが重要です。もちろん例外はあります。例えばコンピュータ・サイエンスやエンジニアリングなど、テクノロジーそのものが研究分野である場合や、建築におけるコンピュータを使った設計・製図システム、経営学における表計算、あるいは地質学における地理情報システムなど、カリキュラムの一部としてソフトウェアの使い方を学ぶことが重要な場合もあります。ただしほとんどの場合、学習の目的は歴史、数学、生物学などの学問であって、特定の教育用テクノロジーの使い方を学ぶことではないのです。
対面式指導の利点の1つは、例えば100%オンラインのコースを開発する場合と比べて、事前準備の時間が比較的少ないことです。メディアやテクノロジーは、実装のスピードと更新の柔軟性の点で、その能力は様々です。例えば、ブログはビデオよりも開発や配布がはるかに早く簡単にできます。教員は高速で使いやすいテクノロジーを利用する傾向がはるかに大きいでしょうし、学生も同様、学習のために使うテクノロジーにはそのような機能を期待するでしょう。しかし教員や学生が何を「使いやすい」と思うかは、それぞれのデジタル・リテラシー次第で変わってきます。
例えば教材の開発や配信のためのソフトウェアの使い方を学ぶのに、学生や教員が多大な時間をかけなければならないとしたら、学習や教育からは横道に逸れてしまうことになります。もちろん必要とされる基本的なリテラシー・スキルの組み合わせはあります。例えば読み書き能力、キーボード、文書作成ソフトの利用、インターネットでの情報検索、Webアプリケーションの利用、そしてますます増えてきているモバイル機器の利用などです。ただし、これらの一般的なスキルは必須要件と見なすこともできます。もし学生がこうしたスキルを学校で十分に身につけてきていない場合、教育機関は学生向けに対し、このようなスキルに関わる予備的なコースを用意することもあります。
教育機関が学生のデジタル・メディアの利用をサポートする方策を持っている場合、教員も学生もずっと楽になるでしょう。例えば、ブリティッシュ・コロンビア大学では、Digital Tattoo プロジェクトによって、学生に様々な面でオンライン学習の準備をさせます。例えば:
ご自分の教育機関に似たようなものがない場合は、学生を Digital Tattoo サイトに誘導してもいいでしょう。このサイトは完全にオープンです。
しかし、事前の準備が必要なのは学生だけではありません。教員のあなたにも当てはまります。時にテクノロジーは魅力的すぎることがあります。その構造や仕組みを完全に理解していなくても使い始めることができます。学習管理システムや講義録画システムなどの一般的なテクノロジーの利用法に関して、短時間、たとえほんの1時間もかからないものでも研修を受ければ、大幅な時間の節約ができます。そして偶然見つけたものだけでなく、全ての機能についても潜在的な価値に気づくでしょう。
コースのメディアやソフトウェアを選択する際の便利な基準は、「初心者」の学生(これまでに当該ソフトウェアを利用したことがない学生)がログオン後20分以内には勉強していることです。この20分は、なじみがないソフトウェアで重要な機能を少しだけ把握するために、また当該コースのWebサイトがどのように構成され、ページ移動などはどうしたらいいのかを把握するために必要でしょう。これはコンピュータ操作の新しいスキルを身につけるというよりも、むしろオリエンテーション期間と言うべきものです。同期型チャット機能やビデオストリーミングなど、操作方法を覚える時間が必要な可能性があるソフトウェアを新たに導入しなければならない場合、必要になった時点で導入した方がよいでしょう。ただし、学生がそのやり方を学ぶ時間をコース内で確保しておくことが重要です。
テクノロジーを使いやすくする決定的な要因は、学習者と機械の間でのインターフェイスの設計です。したがって教育プログラムは、というよりもむしろ実際のところ、あらゆるWebサイトはきちんと構造化されていて、学習者は直感的に使え、操作しやすいものであるべきです。
インターフェイスの設計は高度な熟練を要する専門的技能であり、人間がどのように学ぶかについての科学的研究、オペレーティング・ソフトウェアがどのように機能するかについての理解、そしてグラフィック・デザインについての十分な研修の組み合わせに基づいています。これは教育の分野では、定評のある安定したソフトウェアやツールを利用するのが良いと考えられる理由の1つです。このようなソフトウェアやツールは既に分析され、うまく機能することが分かっているからです。
キーボードやマウス、ウインドウの視覚的なユーザー・インターフェイス、プルダウンメニュー、ポップアップでの指示といった、従来の一般的なコンピュータのインターフェイスは、まだ非常に大雑把なものであり、ほとんどの人にとって、情報処理の際の好みと一致しているわけではありません。リテラシー・スキルと視覚的な学習の優位が極端に重視されています。これは失読症や視力障害など、ある種の障害を持つ学生にとって大きな問題となるかもしれません。しかし近年、タッチ・スクリーンや音声による起動が登場したことで、インターフェイスはますます使いやすくなってきています。
一方、既存のコンピュータやモバイル機器のインタフェースを、教育の文脈で使いやすくするためには多大な努力の投入が必要になる場合が多いです。Webでさえ、他のソフトウェア環境と同様に、一般的なコンピュータのインターフェイスに縛られていますし、どんなWebサイトの教育的な可能性も、そのアルゴリズム構造ないし樹状構造による制約を受けています。このことは例えば、ある分野に特有の構造や、一部の学生が好む学習法に、必ずしもぴったり合うとは限らないのです。
高等教育の教員にとって、こうしたインターフェイスによる制限の影響がいくつかあります。
テクノロジーの信頼性と堅牢性も重要です。私たちのほとんどは、文書作成ソフトがクラッシュして、それまでの仕事が消えたり、クラウド上での書き物の途中でタイム・アウトすることになったりして、がっかりさせられた経験があるでしょう。教員として最も残念に感じることは、オンラインでアクセスできないとか、コンピュータがクラッシュし続けると連絡してくる学生が多いことです。(もしそのソフトウェアで一つのマシンが固まるなら、おそらく他の全てのマシンでも固まるでしょう!)技術的なサポートは、サービス・コールに対応する技術スタッフに料金を支払うという意味だけでなく、学生や教員の時間の浪費につながるという意味でも、多大なコストがかかる可能性があります。
革新的な教育機関という地位を巡る競争の中、最近の「教育のイノベーション」は教育機関にとって見返りがあるのは確かです。古くてもうまく使われているテクノロジーを維持するための資金よりも、新しいテクノロジー利用のための資金調達が簡単であるということも多々あります。ポッドキャストと学習管理システムの組み合わせは、非常に低コストでありながら非常に効果的な教育手段になりえますが、いくら優れた設計だったとしても決して魅力的とは言えません。たいていは xMOOCs やバーチャル・リアリティなど、はるかに高価で華々しいテクノロジーで資金援助を受けるほうが容易でしょう。
その一方で、新しいテクノロジーの導入が早すぎるとリスクも大きくなります。ソフトウェアが十分にテストされていないため信頼性がないかもしれませんし、あるいはその新しいテクノロジーをサポートしている会社が倒産することもあり得ます。学生はモルモットではありません。信頼できる持続可能なサービスは、十分にテストされていないテクノロジーの華々しさや魅力よりも重要です。新しいアプリやソフトウェアが一般的な利用場面で十分にテストされるまで少なくとも1年間は、それらを教育に採用しないで待つことをお勧めします。そして最新のソフトウェアの更新や新製品を急いで購入せず、バグが解決されるまで待つ方が賢明です。また、一般的に教育機関で使われていない新しいアプリやテクノロジーを使いたいなら、まずは情報支援部局に問い合わせ、セキュリティやプライバシー、教育機関の帯域幅などの問題がないことを確認しましょう。つまり、革新的な技術の最先端ではなく、先端ではあるけれども最初の波のすぐ後ろにいる方が良いということになります。
オンライン学習の特徴の一つとして、よく利用される時間帯が通常の勤務時間外にくる傾向があります。したがって、コース教材は高速アクセスと毎日24時間、確実に動く信頼性の高いサーバー上に配置され、別の建物にある別の独立したサーバー上に自動的にバックアップされていることが非常に重要です。例えばサーバーは緊急用電源などを備えた安全な場所に、24時間の技術サポートと共に設置されるのが理想的です。これはおそらくサーバーを中核的なIT支援部門、またはクラウド上に置くことを意味するでしょう。つまり教材が安全かつ独立しており、確実なバックアップが行われていることが非常に重要だということです。
幸いなことに、サーバーだけでなく、学習管理システムや講義録画システムなど、ほとんどの商用教育ソフトウェア製品は、非常に信頼性が高いものです。オープン・ソースのソフトウェアでも通常は信頼できますが、技術的なミスやセキュリティ侵害のリスクが、ほんの少しだけ高まることがあります。優秀なIT管理者がいるなら技術的な問題に関してあなたが学生から電話を受けることはほとんどないでしょう。最近では教員が直面する主な技術的問題は、学習管理システムのソフトウェアのアップグレードだと思われます。これは多くの場合、コース教材を古いバージョンのソフトウェアから新しいバージョンに移行することを意味します。この作業は、特に新しいバージョンが従来のバージョンと大幅に異なる場合、多大な費用と時間が必要になることがあります。とは言え全体的に見て、信頼性の面では問題ないはずです。
まとめると、使いやすさに必要なのは、専門家が設計した商用またはオープン・ソースのコース・ソフトウェア、コース教材のグラフィック、操作性、画面デザインに対する専門的な支援、サーバーとソフトウェアの管理やメンテナンスに対する強力な技術サポートです。確かに北米では、今やほとんどの教育機関がテクノロジー主体の教育のサポートに特化した IT やその他の支援を用意しています。しかし、そのような専門的なサポートがない場合は、教員としての時間の多くを技術的な問題に費やすことになります。そして率直な見解として、このようなサポートの利用が容易かつ便利でない場合は、サポートが利用できるようになるまではテクノロジー主体の教育に深く関わらない方が賢明でしょう。
使いやすさは教育にテクノロジーをうまく活用するための重要な要素の1つです。したがって、検討すべき問題としては以下のものが含まれます。
ほんの10年ほど前までは、コストはテクノロジーの選択に影響を与える主要な差別化要因でした (Hülsmann, 2000, 2003; Rumble, 2001; Bates, 2005)。例えば教育目的では、音声(講義、ラジオ、録音)は印刷物よりはるかに安く、印刷物はほとんどの形態のコンピュータを基盤とする学習よりはるかに安く、そしてコンピュータを基盤とする学習は動画(テレビ、録画、テレビ会議)よりはるかに安いものでした。これら全てのメディアは、かなり大規模で純粋な遠隔教育の場合を除いて、通常の授業のコストを拡大するもの、あるいはコストがかかりすぎて対面授業の代わりにはできないものと見なされていました。
しかし、対面式の授業を除いて、あらゆるメディアの開発や配信にかかるコストは、過去10年間で劇的に減少しています。これにはいくつかの要因があります。
ありがたいことに、一般に、そして原則として、コストはもはやメディアの選択における自動的な差別化要因にはならないはずです。この文を額面どおりに受け入れられる方は、この章の残りの部分は読み飛ばしてもかまいません。ご自身の教育ニーズに最も合ったメディアの組み合わせを選択してください。どのメディアでコストが高くつきそうか、心配する必要はありません。実際、コストだけを考慮するべきならば、もはや対面授業は純粋なオンライン学習に置き換える方が安上がりであることは分かり切っています。
しかし実際には、異なるメディアの比較でも、一つのメディアの中でも、文脈や設計によってコストが何であるか大きく異なる可能性があります。教員の立場からすると主なコストは時間ですから、コストの原因となるものは何なのか、つまり文脈や利用されるメディアに応じて、コスト増加と結びつく要因は何なのかを知ることが重要になります。こうした要因はテクノロジーの新しい発達の影響を受けにくいため、教育メディアのコストを考慮するときの基本原則と見なすことができます。
残念ながら教育におけるメディア利用にかかる実際のコストには、様々な要因が影響する可能性があります。そのため、コストについての詳細な議論は非常に複雑なものになります。詳細については、Bates & Sangrà, 2011を参照してください。ここでは主要なコスト増加要因を特定し、次にこれらの要因が対面式教育を含む様々なメディアのコストにどのような影響を与えるかについて、簡略的なガイドを表の形で示します。この表は試行錯誤によって得られた工夫と考えるべきでしょう。つまり、このセクションは「メディア・コスト入門」と考えてください。
教育用メディアおよびテクノロジーの利用、特にブレンド型学習やオンライン学習の利用に考慮する必要がある、主なコストのカテゴリーは次のとおりです。
開発コストとは、特定のメディアやテクノロジーを使った教材をまとめたり作成したりするのに必要なコストです。開発コストにはいくつかのサブカテゴリーがあります。
開発コストは通常、固定された金額、あるいは「一度だけ」のものであり、学習者の数には依存しません。一度メディアを開発してしまえば、それらは通常、大規模にしても費用などはそれほど増加しません。つまり、一度制作すれば開発コストを増やすことなく、任意の数の学習者による利用が可能です。オープン教育リソースを利用すると、メディア開発コストを大幅に削減できます。
配信には、コースを提供している期間に必要となる教育活動のコストが含まれます。学生とのやり取りに費やされる指導時間や、課題採点にかかる指導時間も含まれますし、さらにティーチング・アシスタントや、それ以外の部署の補助員、インストラクショナル・デザイナーや、技術支援スタッフの派遣にかかる時間も含まれるでしょう。
メディア主体の授業では、指導時間や技術サポートなど人的要因によるコストがかかるため、受講生の数が増えると配信コストも増加する傾向があり、またコースが提供されるたびに繰り返す必要もあります。言い換えればこのコストは周期的に起こるものです。ただしインターネット主体の配信では、通常、配信のための直接的な技術コストがゼロになる場合が増えています。
コースの教材を作成したら、それを維持する必要があります。 リンク切れがありますし、設定した読み物が絶版になったり、期限切れになったりします。さらに重要なこととして、当該分野の新しい発展に対応する必要が出てくることもあるでしょう。したがって、一旦コースを提供すると、メンテナンス・コストが継続的に発生します。
インストラクショナル・デザインやメディアの専門家にもこのようなメンテナンスの一部は管理できますが、それでもやはり教員がコンテンツの入れ替えや更新に関する決定に関与する必要があります。メンテナンスは単一のコースなら普通はそれほど時間がかかることはありませんが、もし指導者が複数のオンライン・コースの設計と作成に関わっている場合は、メンテナンスにかかる時間を合計すると、かなり長くなる可能性があります。
維持コストは、通常は学生数とは無関係ですが、指導者が担当するコースの数によって変わり、毎年繰り返されます。
諸経費に含まれるのは、学習管理システムのライセンス料や、講義録画システム、ビデオ・ストリーミング用のサーバーなどのインフラ費用や事務経費です。これらは実際のコストですが、単一のコースへの割り当てが可能な経費ではなく、多くのコースで共有されるものです。諸経費も重要ですが、通常は機関の経費と考えることができますので、メディア選択に関する教員の決定に影響することはおそらくありません。ただし、これらのインフラなどがまだ導入されておらず、当該機関がその提供元に関して直接請求するような場合は別です。
コストを押し上げる主な要因は以下の通りです。
ビデオ・プログラムやWebサイトなど、テクノロジーに由来する教材の作成は、受講者の数に左右されないという点で固定費と言えます。ただし制作コストはコースの設計によって変わってきます。Engle (2014) は、ビデオ制作の方法によって、ある MOOC の開発コストが6倍になる可能性があることを示しました。つまり最も高価な制作方法は全てをスタジオで制作する場合であり、これは教員がノートパソコンを使って自分で録画する場合の6倍になります。
それでも、いったん制作すれば、そのコストは学生の数とは無関係です。したがって、コースの開発が高価になればなるほど、学生1人あたりの平均コストを削減するために、学生数を増やす必要性が高まります。言い換えれば学生数が多いほど、メディアが何であれ、高品質の制作物が利用されるための確実性を高める理由となります。 MOOC の場合、学習管理システムを利用してオンラインで単位を履修するコースのほぼ2倍のコストがかかる傾向がありますが(University of Ottawa, 2013)、学生数が非常に多いため、学生1人あたりの平均コストは非常に少なくなります。したがって、常にできるとは限りませんが、もしもコースの受講者数を増やすことができるのであれば、デジタル教材の開発を行うことで、それなりの規模での費用削減につながる機会となります。これはメディアの拡張性(スケーラビリティ)が潜在的にもつ力と言えるでしょう。
同様に、コースが開発された後は、そのコースを教えるコストがかかります。これはクラスの規模が大きくなるにつれて増加するという点で、変動コストとなる傾向があります。オンライン・ディスカッション・フォーラムや課題採点を通した学生と教員のやり取りを扱いやすいレベルに保つのであれば、教員と学生の比率を比較的低く保つ必要があります。例えば、分野やコースのレベルにもよりますが、1:25から1:40が望ましいでしょう。学生が増えるほど、教員はやり取りに必要とする時間が増えますし、場合によっては追加で契約講師を雇う必要が出てきます。いずれにせよ、学生数の増加は一般的にコスト増加につながります。MOOCs は例外です。MOOCs の主な価値命題は、MOOCs が直接的な学習者サポートを提供しないことであり、これによって教員と学習者の間でのやり取りにかかるコストをゼロにしています。しかし MOOCs を無事に修了する参加者が非常に少ないのは、おそらくこのためなのでしょう。
もしも双方向的な学習教材のための先行投資を増やすことで教員と学習者とのやり取りの必要性が減るのであれば、教員や機関にとってメリットがあるかもしれません。例えば数学のコースでは、自動化されたテストやフィードバック、シミュレーションや図式、そしてよくある質問に対しては事前設計された回答などを用いて、個々の課題の採点や教員とのコミュニケーションに費やす時間を減らしたり、あるいは全く不要にすることさえ不可能ではありません。この場合、質を大幅に損なうことなく、教員と学習者の比率は1:200、あるいはそれ以上でも対応できるかもしれません。
また、特定のメディアや配信方法を使った経験や、それに関わる仕事をした経験も重要です。教員がポッドキャスティングなどの特定のメディアを初めて利用するときは、後の制作や提供にかかる時間よりも、はるかにたくさんの時間が必要です。そしてメディアやテクノロジーによっては、他のものよりも使い方の習得に多くの努力を要するものもあります。したがって、教員が一人で開発をするか、メディアの専門家と協力するかが、関連するコスト要因になります。教材を一人で開発することは、教員にとって、プロと協力するよりも通常は時間がかかります。
デジタル・メディアを開発するとき、メディアの専門家と協力する教員にはメリットがあります。メディアの専門家は確実に良質な教材を開発してくれるでしょうし、何よりも教員は、例えば適切なソフトウェアの選択、編集、そしてデジタル教材の保存とストリーミングなどにかかる、かなりの時間を節約することができます。インストラクショナル・デザイナーは、様々な学習成果に向けて、様々なメディアを適切に利用する提案をしてくれることでしょう。結局のところ、全ての教育設計と同様、チームで取り組んだ方が効果的になる可能性が高真理ますし、他の専門家との協力によって、教員もメディア開発に費やす時間をコントロールしやすくなります。
最後に、設計に関する決定が極めて重要です。コストは、メディア内部での設計上の決定によって決まります。例えば対面式の授業で言うと、講義とセミナー(あるいはラボでの授業)ではコスト要因が異なります。同様に、講義録画のように、動画を単に話し手を録画するために使うこともできますし、例えばプロセスの実演やロケ地に出向いた撮影のように、メディアのアフォーダンスを有効利用するために使うこともできます。(第7章を参照)コンピュータの利用は可能な設計の範囲が広く、そしてその範囲は広がりつつあります。例えば、オンライン協働学習 (OCL)、コンピュータ利用型の学習、アニメーション、シミュレーション、あるいは仮想世界も含まれます。ソーシャル・メディアも同様に考慮する必要があるメディア群の中の一つです。
図8.4.3は、主に決定を下す教員の立場に焦点を当て、コスト要因の複雑さを捉えようとしたものです。繰り返しになりますが、これは発見を助ける手段、あるいはこの問題に対する考え方の1つと捉えてください。ソーシャル・メディアや教材のメンテナンスなど、他の要因も追加できるでしょう。枠内それぞれの記号は、私自身の経験に基づいて個人的な評価をしています。私は従来の指導法を中程度、あるいは平均的なコストとみなし、そこから特定のメディアのコスト要因が、それより高いか低いかで、枠内にランク付けをしました。読者の皆さんは違ったランク付けをするかもしれません。
様々なテクノロジーを利用した教材を開発し、配信するためにかかる時間は、どのテクノロジーを利用するかを決定する教員に影響を与えるでしょう。しかしそれは単純な方程式にはなりません。例えばビデオ教材とテキスト教材を組み合わせた良質のオンライン・コースの開発は教室で行われる授業よりも、教員の準備時間が大幅に長くなるかもしれません。しかしそのオンライン・コースは、数年間で、やり取りにかかる時間は大幅に短縮される可能性があります。学習者がオンラインで課題に取り組む時間が長くなり、教員との直接的なやり取りをする時間が短くなるかもしれないからです。繰り返しますが、設計はコストを評価する上で決定的な要素なのです。
要するに、指導者の立場から言うと、決定的に重要なコスト要因は時間です。使うのに時間がかかるテクノロジーは、使いやすく時間を節約できるテクノロジーよりも、利用される可能性は低くなります。しかし教員がどのくらいの時間をメディアに費やす必要があるかは、やはり設計上の決定によって大きく左右される可能性があります。そして教員や学習者が独自の教育用メディアを作成する能力は、ますます重要な要素になりつつあります。
近年、大学教員は、オンライン・コースで配信するものとして一般に講義録画に関心をもつようです 。オンライン学習や遠隔学習の実施が比較的目新しい機関では特にそうです。これは学習管理システム上で主に文字ベースの教材を再設計して作成するよりも「簡単」だからです。講義録画は従来の教室での教育方法に近い方法でもあります。しかし対象分野によりますが、教育的には講義録画は協働学習やオンライン・ディスカッション・フォーラムを使うオンライン・コースに比べると効果的ではないかもしれません。また、機関の立場からすると、講義録画システムは、学習管理システムよりもはるかに高い技術コストがかかります。
学習者自身はプロジェクト作業や eポートフォリオの形で評価を受ける目的で、自分のデバイスを使ってマルチメディア資料を作成できるようになっています。もし望むのであれば、教員はメディアを利用することで、必要に応じて指導や学習における大変な作業の多くを、教員自身から学習者たちに移転させることができます。メディアを利用することで、より多くの時間を学習者が課題に費やすことができるようになり、また携帯電話やタブレットのような低コストの消費者向けメディアのおかげで学習者自身がメディア作品を生み出し、学習成果を具体的な形で示すことができるようになっています。これは学習者がオンラインで勉強する時、教員がある場所にいることの必要性が失われたという意味ではありませんが、教員が学習を支援するために、どこでどのように自分の時間を使えるかを変えることができます。
Bates, A. (2005) Technology, e-Learning and Distance Education London/New York: Routledge
Bates, A. and Sangrà, A. (2011) Managing Technology in Higher Education San Francisco: Jossey-Bass/John Wiley and Co
Engle, W. (2014) UBC MOOC Pilot: Design and Delivery Vancouver BC: University of British Columbia
Hülsmann, T. (2000) The Costs of Open Learning: A Handbook Oldenburg: Bibliotheks- und Informationssytem der Universität Oldenburg
Hülsmann, T. (2003) Costs without camouflage: a cost analysis of Oldenburg University’s two graduate certificate programs offered as part of the online Master of Distance Education (MDE): a case study, in Bernath, U. and Rubin, E., (eds.) Reflections on Teaching in an Online Program: A Case Study Oldenburg, Germany: Bibliothecks-und Informationssystem der Carl von Ossietsky Universität Oldenburg
Rumble, G. (2001) The Cost and Costing of Networked Learning Journal of Asynchronous Learning Networks, Volume 5, Issue 2
University of Ottawa (2013)Report of the e-Learning Working Group Ottawa ON: The University of Ottawa
第7章では、メディア間の様々な教育上の違いについて論じました。デジタル時代の教員にとって、メディアの適切な利用法を特定することは、ますます重要な要件となっていますし、また非常に複雑な難題でもあります。これはインストラクションナル・デザイナーやメディア専門家と可能な限り密に連携すべきである理由の一つになります。そしてインストラクショナル・デザインの専門家と協力する教員は教育的および運営上の理由に基づいて、どのメディアを利用するつもりか決定する必要があるでしょう。それが第7章の目的でした。
ひとたびメディアを選択したら、次に設計上の問題に焦点を当てることで、メディアをさらに適切に利用するためのさらなる指針を示すことができます。特に第7章では様々なメディアで可能な教育の役割や機能を特定するプロセスを示しましたが、このプロセスを経た上で Mayer (2009) と Koumi (2006, 2015) を参照すると、いかなるメディアの選択や組み合わせが決定されても、設計によって効果的な指導につながることが確認できます。
Mayer の研究は、リッチなマルチメディアを利用した教育における認知過負荷に重点を置くものでした。長年にわたる彼自身の研究により、学習者がマルチメディアをどのように認知的に処理するかに基づいて、マルチメディア設計の12の原則が明らかになりました。
無関係な単語や写真、音声が含まれている場合よりも、除外されている方が、学習効率は高くなります。基本的には、メディアに関しては単純にしてください。
教材の構成を強調する重要な手がかりが与えられた方が、学習効率は高くなります。これは Bates & Gallagher (1977) による初期の知見を再現するものです。学生はマルチメディア教材の中で、何を探すべきか知る必要があります。
グラフィックスとナレーションの他に画面上で説明文を与えられた時よりも、グラフィックスとナレーションだけの方が、学習効率は高くなります。
対応する単語や写真はページや画面上で離れて置かれているよりも、隣接して表示されている方が、学習効率は高くなります。
対応する単語と絵は連続してではなく同時に提示される方が、学習効率は高くなります。
マルチメディアの授業は、ひと続きのレッスンとしてではなく、ユーザーの進み具合で細かく分割できるよう設計されている方が、学習効率は高くなります。つまりYouTube程度の長さの動画が複数ある方が、50分の動画よりもうまくいくでしょう。
マルチメディアの授業では、主な概念の名前と特徴を知っている方が、学習効率は高くなります。例えばこれは反転教室の設計の特徴を連想させるものです。講義か読み物を使って重要な概念や原理の概要を提示してから、原理の詳細について、事例や応用を動画で見せる方が良いかもしれません。
アニメーションと画面上の説明文よりも、グラフィックスとナレーションの方が、学習効率は高くなります。学習者は聴覚と視覚を組み合わせながら、特定の方法でお互いを強化できることの重要性を表しています。
言葉だけよりも写真があった方が、学習効率は高くなります。これは私が1995年に書いたことを補強することでもあります。「4つのメディア全てを教員と学習者が利用できるようにすること。」(Bates, 1995, p.13)
マルチメディアの授業では、改まったスタイルよりも会話的なスタイルの言葉の方が、学習効率は高くなります。ここではMayerよりもさらに先に進めましょう。文字と音声の組み合わせに関する Durbridge の研究 (1983, 1984) が示しているように、マルチメディアを使うと学習者(特に遠隔学習者)が教員とつながりをもつことができます。指導に「人間の声と顔」を加えることで学習者のやる気を引き出すことができますし、さらに会話形式が採用されているなら、マルチメディアの授業が個々の学習者に向けられているような感じを与えることができます。
マルチメディア授業のナレーションが機械音声ではなく、親しみやすい人間の声で話されている方が、学習効率は高くなります。
マルチメディア授業で話し手の画像が画面に加わっても、学習効率は必ずしも高くなるわけではありません。
Mayer の研究を読み直してみると、1970年代および1980年代のブリティッシュ・オープン大学での視聴覚メディア研究グループによる研究と、調査結果が驚くほど類似しています。研究方法、マルチメディアのテクノロジー、文脈が異なるにも関わらずです。 (Bates, 1985年)
最近では、ブリティッシュ・コロンビア大学の優れた研究により、Mayer の設計原理がどのように運用可能にできるかが示されました。ブリティッシュ・コロンビア大学のスタッフは、Mayer の知見と、数学に関する一連の巧みな動画での説明を完成させた Robert Talbert の知見を組み合わせることで、マルチメディア制作のための実用的な設計基準にまとめました。
Talbert の設計の原理のキーポイントは次の通りです。
• 簡単なものに:一度につき1つの考えに集中しましょう。
• 短いものに:集中力を最大化するために。動画の長さは最大5〜6分にしましょう。
• 本物に:学習がうまくいった人たちの意思決定プロセスおよび問題解決プロセスをモデル化しましょう。
• 良いものに:ビデオの計画については意図的にしてください。可能な限り最高のビデオおよびオーディオ品質を実現するよう努めましょう。
ほとんどの教員は、あるメディアが教育や学習に有効であるかどうかを最初の基準とするでしょう。テクノロジーが教育的に有効でないなら、そもそも使う必要はありませんから。しかし学生がテクノロジーを利用できないなら、そのテクノロジーがどのように設計されていても、何も学びは発生しません。さらに言えば、やる気のある教員であれば特定のテクノロジーの弱点を克服できるでしょうが、他方、メディアの扱いに慣れていない教員は往々にしてテクノロジーの可能性を活かしきれないことがあります。
したがって、設計上の決定は、特定のテクノロジーの有効性を左右します。うまく設計された講義は、設計がまずいオンライン・コースよりも学びやすいでしょう。逆もまた然りです。同様に、好みの学習スタイルや動機づけの違いから、学生は異なるテクノロジーに対して異なる反応をするでしょう。勤勉な学生は学習用テクノロジーのまずい使い方を克服することができます。つまり当然のことながら、様々な要因を伴う教育と学習を、テクノロジーの選択と利用のための弁別に使うことが困難であるという考えは驚くべきことではありません。メディア選択においては、アクセスと使いやすさが、教育的効果よりも強い弁別要因になります。
教育的な文脈だけを考えたとしても、設計は重要ですが、マルチメディア教材の設計だけに焦点を当てるだけでは不十分です。メディアの選択と利用は、学習者間の個人差や、コンテンツの複雑さ、期待される学習成果など、Mayer が「境界条件」と呼んでいる他の要因と関連づける必要があります。ですから、厳密に教育の観点からメディアを検討するときも、以下の問題点について考慮する必要があります。
これらの問題点の検討は、順次的に起こるというよりむしろ反復的なプロセスになるでしょう。あなたが検討したい方法や、決断を下す方法によっては、それぞれの問題点に対する答えを書き留めておくと役立つかもしれません。ただ、おそらくもっと重要なのは、これらの質問について考えるプロセスを経ておくことでしょう。まずはこれら全ての要因、またその他の要因を検討した上で、より直観的な根拠にもとづいて選択する余地ができるのです。
Mayer の設計についての原則は、教室での授業にどの程度うまく当てはまると思いますか。
どの原則が教室の状況でも機能するでしょうか。機能しないと思われるのはどれでしょうか。
Mayer の原則は、どのような条件の下でなら実際の教室で機能するでしょうか。
Bates, A. (1985) Broadcasting in Education: An Evaluation London: Constables
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Bates, A. and Gallagher, M. (1977) Improving the Effectiveness of Open University Television Case-Studies and Documentaries Milton Keynes: The Open University (I.E.T. Papers on Broadcasting, No. 77)
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UBC Wikis (2014) Documentation: Design Principles for Multimedia Vancouver BC: University of British Columbia
メディア選択のための SECTIONS モデルの第5の要素はインタラクションです。様々なメディアはどのようにインタラクションを可能にするのでしょうか。インタラクションの「アフォーダンス」は極めて重要です。これまで圧倒的な量の学術研究面での証拠により、学生が学習に「積極的」であるときに最も学習効率が高くなることが示されているからです。しかしこれは何を意味するのでしょうか。アクティブ・ラーニングを支援する上で、新しいテクノロジーはどのような役割を果たす、あるいは果たしうるのでしょうか。
学習時に学習者が行うものとして、3つの異なるインタラクションが区別されていますが、 (Moore, 1989) それぞれ必要になるメディアとテクノロジーの組み合わせが多少異なってきます。
これは学生が、教科書や学習管理システム、短いビデオ・クリップなどの特定のメディアで、教員や他の学生の直接の介入なしに作業するときに生じるインタラクションです。このインタラクションは、はっきりとした行動を伴わない「内省的」なものもあれば、多肢選択テストなどのように評価された回答という形で、あるいはディスカッションへの貢献という形で、または記憶や理解を助けるメモとして「観察可能」なものもあります。
コンピュータ技術により、学習者と学習リソースとのインタラクションを大いに促進することができるようになりました。自己管理型オンラインテストでは、対象分野の理解度や範囲について、学生にフィードバックを提供できます。このようなテストでは学生がつまずいているトピック分野について教員にフィードバックを提供することもできますし、また学生の理解度について、評価にも使うことができます。学習管理システムに組み込まれている標準的なテスト用のソフトウェアを用いることで、学生の評価や、コース教材の理解度にもとづく成績評価が自動的に行われます。より高度な活動として、楽譜を音声に変換するソフトウェアを使った作曲や、オンライン・シミュレーションを用いて概念をテストするためのデータ入力、あるいはコンピュータ制御によるゲームや、意思決定シナリオへの参加などもあり得ます。このように、コンピュータが管理する学習者とのインタラクションは、概念や手順の把握や理解を深めるのに特に適しています。しかし分析や統合、批判的思考といった高次の学習スキルの養成を行うためには、何らかの人的介入がないと難しいといった制約があります。
コンピュータが管理する学習以外にも、学習者と教材の間のインタラクションを容易にする方法はあります。この教科書もそうですが、教科書には執筆者が設定した活動を含めることができますし、用意された読み物についての学生の活動を教員があらかじめ準備しておくこともできます。他にも学生の活動としては、例えば学習管理システムに書き込まれた文字情報の読解や動画の視聴、構造化された手法によるWebベースの教材の検索や分析、eポートフォリオ作成のためのWebからの情報のダウンロードや編集などが挙げられます。このような活動は評価対象になる場合とならない場合がありますが、特にオンラインで勉強している学生の場合、評価対象になる方が、より活動に集中する傾向があることが示されています。
言い換えれば、優れた設計と十分な素材があれば、テクノロジー主体の教育では、学生と教材の間での高いレベルのインタラクションを可能にします。学生と教材とのインタラクションの可能性を最大限に活用することは、経済的に大きなメリットがあります。このインタラクションが密になると、学生は学習に費やす時間が長くなり、学習効果が高まる傾向があるからです。(Means et al., 2010を参照) おそらくもっと重要なのは、このような活動がうまく設計されていれば、教員が個々の学習者とのやり取りに費やす時間を減らすことができるということです。
その一方、分析、統合、批判的思考など、高次の学習成果の多くを達成するために、学生と教員のやり取りが必要になることはよくあります。これは学問的な学習を発展させるためには特に重要です。学生は見解に対して疑問を投げかけ、理解を深めることが求められます。このため多くの場合、教員と学生グループの間での対話や問答が必要になります。したがって教員の役割は、対面のセミナーやオンラインの協働学習などにおいて非常に重要になります。
オンラインのディスカッション・フォーラムなどのテクノロジーの中には、離れた場所にいる学生と教員が、このような対話や問答を行うことができるものもあります。しかし学生と教員のインタラクションの主な制約は、教員に対する時間的負担であり、規模拡張がなかなかできないことです。
質の高い学生同士のインタラクションは、対面型学習、オンライン学習のいずれの状況でも、同じように提供することができます。学習管理システムに組み込まれた非同期のオンライン・ディスカッション・フォーラムを利用することで、この種のインタラクションが可能になります。また、結合主義的なMOOCsや実践コミュニティでも学生同士のインタラクションができます。
しかしここでも同様に、その質は設計の良し悪しにかかっています。オンラインでも対面型でも、単に学生をグループにまとめただけでは、積極的な参加や質の高い学習にはつながりません。コース内のディスカッションの教育的な目標や、ディスカッションのトピック、そしてそれらがどのように評価や学習成果と関連づけられるかについて、慎重に検討する必要があります。また、自発的な話し合いができるよう、教員は学生にしっかりと準備させる必要があります。(詳細についてはセクション4.4を参照。)
そして教員やコース設計者は、テクノロジーを多用する学習環境では、これら3つのタイプのインタラクションの最適な組み合わせを決めることが重要です。その際、認識論的な見方や、学生と教員に使える時間、そして期待する学習成果も考慮する必要があります。テクノロジーを使うと、これら3つのタイプのインタラクションの全てができるようになります。
上記で概観した3つのタイプのインタラクションは、それぞれ異なるテクノロジーによって強化されたり、あるいは抑制されたりします。インタラクションは様々なメディアやテクノロジーで行うことができますが、ここでも再びインタラクションの特徴を見ていきましょう。インタラクションの特徴は、メディアやテクノロジーが教育に用いられた際に、利用者にどの程度まで能動的な反応が必要とされるかという点で、3つの構成要素に分けられます。
メディアの中には内在的に学習者の「アクティブ」な反応を「プッシュ」してくるものがあります。その一例に適応学習があり、学習者が次の段階に十分に進める程度にまで学んだかどうかを確認するための、あるいは矯正策としてどのような学習が必要なのかを確認するためのテストとのインタラクションを経ないことには(受けないことには)次の段階へは進めないというものです。行動主義的なコンピュータ利用型の学習では、学習者に反応を強いるものなので、内在的なインタラクションが行われています。学習者がどのように反応するかを制御するテクノロジーは、行動主義的な教育法や学習法と関連づけられることは珍しくはありません。
メディアやテクノロジーの中には、本来は双方向的ではないものもありますが、学習者とのインタラクションを促進するように明示的に設計することができます。例えばWebページは本来、双方向的ではありませんが、コメント・ボックスを追加したり、ユーザーに情報入力や選択を求めたりすることで、双方向的になるよう設計することができます。特に教員は、特定のメディア内で練習問題を追加したり提案したりできます。例えば、学生にポッドキャストの内容に沿った練習問題を行わせるために、数分ごとにポッドキャストを停止するよう設計することができます。これはWebページの場合と同様に、教科書に練習問題を含める際にも適用できる方法です。
しかし多くの場合、教材を中心に練習問題を設定したり、適切なフィードバックを与えたりするためには、メディア単独でなく教員の介入が必要になるため、教員に必要な作業時間は減るというよりもむしろ増えることになるでしょう。したがって練習問題の設計やフィードバックで介入しなければならない分、教員のコストすなわち必要な作業時間は、他の2つのタイプのインタラクションが使われる場合よりも大きくなりがちです。
メディアによっては明示的なインタラクションが組み込まれていないものもあります。それでも学習者(エンド・ユーザー)は自発的に、認知的な、あるいは何らかの物理的な反応によって、メディアとのインタラクションを行うことがあります。例えば、アートギャラリーにいる人は、特定の絵に対して認知的または感情的に反応するかもしれません。(ちらっと目を向ける人や、注意を向けなかったりする人もいるかもしれませんが。)学習者の中にはその絵をスケッチしたくなる人もいるかもしれません。学習者の中には小説や詩を読む場合と同様の反応する人もいるかもしれません。その作品の作者は実際、意図的に省察や分析を促すようにデザインすることもあるかもしれませんが、その場合、作品の解釈は明示的には示されず、解釈は鑑賞者や読者に委ねられます。(これはもちろん構成主義的な学習法です。)教員の介入なしに学習者が自発的に活動することを促すメディアはコスト面で利点があります。ただしインタラクションの質をモニターしたり、評価したりすることは困難になるでしょう。
インタラクションのもう1つの特徴はコントロールです。テクノロジー、製作者や教員、あるいは利用者や学習者はどの程度までインタラクションをコントロールする、あるいは可能にするのでしょうか。これは複雑な側面であり、認識論の立場や、教員側の設計上の決定からも影響を受けます。この種のインタラクションは、決して固定的ではなく、同じメディアやテクノロジーを利用する場合でも、様々なレベルやタイプが考えられます。インタラクションは最終的には期待される学習成果と結びつく必要があります。ある特定のタイプの学習成果に最もつながりやすいのは、どのようなインタラクションでしょうか。そしてそのようなインタラクションを提供するのに最も役立つのは、どのようなテクノロジーあるいはメディアでしょうか。
フィードバックはインタラクションの重要な一面であり、効果的な学習には、学習者の活動に関する即時かつ適切なフィードバックが不可欠です。では、ある特定のメディアを利用した場合に、フィードバックはどの程度まで可能でしょうか。例えば、学習者は本の中の詩に積極的に反応するかもしれません。しかしそのインタラクションについてのフィードバックをその読書活動のみから得ることは、通常では不可能です。むしろフィードバックを提供するためには、対面型での詩の授業や、オンラインのディスカッション・フォーラムなど、他のメディアを用いる必要があります。
一方、コンピュータ利用型の学習では、学生が多肢選択問題に答えると、コンピュータはその問題に得点をつけ、ほぼ即座にフィードバックを与えることができます。しかし、印刷メディアなどのようなテクノロジーを用いた場合、学習者の活動について適切な、あるいは即時のフィードバックを与えることは困難、もしくは不可能でしょう。模範解答や正しい考え方を別のページに文章で与えることはできるかもしれませんが、印刷メディアを用いる際、活動に関する良質のフィードバックは教員が提供しなければなりません。
このようにメディアやテクノロジーは、様々な種類のフィードバックを提供できるかどうかという点でも異なります。教育的観点から考えると、どのようなフィードバックが最も効果的である可能性が高いか、また、そのフィードバックをどのように提供するのが最も効果的かについて、明確にしておくことが重要です。例えば、自動化されたフィードバックが適切なのはどのような状況下でしょうか。また、フィードバックを教員や指導助手が提供すべきなのはどのような場合なのでしょうか。
表8.6.4は、様々な教育メディアによるインタラクションを、2つの軸に沿って分類したものです。一方の軸は学習者によるインタラクションのタイプで、学習者と教材(Learner-materials)、学習者と教員(Learner-teacher)、学習者同士(Learner-learners)という分類です。もう一方はメディアの特性で、インタラクションがメディアに組み込まれているのか(Inherent)、意図的な設計によって追加する必要があるのか(Designed)、あるいはインタラクション方法の決定が学習者に委ねられているのか(Learner-generated)という分類です。
それぞれのメディアの援助を受けることによって生じる学習者の活動のタイプに基づいて、交差する箇所にメディアをいくつか割り当てています。しかしここに挙げたメディアの中には、教員による設計の決定次第で、実際の場所が変わってくるものもあります。例えば、ポッドキャストは、何らかの活動を伴うように設計された場合(Designed)、その意味や当該コースにおける目的の解釈が学生に委ねられているものや、学生が作成する場合(Learner-generated)の場合、そして単なる音声メディアとして利用する場合もあります。また、あるメディア(ポッドキャストなど)が活動の引き金となったとしても、実際の活動やフィードバックはオンライン評価など、別のメディアで行われる場合もあるかもしれません。
このように、メディアやテクノロジーは、インタラクションの観点から分類しようとしても、多少つかみにくい場合があることが分かります。メディアの実際の利用方法は教員や学習者が選択することが多く、そのメディアで学習者へのインタラクションやフィードバックがどのように発生するかにも影響するからです。したがって、ここでもやはりインタラクションの内容を設計する際の質は、その活動を可能にするメディアの選択と同様に重要になります。そして不適切なテクノロジーを選択すると、活動のレベルやインタラクションの質が下がるかもしれません。実際、教員や学習者は、質の高いインタラクションを確実に行うために、いくつかのメディアやテクノロジーを組み合わせて利用することもあります。しかし異なる複数のメディアを使うことは、教員と学習者の両方のコストと作業負荷を増やす可能性が高まります。
繰り返しになりますが、どのメディアやどの特性が「最高のインタラクション」を提供するかという点について、私からの評価的な判断はありません。メディアの選択は、指導の文脈全体の中で、教員が重要と判断した活動のタイプに基づくべきだからです。ここでの分析の目的は、異なる種類のインタラクションを作り出したり促したりする際、教育用メディアの間の違いに敏感になり、十分な知識に基づいて判断できるようになってもらうことです。ただしこの場合も、インタラクションの点から言うと、メディアやテクノロジーの中で「明らかな勝者」は存在しません。テクノロジーの選択よりも設計上の決定の方が重要であることが多いのです。とは言え、テクノロジーによって、教員がそばにいない学習者にも質の高い活動やフィードバックを与えることができるようになりますし、テクノロジーを適切に用いることにより、学習者の活動をサポートできますので、学習者が課題に取り組む時間を増やすことにもつながるでしょう。
Means, B. et al. (2009) Evaluation of Evidence-Based Practices in Online Learning: A Meta-Analysis and Review of Online Learning Studies Washington, DC: US Department of Education
Moore, M.G. (1989) Three types of interaction American Journal of Distance Education, Vol.3, No.2
教員のメディア選択に影響を与える問題として、次のものも重要です。
もしも教育機関が毎日決まった数の授業時間と、物理的な教室の利用でのやり取りを中心に組織されている場合、教員は主に教室での対面型授業に集中しがちになるでしょう。8.1節でMackenzie の次の言葉を引用しました。「教員は常に使えるものを最大限に活用しているのだが、これは私たちの仕事である。教員はやりくりするものなのだ。昔から教員は使えるものを最大限に活用してきたが、それは私たちが取り組まなければならないことである。教員はやりくりするものである。」その逆も同様に成り立ちます。もしも学校や大学が特定のテクノロジーをサポートしていない場合は、ほぼ当然のことながら教員がそのテクノロジーを利用することはないでしょう。たとえ学習管理システムや動画制作設備のようなテクノロジーが導入されていても、教員がその利用法や可能性について不慣れである、あるいはそれが目標とされていない場合は、十分に活用されないか、全く利用されません。
規模の大きな教育でメディアとテクノロジーを導入し、上手くいっている機関のほとんどでは、教職員に対する専門的サポートの必要性が認識されており、インストラクショナル・デザインの専門家や、メディア・デザイナー、ITサポート・スタッフによる教育や学習へのサポートが用意されています。中には、革新的な教育プロジェクトに対して資金提供も行なっている機関もあります。
テクノロジーを利用するということは、それを効率よく活用するために、教育支援や技術支援のサービスを再編成し再構築する必要があることを意味します。非常によく見られるのは、テクノロジーを既存の構造や物事のやり方にただ追加するだけという事例です。組織再編や再構築は、短期的には破壊的で費用がかかりますが、通常、テクノロジー利用型の教育を成功裏に実施するためには不可欠です。(高等教育におけるテクノロジー利用をサポートする管理戦略の詳細については Bates & Sangrà, 2011を、また、eラーニングに向けた機関の準備を評価する方法については Marshall, 2007 を参照してください。)
教育機関の習性として、最小限の組織的な変更で導入できるテクノロジーの方が好まれるというバイアスがよく見られます。たとえ、それが学習に最大の影響を与えうるテクノロジーではなかったとしてもです。このような組織的な課題は非常に困難であり、多くの場合、新しいテクノロジーの導入に時間がかかる主な理由となっています。
教育や学習にメディアを利用した経験がある人でも、この章で説明するようなメディアを作成するときは、メディア制作の専門家と協力するのが賢明でしょう(例外としてはソーシャル・メディアが考えられます)。実際、あまりに多くの作業を行なってしまう前に、どのメディアが最適である可能性が高いかを判断するためにも、インストラクショナル・デザイナーと協力することは、不可欠ではないとしても、たいていは有用です。テクノロジーの選択で重要なのは、まず教育目標が先にあり、それに基づいた決定をすることです。特定のメディアやテクノロジーを念頭に置いて検討を始めるのはよくありません。
専門家と協力する理由はいくつかあります。
ここで重要なポイントは、現在では教員自身でもそれなりに質の良い音声や動画を制作することも可能ですが、メディア制作の専門家からの助言は常に役に立つということです。
この問題点の一つ一つについて、答えが否定的である場合は、メディアやテクノロジー利用の目標をかなり控えめに設定しておくことをお勧めします。とはいえ喜ばしいことに Web サイトやブログ、Wiki、ポッドキャスト、簡単な動画制作まで、メディアの自作や管理はどんどん容易になっています。さらに、もし機会があるならの話ですが、学習者自身が学習リソースの作成に参加することや、手伝うスキルがある場合や、興味を持っていることもよくあります。そして何よりも第10章で見るように、教育用途でなら無料で使える、本当によくできた教育用メディアが増えてきています。
Bates, A. and Sangrà, A. (2011) Managing Technology in Higher Education San Francisco: Jossey-Bass/John Wiley and Co.
Marshall, S. (2007). eMM Version Two Process Assessment Workbook Version 2.3.Wellington NZ: Victoria University of Wellington
これは、以前のバージョンの SECTIONS モデルからの変更点です。もともと「N」は「新奇性 (Novelty)」を表していました。しかし以前、「新奇性」に関して提起した問題は8.3節の「使いやすさ」に含まれています。そこで、ソーシャル・メディアの最近の動向も考慮して、「新奇性」を「ネットワーキング(Networking)」に置き換えることにしました。
本質的には、メディア選択の際、検討が必要になるのは以下の問題です。このことはますます重要になってきています。
この問いに対する答えが肯定的なら、次にどのメディアを使うかを検討します。特に、ブログや Wiki、Facebook、LinkedIn、あるいは Google Hangout などのソーシャル・メディアの利用を勧めます。
ネットワーキングをコース設計に組み込む上で、ソーシャル・メディアは少なくとも次の5つの利用法に影響を与えます。
一部の教員は外部とのネットワークのために、ソーシャル・メディアを学習管理システム (LMS) などの「標準的な」教育機関用のテクノロジーと組み合わせて利用しています。 LMS はパスワードで保護され、教員と登録された学生しか利用できないため、コース内で「安全に」コミュニケーションを行うことができます。ソーシャル・メディアを利用すると、外部世界とのつながりが可能になります。それでも投稿は、コース・ブログや Wiki の管理者が監視・承認することでふるいにかけることができます。
例えば中東の政治に関するコースでは、現在の出来事を取り上げ、それを当該コースの中心的なテーマや問題と直接関連づけることに焦点を当てた、内部のディスカッション・フォーラムを用意することができます。一方、学生は自らが管理する公開 Wiki に中東の学者や学生、あるいは一般の誰からでも、書き込みを促すこともあるかもしれません。結果として外部からのコメントが最終的に、閉鎖的に運用されているクラスのディスカッション・フォーラムに取り込まれたり、逆にフォーラムで議論された内容が外部で用いられたりすることになるかもしれません。
他方で、学習管理システムや講義録画システムなどの「標準的」な機関向けテクノロジーから全面的に離れ、コース全体の管理にソーシャル・メディアを使う教員も出てきています。例えば、ブリティッシュ・コロンビア大学 (UBC) の ETEC 522 のコースでは、教員や学生によるコースへの投稿に WordPress や YouTube の動画、ポッドキャストが使われています。実際、このコースにおけるソーシャル・メディアの選択は、コースの中心的な内容や、ソーシャル・メディアの新たな進化に伴って、毎年変わります。UBC の Jon Beasley-Murray は、ラテン・アメリカ文学に関して、学生にレベルの高い Wikipedia の特集記事のエントリーを作成させる活動を中心とした一つのコースを構築しました。(ラテン・アメリカ文学WikiProject – Beasley-Murray, 2008を参照)
特に興味深い展開として、学生自身がソーシャル・メディアを用いて、他の学生の支援のための素材を作成するという用途があります。例えば UBC の数学科の大学院生は、数学の試験や教育資料 Math Exam/Education Resources Wiki を作成しました。そこでは過去の試験問題の完全かつ詳細な解答集、動画による講義、トピックごとの解説が提供されています。このようなサイトは UBC の学生だけでなく、学習の手助けが必要な人なら誰でも利用できます。
cMOOC は自己管理型学習グループの分かりやすい例です。Webセミナー、ブログ、Wiki などのソーシャル・メディアが使われています。
教員が自分の知識を使って、誰もが利用できる教材を作成する際、特に YouTube の利用がますます一般的になってきました。最も良い例はやはり カーン・アカデミー ですが、xMOOCs をはじめとして、他にもたくさんの例があります。
繰り返しになりますが、授業を「公開する」という決定は、テクノロジーに関する決定であると同時に、学問観や価値観に関わる決定でもありますが、この学問観を奨励し可能にするものとして、現在ではテクノロジーが利用できます。
Beasly-Murray, J. (2008) Was introducing Wikipedia to the classroom an act of madness leading only to mayhem if not murder? Wikipedia, March 18
これもまた、SECTIONS モデルの以前のバージョンからの変更点です。以前はテクノロジーによってコース開発のスピードアップがどれだけ可能になったかという意味で、’S’は「Speed (スピード)」を表していました。しかし、以前スピードの観点から取りあげていた課題はセクション8.3の「使いやすさ」の節でも扱いました。そこで「スピード」を「セキュリティとプライバシー」に置き換えることにしました。これらはデジタル時代の教育にとって、ますます重要な問題となっています。
教員と学生は、オンラインで作業をする際にプライベートな場所が必要になります。教員は報復を心配せずに、政治家や企業を批判できることを望んでいます。学生は、軽率な、あるいは過激なコメントを公開しないようにしたいと思うかもしれません。あるいは Facebook で拡散されないようにしながら、賛否が分かれそうな考えを述べてみようとしたりするでしょう。教育機関は、民間企業による商業目的での個人データの収集や、政府機関によるオンライン学習活動のトラッキング、あるいは不要なマーケティングなど商業的ないし政治的な勉強の妨げになるものから、学生を保護したいと考えるものです。特に、教育機関は可能な限り、オンラインの嫌がらせやいじめから学生を守りたいと考えています。厳格に管理された環境を構築することによって、教育機関はプライバシーとセキュリティをより効果的に管理できるようになります。
学習管理システムは、登録された学生と承認された教員に、パスワードで保護されたアクセスを与えます。学習管理システムはかつて、教育機関自体が管理するサーバーに設置されていました。安全なサーバーに置かれ、パスワードで保護された LMS が、このような保護を提供してきたのです。コミュニケーションは教育機関内で管理されている方が、適切なオンライン行動に関する機関方針を容易に管理できるからです。
しかし近年、クラウドへ移行するオンライン・サービスがますます増えており、それらをホストしている大規模サーバーの物理的な場所は当該機関のITサービス部門すら知らないことも多々あります。教育機関とクラウド・サービス・プロバイダーの間の契約は、セキュリティとバックアップを確実にするためのものです。
にもかかわらず、カナダの教育機関やプライバシー保護委員たちは、データが国外でホストされることには特に慎重でした。そのデータが別の国の法律を通じてアクセスされる可能性もあるためです。米国のクラウド・サーバーで保持されているカナダの学生情報や通信は、米国愛国者法によりアクセス可能になるかもしれないという懸念がありました。例えば、Klassen (2011) は次のように書いています。
ソーシャル・メディア企業はほとんどが米国に本拠地を置いています。そこでは情報の出所に関係なく愛国者法の規定が適用されます。愛国者法により、米国政府は利用者が知らないうちに、同意もなくソーシャル・メディアのコンテンツや個人を特定する情報にアクセスすることができます。
ブリティッシュ・コロンビア州政府は、個人情報のプライバシーとセキュリティの双方を懸念し、ブリティッシュ・コロンビア州の個人情報を保護するための厳格な法律を制定しました。情報の自由とプライバシーの保護に関する法律(FIPPA)は、ブリティッシュ・コロンビア州の個人を特定できる情報は、本人の了解と同意なしに収集することはできないこと、そしてそのような情報が本来の目的以外には利用されないことを義務付けています。
各国が機密情報を共有していることが判明して、学生のプライバシーに関する懸念がさらに高まりました。つまり、カナダに置かれたサーバー上の学生データでさえ、外国と共有されるリスクが残されたままなのです。
しかしおそらく、より心配なのは、教員や学生によるソーシャル・メディアの利用が増えるにつれ、学内でのコミュニケーションが公になり「露出」されることです。Bishop (2011) は、Facebook を利用することによる機関のリスクについて次のように論じています。
歯科学生が Facebook 上で仲間の女子学生について暴力的な性差別的発言を行なったことが物議を醸したダルハウジー大学での論争は、ソーシャル・メディア利用に特有のリスクの一例です。
教育や学習の領域には密室での作業が不可欠なケースがあります。例えば医学の一部の分野や公安に関連した分野、あるいは慎重に扱うべき政治的、道徳的な問題について議論する場合などです。しかし一般的には、教員がコースを公開し、当該機関のプライバシー・ポリシーに従い、とりわけ学生と教員が常識的、倫理的に行動した場合、プライバシーやセキュリティの問題が起こることは比較的少ないと言えます。とは言え、教育と学習がよりオープンに、一般向けになるにつれ、リスクのレベルはもちろん高まります。
Bishop, J. (2011) Facebook Privacy Policy: Will Changes End Facebook for Colleges? The Higher Ed CIO, October 4
Klassen, V. (2011) Privacy and Cloud-Based Educational Technology in British Columbia Vancouver BC: BC Campus
See also:
Bates, T. (2011) Cloud-based educational technology and privacy: a Canadian perspective, Online Learning and Distance Education Resources, March 25
ここまでの3章を何とか読み終えた人は、メディアを選択するときに考慮すべき全ての要因に、多少圧倒された気がするかもしれません。これは複雑な問題ですが、ここまでの節を全て読み終えている人なら、既に十分な情報に基づいた決定を下せる立場にいます。そのことについて説明しましょう。
何年も前に私が初めて ACTIONS モデルを開発したとき、大手の国際コンピュータ会社の代表からアプローチがあり、ACTIONS モデルを自動化しないかと申し出を受けました。データはパンチ・カードを使ってコンピュータに入力していた頃の話です。2人でコーヒーを飲みながら彼の計画の概要を聞きました。会話は次のような流れでした。
ピエール:トニー、あなたのモデルに本当にわくわくしているんです。世界中のあらゆる学校や大学に適用できますよね。
トニー:そうでしょうか。あなたならどうしますか。
ピエール:そうですね。各基準について教員が自問すべき質問がありますよね。その質問に対する答えはおそらく限られていると思うんです。その答えが何なのか、導き出してもいいでしょうし、教員の代表的なサンプルから答えを集めてもいいと思います。そして、その答えに応じて、それぞれのテクノロジーに点数をつけてはどうでしょう。そうすると、教員がテクノロジーの選択をする必要が生じたら、コンピュータの前に座って質問に答えると、自分の答えに応じて、コンピュータがテクノロジーに関するベストの選択をあっという間に弾き出すというわけです。
トニー:ピエール、そううまくはいかないと思いますよ。
ピエール:どうしてですか。
トニー:確証があるわけではないんですが、勘ですね。
ピエール:勘ですか?私、英語があまりうまくないんです。どういう意味ですか。
トニー:ピエール、あなたの英語は素晴らしいですよ。私の答え方がちょっと論理的ではなかったんです。それではどうして私にはこれがうまくいくとは思えないのか、ちょっと突き詰めて考えてみましょうか。第一に、各質問についての考えられる答えの数が限られているかどうかが分かりません。たとえ数が限られていたとしても、うまくいかないでしょう。
ピエール:ええと、それはどうしてですか?
トニー:なぜなら、各質問に対する回答をどのように採点するのか分からないからです。いずれにしても、回答間の相互作用があるでしょう。利用しうるテクノロジーを決めるのは、各回答を足していった合計ではなく、回答をどう組み合わせるかなのです。コンピュータでの計算の点から言うと、回答は、非常に多くの異なる組み合わせが考えられます。それぞれのテクノロジーの選択に関して、どのような組み合わせが重要なのか、よく分かりません。
ピエール:でも、非常に大きくて速いコンピュータがありますよね。アルゴリズムを使ってプロセスを単純化できるんじゃないでしょうか。
トニー:そうですね。ただ、教員がメディアを選択することになる状況のことを考慮する必要があります。教員は様々な状況で、常にメディアに関する決定を下していくことになります。コンピュータの前に座って、全ての質問に答えてコンピュータのおすすめを待つというのは現実的ではないと思いますよ。
ピエール:でも、一度試してみませんか。そういう問題は全てこれから解決していけますよ。
トニー:ピエール、ご提案には本当にありがたいのですが、直感ではこれはうまく行かないと思います。本当に、この件であなたや私の時間を浪費したくないのです。
ピエール:ふむ。では、先生方にはどうおっしゃるつもりですか。先生方はどうやって決断を下すのでしょうか。
トニー:ピエール、先生方には、自分の直感を使うように言いでしょう。ただし、ACTIONSモデルの影響を考慮したうえでですが。
言葉は違っていたかもしれませんが、これは本当に実際あった話です。このシナリオが示すのは、演繹推論(ピエール)と帰納推論(トニー)の間の衝突です。演繹的な推論に基づく場合、ピエールの提案と同じことをするでしょう。つまり利用すべきテクノロジーについて事前の知識や考えを持たずにスタートし、SECTIONS モデルの部分の最後に示した質問に一つずつ答え、次にそれらの質問に対する答えに当てはまりそうなテクノロジーを全て書き出します。そして、それぞれの質問や基準に最もふさわしいテクノロジーを確認し、各基準について推奨される尺度でそのテクノロジーを「採点」します。次に、おそらく非常に大きな行列を利用して、全ての答えを合算する方法を探してから、最後にどんなテクノロジーを利用するか決定を下すことになるでしょう。
私の提案は全く異なるもので、より機能的に決定を下す方法です。帰納法の主な基準は次のとおりです。
ある真の証拠の集合が仮説を支持する程度は、論理によって測定されることになる。そして証拠が蓄積するにつれて、ある偽の仮説はほぼ偽であり、ある真の仮説はほぼ真であるということが示される。
スタンフォード哲学事典
メディアの選択は、最初の段階から念頭にあるいくつかのテクノロジーについての仮説、あるいは直感からスタートすることになるでしょう。私が提案する手順では、利用しようと考えているテクノロジーについてのあなたの直感から始めますが、広い視野から思考しながら SECTIONS の各基準で提案されている全ての質問に取り組みます。次に、特定のメディアやテクノロジーの利用を支持、もしくは棄却するために、さらに多くの証拠を集め始めます。この手順が終わる頃には、どのメディアの組み合わせが自分にとって最もうまくいくか、なぜそう言えるのかについての「確率論的に正しい」見解に至っているでしょう。これは毎回やらなければならない作業ではありません。ほんの数回行えば、別の状況下でのメディアやテクノロジーの選択は、より迅速かつ簡単にできるようになります。以前の選択行動が全て脳に保存されており、新たな条件下であっても、情報を整理して既存知識と統合するための枠組み(SECTIONS モデル)があるからです。
本章をここまで読んできて、あなたは既に検討すべき全ての質問リストを持っています。(参照しやすいように、全てまとめたものが付録Bにあります。)あなたは今、錬金術師に金の作り方を尋ねた王と同じ立場にいます。錬金術師は告げます。「簡単なことです。象のことを考えなければいいのです」と。メディアについて、この3つの章を全て読んだことで、あなたの頭の中にはもう象がいます。無視するのは難しいでしょう。実際、脳はこの種の直感的または帰納的な決定を下すための素晴らしい道具です。ただし、その秘訣として、頭のどこかにこれら全ての情報が入っていて、必要なときに全て引き出せるようになっていることが重要です。脳はこれを非常に素早く行います。あなたの決断は常に完璧というわけにはいきませんが、こうした問題全てをまだ検討していない場合よりも、はるかに優れています。実際、たいていのことは「完璧だが間に合わない」よりも「大雑把でも間に合う」方がよいのです。
メディアの選択は真空中で起こるわけではありません。教育を設計する際には、他にも考慮すべき要因がたくさんあります。特に、教育や研修でテクノロジー利用に関する決定に埋め込まれているのは、学習プロセスについての仮定です。様々な認識論的立場や学習理論がどれだけ教育設計に影響するか、また、このような影響が教員による適切なメディアの選択をどれだけ左右するか、本書の序盤で既に確認しています。メディア選択はコース設計プロセスの中のほんの一部にすぎません。より広いコース設計の枠組みの中にきちんと当てはまる必要があります。
このような枠組みの範囲内で、適切なメディアやテクノロジーを選択し利用するためには、教育と学習に関して、次の5つの重要な問いに答える必要があります。
Hibbitts and Travin (2015) はADDIEモデルの代わりに、コース設計の様々な段階を組み込んだ、以下のような学習およびテクノロジー開発のモデルを提示しています。
SECTIONS モデルはコース設計プロセス内に適合するテクノロジーの評価にも使える方策です。ADDIE を用いているか、アジャイルな設計手法を用いているかにかかわらず、メディア選択はコース設計の他の要素に左右されますので、さらに多くの検討すべき情報が加わります。これらの全てが、対象分野とその要件に関するあなたの知識や、教育と学習に関するあなたの信念と価値観、そして多くの感情とも混ざり合うことになります。
そしてさらに私がここで提案した意思決定への帰納的アプローチを補強します。自分の脳の力を過小評価しないでください。脳は、この種の意思決定にはコンピュータよりはるかに優れています。可能な限り必要な情報を入手することが重要です。この章の一部、あるいはメディアを扱った第6章や第7章を飛ばした方は、ぜひ戻ってみてください!
1.アクティビティー8.1と同じコースを選択します。
2.付録B に進んで、答えられる質問の数を確認してください。必要に応じてアクティビティーでのあなたの答えも含め、本章を参照してください。
3.付録B の質問にできるだけ多く答えた今現在、どのようなメディアやテクノロジーを使おうと考えるでしょうか。それは元のリストとどのように違っていますか。変更があったとしたら、それはなぜですか。
第6章・第7章・第8章のトピックに焦点を当てた Webセミナーの録画は、ここをクリックしてアクセスできます。この録画には、ディスカッションと参加者のコメントが含まれます。この Webセミナーでは世界中の参加者とディスカッションを行います。
このWebセミナーはオーストラリアの University of New South Wales の主催で2016年8月23日に開催されました。
この章を終えたら、以下のことができるでしょう。
加えて、この章には以下のアクティビティーが含まれています。
第6章・第7章・第8章では、特定のコースまたは専攻に組み込まれたメディアの利用について検討しました。第9章では、コース全体または専攻全体の一部や全部をオンラインで提供するかどうかの決定に焦点を当てています。また、第10章では、その中に「設計と配信におけるオープン性」を組み込んだアプローチをいつ、どのように採用するかの決定に焦点を当てています。
オンライン学習、ブレンド型学習、反転学習、ハイブリッド学習、フレキシブル学習、オープン学習、遠隔教育は全て、相互的に交換可能で利用される用語ですが、意味には大きな違いがあります。重要なことは、これらの教育形態が、かつては難解で従来の教育の主流から外れたものと考えられていたということです。しかし今日、ますますその重要性を増しており、場合によっては主流になっています。教員がオンライン学習や新しいテクノロジーに慣れ親しんで自信を持つようになるにつれて、これまで以上に革新的な方法が開発され続けていくことでしょう。
現時点では、少なくとも以下の配信方法を識別することができます。
ブレンド型学習には特筆に値する重要な進展があります。それは私がハイブリッド学習と呼ぶテクノロジーの可能性を最大限に活用するキャンパス型の教室の総合的な再設計で、オンライン学習と集中的な対面型学習グループとを組み合わせたものや、オンラインと実際の実験室での学習の組み合わせのことです。このような設計では、対面型学習で接触する時間は、例えば週に3時間だったものが1時間にというように短縮されますので、学生がオンラインで勉強する時間を増やすことができるのです。
ハイブリッド学習では、キャンパス内での授業の変革がテクノロジーの利用に基づいて構築され、学習経験全体が再設計されます。例えば、
このように「ブレンド型学習」とは、教室補助の利用など、教室での授業の再考や再設計を最小限に抑えることを意味することもあれば、他の部分の学習をオンラインで柔軟に提供することで対面型授業の独特の教育的特性を見つけるために、フレキシブル学習でのコースのようにゼロから設計し直すこともあります。
テクノロジーを使った学習には連続体があります。
(Bates and Poole, 2003 から引用)
これらの進化によって、教員はいろいろな新しいことを決断することになりました。全ての教員は以下のことに決断を下す必要があります。
この章はあなたがこれらの質問に答えを出す手助けを目的としています。
Bates, A. and Poole, G. (2003) Effective Teaching with Technology in Higher Education: Foundations for Success. San Francisco: Jossey-Bass
Robinson, B. and Moore, A. (2006) Virginia Tech: the Math Emporium in Oblinger, D. (ed.) Learning Spaces Boulder CO: EDUCAUSE
多くの調査研究から、教員の過半数が依然としてオンライン学習や遠隔教育はそもそも質的に対面型授業より劣っていると信じていることが分かっています。(例えばJaschik and Letterman, 2014)しかし、この意見を裏付ける科学的根拠のある証拠はありません。証拠では一般的に有意差がないことが指摘されており、一方でブレンド型学習あるいはハイブリッド学習が、学習成果の点で対面型教育よりも優れていることを示しています。
私たちは遠隔教育のこれまでの発展から多くを学ぶことができます。使っているテクノロジーは異なりますが、完全オンライン学習は、結局のところ単なる遠隔教育の一形態なのです。
Wedemeyer, 1981; Peters, 1983; Holmberg, 1989; Keegan, 1990; Moore and Kearsley, 1996; Peters, 2002; Bates, 2005; Evans et al., 2008 など、遠隔教育については多くの研究が行われてきました。しかし概念的な考え方は非常に単純です。学生は自分の好きな時間に好きな場所(自宅、職場、または学習センター)で、教員と直接会うことなく勉強します。しかし今日ではインターネットによって、学生は、学習の補助と評価をする教員、補助教員、チューターと「つながって」いるのです。
遠隔教育はかなり昔からあります。聖パウロによる「コリント人への手紙」はキリスト教における初期型の遠隔教育と考えられています(西暦53 – 57年)。最初の遠隔教育による学位は1858年にイギリスのロンドン大学が授与しました。学生は読書のリストを郵送され、通常のキャンパスの学生と同じ試験を受けました。学生に経済的余裕があれば、彼らは家庭教師を雇いました。ヴィクトリア朝時代の作家、チャールズ・ディケンズは遠隔教育を「人民の大学」と呼びました。それほど豊かでない階層の人々に高等教育を提供できたからです。このプログラムは今でも続いていますが、現在 University of London International Programmes, と呼ばれ、世界中に5万人以上の学生がいます。
北米では歴史的に、ペンシルベニア州立大学、ウィスコンシン大学、米国のニュー・メキシコ大学、カナダのメモリアル大学、サスカチュワン大学、ブリティッシュ・コロンビア大学など、多くの初期の州立大学が州域全体の教育を担っていました。その結果、これらの教育機関は、主に州全体に分散している農家、教員、および医療専門家のための成人教育としての遠隔教育プログラムを長らく提供してきました。これらのプログラムは現在、学部生および職業人向け修士課程の学生にも拡張されています。そしてオーストラリアはK-12(幼稚園から高等学校まで)と中等後教育の両方で歴史と実績を持っています。
これらの大学から受けた資格は概ね、キャンパスでの学位と同じ扱いを受けています。例えば、1936年から遠隔教育プログラムを提供してきたブリティッシュ・コロンビア大学は、遠隔で受講したコースとキャンパスで受講したコースの間の学生の成績証明書を区別しません。なぜなら、どちらのコースも同じ試験をしているからです。
1970年代にイギリスのオープン大学が採用し、その後、遠隔教育プログラムを提供している北米の大学でも取り入れられるようになった遠隔教育のコース設計における別の観点からの特徴として、遠隔教育を受ける学習者に特化した ADDIE モデルを取り入れたことが挙げられます。これは明確な学習成果、質の高いマルチメディア教材の制作、計画された学習者の活動と関与、そして距離に負けない強力な学習者サポートに重点を置いています。結果として遠隔教育プログラムを提供している大学では、1990年代にはオンライン学習に移行するための準備が整っていました。これらの大学では一般に、オンライン・プログラムを受講する学生は、キャンパスでの学生とほぼ同じくらいの能力を発揮します。(しかしコース修了率は通常の通学生の5〜10%以内でした。(Ontario, 2011 参照) 遠隔学生はフルタイムの仕事や家族を持つことが多いにしても、この数字はやや驚くべきことです。)
国際的に認められた、質の高い教育機関で長年行われてきた遠隔教育に価値を認めることは非常に重要です。なぜなら、特にアメリカに多い商業的なディプロマ・ミル(学位を乱発する学問水準の低い教育機関)が、遠隔教育の評判を汚しているからです。全ての教育と同様に、遠隔教育は上手にも下手にもできます。しかし、遠隔教育が専門的に設計され、質の高い公的教育機関によって提供されており、多くの社会人や遠隔地在住で全日制課程に通学することが困難な学生のニーズ、通学生でも現在の授業と重ならないようにしながらさらに多くの科目を履修したいという学生のニーズ、アルバイトの都合が講義のスケジュールに合わないという学生のニーズなどに応えている場合は、非常に上手く機能していることが分かっています。どんな教育機関でも、遠隔教育の成功は、高品質の設計基準を満たすことによってのみ実現されるのです。
同時に、遠隔教育とは無関係にオンラインまたはコンピュータ支援による学習で優れた実践事例を開発してきた、小規模ながらも非常に影響力のあるキャンパス型の教員もいました。1970年代後半には、ニュー・ジャージー工科大学でオンライン教育やブレンド型教育を試していた Roxanne Hiltz や Murray Turoff、オンタリオ教育研究所の Marlene Scardamalia や Paul Bereiter、サイモン・フレーザー大学の Linda Harasim などは、特にキャンパス内や学校環境内でのオンライン協働学習および知識構築に焦点を当てていました。
残念ながらその一方では、オンライン学習に不慣れな多くの学校や大学の教員がこのような優れた実践を採用しておらず、単に講義型の授業をブレンド型学習やオンライン学習に転用するだけで済ませてしまい、不満足あるいは破滅的な結果を招いてしまったという証拠も数多くあります。
テレビ講義、コンピュータを使った学習、オンライン学習などの様々なテクノロジーを利用した教育と、対面型の教授を比較したり、対面型の教育と遠隔教育を比較したりする研究は、これまで何千と行われてきました。オンライン学習に関しては、いくつかのメタ研究があります。メタ研究とは、多くの「正しく行われた科学的な」研究結果を組み合わせたもので、通常は一致比較または準実験的方法による研究結果を組み合わせたものです。 (Means et al., 2011; Barnard et al., 2014) そのような「正しく行われた」メタ研究のほとんど全てにおいて、学生の学習や成績への影響という点では、教授法間の差異がない、もしくは有意差はほとんどないと結論付けています。例えば、Means et al. (2011) は、アメリカ教育省向けの大規模なメタ研究で、ブレンド型学習やオンライン学習について、以下のように報告しています。
オンラインと対面型指導のブレンド型授業と、従来の対面型授業を比較している最近の実験的および準実験的研究では、より効果的なのはブレンド型学習であり、ブレンド型の手法を設計・実施するために必要な努力の合理的根拠を説明している。単独で利用される場合、オンライン学習は従来の教室での指導と同じくらい効果的であるように見えるが、さほど効果的ではない。
Means et al. は、ブレンド型学習のパフォーマンスがやや向上している理由は、学生が課題により多くの時間を費やしているからではないかと考えています。これは成果に何らかの違いがみられた場合、配信方法の違い以外のことに原因があるというこれまでの知見と合致しています。Tamim et al. (2011) は40年に渡る「よく行われた」比較研究を検証しました。Tamim et al. は、テクノロジーを使って学習した学生は、使わなかった学生に比べて多少良い成績を上げていると述べています。しかし統計的には差はなく、このように述べています。
テクノロジー利用の有無よりも、教育の目的、教員の質、科目の特性、学生の年齢、テクノロジー導入の度合い、そしておそらくその他の要因のほうがもっと大きな影響を与えたと議論できる。
あらゆる種類の学習を研究することは容易ではありません。どのような状況においても学習に影響を与える、様々な変数や条件がたくさんあります。私たちが検討しなければいけないのは、テクノロジーの使い方ではなく、たくさんある変数そのものなのです。言い換えると、Wilbur Schramm が1977年という早い時期に投げかけた質問を考えなければならないのです。
どのメディアがどの学習方法に最も効果的か、それはどんな条件下でなのか。
配信方法を決めるという意味においては、どれが最高の方法かを考えるのではなく、「対面型・ブレンド型・完全オンラインのそれぞれを使う最も適した条件とは何か」を考えるべきなのです。
幸いなことに、少なくともブレンド型学習とオンライン学習に関しては、方向性を決定する多くの研究と優れた実践事例があります。(例えば、Anderson, 2008; Picciano et al., 2013; Halverson et al., 2013; Zawacki-Richter and Anderson, 2014参照。) 皮肉なことに不十分なのは、デジタル時代において「オンラインでも多くのことができるけれども、対面式に独特である教育の可能性」についての優れた研究なのです。
学生の学習への貢献という点で、オンライン学習と対面型教育のどちらが優れているかについて、ほとんど決着がつかない研究が数多く行われてきましたが、ブレンド型学習という文脈で、何をオンラインで行い、何を対面型で行うべきかについて考えたり、どんな状況では完全オンライン学習の方が対面型授業よりも優れているのかについて考えたりするための根拠や理論は、ほんのわずかですが全くないというわけではありません。一般的に対面型教育は優勢であるという特徴のため、標準的に選ばれるものになっており、オンライン学習は対面型学習が困難な場合、例えば、学生が通学できない場合や、学生数が多すぎて学生同士のインタラクションがほんのわずかしかできない時にのみ利用されると考えられてきました。
しかしオンライン学習は現在非常に多くの場面で多用されており、効果的になっているので、このように問うべき段階にあります。
オンライン学習と教育的に異なる、対面型教育の独特の特徴とは何か。
対面型授業に関して、教育的な特徴は何もないとする考え方ももちろん可能ですが、「キャンパスの魔法」(Sarma, 2013)といううまい表現や、選ばれた者だけが受けることができるキャンパスでの授業が非常に高額であること、そしてキャンパス型の教育への公共投資コストが高いという意味において、なぜ対面型の教育は特別なのかというような、証拠に基づいた理論があってしかるべき時がきています。このことは9.6節でさらに議論されます。
ひとまず、対面型・ブレンド型・オンラインという配信方法の選択について議論を進めていきましょう。
1. 「キャンパスの魔法」を定義できますか。オンライン教育と比べて、対面型教育の良いところは何でしょうか。最も大切な点を3つ書き出してみましょう。
2. 同じことがオンライン教育でできるでしょうか。できない場合、キャンパスの優位性とは何ですか。
Anderson, A. (ed.) (2008) The Theory and Practice of Online Learning Athabasca AB: Athabasca University Press
Barnard, R. et al. (2014) Detecting bias in meta-analyses of distance education research: big pictures we can rely on Distance Education Vol. 35, No. 3
Bates, A.W. (2005) Technology, e-Learning and Distance Education London/New York: Routledge
Evans, T., Haughey, M. and Murphy, D. (2008) International Handbook of Distance Education Bingley UK: Emerald Publishing
Halverson, L. R., Graham, C. R., Spring, K. J., & Drysdale, J. S. (2012). ‘An analysis of high impact scholarship and publication trends in blended learning’ Distance Education, Vol. 33, No. 3
Holmberg, B. (1989) Theory and Practice of Distance Education New York: Routledge
Jaschik, S. and Letterman, D. (2016) The 2016 Inside Higher Ed Survey of Faculty Attitudes to Technology Washington DC: Inside Higher Ed
Keegan, D. (ed.) (1990) Theoretical Principles of Distance Education London/New York: Routledge
Means, B. et al. (2009) Evaluation of Evidence-Based Practices in Online Learning: A Meta-Analysis and Review of Online Learning Studies Washington, DC: US Department of Education
Moore, M. and Kearsley, G. (1996) Distance Education: A Systems View Belmont CA: Wadsworth
Ontario (2011) Fact Sheet Summary of Ontario eLearning Surveys of Publicly Assisted PSE Institutions Toronto: Ministry of Training, Colleges and Universities
Peters, O. (1983) Distance education and industrial production, in Sewart et al. (eds.) Distance Education: International Perspectives London: Croom Helm
Peters, O. (2002) Distance Education in Transition: New Trends and Challenges Oldenberg FGR: Biblothecks und Informationssystemder Carl von Ossietzky Universität Oldenberg
Picciano, A., Dziuban, C. and & Graham, C. (eds.), Blended Learning: Research Perspectives, Volume 2. New York: Routledge, 2013
Schramm, W. (1977) Big Media, Little Media Beverley Hills CA/London: Sage
Sarma, S. (2013) The Magic of the Campus Boston MA: LINC 2013 conference
Tamim, R. et al. (2011) ‘What Forty Years of Research Says About the Impact of Technology on Learning: A Second-Order Meta-Analysis and Validation Study’ Review of Educational Research, Vol. 81, No. 1
Wedemeyer, C. (1981) Learning at the Back Door: Reflections on Non-traditional Learning in the Lifespan Madison: University of Wisconsin Press
Zawacki-Richter, O. and Anderson, T. (eds.) (2014) Online Distance Education: Towards a Research Agenda Athabasca AB: AU Press, pp. 508
配信方法を選択する際、教員は以下の4つの質問に答える必要があります。
いつもの通り、学習者から考えていきましょう。
例えば Dabbagh, 2007 などの研究では、完全オンライン・コースはある特定のタイプの学習者にとって、他の配信方法よりも向いていることを繰り返し示してきました。それは、年齢が上であり、成熟した学生や、既に高度な教育を受けたことのある学生、働いている、または家族を養っている学生たちです。このことはMOOCs(第5章を参照)や、その他の単位が与えられないコースだけでなく、単位が与えられるコースや専攻プログラムにも当てはまります。
今や「距離」は地理的なものではなく、心理的なものや社会的なものになりがちです。例えば、ブリティッシュ・コロンビア大学 (UBC) で定期的に行われている調査では以下のことが分かっています。
このことは完全オンライン・コースが生活の質に大きな影響を与えるため、受講する意欲が高い、経験豊富な学生に適しているということを示しています。一般的に言って、オンラインで学生が学習するためには、より多くの自制心と、成功するための大きな動機が必要です。これは、キャンパスに通う学生がオンライン学習の恩恵を受けることができないという意味ではありませんが、オンライン学生のためのコース設計や、オンライン学生への支援において、さらなる取り組みが必要です。
一方、完全オンラインのコースは職業人にとって最適です。デジタル時代では、知識は絶えず拡大しており、仕事は急速に変化しているため、特に知識と知識の隙間での、持続的・継続的な教育が強く求められています。オンライン学習は生涯学習を提供する、便利で効果的な方法です。生涯学習者は有職であったり、家族がいたりすることが多いため、完全オンライン学習の持つ柔軟性には本当にありがたいと感じています。彼らは最初の学位など、高等教育の経験が既にあるということが多く、どのようにすれば勉強がうまく進むかを知っています。彼らは、管理分野について学びたいエンジニアであったり、自らの専門分野で最新の知見を学びたいと考えていたりする専門家かもしれません。そのような人たちは、新しく学習する内容とキャリアを見通した改善の可能性との間での直接的なつながりを持つことができるので、動機づけがされていることが多いです。したがって、たとえ高校の新卒者よりも年上でテクノロジーに精通していなくても、彼らはオンライン・コースには理想的な学生です。オンライン・コースで最も急速に成長している分野は、専門職を対象とした修士課程です。そのような学習者にとって重要なことは、学習者が学習を進めるうえでコンピュータの利用への熟練が必要ないように、コースがテクノロジー的にうまく設計されているということです。
これまでのところ、MBA や教員教育を除くと、公立の大学はこの市場の重要性を認識するのが遅かったと言えます。自己資金調達だったかもしれませんし、せいぜい必要とされる追加収入を得ることができただけでしょう。しかし、米国のフェニックス大学、ローリエイト大学、カペラ大学などの私立大学は、この市場に早くに参入しました。
考慮すべきもう1つの要因は、人口動態の変化の影響です。学齢人口が減少し始めている地域では、生涯学習市場への拡大が入学者数を維持するために不可欠なのかもしれません。したがって、完全オンライン学習は教育機関にとって、生き残るための一つの方法になるかもしれません。
しかし、そのような生涯学習オンラインプログラムを機能させるには、教育機関は重要な調整を行う必要があります。特に、教員がこの方向に動くための積極的な動機や報酬がなければならず、そのようなプログラム提供に向けての最善の方法を戦略的に考える必要があります。UBC は完全オンラインの自己資金調達型の職業人向け修士課程プログラムを開発し、大成功しました。修士課程に出願する前に、学生はまず大学院の進学準備課程のコースを1つか2つ試すことができました。フルタイムで働いていても、コースは2年以内に修了することができ、修士課程の全課程ではなくコースごとに学費を支払うので、生涯学習者に必要な柔軟性が提供されていました。UBC はメキシコの Tec de Monterrey とも提携しており、同じ内容を UBC では英語で、Tec de Monterrey ではスペイン語で提供しています。大学院の教育工学研究科は当初から大成功を収め、UBC の教育学研究科の大学院生の数は倍増しました。9.9節で見るように、モジュール式によるプログラムの開発を検討するときは、このような手法が重要であることが分かります。
オンライン学習は、教育機関が独自に専門知識を持っていながら、修士課程を提供するには地元の学生数が十分でないという場合にも有効です。同様の専門知識を持つ他の地域の他の大学と提携するなど、完全オンライン化することによって、国内だけでなく海外からも学生を集めることができますし、研究をより広く普及させ、新たに出現しつつある知識分野における専門家の養成もできます。これもデジタル時代における重要な目標のひとつでしょう。
また、遠隔地に住む学習者は、地元の学校や大学から遠く離れているという点で、完全オンライン学習の主な市場であることが想定されます。確かにカナダにはそのような学生がおり、遠距離通学をせず自宅で勉強できることは非常に魅力的です。ただし大部分のオンライン学習者は都市部に住んでおり、大学に1時間以内に通学できる人たちであることは覚えておいても良いでしょう。このような学習者にとって重要なのは距離ではなく柔軟性であり、実際のところ遠隔地で孤立状態にある学習者には、優れた学習スキルやブロードバンドへのアクセスがない可能性もあります。ですから当初はしっかりとした対面型学習などを通じて、オンライン学習を段階的に導入する必要があるかもしれません。
ブレンド型学習の「市場」は完全オンライン学習ほどには明確に定義されていません。学生にとってのメリットは、柔軟性が増すことですが、キャンパス内で行われる対面授業に参加するには、比較的大学に近い地域に住む必要があります。ブレンド型学習は、少なくとも北米では、自分で学費を負担している、あるいは教育ローンの借入額をできるだけ減らそうとするために週15時間を超えて働いている、半数以上の学生に恩恵があります。また、計画的な教育戦略として実施される場合、ブレンド型学習は独立した学習スキルを少しずつ身につけていく機会を提供します。
学習者はキャンパスにいる間に独立した学習スキルを磨く必要があることも研究成果は示しています。ブレンド型によるオンライン学習は、計画的に導入される必要があり、学習者がプログラムを進めていくにつれて徐々にオンライン学習を増やしていくことで、卒業までにはデジタル時代に必須のスキルである、独立して学び続けるスキルを手に入れることになります。ですから、大学の低学年のうちから完全オンラインのコースで提供するのであれば、学習を成功させるためには、かなりの量のオンライン学習者支援を備えた非常に細かく設計されたコースが必要になるということです。
ブレンド型学習に移行する主な理由は、学問を極めるためなのでしょう。必要な手ほどきによる実習を対面型で提供し、大規模な講義クラスの代替手段を提供し、学生の学びをもっと主体的なものにし、アクセス性を高めるためです。これは定期的にキャンパスに通学できるほとんどの学生に役立ちます。
高校卒業後すぐに大学に進学する学生の多くは、キャンパス型の教育が提供する、交流、スポーツ、文化活動を求めていることでしょう。学問への自信や経験が不足している学生は、仮に比較的少ない人数で利用できる場合には、対面型の授業を好む傾向があります。
しかし、特に大学入学後、最初の1〜2年の間、学生が非常に大規模なクラスに出席し、教授との関わりが比較的限られていることを考えると、新入生や女子学生が対面型教育を好む学術的な理由はあまり明確ではありません。この点において、一般的にクラスの人数が少なく、教員との関わりが多い小規模な地方大学には利点があります。
本章では後ほど、ブレンド型学習と完全オンライン学習によってキャンパス全体の学習経験を考え直す機会を提供します。その結果、キャンパス内で学習者は、中等教育後の早い段階でより良い学習支援を受けられるようになることを論じます。さらに重要なことですが、学習のオンライン化が進むにつれ、学生が毎朝バスに乗って通学する価値があるのと同様、大学はキャンパスに通うことでしかできない独特の教育的な利点とは何であるかを特定することが求められるようになるでしょう。
したがって、どんな学生に教えるのかを知ることは非常に重要です。対面型授業から始めて、慣れ親しんだ授業環境の中で次第にオンライン学習に移行することがよい学生もいるでしょう。一部の学生にとっては、コースを受講する唯一の方法は完全オンラインで利用できる場合に限定されます。キャンパスでの学習経験を希望していても、学習にある程度の柔軟性を必要とする学生のために、対面型とオンラインでの学習を組み合わせることも可能かもしれません。オンラインにすると、より幅広い市場に参入することができることや(入学率が低い、または低下している学部にとっては重要な問題です)、または有職学生からの強い需要を満たすこともできます。あなたの学生は誰ですか。どんな学生が入学してきますか。どんなコースが学生たちにとって最適でしょうか。
コースや専攻プログラムに適した学生の需要を特定することが、配信方法を決定するうえで最も重要な要素であることが分かります。
Dabbagh, N. (2007) The online learner: characteristics and pedagogical implications Contemporary Issues in Technology and Teacher Education, Vol. 7, No.3
どのような学生がいるかの分析は、コースまたは専攻プログラムをキャンパス中心にするか完全にオンラインにするかを決定する手助けになり得ます。しかしオンラインで何をし、キャンパスで何をするかについて決定するには、どのような学生がいるかという情報だけでは不十分です。なぜならキャンパス中心のコースや専攻プログラムの大部分でオンラインの要素がますます強くなってきているからです。
英国のオープン大学が1970年代に科学の分野での遠隔教育コースと専攻プログラムを設計するために最初に利用した手法を紹介しましょう。調査すべき課題は、印刷物、テレビ視聴、家庭用実験キット、そして最後に伝統的な大学での1週間のサマースクール合宿のどれが最善であるかの決定でした。その後、カナダのアサバスカ大学のDietmar Kennepohl が、科学をオンラインで教えることに関する優れた本を書きました。(Kennepohl, 2010) また、Colorado Community College System は最近、遠隔実習ラボと家庭用実験キットを組み合わせた遠隔実習ラボをオンラインの科学入門コースの指導で利用しています。(Tony Bates, 2018; Schmidt and Shea, 2015)これらでは全て、配信方法について決定する実用的な方法に言及しています。
この決定における最も実用的な方法は、広い視点から取り組みたいと考えている、その分野の専門家の知識と経験を信頼することです。特にインストラクショナル・デザイナーやメディア・プロデューサーと対等な立場で仕事する意思のある人が良いでしょう。では、ここで純粋に教育的な理由から、オンラインをいつ利用するか、いつ利用しないかのプロセスを、ブレンド型学習で行われるコースをゼロから設計しようとしているという想定で考えてみましょう。
私は無作為に血液学(血液の研究)を対象科目として選びました。私は血液学の専門家ではありません。しかし、この分野の専門家と一緒に仕事をしていたら、以下のことを提案するでしょう。
これについては、第2章・第3章・第4章である程度詳しく説明されていますが、考慮すべき決定の種類は次のとおりです。
これは、ある程度詳細に利用すべき教授法を特定するための一般的な計画や教育手法になるでしょう。血液学の例では、学生が科目に対しての重要性を理解することができるように、教員はより構成主義的なアプローチを取りたいと考えています。特に教員は、血液の取り扱いと保管の安全性、血液汚染の要因、血液サンプルに由来する病気の発症の分析・解釈に関する学生のスキル向上など、特定の項目とコースを具体的に関連付けたいと考えています。
授業で扱う内容には、事実、データ、仮説、考え方、議論、証拠、および物事の説明(例えば、機器の部品名や関連事項)が含まれます。血液学のコースでは学生たちは何を知る必要があるでしょうか。学ぶべきは以下の事柄になるでしょう。血液の化学組成、どのように機能するか、体内をどのように循環するか、細胞生物学と関連する事柄の説明、血液の完全性や機能性を弱める可能性のある外的要因などの理解、血液を分析する機器の仕組み、血液凝固に関する原理・理論・仮説、血液検査と病気との関係などです。
特に、このコースの内容を提示する際の要件は何でしょうか。動的な活動を説明する必要があり、重要な概念をカラーで表現することはほぼ確実に必要です。多くの場合、血液サンプルの観察には、顕微鏡の利用が不可欠になります。
文字、図表、音声、動画、シミュレーションなど、科目内容を提示する方法はたくさんあります。例えば、図表、短い動画、顕微鏡写真は、様々な条件下での血球の例を示すことができます。また、Web 上には無料の教育目的で利用できるようものがだんだん増えています。(例えば、米国血液学会の動画ライブラリを参照。)このような素材をゼロから制作するには経費が掛かりますが、高品質で低コストのデジタル記録機器を使うことで、ますます容易になりつつあります。慎重に録画された実験の際の動画を利用することは、大勢の学生が不便な実験機器の周りに集まるよりも、見やすい画像を提供してくれるでしょう。
スキルとは、学んだコンテンツがどのように応用され実践されるかを表すものです。これには、血糖値やインスリン値などの血液成分の分析、機器の利用(機器を安全かつ効果的に利用する能力を望ましい学習成果とする場合)、診断、理論や証拠に基づき原因と影響に関する仮説を立てた結果の解釈、問題解決、およびレポート作成などを含むことでしょう。
オンラインでのスキル教育は、特に機器の操作や機器の動作方法に対する「感覚」、または実際に手で触れる感覚が必要な場合、より困難になる可能性があります。(味覚や嗅覚が必要なスキルについても同じことが言えます。)血液学の例では、教える必要があるスキルの中には、分析対象、すなわちインスリンやグルコースなどの血液の特定の成分を分析し、結果を解釈し、そして治療法を提案する能力も含まれるかもしれません。ここでの目的は、これらのスキルをオンラインで効果的に教えることができる方法があるかどうかを確認することです。このことは、必要なスキルを決定し、オンラインでそのようなスキル(練習の機会を含む)を開発する方法、そしてオンラインでそのようなスキルを評価する方法を考え出すことも含みます。
段階2と3を当該コースの主要な学習目標と呼ぶことにしましょう。
(表9.4.3の日本語訳 (左見出しのみ))
コンテンツ
理論と用語を学ぶ
顕微鏡下での相互作用の動画
血液の分子構造の図
スキル
仮想的な装置を使って実験の組み立てを設計する
顕微鏡下で分析対象を観察する
グルコースを組み込む
この例では、教員は学生との時間をなるべく長くとり、実験や理論・実践面の質問に答えることができるように、可能な限りオンラインで教育をすることに注力しました。その教員は血液と他の要因との間で発生する重要な相互作用について、使えそうな優れたオンライン動画を見つけることができました。さらにグラフィック・デザイナーの助けを借りて自身で画像を作っただけでなく、血液の分子構造を示す適切な図と簡単な動画をいくつか見つけることができました。確かに、教員自身では新たな教材やコンテンツをほとんど作らなくてよいことに気づいたのです。
また、このクラスを担当したインストラクショナル・デザイナーは、仮想的な装置の組み合わせ、データ入力、実験の実行など、血液検査のそれぞれの段階に合わせて、学生が独自の実験装置を設計できるようにするソフトウェアを見つけました。しかし、グルコースの組み込みや、血液の化学成分を分析するための「本物の」顕微鏡の利用など、実験室で実際に行う必要のあるスキルがまだいくつか残っていました。ここでもオンライン資料を使うことで、教員は学生とより多くの時間を実験にかけることができました。
この例から分かるように、ほとんどのコンテンツは、実験を設計するための非常に重要なスキルとともにオンラインで配信できますが、それでも直接の手ほどきが必要な実習課題もあります。ですから、コースの大部分をオンラインで配信していても、実習のために実験室で夜間や週末に集合教育が1回以上必要になるかもしれません。実習が多い場合は、コースの半分が実験で、残り半分がオンライン学習になるかもしれません。
アニメーションやシミュレーション、実際の機器を遠隔操作することができるオンライン・リモート・ラボの進化に伴い、従来のラボ作業でもオンラインで行うことがますます可能になりつつあります。同時に、必要なものを正確にオンラインで見つけることがいつでも可能というわけではありませんが、時の流れとともに見つけやすさが向上していくことは確実です。人文科学、社会科学、ビジネスなどの他の分野では、オンラインへの移行ははるかに容易です。
これは、ブレンド型学習コースでの対面型教育とオンライン学習のバランスを判断するためのおおまかな方法ですが、少なくとも出発点にはなるでしょう。こうした判断は、教員の研究領域に関する知識やオンラインで学習成果を達成する方法を創造的に考える能力に基づいて、比較的直観的に行う必要があることが分かります。しかし、ほとんどの分野で、質の高い学習成果を達成するのに必要なスキルやコンテンツの大部分を、オンラインで教えることができることが分かっています。初めに対面型授業ありきでは、もはやないのです。
したがって、全ての教員はこの質問を自分自身に問いかけないといけません。自らの授業の大部分をオンラインに移行できるのであれば、対面型教育に取り入れる必要があるキャンパスでしかできない利点とは何でしょうか。なぜ学習者は私の目の前にいなければならないのでしょうか。学生がここにいる時、時間を最も有効に使えるようにしているでしょうか。
学習者の種類、全体的な教授法、そして教育的根拠に基づいた決定を行うこと以外にもう1つ考慮すべきことがあります。それは、利用可能なリソースを考慮することです。
特に重要なリソースは、教員の時間です。教員が利用できる限られた時間をどのように使うのが最善かについては、慎重な検討が必要です。血液検査の手順のいくつかを撮影した動画を特定するのは非常に良いことかもしれませんが、もしもこのような動画がまだ自由に利用できる形で存在していない場合、動画を作成するための時間やプロのスタッフを使って作成するコストを考えると、このコース専用の動画を作成することは正当化できません。
オンライン教育の方法を学ぶ時間は特に重要です。急な学習曲線があり、初めて受講するオンライン・コースは2回目以降のオンライン・コースよりもはるかに長くかかります。教育機関は、オンラインまたはブレンド型学習への移行を考えている教員に、何らかの研修または教育の機会を提供する必要があります。理想的には、教員はオンライン・コース、または再設計されたブレンド型授業の設計と準備を行うために、ある程度の準備時間(最大1学期間1クラスを教えなくてよい)を取るべきです。これはいつでも可能というわけではありませんが、知っておくべきことの1つです。教員の作業負荷はコース設計の成否を決めます。うまく設計されたオンライン・コースでは、教員による作業はむしろ少ない量の準備で済みます
あなたが勤める教育機関が、教育内容・方法等をはじめとする研究や研修を組織的に行う部局や、教育支援のためのインストラクショナル・デザイナー、Webデザイナーを持っているならば、是非とも使いましょう。このような部局の職員は、教育科学とコンピュータ・テクノロジーの両方の資格を持っていることが多いです。彼らはオンライン教育に必要な知識とスキルを持ち合わせています。このことは第12章でも論じます。)
教育機関からの教育テクノロジーの補助があるかどうかという点と、テクノロジーへの熟達度は重要な要素です。あなたはインストラクショナル・デザイナーやメディア・プロデューサーの援助を受けることができますか。そうでなければ、あなたが既にオンライン学習で非常に経験を積んでいない限り、対面型教育の方がずっとうまくいくでしょう。
ほとんどの教育機関は現在、Blackboard や Moodle などの学習管理システム、または講義録画システムを持っています。しかし教員はますます、動画やデジタル・グラフィック、アニメーションやシミュレーション、そしてWebサイトを作成できるメディア・プロデューサーに依存する必要が出てくるでしょう。あるいはブログや Wiki ソフトウェアへの依存も同様です。これらのようなテクノロジーに対するサポートがなければ、教員はこれまでの教室での対面型教育に戻る可能性が高まります。
学科に専門分野を理解していてオンライン教育をしたことがある経験豊富な同僚がいる場合は本当に役に立ちます。彼らはおそらく画像など、共有しても構わない素材を持っていることでしょう。
コース設計に時間をかけるために1学期間授業をしなくていいだけのリソースはありますか。多くの機関では革新的な教育と学習のための開発資金を持っています。例えば新たなオープン教育リソース(OER、セクション10.2を参照)を創出するための外部資金があるかもしれません。これは実用性の向上に加え、さらに多くの教育をオンラインで行うことに繋がるでしょう。
ますます多くの教材が OER として利用可能になるにつれて、教員は主にコンテンツの提示から解放され、オンラインと対面型の両方において、学生たちとの多くの交流に注力できるようになるでしょう。一方、OER がますます利用可能になってきているとは言え、必要な科目の素材はまだ存在していないかもしれませんし、コンテンツそのものにおいて、または制作基準において十分な品質ではないかもしれません。
このようなリソースが利用できる範囲は、あなたがどれくらいオンライン学習に移行できて、品質基準を満たすことができるかについての判断材料となるでしょう。もしここに挙げたリソースのどれも利用できない場合は、オンライン学習への移行を検討すべきではないでしょう。
特定のコースや専攻プログラムで市場を分割することはますます難しくなっています。大学の初年度コースを受講する学生の大多数は、高校の新卒学生ですが、そうでない人もいます。高校を卒業してまず就職したり、短大に通って職業訓練を受けたりしたけれど、やっぱり大卒の学位が必要と考えるようになった学生たちです。特に職業人向けの大学院プログラムでは、学生は学士課程を修了したばかりのフルタイムの学生と、既に就職しているが専門的な資格を必要とする学生が混在することがあります。学部課程3年生や4年生には、週に15時間以上働いている人もいれば、ほぼフルタイムの学生もいます。理論的には、対面型、ブレンド型、または完全オンライン学習向けの学生で切り分けることができるかもしれませんが、実際にはほとんどのコースで異なるニーズを持つ学生が混在している可能性があります。
しかし、ますます多くのコースがブレンド型学習に移行していることを考えると、コースを異なる学生層に役立たせるには、どのように設計したら良いかについて考えておく価値があるでしょう。例えば、血液学コースの例では、生物学を専攻するフルタイムの3年生の学部生に提供することも、単独、または他の関連コースと組み合わせたものを病院で勤務する看護師の血液管理スキルの証明のために提供することも可能でしょう。学部で血液学を履修していない医学生にも有益でしょうし、糖尿病のように血中レベルに関連する症状を抱えている患者に対しても有用かもしれません。
オンラインと対面型授業が半分ずつのコースを開発した場合、他の学生層にも転用することが可能かもしれません。例えば、看護師は実験部分だけを勤務先の病院の監督下で行うことや、オンラインの部分だけを患者向けの短い MOOC として提供することなどです。ひょっとすると血液学以外の科目の場合、同じコースを完全オンライン型、ブレンド型、完全対面型の全てで提供することが可能になるでしょう。このように同じ科目を違う学生層に対して活用できます。
まとめると、コースをゼロから設計する場合、以下の問題を考える必要があります。
Contact North (2013) The Colorado Community College System Sudbury ON: Contact North
Kennepohl, D. (2010) Accessible Elements: Teaching Science Online and at a Distance Athabasca AB: Athabasca University Press
Schmidt, S. and Shea, P. (2015) NANSLO Web-based Labs: Real Equipment, Real Data, Real People! WCET Frontiers
ますます多くの教育がオンラインに移行していくにつれて、キャンパスに通学する者にとっても、対面型教育の機能やキャンパス内での空間利用について考えることは、一層重要になっていくでしょう。
示唆はあったものの、Sarma の発表では明示的に言及されなかった特徴も他にいくつかあります。
研究所に入ることの容易さや頻繁に行けることは、オンラインで提供することは困難であるため、キャンパス型での学習における独自性の面で重要です。ただし、リモート・ラボやシミュレーションの利用はますます増えています。恋愛相手や将来の配偶者を見つける機会も重要な要素と言えるでしょう。しかしおそらく最も重要なのはあなたのキャリアを一層助けてくれる社会的人脈の形成でしょう。
これらが対面型教育に独特の機能なのか、それともキャンパスで体験する主な利点は、授業料が高額であり、入学しにくいエリートのための教育機関に固有のものであるのかの判断はあなたに委ねます。しかし、ほとんどの教員にとって、対面型指導にある、より具体的かつ一般的な教育上の利点を決定する必要があるでしょう。
当面は「平等な代用の法則」と呼ぶ、学術的にはほとんどのコースがオンラインでも対面型でも、同じように教えることができるという仮定から始めることにしましょう。このことは、費用、教員の利便性、ソーシャル・ネットワーキング、教員のスキルと知識、学生の種類、キャンパスの置かれた状況などの要因が、科目自体が学術的に要求する水準よりも、コースをオンラインで教えるか、キャンパスで教えるかを決定する強い要因となることを意味します。これらは全て、キャンパスの経験が優れている理由として完全に正当なものです。
また、学生には対面型、あるいは対面型での手ほどきを含めて、キャンパスで学ぶ強力で学術的な根拠がある重要な分野があるかもしれません。言い換えれば、私たちは「平等な代用の法則」の例外を規定しなければなりません。このようなキャンパス型に独特の教育的特性は、もっと慎重に研究するか、少なくとも理論に基づいて研究する必要がありますが、学習成果という点でキャンパスの経験に独特なものとは何であるかを表す、強力で説得力のある手法や学説はまだありません。私たちはキャンパスの経験に慣れ親しんでいますが、それでもなおキャンパスの経験は少なくとも、いくつかの点でより良くなければならないという前提があります。私たちは質問そのものを変えた方が良いでしょう。学生がオンラインでほとんどのことを学ぶことができるならば、キャンパスはどのように学術的・教育的に正当化できるでしょうか。
この問題は、ブレンド型学習への動きが学習空間にどのように影響するのかを調べるときに特に重要になります。ある意味では、これは学校や大学にとって時限爆弾になるかもしれません。
講義から双方向的な学習へと移行するにつれて、学習が行われる空間について考える必要が出てくるでしょう。また、教育学、オンライン学習、学習空間のデザインが、お互いにどのように影響し合うかについても考える必要があります。オンラインで勉強できることが増えているのに、学生がキャンパスに来ることを有意義なものにするためには、キャンパス内での活動が意味のあるものでなければなりません。例えば、私たちが学生に個人間のコミュニケーションと集中的なグループ・ワークのためにキャンパスに来させたいのであるならば、学生にはオンライン学習と教室内学習との組み合わせを考えた、十分に柔軟で設備の整った空間を用意しなければならないでしょう。
新しいテクノロジー、ブレンド型学習、そしてデジタル時代に必要とされる知識とスキルを身につけさせたいという願望は、本質的には教員と建築家が、教室とその使い方を再考することと関係しています。
米国のオフィスや教育用設備の大手メーカーである Steelcase 社は、学習環境についての素晴らしい研究を行なっているだけでなく、オンライン学習について教室設計への影響を通して考えるという点で、多くの中等後教育機関の先を行なっています。彼らの教育研究Webサイトと、報告書のうちの「アクティブ・ラーニング・スペース」「360°:再考する高等教育スペース」は高等教育機関の関係者だけでなく、初等・中等教育関係者も見ておくべき内容です。
Steelcase 社は「アクティブ・ラーニング・スペース」の中で以下のように述べています。
「教室の形は何世紀にもわたって変わっていません。四角い箱の中に、先生と黒板に向かってならぶ机の列…。その結果、このような時代遅れの空間は、成功する学習環境の3つの重要な要素である「教育学・テクノロジー・空間」の統合を十分にサポートしていないため、今日の教員も学習者も困ってしまっているのです。
変化は教育学から始まります。教員と教え方は多様であり、進化しています。あるクラスから次のクラスへ、時には授業中に、教室は変わらないといけません。したがって、教室は異なる教育や学習の好みに流動的に適応する必要があります。このような新しいニーズを支える新しい教育戦略を開発するための支援を教員は受けるべきです。
テクノロジーは慎重に統合されなければいけません。今日の学生はデジタル・ネイティブで、テクノロジーを利用して情報を表示、共有、提示することには抵抗がありません。コンテンツを表示するための壁面、複数の投影面、様々な配置でのホワイトボードは全て、教室が持つべき重要な検討要素です。
空間は学習に影響を与えます。4分の3以上のクラスでディスカッションが行われ、全クラスの60%近くが少人数グループでの学習が行われており、その割合は増え続けています。双方向的な教育法では、誰もがコンテンツを見ることができ、他の学生の顔を見ながら対話できる学習空間が必要です。全ての席が教室の中での最高の席であるべきですし、そうでないといけません。より多くの学校が構成主義的な教授法を採用するにつれ「舞台の賢人」は「小脇の案内人」に道を譲っています。教室内では教員はグループを周りながら、即時フィードバック、評価、指示を与え、ピア・ラーニングを行なっている学習者たちをサポートできるようなテクノロジーがなければいけません。教育学、テクノロジー、空間は慎重に検討され統合されたとき、新しいアクティブ・ラーニングの生態系が明確になるのです。」
オンラインや教室外での学習がますます増えているという事実を、教室は考慮する必要があります。このことは、知識へのアクセス、知識を使った作業、知識の共有と実例紹介が、教室の内外を問わず行う機会があるという意味でもあります。したがって、小グループでの作業をサポートするために机・椅子や備品のまとまりで構成されている場合、このまとまりごとに学習者が充電するためのコンセント、Wi-Fi、教室内ネットワークなど、教室内で学習を共有できる仕組みが必要となります。学習者には個人用の静かな場所や、グループ用の共用スペースも必要です。
フロリダ大学ゲインズバラ校の Tawnya Means と Jason Meneely は、UBTech 2013の会議で、授業・自習の両方で活発なグループ学習を可能にするために、いくつかの学部で教室を再設計したことを報告しました。この教室では様々なモバイル・デバイス用の引き込み口を備えた小型の可動式机、および教員と学生とが画面の共有と投影を制御できるソフトウェアを備わっており、事例ベース学習・問題ベース学習・プロジェクト・ベース学習、協働学習をサポートしています。別の事例では、古いキッチンと教室を、開放的なカフェテリアのあるグループ学習室に再設計しました。そこには個人用の学習スペースもあり、学生たちが同じ空間内で他の学生たちと交流したり、グループ学習をしたり、個人学習を切れ目なく行うことが可能になりました。Meneely はチャーチルを引用して「私たちが建物を作り、建物が私たちを作った」と述べています。Meneely は教員がこのような空間に置かれると、自然とアクティブ・ラーニング的な手法を選ぶようになると主張しています。
このような教室設計は、学生が比較的少人数のクラスで学んでいることを前提としています。ただし、反転学習などの混合型の授業設計を利用した大規模な講義用教室の再設計も行われています。実際、Sextant Group(視聴覚企業)の Mark Valenti (2013) は次のように述べています。
「要するに、大講義用教室は終わりが見えている。」
しかし現在の財政状況を考えると、再設計された大講義科目での授業時間は、個々の教室での小グループ学習に転換されるだろうなどと考えるべきではありません。大教室での講義科目には1,000人を超える学生が受講できる場合も多いので、十分な数の教室もありません。大きな教室を小規模なグループワーク用に使い、それを再び一つの大きな集団に簡単に戻せるような設計が必要なのです。現在の講義用教室の定番となっている長机と長椅子では対応しきれません。
Steelcase 社は教員のための適切な空間についての調査も行なっています。例えば、大学や学部が学生のためのラーニング・コモンズや共用エリアを計画している場合、別の建物内にある教員室を同じ建物内に配置しないのはなぜでしょうか。確かにこれは教員の研究室を開放的な教育エリアと統合できる事例となるでしょう。
Steelcase のような会社がこのような開発に興味を持っている理由は明らかです。ニーズを満たす新しい、そしてより良い形態の教室用設備を販売するための途方もない商機があるからです。しかし、それこそが問題です。大学、そして特に高校以下の学校では新しい教室の設計にすぐに着手できる資金を持っていません。そして、たとえ資金があったとしても、教育機関はまず以下のことを慎重に考えるべきです。
とはいえ、教室設計においては、少なくとも刷新のための優先順位を決める機会がいくつかあります。
ここで重要な点は、物理的な教室空間を新しく模様替えするための投資は、教育方法を変更するという決定に基づいて行われるべきであるということです。そのためには、研究者、IT サポート・スタッフ、インストラクショナル・デザイナー、施設スタッフ、そして建築家や教室設備を販売する業者が協働することになります。また「私たちが自分たちの環境を形作り、私たちの環境が私たちを形作る」という声明に強く同意するということです。柔軟かつ上手く設計された学習環境を教員に提供することは、教員の大きな変化を促進する可能性があります。旧来型の机が並んでいる教室では逆のことが起こるでしょう。
おそらく最も重要なことは、教育機関はキャンパス内の建物の将来の成長計画を見直す必要があるということです。特に重要なのは以下の項目です。
教育機関にとって明らかなのは、オンライン学習について、そしてそれがキャンパス内での教育にも影響することについて、そして何よりも学生がオンラインで勉強できるのに、どのようなキャンパス経験をさせたいのかについて、熟考する必要があるということです。この考えこそが、建物、机、椅子などにどのように投資すべきかという考えを形作るのです。
私たちが多くの学術目的のために平等な代用の原則を受け入れるならば、それはバスで通学する学生について考えることと同じです。学生がほとんど全てのことをオンラインで同様に(そしてより便利に)学ぶことができるとしたら、バス通学を価値のあるものにするためにキャンパスで提供できるものは何でしょうか。これがオンライン学習が提示する本当の課題です。
それは単に対面型授業や実験でどのような教育活動を行う必要があるのかという問題ではなく、学校や大学の文化的・社会的な目的そのものなのです。大規模な都市型大学の多くでは、学生は通学しています。授業に出て、その合間にラーニング・コモンズを使い、何か食べて、帰宅しています。私たちが大学を「大規模化」してきたことで、広い意味での文化的側面が失われたのです。
オンライン学習や混合型学習は、学生がいつでもどこでもオンラインで学習できる環境下で、キャンパス全体の役割と目的、そして教室で行うべきことを再考する機会を提供しています。もちろん、キャンパスを閉鎖して全てをオンラインにする(そして多額のお金を節約する)こともできますが、その前に少なくとも何を失うことになるのか検討する必要があります。
1. 「純粋な」対面型の授業から完全にオンラインのプログラムまで、テクノロジーを使った学習の連続体があります。全ての教員は、連続体のどこに特定の科目やプログラムを位置付けるかを決定する必要があります。
2. オンライン学習の長所と限界についての理解は増えていますが、決定を下すための優れた研究上の証拠や理論は持ち合わせていません。特に欠けているのは、オンライン学習でも利用可能な場合の対面型教育の長所と限界についての証拠に基づいた分析です。
3. 良い理論がないので、私は配信方法を決めるための4つの要因を提案しました。特にブレンド型授業における対面型学習とオンライン学習の利用を決定する際には、以下の点について検討するべきであると考えます。
4. とりわけブレンド型学習や混合型学習への移行は、キャンパスの利用と、混合型での学習を可能にするために十分必要な設備について、よく考えなければなりません。
ある学校で教えていた時、施設管理者は各教室に次のような貼り紙をしていました。教員が授業を終えて教室を出るとき、机を前に向けてきれいに並べて出るように、と。そのため、グループ・ワークのために机を並び替えて、終了後にまた学生たちと一緒に机を元に戻すのに、授業時間の25%を使っていました。
1. 最大40人の学生が使うグループ学習空間をゼロから設計する場合、あなたと学生が利用できうる、全てのテクノロジーと教授法を考えると、学習空間はどのようなものになりますか。
2.あなたが200人の学生の講義クラスを持っており、教え方を変えたいと思うならば、あなたは授業をどのように再設計しますか。どんな種類の教室が必要ですか。
本章の内容を取り上げたスライドがあります。
https://teachonline.ca/sites/default/files/cn_choosing_modes_of_delivery_-_december_13.pdf
Valenti, M. (2013), in Williams, L., ‘AV trends: hardware and software for sharing screens, University Business, June
この章を読み終えると、以下のことを判断できるようになります。
加えて、この章には以下のアクティビティーが含まれています。
長年にわたり、ウェスタン・カナダ大学の土地管理・林業学部の研究者たちは、実施した研究成果として、流域管理に関する一連のデジタル・グラフィック、コンピュータ・モデル、シミュレーションを開発してきました。これは学部で実施した研究成果の公表という目的のみならず、将来の研究に対する支援や基金を狙ったものという目的もありました。
数年前の教員会議における熱心な議論の結果、研究者たちは、クレジットの明記を課し、著作権者、すなわち研究成果物の責任者である教員からの特別な書面による許可がなければ商業利用はできないというクリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下で、これらの教育リソースを教育目的のために公に再利用できるようにすることに、ごく僅かな差ではありましたが、賛成票を投じました。
投票を動かしたのは、研究に積極的に関わっていた教員の多くが、これらの教育リソースをより広く利用できるようにしたいと願った結果でした。主に国立研究評議会など、学習成果物の開発に対して資金提供をしている機関は、これらの成果物をオープン教育リソース (OER) として広く利用できるようにする動きを歓迎しました。
当初、研究者たちはグラフィックとシミュレーションを研究グループのWebサイトに載せただけでした。これらのリソースを指導で利用するかどうかは、個々の教員の裁量にゆだねられていました。時間が経つにつれて、教員はこれらのリソースをキャンパス内の学部生および大学院生向けコースに取り入れ始めました。
しばらくしてからのことですが、この OER は話題になりました。研究者たちは世界中の他の研究者からメールや電話を受け始めるようになったのです。研究成果としてデジタル素材を作成している同じ分野の研究者のネットワークやコミュニティがあることが明らかになり、他のサイトからの素材の共有や再利用は理にかなっていました。そして最終的に流域管理に関する学習成果物を集めた国際的なWebポータルへと発展しました。
また、研究者らは、政府省庁や環境省、地元の環境団体、先住民の団体、そして時には大手採掘会社や資源採掘会社など、様々な機関から声がかかり、研究者たちにとってはそれなりに大きなコンサルタントの仕事へとつながりました。そして学部では自然保護団体やいくつかのエコロジー団体などの非政府機関、以前からの資金提供元であった国立研究評議会からさらなる研究資金を集めて、より多くの OER を開発することができました。
この時、学部はかなり多くの OER にアクセスできるようになっていました。半分もしくは5分の2が完全オンラインの OER を中心に構築されたコースが既にあり、学部生および大学院生に提供されていました。
そして、米国のある大学とシエラレオネのある大学が共同で、既存の OER を中心に構築した、流域管理について学習するはじめての完全オンラインの大学院向け証明書プログラム開発の提案が実行されることになりました。この認定プログラムは、その費用を授業料から調達するものでしたが、シエラレオネの25名の学生の授業料については最初、国際援助機関で賄われるようになりました。納付金で新たに専任教員を雇い、証明書プログラムでの教育や欠員補充に当てたいと考えた学部長は大学当局を説得し、厳しい交渉の後、証明書プログラムからの授業料は学部へ直接支払われることになりました。そして学部は授業料収入の25%を諸経費として大学に支払うことになりました。
アフリカ諸国との契約やパートナーを有するカナダの鉱業および資源採掘会社に対して、英語とフランス語で証明書プログラムを提供するという決定は、カナダ外務省からの相当な額の助成金を受けることができ、かなり容易になりました。
この証明書プログラムは、北米、ヨーロッパ、ニュージーランドの学生を引き付けることに大成功し、OER と証明書プログラムへの関心は高まったにもかかわらず、アフリカではシエラレオネの大学との提携以上には受け入れられませんでした。証明書プログラムを2年間実施した後、学部は2つの大きな決定を下しました。
- さらに3つのコースと研究プロジェクトを証明書コースに追加する。これは流域資源管理に関して、完全に費用回収できそうなオンライン修士課程として提供される。特にアフリカ諸国の管理職や専門家の参加を呼びかけることになるだろう。そして多くの学生が要求している認定資格を提供することになるだろう。
- 研究者と何らかの形で関係している大規模な外部専門家ネットワークを利用して、大学は流域管理問題に関する一連のMOOCsを提供し、大学外の専門家にもボランティアで MOOCs に参加してもらい、リーダーシップを発揮してもらう。そのMOOCsでは既存の OER を利用しても良いだろう。
5年後、持続可能性という点について、学部長は国際会議で次の成果を報告しました。
- オンライン修士課程の大学院生の数が、キャンパスに通う大学院生の総数の2倍となった。
- 修士課程は授業料から費用を賄うことができた。
- 修士課程の卒業生は年間120 人であった。
- 修士課程の修了率は64%であった。
- 新たに6名の専任教員が採用され、さらに6名の博士研究員が採用された。
- 数千人の学生が証明書または修士課程の少なくとも1つのコースを登録して授業料を支払った。そのうち45%はカナダ国外からの学生であった。
- 10万人以上の学生がMOOCsを受講し、約半数は開発途上国からの参加だった。
- 現在、流域管理に関しては1000時間を超える OER が利用可能であり、世界中で何度もダウンロードされている。
- 大学は現在、流域管理に関する世界的リーダーとしての地位を国際的に認知されている。
これは純粋に私の想像の中のシナリオですが、実際にブリティッシュ・コロンビア大学で行われている素晴らしい研究の影響を受けたものです.
近年、主にオープン教育リソース (OER) と MOOCs を主なきっかけとして、オープン・ラーニングへの関心が再興しています。OER や MOOCs 自体も重要な発展ですが、教育全体にさらに大きな影響を与える可能性が高いオープン・エデュケーションの他の発展を見えなくしてしまう傾向があります。そのため、OER や MOOCs だけでなく、一般的なオープン・ラーニングについても理解を深めるにも、少し戻ってみる必要があります。これは私たちがオープン・エデュケーションにおける OER や MOOCs とその他の発展のもつ意義、現在および将来の教育および学習への影響の重要性をより良く理解するためにも役立つでしょう。
オープンエデュケーションにはいくつかの形態があります。
第5章で広く議論されている MOOCs を除き、これらの開発について以下で詳しく議論します。
オープン・エデュケーションは本来、目標であり教育政策です。オープン・エデュケーションに欠かせない特徴は、学習に対する障壁の排除です。この意味は、学習に対する資格を問わず、性別、年齢、宗教による差別を排除し、全ての人にとって費用を負担できる範囲にとどめ、障害を持つ学生に対しては、障害を克服する適切な形で教育を提供するための断固たる努力です。例えば視覚障碍のある学習者に対しては音声の提供が考えられます。理想的にはオープン・エデュケーション・プログラムの受講は、誰も拒否されるべきではありません。したがって、オープン・ラーニングは高い拡張性を持つと同時に、柔軟である必要があります。
州が費用を負担する公教育は、最も広範囲に普及しているオープン・エデュケーションです。例えば、イギリス政府は、イギリスとウェールズの5 歳から13 歳までの子供全員に対して教育を提供するための枠組みを定めた教育法を1870年に可決しました。両親が支払うべき費用も一部ありましたが、教育は主に税金によって支払われるべきであり、どの子供も経済的な理由で除外されないという原則を法律によって確立しました。学校は地域で選出された教育委員会によって運営されています。時を経て、ほとんどの経済先進国における公的資金による教育へのアクセスは、18歳までの全ての子供を含むように拡大されました。ユネスコの万人のための教育 (EFA) に関する運動は、全ての子供、若者、成人に、少なくとも原則として、質の高い基礎教育を提供するという世界的な取り組みであり、164カ国の政府によって支持されています。しかし今日でも、まだ世界中に何百万という「学校に行けない」子供たちがいます。
中等後教育へのアクセスは、一部には経済的理由もありますが、「得失」の観点からも制限されています。大学は入学を希望する学生に対して、学校での試験における成功、または、入学試験によって規定される学力基準を満たすことを要求しています。このため特にエリート大学は高度に選り抜かれた状態になっています。一方、第二次世界大戦後、社会的および経済的理由のために、ほとんどの経済先進国は中等後教育や大学教育を徐々に拡大させつつあります。また、ほとんどのOECD諸国では、年代別でみたとき約35〜60%の人が何らかの形で中等後教育を受けています。特にデジタル時代では優秀な労働者に対する需要が高まっており、中等後教育は多くのレベルの高い仕事に必要とされる入り口になっています。そのため中等後教育や高等教育、あるいは第3次教育への完全かつ無料のオープン・アクセスへの圧力が高まっています。
しかし第1章で見たように、かつてないほどに増え続ける入学者に対するコストは、政府と納税者への財政的負担の増加をもたらします。2008年の金融危機の後、米国の多くの州は深刻な財政難に見舞われ、その結果、米国の高等教育に対する予算は大幅に削減されました。そして資金増加に頼らずに入学者を増やすための解決策を、政府や教育機関は必死に模索しています。オープン・エデュケーションへの最近の関心は、このような背景を反映したものであることを考慮すべきです。
その結果「オープン」はますます(そしておそらく誤解を招く形で)「無料」と紐づいています。オープン・リソースの利用はエンド・ユーザー(学習者)には無料かもしれませんが、オープン・エデュケーションの作成と配布、そして学習者のサポートには実費がかかります。これらについては何らかの方法で対処する必要があります。したがって、公的資金による持続可能で適切な教育システムは、依然として全ての人にとって質の高い教育へのアクセスを確保するための最善の方法です。他のオープン・エデュケーションの形態は、高等教育が完全にオープン・アクセスになる以前の段階です。
1970年代〜1980年代には、入学するための資格を全く必要としない、もしくは最小限しか必要としないオープン大学の数が急増しました。例えば1969年のイギリスでは、高校を卒業した学生のうち、大学へ進学したのは10%未満でした。ちょうどこの頃、イギリス政府はオープン大学を開設しました。それは特別にデザインされた印刷テキストとテレビ放送、ラジオ放送の組み合わせと、伝統的な大学キャンパスでの1週間の滞在型サマー・スクールを利用して、基礎的なコースを学習できる、遠隔教育型の誰にでも開かれた大学でした(Perry, 1976)。1971年にオープン大学は25,000人の学生で始まり、現在は20万人以上の学生が登録しています。イギリスにおける180の大学のうち、大学の質を評価する政府機関は、オープン大学を、教育面ではトップ10、研究レベルではトップ30、そして学生の満足度は1位の大学として、一貫してランク付けしています。現在20万人以上の登録学生がいますが、もはや政府の補助金からその運営の全費用をまかなうことができず、支払われる学費にも様々な種類があります。
カナダのアサバスカ大学やテリュク大学など、現在世界中には約100 の公的資金によってまかなわれているオープンユニバーシティがあります。これらのオープンユニバーシティはたいてい、非常に大きいです。 中国のオープン大学は 100万人以上の学部生と240万人の中高生が在籍しており、トルコのアナドル大学では120 万以上の学部生が在籍しています。インドネシアのオープンユニバーシティ(テルブカ大学)は50万人ですし、サウス・アフリカ大学でも35万人が在籍しています。これらの学位の取得ができる国立のオープンユニバーシティは、これ以外の方法では高等教育にアクセスできない数百万人の学生に対して非常に貴重なサービスを提供しています。(全体像を把握したい場合は、Daniel:1998 を参照。)
しかし、米国には公的資金によるオープン大学は存在しないことに注意する必要があります。これが、MOOCs が大きな注目を集めている理由の1つです。ウェスタン・ガバナーズ大学はオープン大学に最も類似しており、フェニックス大学のような営利目的の私立大学も同様に市場の隙間を埋めています。
通常は独自の学位を授与する国立のオープンユニバーシティだけでなく、イギリス連合および米国の大学を主体として構成した国際的なコンソーシアム、OERu もあります。提携大学のいずれかに入学するための全ての単位を取得できますし、ほとんどの単位を取得した大学へ進み、学位を取得するためのオープン・アクセスなコースを提供しています。学生は単位認定のための料金を払います。
オープンで、遠隔に対応していて、柔軟であり、オンライン学習であるという「最も純粋な」形で見つかることはめったにありません。完全にオープンな教育システムはありません。(例えば、最低限の読み書き能力が必要であるなど。)したがって、オープンといっても常に程度問題です。オープンであることはテクノロジーの利用を特に含意します。誰でもアクセスできるようにするのであれば、誰でも利用できるテクノロジーを用いる必要があります。もし仮に、ある教育機関が故意に特定の学習者を対象とするのであれば、遠隔教育のためのテクノロジーの選択はより柔軟性なものになります。例えば、オンライン・コースまたは対面型とのブレンド型のコースを受講する全ての学生に、自らのコンピュータの所有とインターネットへのアクセスを要求することなどです。全ての学生にオープンであることを要求するのは不可能です。そして真のオープン大学は決してテクノロジーの教育的応用の最先端に追いつくことはできないでしょう。
多くのオープン大学は成功していますが、オープン大学にはキャンパスがありません。学生の学位取得率はたいていの場合、非常に低いです。イギリスのオープン大学の学位取得率は22%ですが (Woodley & Simpson, 2014)、それでも大半の MOOCコースよりも、学位取得プログラムの方が完遂率は高いです。
最後に、一部のオープン大学は40年以上前に設立されましたが、その規模が大きいこと、印刷や放送などの古いテクノロジーへかなりの先行投資していること、最新のテクノロジーを持っていない潜在的な学生へのアクセスを拒むことはできないといった理由で、テクノロジーの変化に対応しきれていません。そしてオープン大学は今や、市場の一部を占めることになった普通の大学への入学者の急増と、次のセクションのトピックである MOOCsやオープン教育リソースなどの新しい開発により、ますます困難を抱えています。
1. 中等後教育または高等教育へのアクセスは誰にでも開かれるべきですか。もしそうであれば、この原則に対する合理的な制限は何ですか。これを可能にするためには、政府の役割はどうあるべきですか。
最初の問いに対するあなたの答えが『いいえ』である場合、なぜ中等後教育までは公開されるべきで、それ以降の教育では対象外なのでしょうか。それは単なる金銭的な問題ですか。それとも他の理由がありますか。
2. デジタル時代でもまだ、オープン大学は必要ですか。
Daniel, J. (1998) Mega-Universities and Knowledge Media: Technology Strategies for Higher Education. London: Kogan Page
Perry, W. (1976) The Open University Milton Keynes: Open University Press
Tynan, B. (2015) Learning analytics: personal insights. Paper presented at the International Symposium on Assessment in Learning in the 21st Century. Tokyo: Open University of Japan.
Woodley, A. and Simpson, O. (2014) ‘Student drop-out: the elephant in the room’ in Zawacki-Richter, O. and Anderson, T. (eds.) (2014) Online Distance Education: Towards a Research Agenda Athabasca AB: AU Press, pp. 508
オープン教育リソース (OER) は、主にコンテンツを意味するという点で、オープン・ラーニングとは多少異なります。一方、オープン・ラーニングは、特別に設計されたオンライン教材、学習者に対するサポートや評価の組み込みなど、コンテンツと教育サービスの両方を含みます。
OER には、オンライン教科書、動画による講義、YouTube からダウンロードしたもの、自習用に設計された Web ベースのテキスト教材、アニメーションやシミュレーション、デジタル図表やグラフィック、一部のMOOCs、さらには自動採点できるテスト評価用素材も含まれます。OER には、Powerpointスライドや講義ノートの PDF ファイルも含めることができます。しかし、OER であるためには、少なくともそれらは教育的利用のために自由に使える状態でなければなりません。
David Wiley は、OER の先駆者の一人です。彼と同僚たちは、オープン・パブリッシングには5つの基本原則があることを提言しています。 (Hilton et al, 2010)
あなたが読んでいるこのオープン・テキストブックは、5つの基準を全て満たしています。(CC BY-NC ライセンスに該当します。次のセクションを参考にして下さい。)ただし OER のユーザーは、この本のように商業上の目的では許可なく複製できない場合があるため、再利用するためには実際のライセンスを確認する必要があります。例えば、少なくとも作者からの書面による許可なしには、商業出版社が利益のために本に変えることはできません。OER の製作者としてのあなたの権利の保護は、通常、クリエイティブ・コモンズまたは他のオープン・ライセンスの下で公開することを意味します。
現在、下記のクリエイティブ・コモンズ・ライセンスが可能です。
あなた自身の教材をOERとして提供したいのであれば、ライセンスを選んでそれをあらゆる作品に適用するのは比較的簡単なプロセスです。(クリエイティブ・コモンズのライセンスの選択を参照)疑問がある場合は、図書館司書に確認してください。
OER の多くの「リポジトリ」(保管場所)があります。例えば中等後教育では MERLOT 、OER Commons 、また中等教育までであれば Edutopia を参照してください。OpenProfessionals Education Network には OER を見つけて利用するための優れたガイドがあります。
ただし、Web上で公開されているアクセス可能な教育リソースを検索するときは、そのリソースにクリエイティブ・コモンズ・ライセンスがあるかどうか、または再利用を許可する説明があるかどうかを確認してください。著作権について過度に心配することなく無料のリソースを利用するのが一般的な方法かもしれませんが、明確なライセンスや再利用の許可がない場合、不利益を受ける可能性があります。例えば OpenLearn などの多くのサイトでは、非営利目的の個人的な利用のみを許可しています。つまり、リソースを自分の教育に直接取り込むのではなく、学生にそのサイトへのリンクを提供するようにします。再利用の権利について疑問がある場合は、あなたの図書館か知的財産部門に確認してください。
元のバージョンを作成した教員以外による OER の受け取りはまだわずかしか行われていません。主な批判は、現時点で入手可能な多くの OER の質の低さ、つまり変更や調整が容易ではない PDF 形式であること、対話形式でない大量のテキスト、粗雑なシミュレーション、不十分なグラフィック、どんな学術的概念を説明しようとしているのかが不明確なデザインなどです。
Falconer (2013)は、ヨーロッパにおける OER に対する潜在的なユーザーの態度の調査において、次の結論を導き出しました。
一般大衆が OER の制作に参加する技能や、何もしないで何かを手に入れるという文化的不信は、品質に対するユーザーの懸念を引き起こします。広告、市場占有率、華やかな制作物を通じて信頼を生み出す販売業者や出版社は、この無料への不信を悪用する可能性があります。品質への信念は OER を始めるにあたっては重要な原動力ですが、原理的に誰もが貢献できる状況で品質を保証するという拡張性の高い問題解決の方法はまだ見つかっていません。また、ある状況から別の状況に品質を明確に移転できるかどうかという問題についても、まだ十分に対処されていません。何らかの承認システムがお墨付きを与えるという考え方は無限に拡張できるとは限りませんし、ユーザー・レビューの堅牢性やその他の状況に応じた対策はまだ十分に検討されていません。
OER をその作成者以外の人に取り入れて欲しければ、うまく設計しておく必要があるでしょう。オープン大学が独自の OER ポータルであるOpenLearn を開設するまで、iTunes U で最も利用されている OER はオープン大学のものであったことは、おそらく驚くにはあたらないでしょう。OpenLearn ではオンラインで自習用に設計されたコースの文字資料を主に OER として提供しています。繰り返しますが、設計は OER の品質を保証するための重要な要素です。
Hampson (2013) は、OER の受容が遅い別の理由を提案しています。それは、主に多くの教員の職業的な自己イメージと関係しています。Hampsonは、教員が自分自身を「ただの」教員と見なすのではなく、新しい知識や独創的な知識を生み出す発信者や普及者と見なしていると主張しています。彼らの教育では自身のスタンプが教材の上に押されている必要がある、つまり自分で作ることに意味があり、他の教員の教材を公然と組み込んだり、コピーしたりすることには消極的だと考えているのです。OER は容易に「パッケージ化された」再生産的な知識であり、自らの作品ではないため、教員を「芸術家」から「工場労働者」へ変化させるものです。そんな理由はばかげている、私たち全員が巨人の肩の上に立っているのだ、と主張することもできますが、そのような重大な自己認識があり、研究者としての教員にとって、この主張には一粒の真実があります。彼らにとっては自身の研究を中心にすえて教育することに意味があります。しかしそこに何人のリチャード・ファインマン(訳注:不誠実な態度を嫌い、自分が正しいと思ったことは実証しなくては気が済まない性格だったアメリカの理論物理学者。ノーベル物理学賞を受賞。知名度の高い教科書「ファインマン物理学」を執筆したことでも知られる。)がいるのでしょうか。
多くの OER に関して明確なライセンス情報が欠けており、「無料」(金銭的負担なし)と「オープン」との間にもかなりの混乱があります。例えば、Coursera MOOCs は無料ですが、「オープン」ではありません。あなた自身の教育の範囲内で、Coursera MOOCs の素材を許可なく再利用することは大抵の場合、著作権侵害です。edX MOOC プラットフォーム自体はオープン・ソースであり、他の教育機関はこのポータル・ソフトウェアを採用したり改良したりすることができますが、edX 上の教育機関でも著作権は保持する傾向があります。ただし Coursera や edX でも例外はあります。MOOCs の中にはオープン・ライセンスのものが少しはあります。
OER は状況の制約を受けないという特徴があるという論点もあります。学習そのものを扱った研究によると、最もよく学習されるのは、コンテンツが状況に埋め込まれ、学習者が能動的に学習するときであり、とりわけ学習者が意味と「階層化された」理解を展開することで、知識を積極的に構造化できるときであることが分かっています。コンテンツは静的ではなく、石炭のような物資でもありません。言い換えれば、コンテンツを学習することを、石炭をトラックに放り込むことと同様だと考えているようでは、効果的には学習されません。学習とは、疑問を持つこと、既知の事柄に新たな考え方を統合しようとする調整、理解度のテスト、フィードバックを必要とする、動的なプロセスなのです。このやり取りの中では、個人による振り返り、専門家(教員)からのフィードバック、そして重要なことですが、友人や家族、仲間の学習者からのフィードバック、彼らとの対話を組み合わせることが必要です。
オープン・コンテンツの弱点は、その性質上、効果的な学習に不可欠な、発展的で状況に依存した「環境的」な要因が全て取り除かれている、純粋な形であるということです。言い換えれば OER とは石炭のようなもので、積み込まれるのを待っている状態なのです。もちろん今でも石炭は非常に貴重な資源です。しかし石炭は採掘され、貯蔵され、出荷され、加工されなければなりません。つまり OER を生のコンテンツから有用な学習経験に変えるための状況的要因にますます注意しておく必要があるでしょう。このことは教員が OER に適合する学習経験や環境を整備する必要があることを意味します。
OER に関する研究の概要については Open Education Group の Review Project を参照してください。別の重要な研究プロジェクトには ROER4D があります。これは南アメリカ、サハラ以南のアフリカ、東南アジアの多くの国々で、根拠のある OER 導入に関しての研究を提供することを目指しています。
このような制約があるにもかかわらず、教員はますます OER の作成に取り組み、また、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下で他の教員が自由に利用できる教材を作成しています。教員が OER にアクセスできるリポジトリやポータルも増えています。OER の増加によって、教員はそれぞれの教育の場面に最適な素材を見つけやすくなるでしょう。
OER の使い方には選択肢がいくつかあります。
学習者は OER を利用してあらゆる種類の学習で役立てることができます。例えば、MIT のオープン・コース・ウェア (OCW) は、単なる興味のために利用することもできますし、単位が発行される授業の講義で取り扱っているトピックで苦しんでいる学生は同じトピックに対する別のアプローチとして OCW にアクセスするということもあるかもしれません。(シナリオAを参照)
OER には現時点では制限や弱点がいくつかありますが、その利用は増える可能性があります。なぜなら良質の素材が自由に簡単に入手できる場合、ゼロから全てを作成することは意味がないからです。私たちは第8章でメディア選択について見てきましたが、今では教員が利用できる優れたオープン素材が増えています。これは時の経過とともに、さらに多くなっていくでしょう。のちにセクション11.10で、OER の増加がコースの設計と提供の仕方を変えることにつながることを見ていきます。確かに OER はデジタル時代の教育に欠かせない要素の1つであることが明らかになるでしょう。
1. あなた自身のコースで OER を利用しましたか。これは良い経験でしたか。それとも悪い経験でしたか。
2. OER を利用したことがない場合、主な理由は何ですか。どのようなものが利用できるかを調べてみましたか。質はどのようなものでしたか。どうすれば改善できるでしょうか。
3. どのような状況になれば、あなたは自身が作成した教材を OER として作成したり変換したりする準備ができるでしょうか。
Falconer, I. et al. (2013) Overview and Analysis of Practices with Open Educational Resources in Adult Education in Europe Seville, Spain: European Commission Institute for Prospective Technological Studies
Hampson, K. (2013) The next chapter for digital instructional media: content as a competitive difference Vancouver BC: COHERE 2013 conference
Hilton, J., Wiley, D., Stein, J., & Johnson, A. (2010). The four R’s of openness and ALMS Analysis: Frameworks for open educational resources. Open Learning: The Journal of Open and Distance Learning, 25(1), 37–44
See also:
Li, Y, MacNeill, S., and Kraan, W. (undated) Open Educational Resources – Opportunities and Challenges for Higher Education Bolton UK: JISC_CETIS
教科書は学生にとってますます高くなりつつある費用です。教科書によっては200ドル以上かかるものもあり、北米の大学の学部生は、1年間で800ドルから1,000ドルを教科書に支払う必要があるかもしれません。一方、オープン・テキストブックは、教育または非営利目的でのダウンロードが無料であり、オープン・ライセンスとなっているオンライン出版物です。あなたが現在開いているこの本もオープン・テキストブックです。ライス大学の OpenStax College 、ミネソタ大学の Open Academics Textbook Catalog など、オープン・テキストブックのための供給源が増えています。
ブリティッシュ・コロンビア州(BC州)では、州政府がアルバータ州とサスカチュワン州と共同でBC州オープン・テキストブック・プロジェクトに資金を提供しています。 BC のオープン・テキストブック・プロジェクトでは、最も学習者の多い分野の教科書を、そして貿易やスキル研修における教科書を、オープン・ライセンスで利用できるようにすることに重点を置いています。BC プロジェクトでは、他の多くの教材と同様、全ての本が選考、査読され、場合によっては地元の教員によって制作されています。多くの場合、これらの教科書は新しい知識という意味では独創性に富んだものではありませんが、様々な分野での現在の考え方の要約が丁寧なイラストを用いて説明されています。
学生や政府は、補助金や財政援助を通じて、教科書に毎年数十億ドルを支払います。オープン・テキストブックは、教育費の削減に大きな影響を与えます。
他にも考えてみるべき点があります。1学期の最初の週に、大学の書店で長い行列ができるのは一般的な光景です。これは、貴重な勉強時間の損失と同義です。他の学生から古本で教科書を譲り受ける場合もあるので、学生が実際に書籍を手にするのは、学期が始まってから2〜3週後になるかもしれません。クリエイティブ・コモンズの Cable Green は、数学を学習する1年生が初日から教科書を持っているとき、授業が始まって3週間目まで重要な教科書を持っていない学生よりもはるかに良い成績であることを示す研究について言及しました。フロリダ・バーチャル・キャンパスの調査によると、多くの学生(60%以上)が様々な理由で、必要な教科書を全て購入しているわけではなく、その主な理由は費用であることを示しています。 (Green, 2013)
例えば政府が教科書の執筆者に直接対価を支払い、仲介者(商業出版社)を省略することで80%以上の費用を節約し、インターネットを介して学生(または希望者全員)に、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下で、無料で教科書を配布するという考え方はどうでしょうか。Cable Green のオープン・テキストブックに関する「ビジョン」は、100%の学生が初日までに全ての教材に100%無料でデジタル・アクセスできるようにすることです。
Murphy (2013) はオープンかどうかにかかわらず、教科書に対する全体的な考えを疑問視しています。つまり教科書を大衆放送の一種のような19世紀の産業主義の遺物であると考えているのです。21世紀、学生はインターネットを介してデジタル素材を見つけ、そこにアクセスし、情報収集しなければなりません。教科書とは単にパッケージ化された学習形態であり、執筆者は学習者のために仕事をしているのです。とは言え教科書は依然として多くの教育形態の基本的な手段であることを認識する必要があり、この状況が続く限り、オープン・テキストブックは高価な印刷版の教科書よりもはるかに優れた代替手段です。
質もまた懸案事項の一つです。「無料であること」は質が悪いことを意味するに違いないという偏見があります。このようにOERの質に関する議論と同じものがオープン・テキストブックにも当てはまります。特に商業的に出版された高価な教科書には、通常、練習問題が組み込まれており、追加の読み物などの補足資料、さらには自己評価のためのチェックリストが含まれます。
他の人(私自身も含みます)は政府から補助金を受けることができないような独創的な教材に対するオープン・パブリッシングの影響の可能性には懐疑的です。なぜなら、これらはあまりにも専門的過ぎるか、その分野の標準的なカリキュラムの一部にはなっていないためです。果たしてオープン・パブリッシングは出版の多様性に悪影響を及ぼすでしょうか。努力に対して金銭的な見返りがない場合、いま誰かが独創性の高い教材を出版する動機は何でしょうか。単著で本を書くことは大変な仕事には変わりありませんが、それでも出版されています。
現在、様々なオープン・パブリッシング・サービスがありますが、それでも執筆者が独自の作品を作るためにはコストがかかります。例えば、特殊なグラフィック、編集、同業者からの論評に対して誰がお金を払うのでしょうか。私は本の一部を公開して論評してもらうためにブログを使っています。これは非常に有用であると気づきました。ただしこれは出版前に分野のトップクラスの専門家に体系的なレビューをしてもらうことと同じことではありません。
マーケティングは別の問題です。書籍を効果的に販売するには時間と専門的な知識が必要です。その一方で12 冊の本を商業的に出版した私の経験から言うと、出版社は専門的な内容の教科書を適切に販売することが非常に苦手で、著者自身が宣伝することを期待する一方、総売り上げの85%から90%を取ります。オープン・テキストブックであったとしても販売には実費がかかります。
どのようにすれば、これら全てのコストを回収することができるのでしょうか。書籍形式での独創的な作品のオープン・パブリッシングを支援するには、さらに多くの作業が必要です。では、知識がどのように創造され、どのように広められ、どのように保存されるかということは何を意味するのでしょうか。オープン・テキストブック・パブリッシングが成功するためには、持続可能な新しいビジネス・モデルを開発する必要があります。特にオープン・テキストブックへの何らかの形での政府補助金や財政支援がおそらく不可欠になるでしょう。
これらは全て重要な懸案事項ですが、克服できない問題ではありません。重要な教科書の一部を無料で学生に提供することは、大きな前進です。
BC キャンパスは、P2PU ポータルにオープン・テキストブックの採用について学習できる、短い MOOC を載せています。あなたがサイトにアクセスしたときには既に MOOC は閉講しているかもしれませんが、動画を含むまだ利用可能なほとんどの材料が利用できる状態でしょう。
アメリカ、カナダ 、イギリスなど、いくつかの国の政府は、政府の資金提供の成果として発表された全ての研究がデジタル形式で広くアクセス可能になっていることを要求しています。カナダでは2015年2月27日、科学技術大臣は次のように宣言しました。
出版物に関する統一見解としてTri-Agency Open Access Policyでは、3つの連邦認可機関のいずれかによって資金提供されている全ての査読付きジャーナル出版物を12か月以内に無料で、オンラインで入手できるようにすることを要求する。
またカナダでは2014 年の最高裁判決と新しい法律により、教育目的で無料のオンライン素材にアクセスして利用することがはるかに簡単になりましたが、まだいくつかの制限があります。
学術雑誌の市場を独占してきた商業出版社は、明らかに反発しています。学術雑誌が高い評判を持ち、それゆえ研究出版物の評価においてかなりの重要性を持っているところでは、出版社は研究を公に利用できるようにするために研究者に対して費用を請求しています。確立された学術雑誌に掲載することの栄誉は、研究者が掲載するために支払う必要のない、権威の劣るオープン・ジャーナルへの掲載の阻害要因として機能します。
しかし、このシステムと学術界との闘いは、論文の質を高め、それを出版する研究者の地位が最高水準であると認識される査読つき学術雑誌を研究者自らが確立さえすれば、それはもはや時間の問題でしょう。繰り返しになりますが、オープン・リサーチ・パブリッシングは、最高水準のピアレビューと質の高い研究の条件を満たし、持続可能なビジネス・モデルを見つけ、そして研究者自身が出版プロセスを管理することによってのみ繁栄します。
したがって、時間が経てば、学術雑誌のほとんど全ての研究は公開されるようになると期待できます。
2004年、世界のほとんどの先進国を含む OECD 加盟国の全ての国の科学大臣が、公的資金による全てのアーカイブ・データを公に利用可能にすべきであるという宣言に署名しました 。 加盟国のデータ作成機関との激しい議論の後、OECD は2007 年に 公的資金による研究データへアクセスするための OECD の原則と運用基準を発表しました.
オープン・データの2つの主な情報源は科学と政府からのものです。科学については、おそらくヒト・ゲノム・プロジェクトが最良の例であり、カナダの BC データ・カタログのように、収集したデータを配布するために、いくつかの国や州政府が Web サイトを作成しています。
繰り返しになりますが、ますます多くの重要なデータが公開されて利用できるようになると、学習でも利用できる可能性が高いリソースが提供されることになります。
オープン・アクセス、OER、オープン・テキストブック、オープン・データの発展について、教育や学習への意義は、次のセクションでさらに詳しく調べます。
1. OpenStax College、 Open Academics Textbook Catalog、BC オープン・テキストブックプロジェクトで 、あなたの科目に適した教科書があるかどうかを確認しましょう。
2. あなたの研究分野にはどのようなオープン・ジャーナルがありますか。(図書館司書の助けがここで役に立つかもしれません。)良質な論文はありますか。この分野で研究をしているあなたの学生はこれらを使うことができますか。
3. あなたが指導で利用できる有用なデータが含まれているかもしれないオープン・データ・サイトを探す手伝いを、図書館司書に依頼してみましょう。ほんの少し指示を出せば、学生は自分でこれらのデータ・サイトを見つけることができるでしょうか。あなたや学生はこのオープン・データをどのように学習に利用できるでしょうか。
Green, C. (2013) Open Education, MOOCs, Student Debt, Textbooks and Other Trends Vancouver BC: COHERE 2013 conference
Murphy, E. (2013) Day 2 panel discussion Vancouver BC: COHERE 2013 conference (video: 4’40” from start)
近年、MOOC がメディアの注目を集めていますが、私は、OER、オープン・テキスト、オープン・リサーチ、オープン・データの発展は MOOCよりもはるかに重要であり、はるかに革命的であると考えています。その理由を以下で述べていきます。
いずれ、ほとんどの学術コンテンツは誰にでも簡単にアクセスでき、インターネットを介して自由に利用できるようになります。これは教員から学生への権力の移転を意味することになるかもしれません。学生は主なコンテンツの提供元として、もはや教員だけに依存しなくなるでしょう。既に一部の学生は、オープン・コースウェア、MOOCs、カーン・アカデミーでの指導の方が、より明確で良質であるため、学んでいる教育機関の授業をすっぽかしています。先進的なアイビーリーグ大学を含んだ最高の講義や教材に対して、世界中のどこからでも無料でアクセスできるのであれば、なぜ中西部の州立大学の二流レベルの教員からコンテンツを入手したいのでしょうか。この教員が学生に提供できる付加価値は何でしょうか。
この質問には適切な答えがありますが、それは学生がどこからでもアクセスできるものにない独自性を含めるため、いかに教員がコンテンツを提示・設計するかについて、慎重に慎重を重ねて検討することを意味します。研究中心の教授の場合には、未発表の最新の研究内容を含めることができるかもしれません。他の教員にとっては、特定のトピックに対する独自の視点であり、さらに他の教員にとっては、他領域との学際的なアプローチを統合して提供するトピックの独自の組み合わせとなるでしょう。ほとんどの学生に受け入れられないのは、より高品質なものがインターネット上の他の場所で簡単に見つけることができる、標準的なコンテンツの再パッケージ化でしょう。
さらに言えば、デジタル時代に必要とされる重要なスキルの1つである知識管理に注目した場合、教員が行うよりも、学生にコンテンツを見つけさせ、分析させ、評価させ、応用させるようにした方が良いかもしれません。他の場所でほとんどのコンテンツを見つけることができるのであれば、学生が通う教育機関に対して求めていることは、どちらかと言えばコンテンツの配信よりも、むしろ学習への支援でしょう。つまり学生をコンテンツが配信されている適切なところへ案内し、概念の理解に苦しんでいるときに学生を助け、学生自身の持つ知識を応用し、スキルを伸ばし練習する機会を提供することです。そして学生が必要な時に関連性のある迅速なフィードバックを与えることも該当するでしょう。何よりも学生が勉強できる豊かな学習環境をつくることを表します。(付録A参照)また、情報伝達から知識管理へ、すなわちコンテンツの選択、構造化、提供から、学習者支援へと変化することを意味します。
したがって、ほとんどの学生にとっては(最先端の研究を行う大学の学生は例外でしょうが)、学習サポートの質は、どこからでも得られるコンテンツの質よりも重要です。これは主にコンテンツの専門家であると考える教員にとって大きな課題です。
小さな学習目標を素材に、5分から1時間の教材のような「モジュール」としての OER が作成され、ますます市場が多様化することで、OER の2つの重要な原則が生まれ始めています。それは、再利用と再構成です。つまり、オープン・アクセス可能なデジタル形式で利用できるコンテンツは、シナリオHのように様々な利用法と統合され、他の OER と組み合わせて単一の教育モジュール、コース、専攻プログラムを作成することができます。
オンタリオ州政府はオンライン・コース開発基金を拠出し、教育機関に対して OER の新たな開発を奨励しています。これにより、いくつかの大学では同じ分野のコンテンツ(例えば統計)を教える異なる学部で働いている学内の教員を集めて、学部間で共有できる中核的な OER を開発しました。考えられる次のステップは、統計に関わるオンタリオ州の教員が集まり、統計のカリキュラムの大部分を教えることができる OER モジュールを統合したセットの開発です。共同開発には次のような利点があります。
OER の範囲と質が向上するにつれて、教員も学生も「ブロックを積みあげるように」OER を利用してカリキュラムを構築することができるようになります。この目的は、教材を作成する教員の時間を削減し(ひょっとすると他人の研究分野にはあまり時間をかけず、自分の研究分野の OER の作成に集中できるようになるかもしれません)、そしてその時間をコンテンツの提供よりも学生の学習を支援することに費やすことにあるでしょう。
オープン教育とデジタル化により、教育機関が提供してきたサービスの塊全体を、教育市場や個々の学習者固有のニーズに応じて、分割して提供することができるようになりました。学習者は、各自のニーズに最も適したモジュールまたはサービスを選択して利用することになるでしょう。これは特に生涯学習者に向いている可能性が高いです。この転換への兆候は既に一部では発生していますが、多くの本当に重要な変化はまだ起こっていません。
これはニューヨーク州立大学の一部であるエンパイア州立大学が既に提供しているサービスです。学業への復帰や転職を考えている成人の学習者は、過去の生活や将来の希望に合わせて、どのようなコースの組み合わせを大学から提供してもらえるかについて、指導を受けることができます。つまり、入学することに関心を持っている学生が、自身の学位を設計できるということです。将来的には一部の教育機関では、全ての学部でこのようなサービスを始める可能性があります。
学生はインターネットで MOOC のような手段を通じて、勉強したいことを既に決めているかもしれません。彼らが求めているものは学習に対する支援です。例えば、課題の書き方、情報を探す場所、提出物と考え方に対するフィードバック等です。彼らは必ずしも単位、学位、その他の資格のために学んでいるわけではありませんが、必要なら評価のために別途支払うでしょう。現在、学生は個人的な指導を受けた場合にその費用を支払っていますが、適切なビジネス・モデルを構築できるのであれば、教育機関がこのサービスを提供することもできるかもしれません。
学習者は、学習や課題をこなす中で、単位認定試験を受けられると感じるかもしれません。彼らは教育機関に評価してもらう機会を欲しています。ウェスタン・ガバナーズ大学やトンプソン・リバーズ大学のオープン・ラーニング部門のような機関では既にこのサービスを提供しています。これは入学前学習に対する単位認定である PLAR(訳注:カナダで行われている生涯教育などでの評価方法の一つ)のような形態を導入している多くの大学にとって、考えうる次のステップとなるでしょう。
学習者は、様々な機関から様々な単位、バッジ、または証明書を取得しているかもしれません。教育機関はこれらの資格と経験を評価し、学習者がさらに必要な学習を支援し、資格を授与します。入学前学習に対する単位認定である PLAR はこの方向へ向かう方法ですが、これは唯一の方法ではありません。
キャンパスに参加できない、または参加したくない学習者にとっては、そのようなコースの費用は、完全にキャンパスで学習する学生よりも低くなります。
この場合、学習者は資格を求めているのではなく、コンテンツへのアクセス、特に知らない知識や最新の知識へのアクセスを望んでいます。MOOCs はその一例ですが、他にも OpenLearn やオープン・テキストがあります。
これは、フルタイムのキャンパス型の学生が現在受けている「伝統的な」統合パッケージです。ただし、これは完全にコストがかかるため、細分化された他のどんなサービスよりもはるかに高価です。
私はこれらのサービスを、特定の資金調達モデルと関連付けないように注意してきたことを知っておいてください。これは意図的です。なぜなら次のような可能性があるからです。
資金調達モデルがどうであれ、教育機関は様々なサービスに対して、正確に価格を設定することができる必要があるでしょう。
いずれにせよ、フルタイムの教育を希望する高校生、研究を希望する大学院生、そして公的資金による高等教育システムを既に通過している生涯学習者と、学習者のニーズは多様化しており、職業上、または個人的な理由から学習し続けたいと考えています。このように多様化するニーズに対して、デジタル時代の教育の機会を提供するためには、より柔軟なアプローチが必要です。無料のオープン・コンテンツへのアクセスのしやすさと結びついたサービスの分離と新しい資金調達モデルは、この柔軟性を発揮できる方法の一つです。この問題に関する別の見解については、Carey (2015) や Large (2015) を参照してください。
高品質なオープン・コンテンツの利用可能性の増加は、教員による情報伝達から、学習者による知識管理への移行を促進する可能性があります。またデジタル時代においては、コンテンツを暗記することよりも、科目内に埋め込まれているスキルの習得に、一層焦点を当てる必要があります。
OER の利用で、以下のような様々な方法でのスキルの習得が可能になるかもしれません。
このような技術の進化により、講義ベースの教育を大幅に削減し、より多くのプロジェクト学習、問題解決型学習、協働学習への動きにつながる可能性があります。また、決まった時間と場所での筆記試験から、より継続的なポートフォリオ型の評価へと移行するでしょう。
明確に定義された学習成果に焦点を当てた、強力な学習設計の枠組みの中で、特にスキルの習得に関しての教員の役割は、学習者がコンテンツをどこでどのように見つけるか、コンテンツの関連性と信頼性を評価する方法、どのコンテンツが中心的で、どのコンテンツが周辺的であるかについて指針を与えること、そして情報の分析、応用、提示の際の支援へと変わっていくでしょう。
学生は主にオンラインで、マルチメディア形式の学習成果物やデモンストレーションを開発し、作業のオンライン・ポートフォリオを管理し、編集しながら、評価のために選んだ成果物の提示を協働作業で行います。
鳴り物入りの派手な宣伝だったにも関わらず、MOOCs は、望んだ教育への十分な接続ができない学習者に高品質の資格を提供することに関しては、本質的には行き止まりの状態です。教育への主な障害は、安価なコンテンツの不足ではなく、資格認定につながる専攻プログラムへのアクセスの欠如です。その原因は、プログラムが高すぎる、または十分な資格のある教員がいない、あるいはその両方です。二次利用のために適切に設計されているのであれば、コンテンツを無料にすることは時間の無駄にはなりませんが、それを学習の枠組みに適切に統合するには、まだ多くの時間と労力が必要です。
OER はオンライン教育において本当に重要な役割を果たしています。しかし OER は学習者と教員の相互作用の機会など、学習をサポートするために必要な重要な活動を含む、より広範囲な学習上の文脈に当てはまるように、そして平等に参加する事業や、共有を促進しながらお互いにサポートし合うという背景のような、共有の文化に当てはまるよう設計・開発する必要があります。OER を教育の万能薬と見なすことは有害です。OER を役立つものにするには、スキルと真剣な努力が必要です。
オープンで柔軟な学習と、遠隔教育と、オンライン学習は、それぞれ異なるものを意味しますが、共通する一つのものは、従来のキャンパス型でのプログラムを受けられない人や、受けないことを選んだ人のために、質の高い教育や研修の代替手段を提供する試みであるという点です。
最後に、教材を無料にするために克服できない法的、技術的な障壁はありません。ただし OER の利用を成功させるには、著作権者(教材の作成者)と利用者(この教材を教育で利用する可能性がある教員)の間で、特別な考え方が必要となります。つまり文化的に変化することが今後の主な障壁になるでしょう。
結局のところ、豊富な資金が投入される公立の高等教育システムは、依然として大多数の人々に高等教育を受けられるようにするための最善の方法です。そうは言っても、このシステムには改善の余地が大いにあります。オープン・エデュケーションとそのためのツールは、非常に重要な改善を促す、最も有望な方法を提供します。
ここまでの話は今後、コンテンツや素材を「オープン」にしていくことで、私たちの教え方と学生の学び方が劇的に変わる可能性があるということについての私の解釈に過ぎません。この章の冒頭には私が作成したシナリオがあります。これは、ある1つのプログラムでこれらがどのように進んでいくかを示しています。
さらに重要なことですが、未来のシナリオは1つだけではなく、数多くあります。未来は多くの要因によって決定され、その多くは教員の制御が及ばない類のものです。しかし私たちが教員として持っている最も強い武器は、私たち自身の想像力とビジョンです。オープン・コンテンツとオープン・ラーニングは教育を通じて生み出される、平等と機会という特別な考え方を反映したものです。私たちが教員として、そしてさらに多くの人が学習者として、この考え方を採用するかどうかを決めることができる多様な方法があります。しかし、テクノロジーは現在、この決定を下す際に、より多くの選択肢を提案しています。つまり、アクセスと教育の機会を拡大することを目的とした、より多くのシナリオの見通しがあります。
Carey, K. (2015) The End of College New York: Riverhead Books
Large, L. (2015) Rebundling College Inside Higher Ed, April 7
シナリオGを読んでください。OER を積極的に取り入れ、様々な配信方法を活用した、あなた自身のコースや専攻プログラムの将来のシナリオを構築できますか。例えば、教員養成ワークショップを通じて、他の教員、教育デザイナー、Webプロデューサーなどと一緒に行うことができれば、これはより簡単で効果的になるでしょう。
この章を読み終わり、これまでの章で扱ったことと結びつけることで、以下のことができるようになります。
加えて、この章には以下のアクティビティーが含まれています。
本書のこれまでの章を読み進めてきていれば、哲学的、実証的、科学技術、管理運営など、デジタル時代に学ぶ学習者のニーズにかかわる事柄についての話題に触れてきたことが分かるでしょう。いよいよこれらの情報をひとつにまとめて、日常の指導場面に活かせる実用的な段階へと進む時がやってきました。
本章の目的はデジタル時代の指導において、教員が使える実用的な運用基準を提供することです。そのためにはこれまでの章で扱われてきた全てのことが必要になってきます。具体的な話に入る前に、まずは指導や学習における「クオリティー」の意味についてはっきりさせておきましょう。なぜなら私は「クオリティー」を特殊な用語として用いているからです。
教育において「クオリティー」という用語ほど、議論や論争を巻き起こすものはおそらくないでしょう。このトピックは多くの本で扱われていますが、それらはさておき、まずは私なりの定義をしたいと思います。本書ではクオリティーを以下のように定義します。
デジタル時代に学習者に必要となる、知識やスキルを身につける手助けができる指導法
これはクオリティーとは何かという問いに対する簡潔な答えですが、もう少し詳しく述べると、クオリティーとは少なくとも以下のそれぞれについて検討することです。
これらのポイントを理解した上で、以下ではクオリティーの高い指導を行うための私なりの提案をしていきます。
多くの行政機関は、教育機関が適切に認可され、かつ教育機関が授与する資格が妥当で「質の高いもの」であることを保証することで、教育市場における消費者を守っています。しかし教育機関の認可方法や、授与される学位の認可方法は様々です。また、アメリカとそれ以外の国でも大きく違います。
アメリカ教育省の教育工学ネットワークは「適格認定および質保証」 について以下のように述べています。
適格認定とは、アメリカの教育機関で行われているもので、学校、中等教育以降の機関、その他の教育を提供する機関が、学業、管理運営、その他のサービスにおいて、最低限の質と正確さを満たし、維持しているかどうかを確認するためのプロセスです。このプロセスは学校自治の原則のもと、自主的に行われています。学校、中等教育後の機関や、機関内のプログラム(学部)が適格認定に参加します。認定を行う団体は、教育機関と特定の分野の専門家で構成されており、参加資格の基準と、認定プロセスを実施するための手順を確立します。
連邦政府も州政府も、教育機関や学部が正当性を持つ組織であることの保証を、適格認定によって承認します。国際的に言えば、資格を持った専門家が行う認定は、各国の政府が国内の教育システム所属機関に対して行う適格認定と同等のものであると解釈されています。
つまりアメリカでは、適格認定を行う団体が独立して効率的に適格認定および質保証を管理統制しています。一方、政府は「強制力のある武器」を持っており、教育省が基準に達していないと判断した場合には、当該教育機関への運営交付金を打ち切るなどの手段を取ることができます。
多くの国では、政府が教育機関を認定し、学位の授与を許可する最終権限を持っています。カナダやイギリスなどの国では、政府が任命した、政府とは一定の距離を保った団体が認定します。しかしこれらの団体を構成するメンバーは主に教育システムの内部にいる人たちです。このような団体には様々な名称がありますが、学位質保証機構(Degree Quality Assurance Board)などが典型的です。
近年ではイギリスの高等教育機関質保証団体(Quality Assurance Agency for Higher Education)のように、産業界での業務に基づいて公的な質保証を行う団体も現れてきました。イギリスの高等教育機関質保証団体によるQAA「高等教育機関におけるクオリティー・コード」は質保証団体が大学に求める指針のようなもので、数百ページにも及びます。B3章の「学習と指導」は25ページから構成されており、質に関する7つの指標を示しています。そのうちの指標4は典型的なものです。
高等教育を提供する機関では、教育や学生に対する学習支援に携わる者は適切な資格を有しており、またそれらの者をサポートし能力を発達させるようにしなければならない。
こうした外部団体からの圧力により、多くの教育機関は通常の認定プロセス以上に厳しい手続きによる質保証を行うようになってきています。(分かりやすい代表例は Clarke-Okah et al., 2014を参照)。
やはり教育機関の内部において、質の高いプログラムを保証することは特に重要です。しかし、この質保証のプロセスは少なくとも大学においてはかなり標準化されていますが、上で述べたように機関によって異なります。新しい学位を設置するための提案は通常、学科内の教員が行います。この提案は、学科や学部で議論した上で修正・承認され、最終的に理事会で承認されます。人事など新しいリソースが必要なときには、通常は学長室が関わります。
一般化し過ぎかもしれませんが、このような提案には誰がコースを教えるか、教える者にはどのような資格が必要か、プログラム内で網羅するべき内容(通常は科目一覧とそれぞれの概要)、課題図書一覧などの情報が含まれており、通常は学生の成績評価基準も含んでいます。最近では当該プログラムを受講することによって得られる、一般的な学習成果についての情報も含まれるようになってきています。
プログラムの一部の科目、または全てがオンラインで提供される場合、その提案は機関内部で綿密に精査されます。しかしこれらの提案には、どのような指導法で教えるかという情報が含まれることはあまりありません。通常、指導法は教員個々の責任であると考えられるからです。本章では、指導法の効果や、デジタル時代に求められる知識やスキルを発達させる学習環境など、質の中でも軽視されがちな側面を扱います。
伝統的な教室環境における指導には、質を担保するための運用基準がたくさん存在しています。おそらく最も有名なのは、優れた教育実践に関する過去50年の研究を分析した Chickering and Gamson (1987) によるものでしょう。彼らは学部教育における優れた実践とは、以下のようなものであると述べています。
オンライン学習は新しく、その質に関して様々な関心が寄せられたことから、優れた実践やオンラインのプログラムのために作られた質保証のための基準など、様々な運用基準が存在しています。これらの基準や手順は、過去のオンライン・プログラムにおける成功事例、オンライン教育や学習における優れた実践事例、研究や評価などに基づいています。「オンライン学習における質保証の基準や組織、研究」については付録Cを参照してください。
Jung and Latchem (2012) は、世界中のオンライン教育あるいは遠隔教育を行なっている多くの機関における質保証のプロセスを概観した上で、教育機関は以下のことを行うことが重要だと指摘しています。
オンライン学習において、質を保証することは簡単なことではありません。お役所仕事のように上から押し付ける必要はありませんが、基準に達しない時、教員や機関を監視しておくための仕組みを確立しておく必要があります。また、オンラインだけでなくキャンパスで行う教育も監視しておくべきでしょう。既に認可されている質の高い機関では、キャンパスで行う学習にオンライン学習を組み入れたハイブリッド型学習へと移行しつつあります。ですからオンライン学習における質の確立はますます重要になってきているのです。
対面でもオンラインでも、教育において質を保証するための、証拠に基づいた運用基準が数多くあります。大切なのは教員がこのような優れた実践について知っていること、そして機関が質を保証するための運用基準を実施し、守っているかどうかを検証することです。
質保証の手法はそれを行う団体にとって価値があるものです。中には悪質な教育提供団体や、オンライン教育を使い、基準を満たさず、資金を節約しようとしている教育機関(例えば経験のない助手を雇い、あり得ないぐらいの教員・学生比率で指導させるなど)もあります。質保証の手法を利用すれば、テクノロジーを利用した指導に馴染みがなく、使い方に苦労している教員に、優れた教育実践のモデルを提供することができます。既に評判の高い州立大学などであれば、対面授業で用いている質保証のための手法を、配信手段の違いに合わせて微調整することで、オンラインでの専攻プログラムにも利用できるはずです。
多くの質保証のプロセスはアウトプット、つまり学生が何を学んだかではなく、入口、つまりインプットに重点をおいて行われます。具体的には教員の学術的な資格、明確な学習目標、システムに基づいたコース・デザインの手法(例えばADDIE)など、効果的な指導のために用いられるプロセスに焦点を当てています。しかし質保証のプロセスでは振り返りも大切とされる場合が多く、過去の優れた取り組みにも注目します。
この点は特に、新しい指導法を評価する際に重要になってきます。Butcher and Hoosen (2014) は次のように述べています。
従来のような高等教育機関とは異なり、新しい教育機関において質保証をするのは簡単ではありません。というのも、伝統的な質保証の手法は、厳密に構造化された枠組みの中で教育と学習を評価するよう設計されているのに対して、新しい教育機関に対する質保証では、開放的であることと柔軟であることが評価の際に重視されるからです。
一方で Butcher and Hoosen (2014) は次のように述べています。
質に関する基本的な判断は、教育が従来からの方法で行われているか、それとも新しい方法で行われているかに左右されてはいけません。開放性が大きくなったとしても、教育機関の質保証には大きな変化は起きません。質の高い高等機関の原則は変わっていないからです。質の高い遠隔教育は、質の高い教育の部分集合であり、遠隔教育は一般的に教育に対して行われる質保証のシステムによって評価されなければいけません。
しかし、このような議論はデジタル時代の教育に対して疑問も投げかけています。デジタル時代における学習成果は自主的な学習、ソーシャル・メディアをコミュニケーションのために利用する能力や、知識管理といったスキルの発達を含んでいるからです。かつてはこのようなスキルは明示的に述べられることはありませんでした。通常、質保証のプロセスは、特定の学習成果にだけ結びつけて行うのではなく、より一般的な目標達成度を基準とした測定を行います。例えばコースの修了率、学位取得までの時間、過去の学習目標に基づいた成績評価などです。
第8章・第9章・第10章でも見てきたように、教育のための新しいメディアや方法は出てきたばかりであり、優れた実践として分析するにはまだ早すぎます。過去の実践に基づいてあまりにも厳格な質保証を行なってしまうと、教育におけるイノベーションや、新しく生まれつつある学習のニーズに合わせることが、否定的に捉えられてしまう恐れもあります。時には「優れた実践」に対しても疑問を呈し、新しい手法を試しつつ評価してみることも必要かもしれません。
教育機関の適格認定、機関内部におけるプログラムの認可と再検討、一定の形式による質保証のプロセスは、特に外部への説明責任という意味で言えば重要ではありますが、教育や学習における質の本質を突いているとは言えません。それらはむしろ特別な公式行事における儀式的儀礼のようなものです。宮殿の前で行われる衛兵交代は、大統領や王室に対する反乱や侵略、テロなどへの実質的な防御というよりも、儀式的な意味合いを持っています。セレモニーや儀式と同じぐらい国家のアイデンティティーも重要です。強い国家は深い絆で結ばれているからです。同様に、効率的な学校や大学は、教育や学習を規制する管理プロセスだけで終わるようなものであってはなりません。
最悪なのは、管理プロセスがうまくいっているかどうかを確認するためだけに、質問紙に大量の項目を設けて、それにチェックをさせるだけのような質管理です。これではテクノロジーの利用によって、学生が効果的に、より多くのことを学んでいるかどうかを調査していないからです。本来、教育や学習は人間が行う活動なので、うまくいくためには教員と学習者の間に強い結びつきが必要な場合が多いでしょう。学習には感情や動機づけといった重要な側面があり、「良い」教員は、これらを活用しながら舵取りができるのです。
教育にテクノロジーを利用する上で多くの教員が心配していることの一つは、テクノロジーを使うことによって、教員と学生の間に感情的なつながりを築くことは難しくなる、あるいはできなくなるのではないかということです。このようなつながりがないと、困難に直面している学習者の手助けをしたり、学習者の学問に対する熱意を高めたり、より高度な理解に導くといったことができません。しかし今やテクノロジーは十分に柔軟で力強いものになっているので、適切に管理すれば、教員と学習者の間だけではなく、たとえ実際には会ったことがなかったとしても、学習者同士でのつながりを築くことができます。
これまで見てきたように、教育の質について考えるときには、このような感情面についても認識し、配慮する必要があります。行動主義に基づくテクノロジーの利用や質保証においては、この側面は見逃されがちです。さて、ここからは専門用語を用いて、優れた実践についての検討を重ねることに加えて、特にテクノロジーを利用した学習環境において人間がかかわる側面についても見ていきましょう。
ここまでの話をまとめると、以下のそれぞれがデジタル時代に適合する教育と学習のクオリティーを保証します。
キャンパスで教育を行なっていた機関がハイブリッド型あるいはオンライン教育に移行する際に、どのようなことを行なっているかにもっと注目する必要があるでしょう。こうした機関では優れた実践を参考にしているのでしょうか。それとも教室とオンライン学習の双方の強みを活かした、革新的でより良い指導法を開発しているのでしょうか。xMOOCsの設計や、アメリカでオンライン学習を導入した短大における高い中退率をみる限りでは、どうもそうではないように見えます。
学習者にとってデジタル時代に必要な知識やスキルを育成することが目標であるならば、「基準」にしたがってクオリティーを評価する必要があります。また同時に教育において一般的に優れているとされる実践についての知識も活用する必要があるでしょう。この章で扱うデジタル時代におけるクオリティーの高い教育への提案は、この「目的に適合させる」という原則に基づいています。
1. 以下の現状についてどう思いますか。
現在行われているこれらのプロセスは教育や学習における質を保証していますか。保証していないとしたらなぜですか。
Butcher, N. and Wilson-Strydom, M. (2013) A Guide to Quality in Online Learning Dallas TX: Academic Partnerships
Butcher, N. and Hoosen, S. (2014) A Guide to Quality in Post-traditional Online Higher Education Dallas TX: Academic Partnerships
Chickering, A., and Gamson, Z. (1987) ‘Seven Principles for Good Practice in Undergraduate Education’ AAHE Bulletin, March 1987.
Clarke-Okah, W. et al. (2014) The Commonwealth of Learning Review and Improvement Model for Higher Education Institutions Vancouver BC: Commonwealth of Learning
Graham, C. et al. (2001) Seven Principles of Effective Teaching: A Practical Lens for Evaluating Online Courses The Technology Source, March/April
Jung, I. and Latchem, C. (2012) Quality Assurance and Accreditation in Distance Education and e-Learning New York/London: Routledge
MEXT (2009) Quality Assurance Framework of Higher Education in Japan. Tokyo: MEXT
前のセクションでは、多くの素晴らしい質保証の基準、認定団体、オンラインで入手できる質保証に関する論文 が既に存在することを指摘したので、もう繰り返しません。ここではこれらの基準を実行するための実践的な一連のステップについて提案しましょう。
既に通常の教育機関では新規に設置される専攻プログラムを承認するために、基準にしたがって行う質保証のプロセスを取り入れていることでしょう。しかし計画の最終案を提案する前に、以下の9つのステップを検討してみる価値もあるのではないでしょうか。私の提案するステップは既存のコースを設計し直す時にも利用できます。
完全オンライン・コースを開発するために用いられる「標準的」な質保証のプロセスでは、例えば ADDIE モデル(セクション4.3参照)のような手法に基づいて、体系的にコースを設計します。Puzziferro and Shelton (2008) は良い事例です。しかしこの9つのステップは、いわゆる「標準的」な手法とは異なります。このことを理解してもらうために、ADDIE モデルはステップ6あたりまでは扱いません。
変わりやすく不確実で、複雑かつ曖昧なデジタル時代において、体系的なアプローチには限界があるということは既に指摘しました。(セクション4.7) いずれにせよ私たちには完全オンライン・コースだけではなく、対面、ブレンド型、ハイブリッド型のコースやプログラムにも利用できるプロセスが必要なのです。そこで私が目指しているのは、様々な配信方法に対応できる、より柔軟でありながらも依然として体系的かつクオリティーの高いコースを設計するためのアプローチです。また、コースで行われている実際の教育を観察するだけでは十分ではなく、学習が行われる完全な学習環境の構築についても検討していく必要があります。(付録A参照)
クオリティーの高い枠組みを提供するための9つのステップを以下に示します。これらのステップは順番に行われることもありますが、同時に行われることの方が多いでしょう。ですが、順番には一貫性があります。
これらのステップの中では、今まで本書で触れてきた内容についても扱います。
Puzziferro, M., & Shelton, K. (2008). A model for developing high-quality online courses: Integrating a systems approach with learning theory Journal of Asynchronous Learning Networks, Vol. 12, Nos. 3-4
このステップは9つのうちで最も重要で教員にとって取り組みがいのあるステップです。なぜかと言うと、今まで長い間築き上げてきた行動パターンを変えることになるかもしれないからです。
この質問はあなたの基本的な教育理念を考えさせるものです。教員としてのあなたの役割は何でしょうか。知識は有限で、明確なものであり、あなたはその分野における専門家で、学生よりも多くのことを知っており、だからこそ教員としての仕事は学生にその情報をできる限り効果的に伝えることだ、と客観主義的に考えているのでしょうか。それとも学習とは個人個人の能力を開花させることであり、学生が情報や知識に対して疑問を持ち、分析し、応用する能力を獲得する手助けをあなたが行うということなのでしょうか。
あなたは学習の案内役や進行役なのでしょうか。進行役としての役目を果たしたいと思っていても、200人が受講する授業を教えなければいけない場合、結局は一方通行の講義スタイルを採用しなければいけないのでしょうか。あるいは案内役と進行役を組み合わせるのが良いと考えていても、時間割やカリキュラムの都合上、実施できないといったこともあるかもしれません。
第2章・第3章・第4章では全体的な理念という観点から、教え方を決める際に参照できる選択肢をいくつか提示しました。
別の方法として、現在教えているコースについて、どこが好きではないかを考えることから始めてみても良いでしょう。扱う内容は多すぎませんか。学生に内容を発見、分析、応用させ、問題を解決させたり調査させたりといった、別の方法ではできませんか。もう少しスキルに焦点を当てることはできませんか。もしできるとしたら、これらのスキルを実践できるようにするために、どのような活動をさせるのが適切でしょうか。学生は自分たちだけでどれだけのことができるでしょうか。それ次第であなたへの負担も大きく変わってきます。
ある学生が悪戦苦闘している一方で、他の学生たちは辛抱強く待っているなど、教室内の学力格差は多様ではないですか。どのようにすれば個々に対応した教え方ができ、コースを受講している様々なレベルの学生全員が成功するように導くことができるでしょうか。苦労している学生が課題に時間をかけている間、先にできている学生はより発展的なタスクを行えるように授業を構成することができるでしょうか。
ひょっとすると受講者数が多すぎて、ディスカッションや批判的思考を伴う活動を十分に行えていないのかもしれません。テクノロジーを利用して学生たちが少人数グループで学習するよう授業を再構成し、ディスカッションを監視したり誘導したりすることは可能でしょうか。内容の理解など、学生自身で行える程度の小さなステップに分割し、学生が教室に来た時には学生とのディスカッションや批判的思考を行うようにすることはできるでしょうか。
例えば、内容の多くをオンラインに移行すれば、グループの大きさや、授業形態(教室・オンライン)にかかわらず、学生とやり取りをするための時間を確保できるかもしれません。大教室で行う講義の数を減らすこともできます。教員の中には200人もの履修者がいる講義を10個のグループに分割し、講義内容の多くをオンラインに移行した上で、それぞれのグループと最低1週間、オンラインでのディスカッション、交流、グループ活動などに充てるようにしている人もいます。こうすることで、より多くの交流を全ての学生と行うことができるからです。
状況は異なりますが、実験や設備の準備に時間がかかる、あるいは学生が実際に体験する時間が十分に取れないといった理由で、実験室や作業場で行えることには限界があると感じていませんか。学生が予習の多くをオンラインで行い、実験室や作業場では学生は実際の作業に集中できるよう、授業を再構成することができるでしょうか。例えば実験室や作業場で学習したことを後日、オンラインのeポートフォリオを利用して報告させるというのはどうでしょうか。実験室で必要な時間を減らすために、ビデオやシミュレーションなど良質のオープン教育リソースを探すことはできないでしょうか。あるいはデモ動画を作成し、潜在的な重要性について学生と話し合う時間を多く確保できないでしょうか。
あるいは回答しなければいけない学生からの質問、採点しなければいけない課題があまりにも多いことで、授業の負担が過度になってはいませんか。簡単に負担を減らすにはどうすれば良いのでしょうか。学生同士で活動し、助け合うことはできるでしょうか。もしできるのであれば、どのようにグループを作りますか。学生が行うプロジェクト型の活動を増やし、授業内活動に関する eポートフォリオを、時間をかけて構築していくという形の課題に変更できないでしょうか。そうすれば学生の進捗状況を観察しながら、同時に成績評価を記録していくことができるかもしれません。
新たなテクノロジーの利用や授業での配信方法を考えることで、あなたの教え方を考え直す機会を得ることができます。そして教室内での指導における限界に向き合い、教え方を更新することができるでしょう。どのように教えたいかについて再考する際には、どのようにすればコースの学習環境を豊かなものにできるかについて考えるのも良いでしょう。 (付録A参照)
テクノロジーの利用や、一部あるいは全てのコンテンツのオンラインへの移行で、学期中に週3回ずつ毎週予定通り行われる講義という形式では無理だったかもしれないことができるようになるでしょう。(セクション4.1)これは全てをオンラインに移行するという意味ではなく、キャンパスでの経験はそこでしかできないことに特化するという意味です。あるいは、カリキュラム自体を考え直してオンライン学習の利点を活かし、学生自身に情報の発見や分析、そして応用させることもできるかもしれません。
新しいコースについて考えたり、満足していないコースをデザインし直したりするのであれば、コースや専攻プログラムが始まる前にどのように教えたいか、そして、そのコースをこれまでとは異なる学習環境の中に組み込むことができるかどうかを考えてみると良いでしょう。すぐに決断しなければいけないわけではなりません。9つのステップに沿って考えていくうちに決断しやすくなってくるでしょう。大切なのは、これまでとは異なるやり方に心を開くことです。
第4章、第9章、第10章ではここで見てきた質問のうちのいくつかに対する回答となる可能性がある、様々な教え方を提案しています。
1つだけ確かなことがあります。単に講義ノートを Web 上にあげたり、ダウンロードできるよう50分の講義を録画したりといったようなことをしただけでは、間違いなく対面授業よりも学生の達成率は下がり、成績も悪くなるということです。なぜこのことを指摘したかというと、対面で授業を行う教員は、講義を録画して学生が家でダウンロードできるようにしたり、Web 会議システムを利用してインターネットで講義をライブ配信したりといった、教室での教え方をそのままオンラインに持ってくるようなことをしてしまいがちだからです。このようなやり方では良い結果にならないという証拠はたくさんあります。(例えば Figlio, Rush and Yin, 2010など。)
講義をただそのままオンラインに移行してしまうことの問題は、オンラインの学生が必要とする大事なもの、つまり柔軟性を考慮に入れていないからです。学生がオンラインで学習している時のニーズは、教室内で学習している時のニーズとは異なります。教員が対応できる「オフィスアワー」を特定の時間に制限してしまうと、学生がオンラインで活動している時に必要な柔軟性を提供することができません。また、オンライン学習では学生は時間を細かく区切って学習する傾向にあり、休憩せずに1時間以上の学習をすることは滅多にありません。ですからオンライン学習では「区切り」を意識し、扱いやすい長さに分割する必要があります。オンラインの他の学生と同期した Web 放送を定期的に設定するのも良いでしょう。重要なことは、オンライン学習には1時間の講義よりも優れた学習に結びつく内容や情報を伝える方法があるという点です。
結局のところ、学生が用いることになる学習形態に最も合致した方法で、教え方を「デザイン」することが一番大事なのです。幸いなことに、教室やオンラインでの指導において重要になるデザインの原理を明確にしている経験や研究は数多くあります。次に紹介する8つのステップがまさにそうです。
テクノロジーと新たな配信方法は、教えるプロセスをゼロから考え直す素晴らしい機会を与えてくれます。当該分野における専門知識を持っている教員は、多くのユニークで刺激的な方法を用いて教え方を見つけ、行なっている研究と教育を統合させることができます。今や時間やお金が問題なのではなく、想像力の欠如が問題なのです。想像力さえあれば、今まで思いつくこともなかった教え方に向かって飛び立つことができるでしょう。
1. あなたの教育理念を書き出してみましょう。制約さえなければ、あなたは科目をどのように教えたいですか。
2. いま教室で教えていて直面している主な問題は何ですか。
3. 考えてみましょう。コースをオンラインに移動することで、あなたの教育理念に合致する新しい方法で教えることができるでしょうか。アクセスの柔軟性が高まり、インターネットを介して利用できる素材もあります。どんな教え方になりそうですか。
Figlio, D., Rush, N. and Yin, L. (2010) Is it Live or is it Internet? Experimental Estimates of the Effects of Online Instruction on Student Learning Cambridge MA: National Bureau of Economic Research
コースをどのように教えたいか考えた後は、当然ながら次のステップとして、対面とオンラインの指導をどのように組み合わせたコースにするか決めることになります。このトピックについては第9章で詳しく触れましたが。要約すると、コースにおいてどのように対面とオンライン学習を「組み合わせ」れば最善かを決める際には、4つの要素や変数を考える必要があります。
決めるためには、これら全ての要素の分析が欠かせませんが、最終的にはこれらを考慮に入れた上で自分の直感に従えば良いでしょう。これはプログラムを全体として捉える時には特に重要になります。
特定のコースにおいて、どの組み合わせが最善かを決めるのは完全に個々の教員に違いありませんが、それぞれのコースを基準にして考えるよりも、プログラム全体で考えてみる価値もあるでしょう。例えば、あるプログラムにおける最終的な到達目標が、学生たちが自律的に学習スキルを身につけるということだったとします。その場合、1年目は対面授業で始めて、徐々にオンライン学習へと導き、4年間の学士課程の終わりにはいくつかのコースを完全オンラインで受講することを可能にし、学生が自ら進んで受講するようにすると良いでしょう。
今となってはどのプログラムでも、網羅すべき内容やスキル、カリキュラムを決めるだけではなく、どのようにプログラムを配信するかについて決める組織が必要でしょう。そしてプログラムを見通して、対面とオンライン指導の組み合わせのバランスを考えなければいけません。このように、教育方法とプログラムで扱う内容に関して、全学的な計画を立てるプロセスを1年に1度は実施するべきでしょう。 (Bates and Sangrà, 2011参照)
Bates, A. and Sangrà, A. (2011) Managing Technology in Higher Education San Francisco: Jossey-Bass/John Wiley and Co
質を保証するための強力な手段の1つはチームで作業することです。このことについてはセクション8.7、 セクション9.4、セクション12.3、セクション12.5で触れています。
多くの教員にとっての教室での指導は、教員と学生の間での個人的な、そして大部分において他人からは干渉されない活動です。教えることは個人的な活動です。しかしブレンド型、中でも完全オンライン型の学習は、教室内で教えることとは違います。オンライン型の学習においては、教員、特にオンラインを用いた教育を始めたばかりの人にはない、少なくとも完成してすぐに使える形としては持ちあわせてはいない、幅広いスキルが必要になります。
教員が行うオンラインでの交流は教室内でのものとは異なった形で行わなければなりません。特に、学生に対して適切なオンライン活動を提供し、非同期のオンライン環境で学習が促進できるような方法でコンテンツを構成することに注意しておく必要があります。デジタル時代に必要な知識やスキルを育成するという観点において、クオリティーを高めるためには、良いコース設計が必要不可欠です。これは教育学的な問題であり、大学教員が研修を受けることはほとんどありません。また、テクノロジーに関する問題でもあります。例えば、経験のない教員は、グラフィックや動画を作成するときに誰かの手助けが必要になるでしょう。
チームで作業をするもう1つの理由は、負担を適切に管理するということです。通常、教室で教える教員にとっては必要ありませんが、テクノロジーを用いた様々な活動があります。テクノロジーを使いこなすだけでも、教員が一人でやらなければいけないのであれば、それは余分な仕事になってしまいます。また、あるコースにおいて、オンライン授業の設計に問題があって対面授業とうまく噛み合っていないとき、学生が何をすれば良いか分からないとき、教材が理解しにくい方法で提示されているときなどには、学生から届く問い合わせのメールに忙殺されてしまうことでしょう。コース設計とテクノロジーに関する研修を受けたインストラクショナル・デザイナーがそれぞれのコースで活動することができれば、はじめてオンラインで教える教員にとっては大きな助けとなるでしょう。
また、同じ学科でオンライン学習の経験がある同僚と一緒に作業することができれば、時間をかけずに高いクオリティーに達することができ、時間も節約できるでしょう。例えば私が働いていたある大学では、同じ学科の3人の教員がそれぞれ別のコースでオンラインの素材を利用して授業を作っていました。しかし3つのコースで同じ装置の画像が必要になるということが頻繁にありました。そこで3人の教員が集まってグラフィック・デザイナーと一緒に、クオリティーの高いグラフィックを作成して共有することにしました。共有することによりコースに重複がないか、そしてどのように3つのコースをうまく統合し、一貫性を保つかという議論にもなりました。このような共有は教室よりもオンラインのコースで行う方が簡単です。なぜならオンラインの教材では簡単に共有や観察ができるからです。
最後に、大規模の講義を設計し直すときには、ティーチング・アシスタント (TA) たちの研修や編成、管理が必要になってくるかもしれません。非常勤教員が関与する場合もあるでしょう。このように多くの人が関わる場合には、専任教員、非常勤教員、契約教員、TA、学習テクノロジーのサポート・スタッフなど、それぞれの役割を明確にしておかなければいけません。
多くの教員にとって、チームで作業をするということは、今までとは異なる文化を体験するようなものです。ですが、オンラインやブレンド型学習において、このような作業を行うメリットを考えれば、試してみるだけの価値はあります。教員がこのようなテクノロジーを用いた教育様式に慣れてくれば、インストラクショナル・デザイナーの助けを借りる必要もなくなってくるでしょう。しかしチームで作業をする方が効率的なので、経験のある教員であったとしても、チームで作業をすることを好む人もたくさんいます。
これはコースの規模にもよります。教員1名あるいはその分野の専門家、そして適正人数程度の学生がいるブレンド型あるいはオンラインのコースにおいて、多くの場合、インストラクショナル・デザイナー1名と一緒に作業をします。必要であれば Web デザイナーやグラフィック・デザイナー、あるいはメディア・プロデューサーとも作業をします。
もしもコースを複数の教員(非常勤教員や TA も含む)が担当し、多くの学生がいる場合には、全員がインストラクショナル・デザイナーと一緒にチームとして作業する必要があるでしょう。また図書館員を重要なメンバーとしてチームに加える場合もあります。図書館員は素材を探す、著作権処理の問題を扱う、そしてコースが開講されている間、学習者のニーズに応える場所として図書館を提供するといった面で手助けしてくれます。
そんなことはありません。教員は常に内容や教え方について最終的な決定権を持っています。インストラクショナル・デザイナーはあくまでもアドバイザーであり、コースのコンテンツ、教え方、評価方法などの責任は教員が持たなければいけません。
かといってこれらの人を利用人のようにこき使ってはいけません。むしろ特殊な技能を持った専門家なのです。ですから意見には敬意を持って耳を傾ける必要があります。インストラクショナル・デザイナーはブレンド型あるいはオンライン学習において、何がうまく行き、何がうまく行かないかということに関しては、より多くの経験を持っていることもあります。外科医は麻酔医、看護師と共同作業をしますが、業務を適切に行なってくれることを信じています。教員とインストラクショナル・デザイナーやメディア・プロデューサーとの関係も同じであるべきです。
ブレンド型あるいはオンラインのコースにおいて、チームで作業をするメリットはたくさんあります。通常はインストラクショナル・デザイナーの専門分野ですが、上手にコースが設計されていれば、学習者がより良く学ぶことを可能にするだけではなく、教員の負担を調整してくれることにもつながります。グラフィックや Web デザイン、専門性の高い動画などがあれば見栄えもよくなるでしょう。専門家からテクノロジーに関するサポートをしてもらうことで、教員は教えることに集中できるのです。これでもまだチームで作業することを嫌う理由はありますか。
もちろんそれぞれの機関において、このようなサポートが教育・学習センターで、どのように提供されているかは異なります。しかしコース設計を始める前に考えておかなければいけない重要なポイントだと言えるでしょう。
既存のリソースを活用することの重要さは、第7章や第10章を中心に、本書の中で繰り返し主張してきました。
教員にとって時間管理は大切です。教室内で用いる教材をオンラインで動作する形に変換するには多くの時間がかかりますし、作業負担を本当に増やしてしまいます。例えばコメントのないパワーポイントのスライドしかなければ、重要な内容やニュアンス、強調するポイントなどを網羅できなかったりすることがよくあります。そのような場合、講義録画システムで録画する、あるいは記録したコメントを後日スライドに追加するといった作業をしなければいけないかもしれません。講義ノートをPDFファイルに変換して学習管理システムにアップロードをするのにはとても時間がかかります。しかし、このようなやり方は時間管理や教育上の理由からも、オンライン教材を作成するための最善の方法とは言えません。
ステップ1では、教育を再考することを推奨しましたが、それは単に録音・録画した講義や、教室で使ったパワーポイントのスライドをオンラインに移行するという意味ではありません。むしろ学生がより良く学べるような方法で教材を作成することが必要なのです。このステップ4では既存のリソースの利用を提案していますので、今まで書いてきたことと矛盾しているように見えるかもしれません。しかしオンライン学習になじまない既存のリソース(例えば録画した50分の講義)と、オンライン環境での学習に合うように開発された既存の教材を使うことは別物です。
第10章で詳しく述べましたが、インターネット、特に WWW (ワールド・ワイド・ウェブ)には、入手できる膨大な量のコンテンツが既にあります。この多くでは適切に利用するために引用元に言及するなど一定の条件のもとで、教育目的であれば無料で利用できます。例えばWebページの最後にあるクリエイティブ・コモンズ・ライセンスについての記述がないか探してみてください。既存のコンテンツの質や種類は、コンテンツによって大きく異なります。MIT、スタンフォード、プリンストン、イェールなど知名度の高い大学では、教室で行われている講義の録画を提供しています。一方、イギリスのオープン大学など遠隔教育を行う教育機関では、全ての教材をオンラインで無料提供しています。多くは以下のサイトで入手できます。
最近では多くの有名な大学がオープン・コース・ウェアを提供するサイトを持っています。Googleで ‘open educational resources’や ‘OER’ で検索すると見つかります。
有名大学の場合、コンテンツは通常はその大学のキャンパスに通う学生が受講している授業ですから、質が高いということは確かでしょう。しかしインストラクショナル・デザインや、オンライン学習における適切さという観点から考えると、質がよくないこともあります。(詳しくは Keith Hampson’s: MOOCs: The Prestige Factor、OERs: The Good, the Bad and the Ugly)イギリスのオープン大学や、カーネギー・メロン大学の Open Learn Initiative のような機関が提供しているリソースの場合は通常、質の高いコンテンツが良いインストラクショナル・デザインと組み合わせられています。
オープンに公開されているリソースの価値は、個々の教員では作成するのが困難、あるいは開発資金が必要な、双方向性を持ったシミュレーションや、アニメーションや動画を利用できるという点にあるでしょう。生物学や物理学など科学の分野におけるシミュレーションの事例は PhET で、そして数学の事例は Khan Academy で見つけることができますが、その他にも多くのリソースが存在しています。
オープンに公開されている「教育」目的のリソース以外にも、インターネット上には教える価値のある「生」のコンテンツがたくさんあります。ここで問題になるのは、教員自身がこのような教材を探すのか、それとも学生自身に情報を発見、選択、分析、評価、応用させる方が良いのかということです。これらはデジタル時代において学生が有している必要のある重要なスキルばかりです。
幼稚園から学部生までのレベルでは通常、オリジナルのコンテンツはありません。私たちは長い間、巨人の肩の上に立っています。つまり、既に発見されている知識を組み合わせたり有効に活用したりしているのです。分野によっては、まだ公表されていない唯一無二で独自の研究を行うとき、あるいはコンテンツに関して自分独自の視点を持っているときだけ、本当に何もないところから「コンテンツ」を作り上げる必要が出てきます。残念ながらあなたが今まさに欲しいと思っている教材や、少なくとも学生にとって適切な形になっている教材を見つけ出すのは依然として難しいです。そのような時にはステップ7で述べるように、自分で教材を作る必要があるでしょう。しかし多くの場合、既存のリソースを利用してコースを作り上げる方が良いでしょう。
あなたに与えられた選択肢は、コンテンツ開発に集中するか、学習促進に集中するかのどちらかです。時間が経つにつれて、あなたのコース内で利用できるコンテンツはますますインターネットから無料で入手できるようになるでしょう。こうなれば学生はどんなことを知る必要があり、どのように見つけてきて評価し、応用するかということに集中する時間を確保できます。これは学生がコースを受講して得たコンテンツを暗記すること以上に高度で将来的に持続可能なスキルです。オリジナルのコンテンツを作るのと同様、学生の活動、つまり学生が何をするべきかということに重点を置くことはとても大事です。この点についてはステップ6、7、8で詳しく扱います。
コースを始める前の非常に重要なステップは、まずは何が入手可能で、それをどのようにすれば自分が教えようとしているコースや専攻プログラムで使える可能性があるかについて考えることです。
いま教えているコースでの作業量が多過ぎると感じているようであれば、この3つの質問への答えが、問題のありかを教えてくれるでしょう。
標準的なラーニング・テクノロジーを使うための研修を受けておくと、結果として多くの時間を節約でき、今までであれば想像もできなかったような多様な教育目標を達成することができるようになるでしょう。
ここでは簡単に入手できるラーニング・テクノロジーについていくつか考えてみることにします。
必ずしもこれらのツールを使う必要はありませんが、もし使うと決めたのであれば、これらのテクノロジーをどのように操作すれば良いかだけではなく、教育方法としての強みと弱みについて知っておく必要があるでしょう。(第6章、第7章、第8章参照) ここで挙げたテクノロジーは時間とともに変化をしていくでしょうが、新たなテクノロジーが出現したとしても、このセクションで扱う一般的な原則を応用することができるはずです。
あなたが所属する教育機関に既に Blackboard、Moodle、Canvas、Desire2Learn のような LMS があるのであれば、それを使いましょう。その LMS がベストかどうかを議論する必要はありません。実際のところ機能的な面において、主要な LMS の間には重要な違いはほとんどありません。システムのインターフェイスの好みもあるでしょうが、教育機関がサポートしていない LMS を使おうとすると、とてつもない労力が必要になってしまいます。LMS はまだ完全とは言えませんが、これまで20年かけて進化してきており、あなたにとって、そして何よりも学生にとって、比較的簡単に使うことができます。LMS にはオンライン教育を組み立てるための便利な基本的な構成があり、LMS が適切にサポートされているのであれば、いつでも助けてもらうことができます。また LMS には様々な方法での指導を可能にしてくれる柔軟性が十分にあります。ひとまず、どのようにして LMS を使うか、適切な研修を受けましょう。数時間の研修を受けるだけでLMS を自分がやりたいように動かすために必要な多くの時間を節約できるようになるでしょう。
そしてもっと大事なことは、そもそも LMS を使う必要があるかどうかということです。もしもあなたの所属している教育機関が WordPress や Google ドキュメントなどLMSの代わりとなるものをサポートしてくれないのであれば、純粋にテクノロジーの扱いについての問題に多くの時間を取られてしまうだけなので、この点については考えない方が良いでしょう。
同様のことが Blackboard Collaborate、Adobe Connect、Big Blue Button のような同期型 Web テクノロジーにも言えます。私の好みのものはありますが、どれでもだいたい同じことができるツールです。どのようにこれらのツールを使いこなすかということに比べれば、テクノロジーの違いは大した問題ではありません。あくまでも教育方法に関する決断です。完璧なテクノロジーを探すのではなく、教育方法に集中しましょう。
また、非同期型オンライン・ツールではなく同期型ツールをどのタイミングで使うのがベストかについては慎重に考えましょう。同期型ツールは特定の時間に学生を集めたい時には便利ですが、同期型ツールを使うことで教員主導型の、つまり講義を行い、議論を導くような授業になってしまう傾向があります。しかし学生を小さなチームに分けてプロジェクトに取り組ませ、役割分担を決め、プロジェクトを完成させるために Collaborate などの同期型ツールを使って作業するよう促すこともできるでしょう。一方で LMS のような非同期型ツールを使うと、学習者により柔軟に対応することができ、より自主的に活動するように仕向けることができます。これは学生が身につけなければいけない重要なスキルです。
ある種のテクノロジーは、使い始めるという意味で言えば、見た目からすると簡単に使えそうです。なぜならコンピュータ・サイエンスなどの知識がなくても誰でも使えるように設計されているからです。しかし時間が経つにつれて、こうしたテクノロジーには様々な機能が追加され、洗練されていきます。全ての機能を使う必要はありませんが、どのような機能があり、何ができるか、何ができないかを知っておくと良いでしょう。使いたい機能があれば、まずは研修を受けておくと素早く効率的に使えます。
新しいテクノロジーは次から次へとやってきます。新しく生まれたテクノロジーや、その教育との関連について、最新の情報に教員が単独で常に押さえておくのは難しいでしょう。こういったことはきちんと機能しているラーニング・テクノロジーのサポート部署の仕事になります。新しいテクノロジーに関する年に1度の説明会や、興味のあるツールを復習するための説明会などに参加してみましょう。
説明会や研修はラーニング・テクノロジーのサポートを行うセンターや部署が行うべきです。もしあなたが所属する機関にそのような部署が存在せず、研修が受講できない場合には、教育におけるテクノロジーの活用を大規模に行うかどうかは慎重に考えなければいけません。それは、テクノロジーを多く利用している教員でさえ、この手のサポートが必要だからです。
また既存のツールには新しい機能が次々と追加されます。例えば Moodle の場合には Mahara のような「プラグイン」があり、このプラグインを使えば学生は自身の eポートフォリオ作成、活動の記録や管理を電子的に行うことができます。次に増えてきそうなのはラーニング・アナリティクスのプラグインです。このプラグインを利用すれば学生がどのように LMS を利用し、LMS の利用方法が取り組みや成果にどのような影響を与えているかなどを分析できるようになります。
既に一定期間 LMS を利用しているけれども、全ての研修を受講していない場合、LMS の様々な特徴やどのように使えば良いかに関する説明会に参加することは、とても価値のあることです。特に重要なのはオンライン動画を LMS に組みこむなど、異なるテクノロジーと統合する方法を知ることです。そうすれば学生にもテクノロジーが継ぎ目なく機能しているように見えるでしょう。
最後に、あなたの好きなテクノロジーだけを使い、他のものには目を向けないといった状態に陥らないようにしましょう。マスターするのにかなりの時間と労力を要しており、あなたの側でも学生の側でもこれまできちんと動作しており、ましてや新しいテクノロジーが現在使っているものよりも必ずしも教育に向いているとは言えない場合など、使い慣れたテクノロジーを擁護しようとするのは当然のことかもしれません。しかし形勢を一変させ、以前では考えられなかったような教育上の効果をもたらすテクノロジーが出現するかもしれません。1つのツールだけで教員として必要なことは何でもできるということはあり得ません。ツールを上手に組み合わせて使う方が効果的でしょう。心を開いて、必要であれば新しいテクノロジーに移行する準備をしておきましょう。
テクノロジーを利用する際、お互い異なっているものの、強く関連づいている2つの要素があります。
ツールは手助けのために開発をされていますので、あなた自身、ツールで何を達成しようとしているのかについて、明らかにしておかなければいけません。これは指導上あるいは教育上の問題です。学生を積極的に参加させる方法を見つけたい、あるいは2次方程式を解くといったスキルを獲得するための練習をさせたいのであれば、様々なテクノロジーの長所と短所を知っておかなければいけません。 (詳しくは第6章および第7章 参照。)
このプロセスは何度か反復して行うものです。新しいツールや機能の説明を聞いたりデモをみたりした時、それがあなたの教育上の目標の何かに合致するか、達成を促進してくれるかどうか考えてみましょう。また、ツールの特徴を活かして、以前は思いつきもしなかったようなことを可能にするために、教育目標や方法を修正するといったことを考えても良いでしょう。例えば eポートフォリオのプラグインを利用すれば、学生を評価する方法が変わります。ポートフォリオでの学習成果は、レポートなど他の課題よりも「本物」で、証拠に基づいたものになるからです。(この点については次のステップ「適切な学習目標を設定する」で詳しく見ていきます。)
ポッドキャストや講義録画システムを使えば、講義を記録・保存して、学生がダウンロードする形にできます。ではなぜ LMS のような他のオンライン・テクノロジーの使い方をわざわざ学ばなければいけないのでしょうか。セクション3.3では、講義の限界に関して根拠に基づいた研究を紹介しました。要約すると、一般的に学生は「伝達型の形式」で、教室内で行われる講義の録画をオンラインで利用するだけでは、あまり学習しません。同様に重要なことは、オンラインの学習環境に合わせた形で講義を提供しなければ、個々の学生から説明を求めるメールが山のように届いたり、学生の中退率が高くなったりしてしまう恐れがあるということです。
改めて言うまでもなく、教員として時折、授業を録画することには意味がないと言っているわけではありません。しかし動画は最大でも10分から15分におさえ、自分の研究について述べたり、ゲストの教授をインタビューしたり、授業で扱った内容をニュースと関連づけたりするなど、授業では行わないユニークなものを何か追加するべきでしょう。あるいは、あえて音声だけのポッドキャストにして学生に音声に集中させ、Web サイト上に掲載した図表やグラフィック、アニメーションなどの学習教材と結びつけるようにさせても良いでしょう。
講義録画システムを使わなければいけないのであれば、教室での講義を10分から15分のセクションに分割して編集できるような形で構成することも検討してみましょう。1つの方法は授業中の適切なタイミングで一度間を置き、学生からの質問を受け付けるというものです。こうすれば動画になった時に明確な「編集」点を付けることができます。そしてそれぞれの動画の後の復習として、オンライン・フォーラムを活用したディスカッション、オンラインでのリサーチ、トピックに関する課題図書などを提供しましょう。
一般的には講義録画システムよりも LMS を利用した方がコンテンツを上手に配信できるでしょう。LMS であればコンテンツが消えることはありませんし、整理して構成することができます。(ステップ7参照) また項目ごとに内容を整理してあるため、学生がいつでもアクセスして、必要であれば何度でも繰り返すことができます。あるいは学生自身にコンテンツを発見、分析、構成させる方がもっと良いかもしれません。その場合には LMS 以外の WordPress などのブログ用ソフトウェア、eポートフォリオ、Wiki などが必要になるかもしれません。繰り返しになりますが、1つのツールだけで全ての状況に合わせようとするのではなく、教育方法を優先に考えて決める必要があります。
LMS のようにオンラインで利用する学習テクノロジーは、オンラインでの学習環境に適合するように設計されています。ですから、主に教室でしか教えたことがない教員が LMS を使うためには、教員自身がテクノロジーに合うよう調整し、学ぶ必要があります。
どのツールでもそうですが、知れば知るほど上手に使えるようになります。テクノロジーについての堅苦しい研修を受けることは必要ですが、厄介に思う必要はありません。LMS や講義録画システム、eポートフォリオ、同期型 Web セミナーなどのツールを使うためには、目的が特化され構成がしっかりしている授業であれば普通は2時間(加えて毎年1時間の復習)で十分です。難しいのは、ツールを教育的に使うためにはどのように使うのがベストか考える方です。そのためには学生が、どうすればうまく学ぶか(第2章 および 付録A)、学生の学び方にマッチさせるためにはどのような方法が良いか (第3章 および 第4章)、そしてラーニング・テクノロジーを利用してどのように指導を設計するか (第6章・第7章・第8章)についても考えなければいけません。
多くの学校制度においては、カリキュラムや学習目標は国や州、地方のカリキュラム委員会や教育省などによってあらかじめ決められています。多くの職業訓練においては産業訓練団体や雇用連合会が、資格認定に必要な学習目標や望ましい成果、能力などを決めています。大学においても、教員(特に契約教員や助手など)は前の担当者や学科によって既に学習目標が決められているコースを「相続」しなければいけない場合があります。
一方、コースや専攻プログラムにおいて、教員が学習目標に関して一定の裁量を持つことができる場合も多々あります。特に社会人を対象としたオンラインの修士課程など、新しいコースや専攻プログラムの場合は、望ましい学習成果や目標について再検討する機会があるでしょう。カリキュラムが育成したいスキルではなく、網羅すべき内容という観点で構成されている場合には、例えば知的スキル開発などを含めて、学習目標の設定を検討する余地もあるでしょう。一方、カリキュラムで育成したいスキルや焦点が共感などの情意的スキルである場合や、作業や操作を行うためのスキルである場合もあります。
セクション1.2では、デジタル時代において学習者が必要とする、以下のようなスキルを挙げました。
コースや専攻プログラムにおける目標を設定する際には、このような項目についても検討する必要があるでしょう。もちろん特定のコンテンツの理解や、その応用といった伝統的な目標を入れても良いかもしれません。これらの目標や成果はブルームのタキソノミー(分類法)や、その他の方法によっても言い換えることができます。ある特定の学問領域のニーズに応じて、このようなスキルの全てを埋め込んだり組み込んだりしなければいけません。つまり、これらのスキルは汎用的なものではなく、それぞれの学問領域に特有な形のものでなければいけないのです。また、それぞれの特定の学問領域において、これらのスキルを身につけた学生は、デジタル時代に備えることができるのです。
コースにおいてあなたが設定した目標は、私のものとは異なるかもしれませんし、異なるべきだと思います。ですが、ステップ1(どのように教えたいかを決める)で勧めた分析を行い、以下の項目に基づいて学習目標を決めなければいけません。
私は知的スキルの育成に重点を置いていますが、学習目標と同様、このようなスキルについても学び、練習する時間を取れるように授業を設計する必要があります。特にこのようなスキルは形成的評価のプロセスの一部として評価する必要があります。
つまり、コース設計の観点から言えば、学習における主要なリソースとしてインターネットを活用する、学生自身に情報を発見して評価する責任を持たせる、特定の学問領域における情報の発見、評価、分析、応用に関する基準や指針を教員が提示することなどを含めなければいけません。そしてオンラインでの検索や、オンラインにあるデータ、ニュース、知識の発生に対して、批判的にアプローチしていかなければいけません。つまり、特定の学問領域において、インターネットや現代のメディアを利用することの可能性や限界について、批判的に考えるスキルを身につけなければいけないのです。
現代のメディアにおける大きな特徴は、教育に実社会を取り込むための方法がたくさんあるということでしょう。例えば以下のようなことが考えられます。
その他にもインターネットを利用しないと達成できない目標や教室内では達成が難しい目標がたくさんあります。どれがコースに関連していて、どれが重要な学習目標かを決めるのは教員の力量次第です。
多くの場合、オンラインのコースにおいても対面授業のものと同じ教育目標を立てることが適切(むしろ必要不可欠)でしょう。キャンパスを持った大学でありながらオンラインでも単位を認定するコースを提供しているような両対応の機関(例えばブリティッシュ・コロンビア大学、ペン州立大学、ネブラスカ大学など)では、特に学部4年目において、対面とオンラインで同じ授業を提供しています。通常、成績証明書には、オンラインで受講したか対面授業で受講したかといった区別は記載されません。なぜなら両者とも同じテストを受けており、テストの内容も普通は同じだからです。
しかし、重要な目標がオンラインの方がより良く達成できるといった理由で、対面授業ではいくつかの目標の達成をあきらめなければいけないといった場合もあり得るでしょう。そして教室で行う授業と同じ目標をオンラインで達成できるとしても、オンラインでの教え方の設計は、対面のものとは異なるものになる傾向にあるということも覚えておかなければいけません。目標は同じでも教え方は変わるのです。この点についてはステップ7とステップ8でさらに詳しく述べます。重要なのは、キャンパスで行う方が簡単なことと、オンラインで行う方が簡単なことがあるということです。そして異なる目標に応じて異なる教え方を設計するということです。ブレンド型のアプローチを採用すれば目標の幅を広げることができますが、学生の負担が大きくなりすぎないように気をつけましょう。
新しい学習目標や成果を導入しておきながら、学生の達成状況を評価しないのでは意味がありません。評価によって学生の行動が決まります。上述したようなスキルが評価されないなら、学生はスキルを身につけるための努力などしないでしょう。オンライン学習において重要なのは、適切な目標を設定することではなく、学生がその目標をどのように達成したかを評価するためのツールと手段を用意しておくことです。そしてさらに重要なのは、新しい学習目標は何か、どのように評価するかを学生に明確に伝えておくことです。このような方法は今まで内容を与えられ、その内容の記憶力だけをテストされてきた学生にとっては驚きかもしれません。
インターネットやその他のメディアにおいては、媒体を通じて内容を伝えます。知識は中立ではあり得ません。私たちが何をどのように知るかは、その知識を獲得した媒体に影響されます。それぞれの媒体は異なる知識獲得の方法を提供しているのです。私たちは媒体と戦って新しい知識を古い容器に入れてしまうか、それとも知識を媒体に合うように作り直すか、選ぶことができます。私たちの生活においてインターネットは巨大な影響力を持っています。たとえ私たちが何をどのように教えるかといった手法を多少変えなければいけないことになったとしても、インターネットの可能性は教育において最大限に活かすべきでしょう。そうすることによってデジタル時代に学生をより良く備えさせることができるでしょう。
学生に対して構成のしっかりした学習を提供し、適切な学習活動を設定することは、クオリティーの高い教育・学習を行うためのステップの中でも最も重要です。しかし、質保証に関する文献においてはほとんど議論されていません。
構成は学習者の成功に影響を与える主な要素の1つですが、対面やオンライン指導のどちらにおいても直接扱われることは滅多にありません。まずはことばの定義をすることが必要でしょう。
構成 (structure) という語について、3冊の辞書での定義は以下の通りです。
指導の構成には2つの重要かつ関連した要素があります。
つまり指導の構成がきちんとできている場合、学生は何を学ぶ必要があり、それを学ぶためには何をやるべきか、そして、いつどこでそれを行うべきかが分かります。一方、指導の構成がしっかりしていないと、学生が行う活動の自由度が高く、教員によるコントロールは少なくなります。(学生自身が自律的に学習をきちんと構成していくという場合もあります。)どのように指導を組み立てていくかの選択によって、学生だけでなく教員がどのような活動を行わなければいけないかが決まってきます。
定義という観点から言えば、本質的には指導の構成がきちんとできている方が良いというわけではありません。そしてこのことは対面・オンライン授業のどちらと結びついているというわけでもありません。特に、教える際にどのような構成を選ぶかは状況次第です。クオリティーの高い教育・学習を行うためには最も適切だと思われる指導の構成を選択しなければいけません。オンライン指導における最適な構成は、対面授業のものといくつか共通の特徴を持っている一方で、異なる点も多々あります。
指導の構成を決定する主な要素は以下の3つです。
教育機関が対面指導に課している構成は馴染みがありすぎることから、逆に気づかれなかったり、当然のことのように考えられたりしてしまいますが、教育機関からの要求は、指導の構成を決定する主要な要素です。そして教員の仕事や学生の生活にも影響を与えています。以下に中等後教育での対面指導の構成に影響を与える教育機関からの要求をいくつか挙げてみます。
これ以外にもたくさんあるでしょう。学校制度においては学期の長さや祝日の時期など共通点もあります。(学生の学習時間に基づいたカーネギー・ユニットという単位が、なぜアメリカで採用されるようになったのかという少し変わった理由については Wikipedia を参照してください)。
キャンパスを有する教育機関の規模が大きくなるにつれて、構成に関して行う要求も「強固なもの」になってきています。そうでないと、機関内で一貫した教育サービスを提供することが難しくなってしまうからです。このような一貫性を保つのは、説明責任、単位認定、政府からの補助金、単位互換、大学院への進学、またその他の多くの理由からです。このような強力で体系的な要求を当該教育機関だけで変更するのは不可能ではないにしても、かなり難しいと言えるでしょう。
どの教員も多くの制約に縛られています。特にカリキュラムは、それぞれの科目ごとにセメスターの長さ、単位数、教室内での指導時間(以下、接触時間)などを「ユニット」という時間の枠組みに合わせないといけません。また、1クラスの人数や教室の利用状況も考慮しなければいけません。教員も学生も特定の時間に特定の場所(教室、試験室、実験室)にいなければいけません。
学問の自由という概念があるとは言え、対面指導の構成の大部分は教育機関が事前に決めてしまっています。デジタル時代における学習者のニーズを考えた場合の制約の是非や、学問の自由への制限を教職員組合が受け入れるのかと、つい話が脱線してしまいそうになりますが、ここでの狙いはどの制約がオンライン学習にも当てはまり、どれが当てはまらないかを確認することです。それによって指導の構成が変わってくるからです。
オンライン指導は、特に導入初期の頃においては、受け入れること自体が大変でした。オンラインで学んだり教えたりした経験のない人を中心に、オンライン指導の質や効果について懐疑的な見方をしている人が多かったからです。もちろん今でもそのような人はいます。そこで初期の頃には、オンライン指導における目標や構成を対面指導のものと同一のものに設計することに注力して、オンライン指導も対面指導と「同じぐらい良い」ということを証明しようとしていました。そして研究の結果、それは証明されました。
一方、オンライン指導と対面指導と同じにするということは、同じ前提でコースや単位、セメスターを考えなければいけないということです。1971年に遡ると、イギリスのオープン大学では、キャンパス型で行う学位プログラムの総学習時間とほぼ同じ学習時間を要求する学位プログラムを採用しました。しかしその構成は全く異なっており、例えば通常の単位数であれば32週間、半分の単位数であれば16週間というコースを用意していました。1つの理由は、そのようにすることで統合的で学際的な基盤コースを提供することが可能になるからでした。その他にも基準とは異なる指導の構成をしている大学はいくつかあります。例えば、ウェスタン・ガバナーズ大学ではコンピテンシーに基づく学習を重視していますし、ニューヨーク州にあるエンパイア州立大学では社会人学生を対象に学習の契約書を締結することを重視しています。
オンライン学習プログラムを対面学習プログラムと同一にすることを目指すのであれば、プログラムにおける必要学習期間(例えば北アメリカの学士号であれば4年間)、学位に必要な総単位数などを対面学習のものと同一にしなければいけません。これはつまり暗に学習時間も同じだということを意味しています。しかしこの枠組みが崩れるのは接触時間を計算する時です。接触時間は定義上、教室内における指導時間を意味します。つまり13週間で行われる3単位の授業はだいたい1セメスター13週で、週3時間教室で行う授業に相当します。
この接触時間という概念には多くの問題がありますが、対面授業では標準的な測定単位になっています。中等後教育、とりわけ大学での学習では、講義に出席する以上のことが求められています。よく言われているように、1時間の教室時間に加えて、学生は読書や課題などに最低2時間を費やさなければいけない計算です。学問分野によって接触時間は大きく異なってきますが、一般的には工学や科学分野のように、多くの時間を研究室や実験室で過ごす学生と比較すると、人文科学系の学生の接触時間はかなり少なくなります。また、接触時間の限界は、あくまでもインプットを測定する単位であり、アウトプットは入らないということです。
ブレンド型やハイブリッド型の学習に移行する際、従来のセメスターという枠組みで実施すれば、接触時間という概念が崩れてしまいます。学生は1週間に1時間だけを教室内で過ごし、残りは全てオンラインということもありますし、ある週に15時間を研究室で過ごし、残りの週は研究室に来ないということも考えられます。
ブレンド型、ハイブリッド型、完全オンラインのコースで学習している学生が学位を取得するには、対面で授業を受けている学生と同一の基準に達すること、あるいは学生が同一の「概念上の」時間を費やすことを保障する方が良いのかもしれません。つまり、オンライン、ブレンド型、対面を問わず、同一の量の活動を課すようにコースや専攻プログラムを設計するのです。ただし情報配信の方法の違いで、課題をどのように配布するかはかなり異なってきます。
ブレンド型やオンラインのコースでどのように授業を組み立てるのが良いか決める前に、まず学生が当該コースにおいて、どの程度の学習をするべきなのかを考える必要があります。先ほども述べたように、学習時間はフルタイムの学生のものと同一でなければいけません。ただし、対面授業での接触時間はカウントできたとしても、対面授業の学生が授業時間外で費やしている時間はカウントされていません。
合理的な計算をすると、学部生の3単位の授業は週当たり約8~9時間の学習に相当し、13週間では合計約100時間になります。フルタイムの学生は3単位の授業を年間10科目履修しますが、これは1セメスター当たり5科目の3単位の授業を取る計算となり、2セメスターにわたって1週間につき40~45時間学習することになります。2セメスターにまたがる場合は少しだけ時間が減ります。
賛成してもらわなくても構いませんが、私の運用基準は以下の通りです。科目によっては多すぎるとか少なすぎるとか感じる場合もあるでしょうが、そんなことは大きな問題ではありません。あなた自身が時間を決めるのです。大事なポイントは、平均的な学生がコースや専攻プログラムで費やすであろう総学習時間数を具体的なターゲットとして定めることです。また、それよりも速く、あるいはそれよりも遅く、コースの修了基準に達する学生がいるということにも留意しておきましょう。このようにコースや専攻プログラム単位における学生の総学習時間数を計算することで限界量や制約が分かり、その時間内でどのように学習を組み立てなければいけないかが決まります。コースが始まる時点で学生にどのくらいの時間の学習を期待しているかを示しておくのも良い考えでしょう。
通常、1つのコースに詰め込むことができる内容は、学生が確保できる学習時間よりもはるかに多いです。そこで、個々の学生が調査、課題、プロジェクト活動を行う時間を確保できる程度の、学問上も妥当な最低限の分量のコンテンツをそれぞれのコースで提供することになります。一般的には教員はその科目における専門家であり、学生はそうではありません。このため教員は、学生がトピックを網羅するのに必要な時間を少なく見積もる傾向があります。ここでもインストラクショナル・デザイナーが活躍します。学生の負担について、専門家からもセカンド・オピニオンをもらうと良いでしょう。
その他にも、どこまでコースをしっかりと構成するかについても、重要な決断を下さなければいけません。これはあなたの指導理念や学生のニーズによります。
あなたが担当するコースにおいて網羅すべきコンテンツや、コンテンツを提示する順序、あるいは認証団体が要求する必修のカリキュラムなどに関して強い信念があるのなら、学生が行う作業や活動と結びつけ、コースのどのタイミングでどのようなトピックを扱うかを決めるなど、しっかりとした構成にしたいと思うかもしれません。
一方、学習を管理し組み立てるのは学生の役目の一部であると考えている、あるいは何をどのような順番で学びたいか学生に任せたいということであれば、コースにおける学習目標に合致する範囲内で、緩やかな構成にしたいと考えるかもしれません。
コースの構成は、教えている学生のタイプによっても変わるでしょう。学生には自律的学習を行うスキルがない場合、あるいはその分野の知識を持っていない場合には、少なくとも最初のうちは学生を導くため、しっかりとコースを構成しておく必要があるでしょう。一方、高度な自己管理能力を持っている学部4年生や大学院生の場合には、柔軟な組み立てをした方が学生のニーズに合うでしょう。さらにはクラスの受講者数による影響もあります。受講者数が多い場合には、しっかりとした構成で、なおかつ明確である必要があります。なぜなら緩やかなものにしてしまうと、学生とやり取りをしたり、サポートしたりする時間が必要となり、あなた自身の負担が大きくなってしまうからです。
私の好みでは、完全オンラインの指導においては、しっかりとした構成です。学生は何をいつまでに行うことが期待されているのか、明確な意識を持つことができるからです。これは大学院でも同様です。ただし大学院では、何を学ぶかの選択肢をより多く与えます。そして、より複雑な課題を遂行するために長めの期間を与えます。調査に関するスキルや分析的思考など、どのようなスキルを育成したいかということについては、望ましい学習成果として明確に定義しておきます。また課題の提出期限は明確に決めておきます。そうしないと私の負担が劇的に増加してしまうからです。
ブレンド型学習では、学生に対して少しずつ学習への責任を持たせていくことができます。しかしそれは教室という「安全な」枠組みの中で定期的に行います。教室では個人あるいは小さなグループで行なった活動について、学生は進捗状況を報告しなければなりません。そして特に学部生には、コースのレベルではなく、専攻プログラム全体のレベルでこのことを考えさせます。1つの考え方としては、1年目は対面での指導に重点を置き、2~3年目にブレンド型あるいはハイブリッド型のオンライン学習を徐々に導入していき、4年目で完全オンラインのコースをいくつか導入するという方法があります。このようにして学生は生涯学習のより良い準備をしていきます。
ETEC522 は緩やかな構成を用いている大学院のプログラムです。学生はコースのテーマに沿って各自が活動を組み立てていきます。毎週のトピックは右側に、学生が投稿した活動の成果が中心に表示されています。このプログラムでは LMS ではなく WordPress と呼ばれるコンテンツ管理システム (CMS) を利用しています。WordPress を使えば、学生は自分の活動の投稿および管理が簡単にできます。
対面授業をそのままオンラインに移行することがコースの構成を決める最も簡単な方法でしょう。講義のトピックごとに毎週の課題の内容が明確に決まっているので、コースの構成はほとんど固まっています。大変なのはコンテンツを構成することではなく、後ほど詳しく述べるように、学生が行う適切なオンライン活動を提供できるかどうかです。多くの LMS ではコースはトピックに沿って週単位で構成されており、学生に明確なスケジュールを提示することができます。これは問題解決型学習 (PBL) などその他のアプローチでも同様ですが、問題解決学習の場合はほぼ1日を単位として活動を分割する方がふさわしい場合もあるでしょう。
大事なのは、対面授業のコンテンツをオンライン学習にふさわしい形で確実に移行することです。例えばパワーポイントのスライドだけでは、講義で口頭説明した内容を網羅することができません。そのため、オンラインで完結するように、コンテンツを構成し直したり、設計し直したりしなければいけません。(インストラクショナル・デザイナーが手助けをしてくれるでしょう。)その際、学生が決まった分量の時間で行う活動の総量に注意しましょう。全ての課題図書や活動などをこなした場合、あなたが設定する平均的な1週間の活動量を大幅に超えてしまっては実現できません。超えてしまいそうな場合には、コンテンツや練習問題のいくつかを削除したり、練習問題を「任意」のものにしたりすることを検討しても良いでしょう。しかし「任意」にした場合は評価するべきではありません。評価に含まれないとなると、学生はすぐに練習問題をやらなくなってしまいます。このように対面授業においても、改めて時間を基準に考えてみると、学生に過剰な練習問題を与えてしまっていたことに気づくこともあります。
オンラインで学習している学生が、定期的に教室に来て学んでいる学生よりも、無計画に学んでいるだろうということは常に覚えておきましょう。特定の時間に特定の場所で学ぶという決まりがないため、オンラインで学ぶ学生は毎週行うべきこと、そして学習が進むにつれて何をすべきかについて、はっきりと知らせておかなければいけません。大切なのは学生がオンラインでぐずぐず先延ばしにして、コースが終わる頃になって慌ててやるような事態を避けることです。対面授業でも同じですが、これが失敗の原因になることが多いからです。
オンライン学習をうまく進めるためには、学生が行う活動を明確に定義しておくことが必要不可欠です。ここからは学生の活動を見ていきますが、学生の負担を適切なものにしようとすると、コンテンツと練習問題の関係がトレード・オフになってしまうことがよくあります。
ブレンド型学習を採用したコースでは、意図的ではなく偶然そのような形式になったという場合が多く見られます。LMSを利用した学習教材や講義ノート、課題図書といったオンラインの要素が、徐々に通常の教室内の指導に追加されていくのです。このような場合、対面授業の要素にも修正を加えないと危険なことになってしまいます。数年が経過すると、さらに多くの教材や練習問題、課題などがオンラインに追加されていくでしょう。多くの場合、これらの活動は任意のものですが、宿題として強制される場合もあります。そして学生の負担が劇的に増加してしまうことになります。また、多くの教材を管理しなければいけないため、教員の負担も増加してしまいます。
ブレンド型学習を見直す時には、コースの構成と学生の負担について慎重に検討しましょう。Means et al. (2011) は、ブレンド型学習の方が良い結果を得られる理由の1つは、学生がタスクに時間をかけること、つまりよく勉強するからだと仮定しています。これは良いことではありますが、全てのコースで次々に活動を追加してしまうと、そうは言えなくなります。ブレンド型に移行する時には、オンラインでの課題を追加する代わりに対面授業での時間(移動時間も含めて)を減らすことが必要不可欠です。
今までキャンパスでは提供されていなかったコースや専攻プログラム(例えば専門職大学院や応用分野における修士課程など)を始める際には、オンラインの環境に最適なユニークな構成や、コースを履修するであろう学生(例えば社会人)を視野に入れてコースを設計しなければいけないでしょう。
大切なのは、対面授業と同じような時間の分割は必要ないということです。なぜなら学生が授業を受けるためには、特定の時間に特定の場所にいなければいけないといった制約がないからです。オンラインのコースは通常、コースが公式にスタートする前にはもう「準備」されており、学生からのアクセスを待っている状態です。理論上、学生はコースを素早く、あるいはゆっくり時間をかけて終わらせることもできます。そこで教員はコースの構成、特に学生の活動の流れをどのようにコントロールするかについて、様々な方法を考えておかなければいけません。
このことは、生涯学習の学習者やパート・タイムの学生が主な受講生の場合に、特に大事になってきます。それぞれの学生がそれぞれのスピードで課題を行えるようにコースを構成することもできるかもしれません。例えばコンピテンシーに基づいた学習では、同一のコースや専攻プログラムであっても、学生はそれぞれのスピードで学習を進めることができます。オープン大学のいくつかでは常時登録ができるようになっており、学生は好きな時にコースを開始し、好きな時に修了することができます。オンライン学習を選んだ学生の多くは働いているので、フル・タイムの学生よりも長い時間をかけて修了することを認める必要があるのかもしれません。例えばキャンパスで行う修士課程が1~2年で修了しなければいけないのであれば、オンラインの専門職大学院の場合、最長5年まで可能にするなどの対応が必要かもしれません。
これまで述べてきたことのいくつかを行わないという理由を見つけることは簡単かもしれませんが、これは教育機関側の制約ではなく、むしろ指導法に関わる理由づけです。例えば、私はいつでも履修できる常時登録制や、各自が自分のペースで行う学習をあまり良いとは思っていません。その理由は、私は特に大学院レベルにおいては、オンラインでのディスカッション・フォーラムやグループ活動を多く取り入れているからです。私は学生がだいたい同じようなペースで活動をすることを望んでおり、ペースを保つことで焦点を絞ったディスカッションを行うことができます。コースの中で学生がそれぞれ異なったことをやっている場合には、グループ活動を行うのは不可能とは言わないまでも難しいでしょう。一方で、数学などのコースでは、各自のペースに基づいた指導を行なっても良いでしょう。その他の従来とは異なるコースの構成については、以下の学生の活動のセクションで見ることにします。
しかし、どのようにコースを組み立てるにせよ、2つの原則があります。
コース設計のプロセスの中で、学生の活動を設計することは最も重要です。特に完全オンラインの形式で学んでいる学生にとっては、教員や他の学生に会うための教室やキャンパスといった環境がなく、対面授業のように自発的に質問したり議論したりする機会がないからです。そしてこのことは対面授業の学生にも当てはまります。対面授業であっても自発的な質問や、議論をさせているでしょうか。配信方法の如何を問わず、学生の活動を定期的に行うことが、全ての学生をコースに参加させ活動をさせるために重要なのです。
学生の活動には以下のようなものが含まれるかもしれません。
その他にも教員の工夫次第で学生を引き込むことができる数多くの活動があります。しかし、このような活動はコースで提示されている学習目標と明確に結びついている必要があります。そして学生が最終的な評価に向けて準備をする際にも、これらの活動が役に立ったということを理解していることも必要です。学習成果がスキルの育成に焦点を当てたものであれば、学生はそのスキルを伸ばし練習する機会を与えるような活動を盛り込むべきでしょう。
また、このような活動を定期的に行い、学生が活動を終えるのに必要な時間を計算しておく必要があります。ステップ8では、このような学生の活動を教員が観察する必要性について述べます。
この時点で「コンテンツ」と「活動」のバランスをどのように取るかについて、難しい決断を迫られます。学生は毎週少なくとも1度は、課題図書を読む以外の正規の活動を行うために十分な時間を確保しなければいけません。そうしないと、学生の履修放棄や、単位を落とすリスクが劇的に増加します。特に、活動に関するフィードバックやコメントを教員や他の学生からもらえる何らかの手段が必要でしょう。また、コースを設計する際には学生の負担だけではなく、教員の負担も考慮しなければいけません。
私の考えでは、多くの大学のコースはコンテンツを詰め込み過ぎており、学生がコンテンツを吸収、応用、評価するために何が必要かはあまり考えていません。私の経験に基づいて大まかに言えば、学生がコンテンツの読解や講義への出席に費やす時間は半分以下にとどめ、残りは上で述べたような活動を通して、学生が解釈、分析、応用するための時間にするべきです。学生が成長し自己管理ができるようになれば、活動の割合を増やしても良いでしょう。こうした活動の中で、学生は自分自身で教員が設定した目標や基準に合致する適切なコンテンツを発見できるようになります。しかし、これはあくまでも私の考えです。あなたの教育理念がどんなものであれ、オンラインで学習する学生には何らかの形でフィードバックを与えるような活動をたくさん行うべきです。そうしないと多くの学生は履修を次々と放棄してしまうでしょう。
オンライン・コースに適切な構成を担保するための方法は他にもたくさんあります。例えばカーネギー・メロン大学の Open Learning Initiative では、短大の1年生、2年生が履修する標準的なコースを1つの完全なパッケージとして提供しています。それらのコースでは教科書に加えて、コンテンツや到達目標、そして活動が事前に設定された LMS が用意されています。コンテンツの構成もきちんとしており、学生の活動も組み込まれています。教員の役割は主にコースをどのように教えるか、どのようにフィードバックを与えるかの検討と、必要に応じた採点です。このようなコースは非常に効果的であることが証明されており、多くの学生がプログラムを修了しています。
シナリオD で歴史を担当する教員は最初の3週間、週3コマの授業を通常通り行い、その後5週間は、小さなグループごとに1つの主要なプロジェクトに関わる活動を全てオンラインで行わせました。そして残りの5週間では、3時間の集合教育を週1回行い、学生の報告、クラス全体での議論を行いました。
先ほども述べましたが、コンピテンシーに基づいた学習では、トピックの順番や学習者の活動がアカデミックな観点から高度に構造化されており、学生がコンピテンシーを獲得するのに必要な時間に柔軟に対応できます。
マクマスター大学の Integrated Science Program では、学部生のリサーチ・プロジェクトを6~10週間で構成しています。
Stephen Downes、George Siemen、Dave Cormier らによる #Change11 のような cMOOC は緩やかな構成を採用しており、毎週異なった人によって異なったトピックが提供されます。ブログへの投稿やコメントなどの学生が行う活動にコース・デザイナーは関与しておらず、学生に委ねられています。このコースは単位が認定されないコースであり、MOOC 全体を修了できる人はほとんどいないのですが、このような状況はコース提供者の意図しているところではありません。一方、スタンフォードと MIT による xMOOC は学生の活動を含めて高度に構造化されており、フィードバックも完全に自動化されています。コースを修了できるのは10%以下ですが、このコースも同様に単位が認定されないコースです。最近では MOOCs はどんどん短縮化されており、中には3~4週間しかかからないようなコースもあります。
オンライン学習という形態は、週3コマ×13週という厳格な3セメスター制の束縛から逃れ、学習者のニーズに合わせて最適化し、教員の好む指導法を用いたコースを作ることを可能にしてくれます。単位化されているオンライン・コースや専攻プログラムにおける私の目標は、高いアカデミックの質と高い修了率を保証することです。そのためには適切な構成や、関連した学習活動を作り上げることが大事なステップだと考えています。
オンラインにおける協働学習(セクション4.4参照)のような指導法では、教員と学生の間で質の高い議論を行う必要があります。一方、オンラインでの協働学習だけでなく、全てのオンライン学習において、教員と学生の間での継続的な交流が必要不可欠だとする研究が、かなりの数で報告されています。このような場合、教員の負担をコントロールするために、慎重にコースを管理する必要があります。
教室環境においては、教員が存在することは当然のことだと考えられます。通常、教員は教室の前にいて、学生の注意を集める存在です。学生にしてみれば教員からは見られないようにしたいかもしれませんが、たとえ大きな講義室であったとしても、そのようなことがいつでも簡単なこととは限りません。教員は教室にいるだけでも十分だと考えられることが多いです。オンライン学習においても、いかに教員の存在を示す工夫をするかについての研究をもとに、教育において教員の存在が持つ重要な意味について知ることができます。
これまで行われてきた研究によれば「教員が存在すると知覚すること」がオンラインで学習する学生の成功や満足度において重要な要素だということが分かっています。(Jonassen et al., 1995; Anderson et al. 2001, Garrison and Cleveland-Innes, 2005; Baker, 2010; Sheridan and Kelly, 2010) 学生にとって、教員は学生がオンラインで行なっている活動をフォローしており、積極的にコースの運営に関わっているということを知る必要があるのです。
この理由は明らかです。オンラインの学生たちは多くの場合、家で学習しており、完全オンラインの場合には、コースで他の学生に会う機会が全くないかもしれません。そのため、馬鹿げた質問に対する冷たい視線、トピックに関する情熱を捧げるかのような教員の熱い講義、ある考え方について時間を割くことができない時の教員による「さりげない」コメント、ある学生による的を射た発言や、良い質問が出た時の学生たちのうなずきのような、教員や学生からの非言語的な手がかりを得ることができないのです。オンラインの学生には廊下で教員にばったり出会って自発的に議論をするといった機会もありません。
しかし熟達した教員であれば、教室同様にオンラインでも学生を引き付ける授業を作り上げることができます。そのためには当然ながら慎重に計画を立ててコースを設計する必要がありますし、教員の負担が大きくなりすぎないようにコントロールする必要があります。
ブレンド型であろうと完全オンラインであろうと、教員はコースの開始時に、オンラインで学習する学生に期待することを明らかにしておくことが大切です。よく考えてみれば、なぜ同じことを対面授業でやらないのでしょうか。
多くの教育機関ではコンピュータやインターネットを使う際の行動規範のようなものを設定しているはずです。このような文書は冗長でお役所的な難解なことばで書かれていることが多いのですが、スパムやオンラインでの誹謗中傷、いじめ、ハッキングのようなオンラインにおける行動に対する注意を呼びかけています。同じように教員は特定のコースのニーズに関連して、アカデミックな場で行うオンライン学習に要求される一連のルールを設定しておくと良いでしょう。オンラインで有意義な議論を行うための運用基準やルールはセクション4.4で取り上げましたが、その他にも教員の存在を確実なものにするために教員が行えることがいくつかあります。
コースにおける学生への期待を設定するために、最初の週にちょっとしたタスクを行わせても良いでしょう。例えば、LMS のディスカッション・フォーラム機能を利用して、学生に自分の略歴を投稿させ、他の学生の投稿に返信させる、あるいはコースが実際に始まる前に、コースに関連したトピックについて学生自身がどう考えるかのコメントを投稿させるといったことも考えられます。このように最初の週に設定した活動を行わない学生は、コースを修了できないリスクが高いという研究結果があるので、学生に動向には十分に注意しておくことが重要です。教員は最初の週の終わりに、活動を行わなかった学生に電話やメールで連絡し、たとえオンライン学習に慣れている学生であったとしても、きちんと運用基準にしたがって決められたタスクを行なっているかどうかを確認するべきではないでしょうか。教員が学生のやっていること、やってないことを最初から確認しているということを、学生は知ることができます。
コースが異なれば、異なる運用基準が必要かもしれません。例えば数学や科学のコースではディスカッション・フォーラムではなく、コンピュータによって自動採点される多肢選択型の自己評価を重視した方が良いかもしれません。これらの活動が強制なのかそうでないのか、評価されない活動に対して最低どのぐらいの時間をかければ良いのか、そして評価されない活動は、評価される活動とどんな関連があるのか、といったことも明確にしておくべきでしょう。学生はこのような活動をコースの最初の週に行うべきです。そして教員は活動を行わない、あるいは活動に苦労している学生へのフォローを行うべきです。
最後に、教員は自分自身が作成した運用基準に従うべきです。学生へのコメントは否定的なものではなく、有益で建設的なものにしましょう。そして「存在」することによって積極的に議論を促し、必要な時(例えばコメントがトピックから外れたり個人的なものになりすぎたりした時)には議論に参加しましょう。
指導の際に客観主義的な手法を採用している教員であれば、学生が必要なコンテンツに触れるだけではなく、きちんと理解しているかどうかに重点を置くでしょう。そのためには誤解しやすい所や理解しにくい所について、コンテンツを様々な形(例えば文字と動画など)で提供し、教員やコンピュータによるフィードバックが与えられるようにしながら、学生が繰り返し学習できるようにする必要があります。多くの LMS では学生の活動の要約が記録できるので、それを利用しながら個々の学生の進捗状況を追跡することが大切でしょう。一方、構造主義的な手法を採用している教員の場合は、オンラインでの議論に重点を置くことでしょう。
どのような手法であれ、学生たちは授業で扱ういくつかのトピックでの教員の立場について知りたがっています。ですから「一方ではこうだが、他方ではこうである」といった形でコンテンツを客観的に提示することが必要となるでしょう。そのトピックに対する教員自身の見解や取り組みについて明確にすることで、学生の参加意識が高まります。そのための方法にはいろいろありますが、ポッドキャストの利用、議論への介入、方程式の解き方に関する短い動画の利用などが考えられます。このような教育的介入に関しては慎重に判断しなければなりませんが、学生の真剣な取り組みや参加を促すという点においては大きな役割を果たすことができます。
教員と学生、あるいは学生同士のコミュニケーションに利用できる媒体には様々なものがありますが、基本的には以下の4つに分類することができます。
私は2つの理由から非同期的コミュニケーションを好んで利用します。学生は働きながら忙しい毎日を送っているので、非同期型での議論や Q & A の方が便利でしょう。非同期型のコミュニケーションであれば、いつでもアクセスすることができます。そして教員である私自身にも便利です。例えば外国で学会などに参加していたとしても、自由な時間があれば私のコースにログインすることができます。また学生に伝えた内容の記録も残っています。LMS を使っているのであれば、パスワードで保護されているので、授業のグループのみに限定してコミュニケーションを行うことができます。
一方、タイトなスケジュールの中でグループ活動の役割や責任を決める、グループ課題の最終原稿を作成するといった難しい決断をしなければならない場合や、学生の知識が足りないために活動を進めることができないといった場合には、非同期型でのコミュニケーションは学生の挫折感を引き起こす恐れがあります。そのような場合には、ブレンド型か完全オンライン型のコースかにもよりますが、対面型あるいはテクノロジーを用いた同期型のコミュニケーションの方が良いでしょう。
完全オンラインのコースでは Blackboard Collaborate をコース開講中に1〜2回使うこともあります。コースの開始時に(あるいは終了時に)顔や声を通して私が実在する人間であるという「存在」を示すことでコミュニティーを意識させます。そして学生に質問や議論を行う機会を提供します。ですが、このような同期型の「講義」はあくまでも付加的なものです。なぜなら録画した形であれば参加できたとしても、その時間には参加できない学生が常にいるからです。
ブレンド型のコースであれば、1~2週目に少人数の対面のグループ単位での集合教育を何度か行います。そうすることで学生は私だけではなく他の学生のことも知ることができ、その後のグループ活動や議論も行うことができるようになるからです。
ブログや eポートフォリオを使えば、学生は各自の学習を記録し学習したことを振り返ることができます。ブログはコースに関連するニュースやイベントに関して教員がコメントをすることができる便利な方法ではありますが、学生のプライベートな生活や会話と、教室内で行うフォーマルなコミュニケーションとは、明確に切り分けておく必要があるでしょう。
このトピックを扱っている書籍はいくつかあります(Salmon, 2000, Paloff and Pratt, 2007; Harass, 2011など)。また本書でも セクション 4.4 で詳しく取り上げています。オンラインでの議論を管理する際にはいくつかの基本的な指針があります。
オンラインにおける学生との交流の方法についてより詳しい運用基準が必要であれば、Gilly Salmon や Rena Paloff and Keith Pratt、そして Linda Harasim らによる本を読んでみてください。
今まで教えてきた中で最も面白く刺激的だったコースには、様々な国から留学生が参加していました。たとえ教育機関まで1時間以内で通学できるとしても、学生たちはそれぞれ異なる学習スタイルを持っており、オンライン学習でも異なる取り組み方をしています。そのため、期待される学習成果やディスカッション・フォーラムにおける目標などについて、明確にしておくことが重要です。学生はみな異なる方法で学習します。もし期待される学習成果の一つが批判的思考であったとしても、学生は異なる方法で達成します。コーヒーを飲みながら他の学生と議論をすることを好む学生もいれば、別の視点を探してたくさん読書をする学生もいるでしょう。また主にオンラインのディスカッション・フォーラムで学ぶことを好む学生もいます。オンラインの議論を見守るだけで、直接的な貢献を一切しない学生もいます。もし留学生の言語スキルを上達させたいのであれば、オンラインのディスカッションに参加させ、そこでの貢献を評価するということもできるかもしれません。ですが、私は学生を強制的に参加させるということはしません。トピックを面白く、自然に学生を引き付けるものにするのが私の仕事だと考えているからです。実際のところ、学生が成果を達成している限りにおいては、どのように達成しているかは気にしません。
ここまでいろいろと書いてきましたが、学生の参加を促進したり励ましたりする方法はたくさんあります。かつて中国姓を持つ20~30人の学生がいる大学院のコースで教えたことがあります。学生原簿と学生たちが投稿した略歴から、一部の学生は中国本土から、それより多くの学生は香港から、そして残りの学生はカナダの住所を持っているということに気づきました。カナダの住所を持っている学生の中にも2つの全く異なるグループがありました。最近カナダに移住したばかりの学生もいれば、ある学生の曽祖父は19世紀に最初にカナダにやってきた移民の一人でした。ステレオタイプに頼りすぎるのは危険ですが、「心理的」そして「地理的」に離れれば離れるほど、最初のうちはオンラインでの活動に参加したがらないということに気づきました。それは言語の問題でもあり、同時に文化の問題でもありました。特に中国本土からの学生はなかなかコメントを投稿したがりませんでした。幸いなことに当時中国からの客員研究員がいました。彼女のアドバイスは、中国本土の3人の女子学生を集め、その3人のグループをひとまとまりとしてディスカッションに貢献させた方が良いということでした。そして投稿する前に「適切」なのかどうかをチェックするために私に送るように指示しました。そこで私は受け取ったものにいくつかコメントをして送り返し、学生たちはそれを投稿しました。すると徐々にではありますが、学期末になる頃には個々の学生が自信を持ち、一人でコメントをするようになりました。でもそれは彼女たちにとってはとても大変なプロセスだったと思います。一方で、コースと関係があるかどうかに関わらず、何にでもコメントをするメキシコの学生もいました。ちょうど当時ワールド・カップ・サッカーが行われていたので、そんなことに対しても彼はコメントを書き込んでいました。
大事なことは、学生が異なるとオンライン・ディスカッションにも異なる反応をするということです。そのため教員はこれらの違いを認識し、全員が参加できることを保障するための方策について検討する必要があるでしょう。
このセクションで扱ったトピックは大きなものであり、1つのセクションだけで適切に扱うのは困難です。しかし学生がオンラインの要素を持ったコースを失敗せずに修了するためには、教員の存在は強調しすぎてもしきれないほど重要だと言えるでしょう。xMOOCs におけるオンライン上の教員の存在の欠如が、コースを修了する学生がほとんどいないことの1つの理由です。
あなたが教員として、学生と交流するための手段は、今や数え切れないほどたくさんあります。しかし、それと同時に自分の負担をきちんとコントロールすることも忘れてはいけません。1年中、毎日教えられるわけではないので、あなたの「存在」が最大限の効果を持つようにオンラインでの伝達手段を設計すると良いでしょう。オンラインで学生と交流することは、教えるという仕事の中で最も面白く、充実感を与えてくれるからです。
Anderson, T., Rourke, L., Garrison, R., & Archer, W. (2001). Assessing teaching presence in a computer conferencing context Journal of Asynchronous Learning Networks, Vol. 5, No.2.
Baker, C. (2010) The Impact of Instructor Immediacy and Presence for Online Student Affective Learning, Cognition, and Motivation The Journal of Educators Online Vol. 7, No. 1
Garrison, D. R. & Cleveland-Innes, M. (2005). Facilitating cognitive presence in online learning: Interaction is not enough American Journal of Distance Education, Vol. 19, No. 3
Harasim, L. (2012) Learning Theory and Online Technologies New York/London: Routledge
Jonassen, D., Davidson, M., Collins, M., Campbell, J. and Haag, B. (1995) ‘Constructivism and Computer-mediated Communication in Distance Education’, American Journal of Distance Education, Vol. 9, No. 2, pp 7-26.
Paloff, R. and Pratt, K. (2007) Building Online Learning Communities San Francisco: John Wiley and Co.
Salmon, G. (2000) E-moderating London/New York: Routledge
Sheridan, K. and Kelly, M. (2010) The Indicators of Instructor Presence that are Important to Students in Online Courses MERLOT Journal of Online Learning and Teaching, Vol. 6, No. 4
教育と学習のプロセスにおける「土台」となる最後のポイントは、評価と改善です。つまり行ったことを評価し、それを改善する方法を探ることです。
テニュア(終身在職権)や昇進のためには、あなたの指導が成功したという証拠を提供できるかどうかが重要です。教育に使える新しいツールやアプローチは次々に生まれています。これらを利用することで、結果が良くなるかどうかを試してみることもできますが、その場合、新しいツールやコース設計を利用することの影響力について評価する必要があるでしょう。このような評価は専門家によって行われます。評価を行う主な理由は、教えるということはゴルフをするようなものだからです。完璧を求めて努力しても、決してそうはなりません。つねに改善が可能であり、そのための最も良い方法は過去の経験を体系的に分析することなのです。
ステップ1では、クオリティーを以下のように狭義に定義しました。
デジタル時代において学生にとって必要となる知識やスキルを上手に育成することができる指導法
この本を読むにつれて明らかになっていきますが、私はこれらの目標を達成するためには多くのコースやプログラムを設計し直すことが必要だと考えています。ですから、設計し直したコースが、従来のコースと比べて効果的かどうか確認する必要があります。
新たに設計したコースの評価方法の1つに、従来のコースとの比較があります。ただし次の条件を考慮しなければなりません。
これら2つの基準は数値を用いて比較的簡単に測定することができます。修了率としては少なくとも85%、つまり100人がコースを受講したら85人がコース終了時の課題に合格することを目指すべきでしょう。残念ながら現在の多くのコースはこの修了率を達成できていませんが、良い教育に重きをおくのであれば、できるだけ多くの学生が定めた基準に到達できるように努力するべきです。
2つ目の基準は成績の比較です。私たちは、より高いに越したことはありませんが、同じ水準以上を維持している新しいコースでも、少なくとも従来の教室で行なっていたコースと同じぐらいのA評価やB評価が付くことを期待しています。
しかし評価を妥当なものにするためには、デジタル時代のニーズに合致するコース内部での知識やスキルについても定義しておく必要があるでしょう。その状態で指導法がどれだけ効果的だったかを測定するのです。ゆえに3番目の基準は次のようになります。
3つ目の基準は他のものに比べると少し難しいかもしれません。なぜならコースや専攻プログラムにおいて想定されている学習目標を変えることを提案しているからです。ここでは新しいメディアを利用したコミュニケーション・スキル、授業で扱う領域における情報の発見、評価、分析、適切に応用する能力(すなわち知識管理)を評価することも含まれるでしょう。このような能力は、従来の教室内で行われてきた授業では適切に評価されていませんでした。このような評価を行うためには、どのような学習目標が最も重要であるか、質的な判断を行う必要があり、学科のカリキュラム委員会や外部認証団体による認定や援助が必要になるかもしれません。
新しい設計と学習目標の下では、すぐに一定の基準に到達するのは難しいかもしれませんが、2~3年かければ到達できるようになるでしょう。
これら3つの基準でコースを判断したとしても、何がうまくいって何がうまくいかなかったかが分かるとは限りません。どのような要素が学生の学ぶ能力に影響を与えたかについて、さらに詳細に調べる必要があるのかもしれません。ステップ1~8ではこれらの要素のいくつかを取り上げてきましたが、以下のような問題に対する回答も知りたいと思うかもしれません。
負担を増やすことなく、これらの問題を解消するためのいくつかの方法を次のセクションで提案します。
判断材料はたくさんあります。実際、伝統的な対面授業よりも判断材料は多いでしょう。なぜならオンライン学習では以下のような追跡可能な証拠が残っているからです。
しかし、コースを開始する前に、前のセクションで挙げたような問題を列挙し、どのような判断材料を用いれば問題への糸口が見えてくるか、考えておくと良いでしょう。
コースの終了時には、私は学生の成績を見て、どの学生が上手に学習を進め、どの学生が苦労したかを確認するようにしています。もちろんクラスに所属する学生の数にもよりますが、人数の多いクラスでは成績ごとにサンプルとなる学生を抽出します。そしてコースの最初まで戻って、学生のオンラインでの活動をできる限り追跡します。ラーニング・アナリティクスのおかげでこのようなことを行うのは簡単になりましたが、LMS を使っていれば手作業でも行えます。その結果、例えば誰とでも交流する社交的な学生というような、学生に由来する要因もあれば、例えば学習目標や内容の説明・提示の仕方というような、コースに由来する要因もあることが分かります。このように質的に見ていくことで、次にコースを開く時には、内容を変更したり、学生との交流の仕方を変えたりしなければならないといった改善点が見えてくることがよくあります。今度は一人の学生が会話を「独り占め」してしまわないように注意深く管理しようと思うかもしれません。
多くの機関ではコース終了時に、学生が授業の内容を報告できる「標準的な」システムを持っています。しかしコースにおけるオンラインの要素を評価するという目的で、これらのシステムが役に立つことは滅多にありません。質問項目は授業の伝達様式に応じて修正しなければいけませんが、利用されるアンケート項目はコース間の比較のためのものなので、評価担当者たちはオンライン教育のための別様式のアンケートを作ろうとしないことが多いです。また、これらのアンケートはコース終了後に学生の自由意志に基づいて回答されることが多いので、ご存知のように回答率が20%以下と低くなってしまう場合がほとんどです。低い回答率は全く意味がなく、誤解さえ招きかねません。多くの場合、コースを途中放棄してしまった学生はアンケートに見向きさえしません。回答率が低いことに加えて、その回答はコースを修了した学生からのものに偏ってしまう傾向にあります。あなたが聞かなければいけないのは、コースの修了に苦労した、あるいは途中放棄した学生の声の方です。
私の経験では、アンケートよりもグループ・ディスカッションがうまく機能します。これは対面で行うか Blackboard Collaborate のような同期型ツールを利用します。途中放棄した学生からA評価の学生までさまざまな達成度の学生7~8人を慎重に選び出し、コースに関して1時間ほどのディスカッションを行います。もし参加したくない学生がいる場合、同じような成績の学生を探すようにします。時間に余裕があり、このようなグループ・ディスカッションを2回から3回行うことができれば、より信頼できるフィードバックを得ることができるでしょう。
私は通常、設計し直したコースを最初に行なった時には、信頼できるインストラクショナル・デザイナーと一緒に、コースの終了時にたっぷり時間をかけてそのコースを評価し、次にコースを開講する時のための改善を行います。その上で、主に目指していた通りのコース修了率や成績になっているかどうかを集中的に確認します。
コースを3回目、あるいはそれ以降に行う時には、例えばeポートフォリオのパッケージのような新たなソフトウェアや、例えば学生が作ったコンテンツ、携帯電話やカメラの利用、プロジェクトに関連したデータの収集のような新たなプロセスなど、外的な要因を考慮に入れながら、どのようにコースを改善すれば良いかについて考えるようにしています。このようにすることで、コースが「新鮮」で刺激的なものになります。しかし通常は本質的な改善は1つに限定するようにしています。2つ以上になると負担が大きくなるというのもありますが、1つに限定することで改善の効果を測定するのが容易になるからです。
このような改善を行う時間は、教員にとっては実に刺激的な時間です。特にWordPress や Canvas のような教員に焦点を当てた「簡易型」LMS、オープン教育リソース、モバイル型学習、タブレットや iPad、電子出版、MOOCs のような新しい世代の Web 2.0 は、改善や実験を行うための多様な機会を提供してくれます。これらのツールを既存の LMS やコースの構成に組み込んでも良いでしょうし、さらに革新的な設計でコースを実施することもできます。第3章・第4章・第5章では、これらを用いた幅広い設計について取り上げました。
忘れてはいけないのは、あくまでも狙いは学生の学習を効果的なものにするということです。私たちは既に標準的な LMS を使えば「安全」で効果的な学習を設計できることを知っていますし、実践もしています。新しい Web 2.0 ツールの多くは中等後教育の環境ではまだきちんと評価をされていません。また、新しいツールのいくつかは、これまでオンライン学習で用いられているものほど効果的ではないということが証明されつつあります。新しいから良いわけではないのです。そこでオンライン学習を始めようとする教員には注意を促したいと思います。既に実践されている方法をまずは試しましょう。そして経験を積むにつれて、徐々に新しいツールや手法を加えていき、それらを評価するようにしましょう。
最後になりますが、コースにおいて刺激的な改善を行いたいのであれば、ここまで述べてきたような方法で適切に評価することを忘れないでください。その上で、同僚らと情報を共有し、その改善を同僚らが自身のコースにそのまま組み込んだり、独自の修正を加えたりして、さらにコースを良くするための手助けをしましょう。このようにすることで、私たちがお互いに学び合うことができるのです。
1. セクション11.11.3の質問と、11.11.4のデータや方法を用いて、あなたのコースを設計し評価してみましょう。その結果、どのような改善をしたら良いと思いますか。
Gunawardena, C., Lowe, C. & Carabajal, K. (2000). Evaluating Online Learning: models and methods. In D. Willis et al. (Eds.), Proceedings of Society for Information Technology & Teacher Education International Conference 2000 (pp. 1677-1684). Chesapeake, VA: AACE.
Page-Bucci, H. (2002) Developing an Evaluation Model for a Virtual Learning Environment: accessed at http://www.hkadesigns.co.uk/websites/msc/eval/index.htm
これまで扱ってきた一連のステップでは、指導の基礎を正しく作ることに焦点を当ててきました。これら9つのステップは以下の2つの原則に基づいています。
副次的な狙いは、あなたがインストラクショナル・デザイナー、Web デザイナー、メディア・プロデューサーといった専門家たち、そしてできれば他のオンライン授業を行なっている教員とチームで、共同作業をして欲しいということです。
ここまでは主に LMS の利用に焦点を当ててきました。その理由は多くの機関では現在 LMS を持っており、どのような配信方法であれ、教育や学習において鍵となるプロセスにおいて、LMS は適切な「枠組み」を提供してくれるからです。私にとっては9つのステップの中に講義録画を組み入れることの方が難しく感じます。なぜなら講義録画を必要とする指導法は、デジタル時代において必要とされるスキルの育成にふさわしいものではないからです。
しかし9つのステップの原則をきちんと理解すれば、新しいツールの利用や新しいコースや専攻プログラムの設計にも応用できるでしょう。もし応用できないのであれば、そのようなツールは一時的な流行に過ぎず、最終的には教育の世界からは消え去ってしまうでしょう。なぜなら、デジタル時代における学習をサポートするプロセスを有効にできないからです。例えば MOOCs は多くの学生に学習を届けることができますが、適切な交流や、教員の「オンラインでの存在」がなければ、既にそうなっているように、多くは途中放棄したり興味を失ったりしてしまうでしょう。cMOOCs のように、経験があり、一緒に学習している他人からの重要なサポートがなければならないのです。やはり効果的な学習を発生させるには、サポートがきちんと組み込まれ、構造化されている必要があります。
ここまで提案してきた手法はどちらかと言えば保守的なものなので、モバイル型学習、ブログ、Wiki などのソーシャル・メディアを利用した、私の用語で言うところの第2世代の柔軟な学習について、すぐにでも知りたいと思う人もいるでしょう。確かにこれらは好奇心を煽る新しい可能性を持つものであり、いろいろ試してみる価値はあります。しかし LMS を使おうと使うまいと、能力に結びつく学習を行うためには多くの学生が以下のようなことを必要としていることを忘れてはいけません。
これらの基準は、多くの異なるツールを用いて様々な方法で達成することができるでしょう。
この章を読み終えると、以下のことができるようになります。
加えて、この章には以下のアクティビティーが含まれています。
本書をここまで読んだところで、これはもうあなたは手に負えないと思っているのかも知れません。特に、もしあなたが大学教授で、あなたの情熱が専門とする学問分野にあり、何よりも優先したいのは調査や学術的研究をしながら専門知識を広げていくことだとしたら。あなたにとって楽な教授法を完全に変えてしまうことを意味するとしたら、教育に精通するための時間など作れるでしょうか。
同じように思っているのはあなただけではありません。Martha Cleveland-Innes (2012) はこう述べています。
「高等教育に関わる教授が完璧な最新の専門知識を持ち、生産的な研究プログラムを行い、積極的に校務に関わりながら、オンラインで教えることに精通していないといけないということを期待するのは現実的ではありません。大学における一番大きな嘘は、教員の役割、報酬、責任が一見すると教育、研究、校務でバランスの取れた活動から成り立っているということです。(Atkinson, 2001) 組織のタイプによってある程度の差異はあるものの、研究は最も価値のある仕事で、最も見返りが大きいのです。この事実は変わらない一方で「教室での教育とコース教材はより洗練され複雑になっています。それは教員の仕事の新たな形と考えられており、古いものと取って代わられるわけでもなく、むしろさらに加えられ、仕事が増えていくのです。」(Rhoades, 2000, p. 38) この事実を明確に認識し、何はともあれ、変化する教育が教職員の役割にどのように組み込まれるべきかをよく考えなければなりません。」
この章では、どのようにデジタル時代における教員の役割に変化が統合されるかいうことを論じています。あなたは例外なのかも知れませんが、全ての教員に何でもできるスーパーヒーローになれというのは現実的ではありません。しかしデジタル時代に十分な能力でプロとして振る舞うことを期待するのは、十分現実的だと思います。
良いニュースは、ここまで本書の全ての章を読み通したら、デジタル時代に十分な能力を持ってプロとしてやっていくのに必要なことを学んだということになるでしょうし、これに関しては99%の同僚よりも確実に先を進んでいることになるでしょう。同僚がこの本を読むまでは、ですが。同時にあなたの勤務先の組織や管理者が、あなたのためにできることも数多くあるのです。そして、これこそがこの章の焦点となります。
Atkinson, M.P. (2001) ‘The scholarship of teaching and learning: reconceptualizing scholarship and transforming the academy’ Social Forces, Vol. 79, No. 4 (pp. 1217-1229).
Cleveland-Innes, M. (2012) ‘Teaching in an online community of inquiry: student, faculty, and institutional adjustment in the new higher education’, in Akyol, Z. & Garrison, R.D. (Eds.) Educational communities of inquiry: theoretical framework, research and practice, (pp. 389-400). Hershey, PA: IGI Global.
Rhoades, G. (2000) ‘The changing role of faculty‘ in Losco, J. and Fife, B. (eds.) Higher Education in Transition: the challenges of the new millennium Westport CT: Bergin and Garvey
北半球のほとんどの国々では、8月中頃までには教員の職能開発やFD(訳注:ファカルティ・ディベロップメント、教育内容・方法等をはじめとする研究や研修を大学全体として組織的に行うこと)の研究集会や会議が終わり、皆、仕事から離れてようやく休暇を取ります。多くは初めて LMS(学習管理システム)や講義録画システムの使い方を初めて学んだでしょうし、また eポートフォリオ、モバイル学習、オープン教育リソースといった新しいテクノロジーに触れたでしょう。また、それなりの数の教員が、新しいテクノロジーが可能にする新しい教授法を経験したでしょう。いずれも素晴らしいものなのですが、同様にデジタル時代に教員が直面しているニーズに不十分でもあるのです。
大学教授は研究に関しては博士課程で訓練を受けていますが、教授法に関しての訓練は必要条件にはなっていません。せいぜい任命されれば、FDに任意で参加するくらいです。ポスドクの学生が教室での授業準備について学ぶ短いコースを受けたり、場合によっては、それに関する修了資格をもらったりするかもしれませんが、これもたいてい義務ではなく最低限のものです。それどころかむしろ学習テクノロジーを試すことに興味を示す学生や、教育に関する専門コースや専攻プログラムを履修している大学院生は、担当教授から故意にやめるように仕向けられることもよくあります。研究が損なわれる可能性があるからです。また、非常勤講師や任期制教員が増加しているのも問題を悪化させる要因です。(セクション12.4 参照) 契約だとどのような研修にも給料が発生します。しかし大学側は契約講師の研修をしたがらないことが多いのです。なぜなら契約が終わると彼らはそこを去り、研修の内容やスキルを競合相手のところに持っていってしまうかもしれないからです。
短大では少し状況が違います。多くの(決して全部ではないですが)管轄機関では、その地域や学区の教員養成資格プログラムがあります。大学の中にはそのプログラムを教員に任命された際や、すぐ後に受けさせることがあります。しかしこうした専攻プログラムの多くでは、オンライン学習を考慮するようにはなっていません。そしておそらくブレンド型学習ができるほど最新でもありません。私はそのような専攻プログラムで少し前に外部評価委員だったことがあるのですが、オンライン学習やブレンド型学習について言及しているものは、ほとんどありませんでした。この専攻プログラムで扱われていたテクノロジーのほとんどは、少なくとも20年前のものでした。
教員養成レベルでの包括的または系統的な訓練がないために、現在の職能開発には不釣り合いなほどの負荷がかかっています。というのも、現在の職能開発は良く言っても質・量ともにその場しのぎで不揃いなものだからです。何よりも、それは全くの自主性に任せた制度なのです。言い換えれば、教員は在職中に教育に関するワークショップやコースを取らなくても構わないということです。そして、ほとんどの教員がそうなのですが、もし取るにしても、職能開発の時間は教育よりも研究に重点を置いています。Christensen Hughes and Mighty (2010) は10%未満の教員しか教育の改善に焦点を当てた職能開発に参加しておらず、参加する方を選んだ教員は往々にして既に優れた教員であるため、その必要がない人たちであると言っています。
最後に、ほとんどの教員は実証に基づいた根拠や様々なアプローチの有効性に関する研究を基に自身の授業の実践をしていません。Christensen Hughes and Mighty (2010) は高等教育の教育と学習に関する調査についての研究をまとめたものを編纂し、序章でこのように言っています。
研究者は高等教育における教育や学習に関して多くを発見したが、この情報の普及や活用は限定的である。つまり授業実践と学生の学習経験に関する教育的研究の影響は軽視されてきた。
同じ本の中で著者らと同じクイーンズ大学の Christopher Knapper は こう述べています。(p. 229-230)
国際的には様々なところで実証的な根拠が増えている。それは高等教育で普及している授業実践について現代社会が要求する種類の学びになっていないというものだ。授業はほとんど一方的なままだし、学生の課題評価はしばしば軽視され、カリキュラムは生涯を通じて人生全般で使えるスキルの習得というよりも教科内容の範囲を網羅することの方に力を入れているように思われる。
しかし、教授法やカリキュラム設計が自発的で内省的な深い学習にいかに影響を及ぼすかについて、非常に見事でよくまとまった証拠がある。それでも、ほとんどの大学教員はこの分野には疎く、授業実践は研究の証拠というよりも、むしろ伝統によって支配されている。
この本が示しているのは、私たちはデジタル時代にうまく教えるために必要とされるものを発明したり、発見する必要はないということです。十分に確立された文献や 概ね合意を得た最良の実践 はありますが、Christensen Hughes and Mighty が指摘するように、教員の大多数とまではいかなくても、多くがこれらの基準に気づいていないか無視し続けています。
大学教育が数少ないエリート学生に限られていた頃、つまり教授と学生が親しく1対1の関係を築いていた頃は、教育のきちんとした訓練を受けていなくても、かなり効果的に授業はできていました。今はそのような状況ではありません。教員は多種多様な学生がいる大人数のクラスに向き合わなければなりません。学生らの学び方、学習スキル、能力も様々です。重要視されるのは内容としての知識からプロセスとしての知識へと変わってきています。教授法は知識基盤社会で必要とされるスキルやコンピテンシーを伸ばすものを採用しないといけません。そして何よりも、絶えず変化するテクノロジーのせいで、教員は教育に適切なテクノロジーを選べるように、分析的な枠組みを持っていることが必要とされています。
特に、インターネットが学問、研究、仕事、余暇に与えている大きな影響は、知識基盤社会において必要な知識やスキルを学生に身につけさせなければいけない私たちの教授法にも大きな見直しを迫っています。教員には包括的で体系的な訓練が必要になります。その制度は任意の参加であってはいけませんし、今日の状況に要求される基準で測ったときに、十分学べる内容になっていない制度であってもいけません。
ブレンド型学習、ハイブリッド型学習、オンライン学習への移行に伴い、教員はさらに高い水準の訓練を受けなければならなくなりました。これは LMS(学習管理システム)や iPad の使い方を学ぶというではありません。学生がいかに学び、いかにスキルを伸ばし、いかに知識が様々な媒体を通して表され、処理されるか。そして学生が学びにおいて、いかに様々な判断を利用するか。それは学習に対して様々な方法を試みるということです。テクノロジーを利用するということは、このようなものと結びつかなければなりません。例えば、伝達モデルと知識の構築を比較して、テクノロジーがどちらの手法と相性がいいかを調べることです。結局のところ、特定の知識分野や教科で具体的に必要とされることと、テクノロジーの利用を結びつけるということです。
オンラインで教えた経験やスキルがない教員をサポートする、独立した学習テクノロジー・サポート・チームの設置のおかげで、ブレンド型学習やオンライン学習が広まりやすくなりました。サポート・チームがあることは非常に重要ではありますが、一方でブレンド型学習やオンライン学習の広がりに合わせてチームを拡大し続けることは、非常に費用がかかることです。(Bates and Sangrà, 2011) そのため、教員養成の初期に適切な訓練をする方がずっと費用対効果は高いです。なぜなら新しいテクノロジーが出てきても、チームは新しい教授法や学習法の訓練や職能開発や研究開発に集中できるからです。
問題を特定することは解決するよりずっと簡単です。とりわけ、大学の文化は既存のシステムを守りたいものです。学問の自由はしばしばそういった現状維持の主張に使われていますし、大学の教職員組合は通常の業務以外の訓練に時間が使われる時はどんな時でも教員に対する支払いをするように要求します。Bates and Sangrà (2011) が指摘するように、これは制度的な問題です。しかし大学を例に考えると、制度を変えるということは難しいのです。なぜなら優秀な若い研究者が、教育訓練を要求しない他の大学に移ってしまう恐れがあるからです。
この課題に対応するには様々な方法があります。以下では、一つの可能な戦略を提示することから始めたいと思います。
最初に、組織のトップ、教員、学部、関連する教職員組合、品質保証委員会、資金提供機関に対して、ここに大きな問題があるということを認識し受け入れてもらう必要があります。これこそが学校や大学に欠けていることなのですが、スキルのある教員を育てるのは教育的な問題であり、経済発展に関わることでもあります。デジタル時代に必要な知識とスキルを伴った人材が欲しければ、教員自身がこのようなスキルの伸ばし方を知っていなければなりません。そして特に、学習テクノロジーやオンライン学習は、このようなスキルを伸ばすために非常に重要な構成要素であるということを認識しなければなりません。
教員としてのキャリアの中頃や終盤に多くのまとまった時間を取るよりも、教員になりたての初めの頃に、きちんと準備させる方がずっと経済的で効果的です。テクノロジーは時とともに変わっていきますが、教育や学習の基本的な必要事項は比較的変わらず安定しています。そういうわけなので、これは教員養成時に取り組むべき問題なのです。将来、大学で教員として働きたい学生には、修士課程在籍時、あるいは特に博士課程在籍時に、中等後教育に関するコースを履修し、教育実習にも十分な時間があるようにしなければなりません。あるいは教育と研究スキルを養成する別の課程を新設する必要があります。
理想を言えば、州や地域の評議委員会や教育委員会が集まって全ての大学教員を訓練できる包括的な制度を作るべきでしょうし、そのような専攻プログラムは随時更新されるようにすべきです。同様に、教育や学習の適切な訓練につながる雇用や昇進のために、管轄区域で共通のプランや基準が作られる必要があります。これは学習テクノロジー・チームや、職能開発部の専門家が入った適切な作業部会を新設して取り組む必要があります。
組織全体で構成される作業部会は各部門での着任前教育のための「コア」カリキュラム、最低水準、能力基準に関して統一すべきでしょう。これらの基準にはデジタル時代の学習者が必要とする知識やスキルが含まれます。この研修制度が実施可能になった暁には、認定された研修を受けないことには、新しい主要な教育職の身分には就けないようにするべきです。
現役教員の職能開発では、当人と部門長の毎年の取り決めの中で各自の職能開発プランを立て、それを義務付けるというのが一つの方法になるでしょう。開業医が必ず受ける職能開発プログラムと同じように、新たな教授法やテクノロジーを定期的に学ぶのです。科目領域にしたがって、それぞれ個人の職能開発計画が必要になるでしょう。
政府は今後の助成金の条件として、適切な教員養成研修や現役教員の研修制度を実施するよう、教育委員会や大学に強く求めた方がいいでしょう。政府は研修の基準に届かない、あるいは関係当局が承認していない公的機関には助成金を出さないようにするべきです。
ブレンド型学習やオンライン学習、そして学習テクノロジーは職能開発において、分割した活動としてではなく、一つの構成要素として捉えた方がよいでしょう。既にこのような形になっているところはまだあまりないとは思いますが、FD を担当する部門は学習テクノロジー・チームと統合し、教育学習センターとすべきです。教育機関の大きさによりますが、組織の中央か部内に置かれるでしょう。
医師やパイロットが自身の主な業務に関わることで正規の訓練を受けないままでいいなどと私たちは全く思わないでしょう。しかし中等後教育の教育に関してはまさにそういった状況なのです。私たちは任意のアマチュア主義的制度から抜け出して、中等後教育の指導の研修を専門的で包括的な制度にしなければいけませんし、教員養成や現役教員の研修カリキュラムも最新のものに更新していかなければならないのです。本書では少なくともこの種の訓練のための基本的なカリキュラムを提示しようとしています。
ここまで、私は制度的な問題に対するいくつかの解決法を提示してきました。他にも専門的な実践共同体を支援するものもあり、大学側には文化的に受け入れやすいとは思いますが、包括的で体系的という基準には見合っていません。
オンライン学習や新しい学習テクノロジーは問題の原因でも解決策でもありませんが、変化に必要な触媒を確実に生み出しています。私たちの学生はきちんと訓練を受けた教員から教わって当然なのです。現在の状況は、少なくとも中等後教育においては、ますます受け入れがたいものになってきており、誰もがあえて本当のことを話したがらないという事実があります。私たちはそろそろ何とかしなければいけない時に来ているのです。
Bates, A. and Sangrà, A. (2011) Managing Technology in Higher Education: Strategies for Transforming Teaching and Learning San Francisco: Jossey-Bass/John Wiley & Co.
Christensen Hughes, J. and Mighty, J. (eds.) (2010) Taking Stock: Research on Teaching and Learning in Higher Education Montreal QC and Kingston ON: McGill-Queen’s University Press, 350 pp
Knapper, C. (2010) ‘Changing Teaching Practice: Barriers and Strategies’ in Christensen Hughes, J. and Mighty, J. eds. Taking Stock: Research on Teaching and Learning in Higher Education Toronto ON: McGill-Queen’s University Press
本書には多くの参考文献を掲載しています。教員がデジタル時代にインストラクショナル・デザイナーやメディア・プロデューサーと仕事をするために、可能な限り必要とするものになっています。理由は説明不要なほど明らかですが、以下のようなものです。
結果として、過去10年から20年の間、学習テクノロジー・サポート・システムの数は急速に増加しました。これは大学当局の中心部でも、大きめの教育機関でも、様々な大学の学科内でも使われるようになっています。昔ながらのやり方が残っているシステムは変化するのに時折長い時間を要することがありますが、時が経つにつれ、FD、学習テクノロジー・サポート、遠隔教育の個々のチームが様々な名称の元に、多機能な役割をする一つのチームに合併し、統合されてきました。
ブレンド型学習、ハイブリッド型学習、そしてオンライン学習への動きが増えるにつれ、サポート・チームへの要望も高まってきています。私のよく知るある大学では現在、60人のサポートスタッフを抱え、教育学習テクノロジー・センターに1200万ドルの予算をつけ、さらに大きな学部にはいくつかの「サテライト」チームもあるほどです。その一方で小さな小学校では、自分の仕事に加え、コンピュータとインターネットを維持する研修を受けた先生が一人いるだけでもラッキーな方と言えるでしょう。しかし、多くの学校には個々の先生や学校をサポートできる中心となる教育テクノロジー・チームがあるのです。
私はそのような教員と動く専門チームを強く支援している一人です。しかし必要なコストとのバランスが取れていなければなりません。これらのチームの予算はだいたい全体の教育予算内からきているので、それはつまり最終的にクラス規模の拡大と連動しています。サポート・チームの人員は教員養成段階での研修や現役教員に対する研修の不足と反比例し、ますます必要とされるようになります。
このような学習テクノロジー・サポート・チームはデジタル時代の教育が効果的に発展していくには欠かせないものです。そのため学習テクノロジー研修の用意とサポート・チームの必要性の間で良いバランスを見つけることが必要となっていくのです。こういった理由からFD と学習テクノロジー・チームは統合される傾向にあり、教育機関は教育と学習を支援するのに明確な戦略が必要というわけです。非常に熱心な教員がサポートを受けずに上手に教えることはできますが、大部分の教員にとってサポート・チームは重要な恩恵となってきています。
現在、雇用条件にいくつかの大きな変化があり、それはデジタル時代に必要な教育を行う個々の教員の能力に影響するでしょう。
最も分かりやすいのはクラス人数です。教育のためにテクノロジーを利用すれば間違いなく規模の面でのある種の節約が達成できる場合もあります。(例えば Bates, 2013 を参照)1人の教員に対して何人の学生が最適かという魔法の数字はありませんが、これまでの章で見てきたように、デジタル時代に必要な知識とスキルを伸ばすには、教科の専門家と学生の間に何らかの教員が「存在」していることと、やり取りがあることが必須です。
教授内容を伝えるために教員が必要なことをテクノロジーで代用することも可能ですが、スキルを深く理解し伸ばすために欠かせない、一人の教員に対する学生の数、すなわち教員学生間の継続的なコミュニケーションの必要性という点では、すぐに限界が来てしまいます。その限界を超えてしまうと、少なくとも最もコストがかかる重要な知識とスキルに関しての教育効果は急速に失われていきます。(Carey and Trick, 2013)
これは大きな問題です。大学や短大では、規模が大きいところでは1・2年生向けのクラスが数千人にもなる場合がありますし、3・4年生でさえ数百人になります。教員と学生の割合において、なんとかうまくいくクラス規模を保証するためには何ができるでしょうか。教育機関ではこの課題に対して様々な手法を試みています。
過去20年間における北米の大学での最も大きな変化の一つは、大学における終身地位保証のない教員の増加です。2002年から2012の間に入学が40万人以上増加するなど、カナダ全土では学部への入学者数が爆発的に増加しましたが、それに対応する終身地位の保証がある教授の数が増えることはありませんでした。1980年代から2006年までの間に教員の数は倍になった一方で、終身もしくはその地位保証がある教授の数は10%減っています。(Chiose, 2015) その地位は米国でより劇的でした。2008年の経済危機では米国の大学はカナダの大学よりも大きな打撃を受けました。
カナダの有力紙である The Globe and Mailの記事で Simona Chiose が2015年にこう書いています。
カナダの大学は、従事する時間の3分の1以上を研究に充てる終身教授は、高等教育を行う余裕はもはやないと言っています。その代わりに大多数の大学では、妥当なコストで教室にスタッフを配置するには、程度の差はあるものの、契約講師や教育専門の教職員に頼らざるを得ないことを決定しています。
非常勤講師や任期制教員は、たいてい当該分野の博士課程を持っているか、職業的な分野でより強く関連する実務経験があります。カナダでは契約講師の組合 (CUPE) は毎年採用に再応募しなければならない任期制教員が、複数年の契約をできるようにしようと戦っています。理想を言えば、組合が大学に求めるのは、終身雇用がなくても、任期制の契約よりも仕事に安定性がある教育の仕事を、優先的に任期制教員ができるようにして欲しいということです。職が安定すれば、教育の訓練の機会もあります。
近年、さらに警戒すべきレベルで増えているのは大学院生を講義助手として使うという風潮です。講義助手はしばしば1・2年生の200人以上の学生の講義を担当しています。教育機関でオンラインと対面授業を組み合わせたハイブリッド型へ移行していたところでは、この形態をますます採用するようになっています。特に従来は非常に大規模の講義型のコースだったところを、ハイブリッド型として設計し直している事例が目立つようになってきています。このように大規模で学生が多いコースでは、講義助手を含めても、教員と学生の比率はたいてい1:100以上です。講義助手の場合、決して全員とは言いませんが、多くの場合、対面授業に関しては何らかの訓練を受けていても、オンラインで教える追加の訓練はたいてい受けていません。
しかし、完全にオンラインで受講するコースの場合には違うモデルが採用されており、教員と学生の割合は意図的に学部では40人未満、大学院では30人未満にしています。規模を拡大するときはパート・タイムの兼任教員や助教授を契約によって追加することでまかなっています。兼任教員は賃金をもらって、オンラインで教えることが見込まれることを説明する、短いオンラインの事前コースを受けます。これらはコースが完成し、学生が授業料を払うと、さらに追加で契約講師を雇うコストを十分まかなうことができるので、手頃な方法だったというわけです。 (Bates and Poole, 2003)
一方、このようなオンライン・コースのほとんどは、主に高学年の学部生や大学院生を対象にしていたため、うまくいきました。現在では1・2年生を対象にしたブレンド型学習やオンライン・コースでも「最良の授業実践」には程遠い、オンライン・コースの新しい形態が開発されています。
この解決は以下に述べる複数の理由から、特に難しい問題となっています。
このような警告があるので、オンライン型やブレンド型のコースで講義助手に過剰に頼ることは、学生にもオンライン学習一般にも否定的な結果をもたらすのでしょう。
対面式のクラスではそれができるのに、なぜ講義助手はオンラインで必要なサポートをできないのでしょうか。まず検討しなくてはならないのは、講義助手が人数の多い1年生の対面式のクラスで学生に適切なサポートをきちんとしているけれども、オンラインではやっていないというのは事実でしょうか。ディスカッションが重要な分野や、学生や教員が質的な判断や決定をしなければならない分野、知識を深めて体系化する必要がある分野ではどうだろうかということです。つまり、どんな分野であっても、学習に情報の伝達と反復以上のものが必要で、当該分野を深く理解している教員と学生がやり取りする必要がある科目を、講義助手に適切にサポートできるのかということです。したがって(常に例外はあるでしょうが)一般的な話として、講義助手ではなく、オンラインやブレンド型で教えられる非常勤講師を雇う必要があるのです。
しかし、非常勤講師や講義助手を使うことについての議論は重要な問題を隠してしまっているのです。誰もが話したがらないことですが、1・2年生のクラスの人数が非常に多くなってしまう要因が2つあります。
学生の多様性が増しており、それが教育に影響を与えていることについては本書でこれまでにかなり言及してきました。ここでは教員の多様性も増していることを付け加えておくべきでしょう。
教員の多様性が増している理由とその意義については本書の範囲を超えているのですが、職が何らかの形で安定していなければ、新しいテクノロジーや教授法の訓練を受ける機会もほとんどなければ、受けようとする気持ちも生まれないことでしょう。
Bates, A. and Poole, G. (2003) Effective Teaching with Technology in Higher Education: Foundations for Success San Francisco: Jossey-Bass
Bates, T. (2103) Productivity and online learning redux, Online Learning and Distance Education Resources, December 23
Carey, T., & Trick, D. (2013). How Online Learning Affects Productivity, Cost and Quality in Higher Education: An Environmental Scan and Review of the Literature. Toronto: Higher Education Quality Council of Ontario
Jonker, L. and Hicks, M. (2014) Teaching Loads and Research Outputs of Ontario University Faculty: Implications for Productivity and Differentiation Toronto: Higher Education Quality Council of Ontario
全ての学生がデジタル時代に必要な知識とスキルを伸ばせるように、クラス人数を縮小するのは簡単ではありません。コース設計が対面であろうと、ブレンド型や完全オンラインであろうと、一人の教員に対する学生の数の多ければ、教育的にできることが制限されてしまいます。
しかし1,000人以上の初級コースを設計し直して成功している例は数多くあります。(例えば the National Center for Academic Transformation’s course redesignを参照)以下に示すものは一つの解決法として採用してもいいかもしれません。
どんなにコースを詳細に設計しても、このような人数の多いコースには明確なビジネス・モデルが必要です。基本的には全体予算の中に、終身教授や非常勤講師や TA にかかる費用を含み、学生数を考慮し(学生数が多くなれば、さらに予算が必要です)なおかつベテランの教授がその予算内で可能な限りベストなチームが組めるようにしなければなりません。非常勤講師は事前に自分の責務やオンラインでのメンタリング、課題の採点などについて事前説明を受け、契約の一部として、またはそれに追加して賃金が支払われることになるでしょう。
理想的には教育体制はできる限りクラス人数が多くならないようにするべきです。しかしチーム・ティーチングの原則としては、30人前後の学生数で実施されるべきでしょう。
1,600人のクラスを担当することを考えてみましょう。2人の非常勤講師と6人のTAを雇うことができる授業をどのように設計しますか。
FD、研修、クラス規模、契約講師やTAの雇用、チーム・ワークに関わる問題は、デジタル時代(実際、どんな時代にも当てはまりますが)に必要な知識やスキルを伸ばす教育ができる組織の理解力に影響を与えるでしょう。あなたが大学に勤務する終身教授ならば、デジタル時代の必要性に見合うようにあなたの授業に必要な更新を個人で行うのも可能かもしれません。しかし、他の大多数の教員のためにも、教育機関で全体として、必要に応じた教育の更新を支援する必要があります。
教育機関は次のような組織的な計画や戦略を持つことで最適な支援ができるでしょう。
戦略を立てる方法はいろいろあります。(Bates and Sangrà, 2011を参照) 全体の目標を設定するためには、トップ・ダウンとボトム・アップ両方のプロセスが必要となります。大学では、学部の次の3年間の計画を提出する年次計画プロセスを通して行われるでしょう。これは、大学が設定した全体の学術的な目標に合わせることを基盤とし、必要な人員や予算なども含まれます。このような計画サイクルでは、作成の際に学部が「ターゲット層」とする学習者の、デジタル時代におけるニーズに合わせた到達目標を含めることが重要です。この計画には扱われる内容だけでなく、理論的根拠のある指導方法や教授法も示すべきです。
いくつかの大学では既にデジタル時代に必要な種類や品質の教育に重点を置くことを目標とした計画を実施しようとしています。例えば、ブリティッシュ・コロンビア大学の フレキシブル・ラーニング・イニシアティブ やオタワ大学の eラーニング計画 があります。改めて言うべきことではありませんが、本書の読者にとって重要なのは、このような大学では、手段や方向性をまとめるために積極的に動いているのを知っておくことです。組織的な支援なしには、大きな変化を起こすことは難しいでしょう。
Bates, A. and Sangrà, A. (2011) Managing Technology in Higher Education San Francisco: Jossey-Bass/John Wiley and Co
本書は、現実に、教授法の訓練が増えているという事例を提示します。より正確に言うなら、教授法とは、学生がデジタル時代に十分に備えられるようにするための教員のための訓練への様々なアプローチのことです。以下のような理由があります。
これらはどの教科領域にも関係するスキルであり、その領域に組み込まれる必要があります。このようなスキルがあると、学生は VUCA(変わりやすく不確実で、複雑かつ曖昧な)世界により対応できるでしょう。
こうした基礎がないと、それぞれの教員が慣れ親しんだ唯一のモデル、つまり講義と議論が中心の教授法から離れるのは難しくなります。なぜなら、この教授法はデジタル時代に必要とされる知識やスキルを獲得するには限界があるからです。
政府、教育機関、学習者自身が教育や学習で確実に成功するために取り組めることはかなりありますが、結局のところ責任、そしてある程度まで変える権限は、教員自身にあります。他の職業では、そんなふうに自分が選んだ方法で働ける機会はおそらくないでしょう。
あなたがデジタル時代に必要な教育を作り出すのに役立つように、付録Aでは、本書で概説した指針に沿って、学生にとって豊かな学習環境を作り出すための練習問題があります。
安定した知識の基盤と経験が重要ですが、教員の質にとって未来を見通す力と想像力以上に重要なものはないでしょう。本書では未来の教育の可能性を少し覗いてみましたが、その未来もまた新たに作り出される必要があるのです。市場の需要、社会の倫理的道徳的課題、変化するテクノロジー、そして学びのニーズの多様性は教員からの適切な対応を必要とする、複雑に混ざり合った要因の全ての構成要素なのです。
本書では、変わりやすく不確実で、複雑かつ曖昧な世界における意思決定の基礎をいくつか提供しようと試みています。私は シナリオJ で未来の一つの可能性を示唆して本書を締めくくりますが、未来の世界でいずれ必要になる卒業生を生み出すことになるのは、新しい指導を生み出す多くの教員の想像力です。本書がそこに至る一助になれば幸いです。
やあ、クリス、僕が最近 UCC(架空のカナダの大学、「カナダ中央大学」)で何を勉強しているか知りたがってたよね。ええと、グローバル・サイエンスっていう素晴らしい専攻プログラムの半分くらいまできたところなんだ。5つか6つの問題の中からリサーチをすることを選ぶことになってるんだけど、僕が選んだのは「インフルエンザを止める」ってやつ。基本的にインフルエンザ・ウィルスに注目してパンデミックをどうやって防ぐかっていうことを考えるんだ。始めた時は、医学を勉強するんだって思ってたんだけど、他のサイエンスはもちろん、数学に地理に農業にマネジメントから通信まで学ばないといけなくってさ。全部、その問題になんだかんだ関係があるからね。僕たちは問題を明確にし、データを集め、そして結果を解釈するのにグループで取り組むんだよ。
25人のグループに入ってるんだけど、みんな世界中から集まっているんだ。全体では2,000人以上の学生がこの専攻プログラムに参加している。僕のメインの担当教員はマデリーン・マクビカー博士なんだけど、彼女は国の反対側にあるハリファックスの病院にいるんだ。でも彼女はむしろオーケストラの指揮者みたいなもんで、コースには世界中の専門家が関わっている。短いポッドキャストや YouTube だけに出てくる人もいるし、リサーチの中で出てくる特定の質問を扱う Web セミナーでの配信をする人もいたりする。マクビカー博士は僕たちに役立つリソースを見つけるのが素晴らしくうまいし、この専攻プログラムを始めた教授たちとオンラインで集合教育を受けることもあるよ。
最初戸惑ったのは、講義や事前に決められた週ごとの研究トピックがないってことなんだ。基本的なリサーチ方法についてモジュールに取り組まなければならないことはあったし、UCC の教授たちが作った Web 上の専攻プログラム・ガイドみたいなものはあったけど、僕らが研究トピックを選ぶんだ。そしてインターネット上で無料で提供されている幅広い素材、例えば、オープン・アクセスの学術誌とか、取り組んでいる研究課題に直接役立つ iTunesU のものとかを提供してくれるんだ。コースのWebサイトにはどこを見るべきか情報が載っているし、僕らがアクセスして探した素材をリスト化して、中間報告をマクビカー博士に送らなくちゃいけなかったよ。例えばインフルエンザ・ウィルスの分子組成みたいなトピックとか、分かりやすいものもあるけど、他のトピックは僕らで見つけないといけなかったよ。僕が特に関心を持ったのは、国境を超えるような旅行とインフルエンザ感染拡大のつながりだったよ。でも常にやらないといけないことの1つに、僕らが使う情報源とその信頼性の評価をするというのがある。
毎月、グループで僕らのオンライン・レポートを作成しないといけなくて、それは eポートフォリオって呼ばれているんだけど、そこには毎月のリサーチの進捗状況が記されている。この毎月のグループでの eポートフォリオが最終成績の50%になる。個人のポートフォリオが残り50%だよ。個人のポートフォリオには、プロジェクト全体の要約と、このプロジェクトにどのくらい自分が貢献したかっていうこと入れるんだ。そして、マクビガー教授が採点と成績評価をする。
同じ課題を研究している学生グループは UCC にだいたい20くらいあるんだけど、毎月のeポートフォリオがある共有Webサイトやディスカッション・フォーラムを通して、他のグループからも手伝ってもらえたり、フィードバックがもらえるように、グループ間でデータをシェアするんだ。僕の仕事のこともあって、特にいろんな種類のインフルエンザの死亡率に関心があるんだけど、その分野の専門家が他のグループにいて、その学生と繋がることができたんだ。彼はスイスの保険会社で働いてるんだけど、ひょっとしたら仕事に繋がるかもしれないよね!
UCC には世界中の病院や保健当局と結んだ合意があるから、素晴らしいデータにもアクセスできる。特定の週に地元の病院にきた来院者数のようなデータは僕らで探さないといけないけどね。例えば、特定の系統のウィルスの拡大をコースの最初の週に追跡することができたんだ。当時、中国で特定されたやつなんだけど、そのあと5ヶ月間世界に広まったやつさ。UCC は IBM とも提携してて、データを読み込んで、いくつかの解析手法を使うことができる。世界中から生のデータを他所よりも引っ張ってこれる力があるから、UCC はこの専攻プログラムのリサーチを支援するために研究機関の一つからお金をもらっているらしい。だから僕らは時々 UCC の教授から Skype で僕らのデータにアクセスしたいって連絡をもらったりするんだ!他のグループなんか彼らのデータが欲しくて、WHO(あの世界保健機関だよ、ロックバンドの方じゃなくて)から問い合わせがあったくらいだよ。
留学生の多くは他の大学にいて、自分の大学の専攻プログラムと単位互換する。まあ多くの学生は勤務先の病院や政府機関なんかが学費を負担しているんだろうけどね。実際、研究課題の一つを問題なく終えたら証明のバッジがもらえて、3つ全て終えたら資格証明書が取れる。でも、学位をとるには最後の60単位は自分で個別の研究プロジェクトをやらないといけない。みんなは個人の研究プロジェクトは要求水準がすごく高いからかなり大変だって言うけど、僕はそれをやろうと思ってる。大学院に行くのに必要だからね。
でもこの専攻プログラムで本当に気に入っているのは、ものすごい速さで本当にたくさんのことを学んでいるっていうところなんだ。現実の問題を取り扱っていて、違うバックグラウンドをもった、たくさんの人たちと同じ問題に取り組むっていうのは、勉強しているっていう感じもあるけど、僕の力を発揮しているみたいに感じるよ。
謝辞: このシナリオは、もともとイギリスのオープン大学で開発されたもので、許可をもらって利用しています。このシナリオはマクマスター大学の先端科学専攻プログラムに影響を与えました。しかし、マクマスターの専攻プログラムは選抜された50人限定で、キャンパス内で行うものとなっています。
この章を読み終えると、次のことができるようになります。
総合的で効果的な学習環境を構築することは、デジタル時代の教育と学習を実施するための重要な条件です。この付録では、学習環境にとって重要な構成要素と、デジタル時代の発展によって、これらがどのように影響を受けるかについて説明します。この章の内容は次のとおりです。
加えて、この章には以下のアクティビティーが含まれています。
第1章から第12章では、デジタル時代に教えるための一連の指針を提供しています。これらはそれぞれを独立して利用するわけではありません。教員も学習者も、新しいテクノロジー、教授法、政府、雇用主、保護者、メディア等の外圧を伴った、急速に変化する世界に直面しています。そのような嵐のような環境の中では簡単に投げ出されてしまいます。
この付録では、本書で説明している指針を適用できそうな、安定した柔軟な状況を提供するために、実際の条件の中、つまり効果的な学習環境の中に置いてみることを試みます。本書の他の部分で記載されている内容を基本としましたので、これを付録として掲載することにしましたが、指針を効果的に利用するためには豊かで一貫性のある学習環境内で適用する必要があります。
「学習環境とは、学生が学ぶ様々な物理的な場所、状況、および文化のことです。学生は学外や屋外の環境など、様々な場面で学ぶことがある。机や黒板のある「教室」は限定的で伝統的な意味合いを持つので、その代わりとして、学習環境という用語が、より正確で好ましいものとして利用されます。
この用語はまた、学校や教室といった文化の縮図となっています.つまり,この用語には,各個人が他者とどのようにかかわるのか,学習を促進するために教員がどのように教育の状況を組織化するのかといったことを含む倫理や特性も前提としています…」
教育改革の用語集, 2014年8月29日
この定義では、学習者は多様な文脈の多様な方法で学ぶことを認識しています。学習者は学習をしなければならないことを踏まえると、目的は学習者の学ぶ力を最大化するための学習の総合的な環境を作り出すこととなります。もちろん、最適な学習環境は1つだけではありません。無限の学習環境の可能性があり、それが教育をとても面白くしてくれます。
特定のコースや専攻プログラムで、学生のための総合的な学習環境を開発することは、おそらく教育の最もクリエイティブな部分です。教室、講義室、研究室など、物理的な施設という意味での学習環境、またはオンラインでの個人学習環境を作成するために利用されるテクノロジーのいずれかに焦点を当てる傾向がありますが、学習環境はこれらの物理的要素だけではありません。以下のものも含まれます。
図A.2.2 は、教員の観点から考えられる学習環境の1つを示しています。教員は、学習者の特性やリソースなどの一部の要素についてはほとんど、あるいは全く制御できませんが、コンテンツの選択や学習者のサポート方法など、その他の要素は完全に制御できます。それぞれの主要な構成要素には、考慮すべき一連の下位要素(コンテンツの構造、練習問題として行うアクティビティー、フィードバック、テクノロジーの利用、評価方法など)があります。実際に決定を下す必要があるのは下位要素の方です。
私が図A.2.2で示したのは、ほんの少しの構成要素であり、包括的というわけではありません。例えば倫理的行動の発達、教育機関としての要素、外部認証評価などの構成要素も含めることができます。いずれも教員が教える学習環境に影響を与えるものなのかもしれません。特定のコースや専攻プログラムの教育上の文脈を包括的に眺めることを目的とした学習環境のモデルを考え出すことは試行錯誤に基づくものであり、特定の教員による特定の教育観に依存します。やはり構成要素の選択と、その重要性を理解することは、個人的な知識、学習観、教育観についての認識論や信念に、ある程度までは左右されるものなのでしょう。
最後に、私は教員として適切な学習環境を創り出す責任を負っているので、教員の視点からじっくりと考えた学習環境を提案しましたが、学習者の視点から学習環境を検討することも重要です。実際、成人や成熟した学習者は、自分自身の個人的な、比較的自律的な学習環境を作り出すことができます。
重要な点は、コースや専攻プログラムを教える際に考慮する必要がある構成要素を特定すること、特にコンテンツやカリキュラム以外の構成要素があるということです。例として選択した学習環境の重要なそれぞれの構成要素について、デジタル時代に特に関連する学習環境の構成要素に焦点を当てながら、以下のセクションで簡単に説明します。
おそらく、学習者の特性の変化はデジタル時代における教育の変化に最も影響を与えているでしょう。
セクション1.6で述べたように、カナダなどの先進国の公的な中等後教育の機関は、少数のエリートだけのための組織のままでいるのではなく、社会全体がそうなっているのと同じように、社会経済的多様性や文化的多様性を体現することが求められています。経済発展が教育の水準と密接に関連している時代において、現在の目標は、最も優秀な学生のニーズだけに焦点を合わせるのではなく、できるだけ多くの学生が、要求される水準に到達できるように支援することです。これは非常に多様なレベルの能力や事前知識を持つ、非常に幅広い範囲の学生が全員成功するように支援する方法を見つけることを表します。1つのサイズでは誰にでも合うわけではありません。ますます多様化する学生たちに対処することは、デジタル時代、とりわけ中等後教育のレベルで直面している全ての課題の中で、おそらく最も大きい課題であると言えます。主に専攻領域だけの専門家である教員には、その準備が十分にできていません。
優れた設計とテクノロジーの適切な利用を組み合わせることで、学習の個別化が非常に容易になります。例えば、それぞれの学生が異なるスピードで学習したり、学生の特定の興味やニーズに学習を集中できるようにしたりすることで、多様な学生の積極的な取り組みや動機づけにつながります。しかし、最初の、そしておそらく最も重要なステップは、教員が自身の学生について知ること、そして特にデジタル時代における教育と学習の設計のために最も重要である、学生と彼らの多様性に関する幅広い情報を認識することです。教育の設計という観点から、重要であると考えられるいくつかの特性を列挙してみましょう。
仕事と家庭を教育や学習の設計において重要な検討事項であるとする理由は2つあります。勉強しながら働いている学生は増えており(カナダでは中等後教育の学習者の半分が週平均して16時間の労働に従事しています。(Marshall:2010) 学生の年齢の幅は拡大しており、平均年齢は徐々に上がっています。ブリティッシュ・コロンビア大学では、学部生の平均年齢は20歳ですが、全学生の3分の1以上は24歳以上です。 2018年の大学院生の年齢の中央値は31歳でした。(UBCバンクーバー・ファクト・シート、2018 年)。
少なくとも北米では、学生の平均年齢が上がる理由がいくつかあります。
パートタイムまたはフルタイムで雇用されている学生、または家族をもつ学生は、特に家庭、職場、大学間での長い通勤を避けるために、学業面での高い柔軟性を一層必要としています。これらの学生は仕事や家庭生活といった状況に合わせやすいハイブリッド型または完全オンラインのコースで、細分化された証明書または専攻プログラムを求めています。
学生のやる気や、コースや専攻プログラムから何を得るのを期待しているかを理解することも、コースや専攻プログラムの設計に影響を与えるはずです。学校や大学での学習では、最初のうちは学年や資格などの外発的な理由によって学習しはじめた学生であっても、次第に科目自体に興味をもたせ、動機づけて行くことがしばしば必要になります。高等教育を既に卒業しており、良い仕事についている学生は、あらかじめ決められた一連のコースを受講するのではなく、既存のコースの特定の分野のコンテンツのみを必要とする場合があります。(例えば、オンデマンド型のオンライン配信等)したがって、学習者がなぜあなたのコースや専攻プログラムを受講するのか、そしてそこから何を得ることを望んでいるのかについて理解することが重要です。
これからの学習では、事前知識を持っている、あるいは一定のレベルで物事を行う能力のある学生が主な対象となります。教員は Vygotsky (1978) が最近接発達領域と呼んだ、学習者が助けを借りずにできることと、彼らが助けを借りてできることの差分を埋めることを目指します。教育内容の難易度が学習者の能力、事前知識やスキルをはるかに超えている場合、学習は起きません。
しかし、専攻プログラム内の学生が多様であればあるほど、彼らが持っている可能性が高い知識やスキルのレベルも多様になります。実際、生涯学習者や、外国の資格では認められないために科目を繰り返し学習する新しい移民は、他の学生の学習経験を豊かにするために活用できる専門性や高度な知識を持っている可能性があります。同時に、学生の中には、同じコースの他の学生と同レベルの基本的知識を持っていない者もいるかもしれないのです。このような状況では、幅広い経験と知識を持つ学生にも対応できるように、十分な柔軟性を学習経験を盛り込むことが重要です。
今日のほとんどの学生は、携帯電話やタブレット、Facebook、Twitter、ブログ、Wiki などのソーシャル・メディアなどのデジタル技術に囲まれて成長しています。Prensky (2010) や Tapscott (2008) は、学生はそのような技術を使うことに前の世代より熟練しているだけでなく、彼らは考え方自体が異なる(Tapscott, 2008)と主張します。
ただし、ソーシャル・メディアや新しいテクノロジーの利用には大きな違いが学生間にもあり、その利用は主に社会的・個人的な必要性によって決まり、デジタル技術の利用が自然に教育的な利用につながるわけではないことを理解しておくことは特に重要です。教員がうまく利用した場合で、デジタル・メディアの利用が学生たちの学習に直接的に役立つことを理解できた場合には、新しいテクノロジーやソーシャル・メディアを利用するようになります。これを実現するには、教員側に慎重な設計が必要です。(デジタル・ネイティブの問題の詳細については、セクション8.2を参照してください。)
職場や家庭の状況、学習者の目標、学生の過去の知識やスキル(デジタル・メディアに対する能力を含む)は、授業の設計に影響を与える重要な要素の一部です。教員にとって、文脈次第では学習スタイル、性差、文化的背景などの他の学習者の特性が、より重要になる場合があります。文脈によらず、よい教授設計のためには、教える対象となる学習者に関する良質な情報を必要とします。そして良い設計をすることが、とりわけ私たちの学生の多様性の増加に対処するためには必要です。
Marshall, K. (2010) Employment patterns of post-secondary students, Statistics Canada Catalogue no. 75-001-X
Prensky, M. (2001) ‘Digital natives, Digital Immigrants’ On the Horizon Vol. 9, No. 5
Tapscott, D. (2008) Grown Up Digital New York: McGraw Hill
Vygotsky, L. (1978) Mind in Society: Development of Higher Psychological Processes Cambridge MA: Harvard University Press
多くの教員にとって、コンテンツは依然として重要です。コンテンツには、事実、考え方、原則、証拠、プロセスまたは手順の説明が含まれます。カリキュラムにはどのようなコンテンツを含めるべきか、どのようなコンテンツをコースや専攻プログラムで網羅する必要があるのか、学生は教科書など、どの情報源にアクセスすべきなのかといった検討に対して、多くの時間が費やされます。教員は、利用できる時間内にカリキュラム全体を網羅するよう圧力をかけられることがよくあります。特に対面式の講義では、コンテンツを整理して提供するための主要な手段として残っています。
本書では、スキル獲得とコンテンツのバランスをとる事例が何度も紹介されていますが、コンテンツに関する問題は教育では非常に重要です。特に、教員は次の点について検討する必要があります。
中等後教育の教員は当然のことながらコンテンツを重視する傾向があります。私たちが教えるものだからです。しかしデジタル時代の教育を設計する際には、コンテンツを教えるためには目標を明確にすることが重要です。なぜ私たちは学生たちに事実、考え方、原則、証拠、プロセスや手順の説明を知ることを要求するのでしょうか。特定のコンテンツを学習すること自体が目標なのでしょうか。それとも目標を達成するための手段なのでしょうか。例えば、周期表や戦争の日時を知ることに本質的な価値があるのでしょうか。それとも、実験を計画することや、カナダの公用語がフランス語である理由を理解するという目標のためでしょうか。
この問題は重要です。なぜならデジタル時代では、事実や定義や方程式を調べるのは容易なので、コンテンツの学習や記憶はそれほど重要ではなくなり、中には不適切であると主張する人さえいます。認知主義者は、コンテンツに意味を持たせるためには、コンテンツを枠組みへ埋め込むか、文脈に入れる必要があると主張しています。問題を解決したり決定を下したりすることができるようにするために、コンテンツを学習する必要があるのでしょうか。それともアクセスが簡単になったため、必要に応じてコンテンツを利用するだけで済むのでしょうか。
なぜコンテンツを教えなければならないのかを教員が明確にする以上に、おそらく学生自身がこのことを理解することがより重要です。そのための1つの方法は問うことです。
これは当然のことながらコースまたは専攻プログラム全体として、非常に明確な目標を持っていることを表します。
多くの文脈において、教員はコンテンツに対してほとんど選択肢がありません。認定機関、州政府、専門的に認証評価をする委員会などの外部機関が、特定のコースや専攻プログラムで、どのようなコンテンツを網羅する必要があるかを決めている可能性があります。しかし科学的・技術的知識の急速な発展は、学生が学ばなければならないコンテンツがある程度決まっているという考え方にますます挑んでいます。工学プログラムや医療プログラムでは6〜8年間の正規教育でも、専門家が効果的に実践するために知っておく必要がある、全ての知識を網羅するのに苦労しています。その分野の新たな発展に遅れずについていくのであれば、専門家は卒業後も学び続ける必要があるでしょう。
たとえ起きている時間の全てで一生懸命勉強しても、当該分野の学生が仕事で必要とする全ての情報を習得することができません。ですから、特にコンテンツを素早く網羅したり、学生に大量のコンテンツを課したりすることは、効果的な教育戦略ではありません。何かを専門的に深く学ぶことは知識の増大に対処するための伝統的な方法ですが、それは複雑な問題や実世界の問題に対処するのには役立ちません。なぜなら現実はしばしば複数の領域にまたがっており、広範な知識を必要とするからです。したがって教員は、学生が自分の分野での膨大な量の知識に対処することを可能にする方略を開発する必要があります。
知識爆発の問題に対処する1つの方法は、知識管理、問題解決、意思決定などのスキルの獲得に集中することです。ただし、これらのスキルではコンテンツが不要というわけではありません。問題を解決したり決定を下したりするには、事実、原則、考え方、概念、データにアクセスする必要があります。知識を管理するには、どのようなコンテンツが重要であるのか、なぜ重要なのか、どこで見つかるのか、どのように評価するかを知る必要があります。特に、多くの人にとっては大部分が専門的な取り組みではないにしても、習得する必要がある中心的・基本的な知識やコンテンツがあるかもしれません。その場合の教育スキルの1つは、コンテンツの本質的な分野と学習が望ましい分野を区別できるようにし、スキルを伸ばすために行っていることの全てで、中心的なコンテンツを確実に網羅することです。
デジタル時代の教員にとってのもう1つの重要な決定は、学生がどこを情報源として見なしてコンテンツを取得するかです。中世の頃は本は貴重で、図書館は学生だけでなく教授にとっても欠くことのできない情報源でした。コンテンツの情報源が非常に少ないため、教授はコンテンツを選択し、不適切な候補をふるい落とし、学生に紹介しなければなりませんでした。今日はそのような状況ではありません。コンテンツは文字通りいたるところにあります。インターネット、ソーシャル・メディア、マスメディア、図書館、本、そして講義室の中にあります。
学科や専攻プログラムの会議では、学生がどの教科書や記事を読む必要があるかを話し合うために多くの時間が費やされることがよくあります。コンテンツの選択や制限を行う理由の一部は、コースや専攻プログラム内で限られた範囲の資料に重点を置くため、そして学生の負担軽減のためです。しかし今日では、インターネット上でコンテンツがますますオープンになり、無料で自由に利用できるようになりました。ほとんどの学生は卒業後も学び続ける必要があります。彼らはますます知識の情報源のためにデジタル・メディアに頼るようになるでしょう。したがって、コンテンツを決定する際には、次の点を考慮する必要があります。
これらの質問に答える際、私たちの決定が、学生の卒業後に学生自身がコンテンツを適切に管理する支援につながるかどうかも確認すべきです。
教員が提供する最も重要なサポートの1つは、様々なコンテンツ要素の順序と相互関係を構造化することです。私の場合、構造化の中に以下を組み込みます。
従来、コンテンツは特定の順序で数多くのトピックに関連した種類ごとに分割することで構造化されていました。そしてそれぞれの教員はコンテンツの基本構造を解釈しながら授業を組み立てていました。しかし新しいテクノロジーは、コンテンツを構造化するための代替手段を提供しています。Blackboard や Moodle などの LMS を利用すると、教員はコンテンツ素材を選択して順序付けることができ、学生はコンテンツ素材にいつでもどこでもどのような順序でもアクセスできます。インターネット上での幅広いコンテンツの利用可能性や、ブログ、Wiki、eポートフォリオを通じてコンテンツを収集したり並べ替えたりする機能により、学生はますます自分の中でコンテンツを構造化しながら学習できるようになっています。
一部のものは「正しい順序」で学習する必要があるため、コンテンツの分野によっては何らかの構造が必要となります。なぜなら構造がない場合、コンテンツが無関係なトピックの寄せ集めになることがあり、学生は少なくとも学習を始めるまで、そのコンテンツ分野にとって重要なことは何であり、後回しにしても良いことは何であるかを知ることができないからです。特に初学者にとって重要なのは、毎週、自分が何を学習しなければならないのかということです。初学者の場合、コンテンツがきっちりと構造化され、コンテンツのどの部分を連続的に学ぶのかが分かる方がメリットが大きいという研究結果が数多くあります。しかし、その領域についての知識が多くなり、経験も増えてくると、学生らがコンテンツを選択し、順序付けし、解釈するというアプローチを探し求めるようになります。
したがって、コースまたは専攻プログラムのコンテンツ構造を決定する際には、教員は以下のことを検討する必要があります。
また、これらの質問に答える際には、学生自身がコンテンツを構造化することができるようになるのがどのぐらい重要なことなのか、そして教員は将来的に学生自身がコンテンツを構造化する手助けをするべきかについて、検討しておく必要があります。
学生がコンテンツを学ぶのを支援するために、学生にどのようなアクティビティーをさせる必要があるでしょうか。この質問に答えることで、コンテンツを学ぶための目標とコースの全体的な目標に戻ることができます。
テクノロジーは学生がコンテンツを習得するのに利用できるアクティビティーの範囲をかなり広げてくれることが分かります。しかしこれらは専攻プログラムのコースに設定された学習目標と関連していなければいけません。そしてアクティビティーが設計されていなければ、コンテンツが一度脳に入ってきても、次の日に出ていってしまうかもしれません。
デジタル時代においても、知っておくべきであるという点でコンテンツは非常に重要ですが、デジタル時代におけるコンテンツの役割は微妙に変化しており、それ自体が目的ではなく、ある意味ではスキル開発など他の目的に至る手段となっています。ほとんど全ての分野において知識は急速に進化しているため、コース内でのコンテンツの役割と目的を明確にし、効果的に学生とやり取りすることがとりわけ重要になっています。
セクション1.2 では、デジタル時代に卒業生が必要とするスキルをいくつか列挙し、あらゆる段階の教育、特に特別なコンテンツに焦点を当てている中等後教育において、そのようなスキルの獲得が重要であることを述べました。批判的思考、問題解決、創造的思考などのスキルは高等教育では常に重視されてきましたが、このようなスキルの認識と獲得は、教員がそのようなスキルを利用しているのを観察して、あるいはコンテンツの学習の結果、知らぬ間に学生が行なっているのかのように、暗黙的に、そしてほとんど偶発的に行われています。
コンテンツは知的スキルの獲得を推進する原動力であるため、コンテンツをスキルと切り離すことは当然ながら不自然です。ここでの私の目的はコンテンツの重要性を軽視することではなく、スキル獲得に対して教員が多くの注意を注ぐようにすること、そして見習いが熟練の職人の中で訓練されるのと同じように、正確かつ明示的な方法で知的スキルの獲得に取り組むことです。
ここでの重要なステップは、特定のコースや専攻プログラムがどのようなスキルを伸ばそうとしているのかを明確にし、それらを実行および評価できるように目標を設定することです。言い換えれば、あるコースで批判的思考を習得させることを目的とすると述べるだけでは不十分であり、そのコースやコンテンツの分野の文脈の中ではどのようなものであるのか、明確に述べていることが求められます。スキルは評価できるような方法で設定しておくべきであり、学生も評価に利用される基準やルーブリックを知っているべきです。スキル獲得については本書の至るところで議論されていますが、特に下記で言及しています。
あなたがそれを持っているか持っていないかという意味で、スキルとは黒か白かというように決められるものではありません。初心者、中級者、専門家、熟練者のそれぞれの観点でスキルやコンピテンシーについて語られる傾向がありますが、実際にはスキルは常に実践と応用を必要とし、少なくとも知的スキルに関しての最終到達地点はありません。
したがって、コースや専攻プログラムを設計するときには、もし可能であれば小さなステップから始めて、徐々に大きなものに導くような形で、学生が継続的に思考スキルを開発し、実践し、適用していくアクティビティーを設計することが非常に重要です。これを行う方法はたくさんあります。例えば、何かを書く課題、プロジェクト作業、そして集中的な議論を行うことですが、これらの思考アクティビティーは事前に設計されてあり、教員は一貫した条件で実行することが必要です。
職業としてのプログラミングでは、学生が操作スキルを獲得するための多くの実践的なアクティビティーが必要であることは当然の事実です。これは知的スキルについても同じです。学生は習得の途上でどこにいるのかを実演し、それに対する感想を得て、その結果に対して再挑戦していきます。つまり学生は特定のスキルを、練習を通じて身につけていくことを意味します。
歴史のシナリオ( シナリオD )では、学生は最初の3週間で重要な内容を網羅して理解し、グループで研究し、合意を得た上でプロジェクトの報告を eポートフォリオの形で作成し、他の学生と共有しなければなりませんでした。教員はコメント、フィードバック、評価を行い、学生はそのレポートを口頭およびオンラインで発表します。理論的にはこのようなスキルの多くを他のコースでも活用し、スキルをさらに洗練させ、伸ばすことができるでしょう。このように、スキル獲得においては、単一のコースだけでなく、長期的な視点も必要になるでしょう。そのためコース計画と同様、専攻プログラムへの統合も重要です。
ディスカッションは思考スキルを磨くための非常に重要なツールです。しかしどんな種類のディスカッションでも良いわけではありません。第2章 では、学問的知識について、日常的な考え方とは異なる種類の考え方の必要性を述べました。それは通常、学生に対して潜在的な原則、抽象化、考え方という点で、世界の見方を変える要求をするということです。そのため教員の慎重な管理の下で、対象分野の学習と統合させた思考スキルの向上に焦点を当てたディスカッションを行う必要があります。教員が授業の中でディスカッションを計画、構成、支援する際、ディスカッションの焦点がずれないようにしながら、そして専門家であればディスカッション中のトピックにどのように取り組むかを実演し、学生の取り組みと比較する機会を提供する必要があります。ディスカッションの役割については、セクション4.4 および セクション11.10 で詳しく説明しています。
最高レベルの学問的なコースでも、その学問的な価値や基準を損なうことなく、デジタル時代の仕事や生活に引き継がれる知的スキルや実践スキルを身に付けるための多くの機会があります。職業コースでも学生は問題解決スキル、コミュニケーション・スキル、協働学習などの知的スキルや概念スキルを実践する機会が必要です。ただしこれは単にコンテンツの配信を行うだけでは発生しません。教員は以下のことを視野に入れておく必要があります。
これはどのようにして、そしてなぜスキル獲得を学習環境に組み込むべきなのかという、非常に簡潔な議論です。
学習者に対するサポートは、コンテンツの形式的な提供やスキル獲得以外に、学習者を支援するために教員ができること、またはすべきことに焦点を当てています。学習者に対するサポートは幅広い役割を網羅しており、本書の至るところで議論されていますが、特に下記で議論されています。
ここでは、なぜそれが効果的な学習環境にとって不可欠な要素であるのかを示し、学習者のサポートに関連する主なアクティビティーのいくつかを簡潔に説明することに重点を置いています。
私はスキャフォールディング(足場かけ)という用語を利用して、学習者が抱える困難を診断し、対処する上での教員の多くの役割について説明しています。
足場かけは通常、対面やオンラインでの個人的な介入や、教員と個人や学生グループとの間のコミュニケーションという形をとります。足場かけは事前に計画されていないという傾向があり、教員の側にかなりの自発性と即応性が求められます。足場かけは通常、学習を個別化するための手段であり、学習上の個人差が発生した時に、より良い対応を行うことができます。
これは足場かけの下位項目と見なすこともできますが、何かを書く課題、プロジェクト作業、創造的なアクティビティーなどにおける学生の取り組みに対するフィードバックなど、現在および将来のコンピュータでは対応できないフィードバックを提供する役割を持つものです。繰り返しますがここでの教員の役割は、質的に評価した学生のアクティビティーに対して、さらに個別化したフィードバックを提供することであり、公式の評価と関連している場合もあれば、関連していない場合もあります。
学習の中での直接的なサポートだけでなく、あるコースを繰り返し履修するべきかどうか、家族の病気のために課題を遅らせて良いか、コースへの登録を取り消して別の学期へ延期するかなど、事務的な、あるいは個人的な問題に関して、サポートや指導を必要とする学生は少なくありません。このような潜在的なサポートは、学生が専攻プログラムでの学術的な基準を満たしながら確実に合格できるようにするためにも、効果的な学習環境の設計に含めておく必要があります。
他の学生は当該学生にとって大きなサポートとなり得ます。この多くは学生同士の授業後の会話やソーシャル・メディアを介した繋がり、あるいはお互いの課題について助け合うといった形で、非公式に行われます。ただし教員は学生が一人ではなく他の学生と一緒に作業できるように、協働学習、グループ・ワーク、オンライン・ディスカッションを設計することで、公式に他の学生を活用することができます。
優れた設計は、明確さを保証し、適切な学習活動を組み込むことで、学習者サポートの必要性を大幅に減らすことができます。一方、学生にとって、サポートの必要性は大きく異なります。既に中等後教育を受けている生涯学習者の多くは家庭を持ち、キャリアや多くの人生経験を持っているため、自分が何を学ぶ必要があるのか、それをどのように行うのが最善なのかを見極め、自己管理し、自律的に学習することができます。反対に、公的な学校制度にうまく適合できなかった者や、読み書きや数学などの基本的な学習スキルが欠如しているという理由で、学習に自信がない学生もいます。彼らを合格させるには多くのサポートが必要になります。
しかし、大多数の学習者はスペクトルの真ん中にいて、時々問題にぶつかり、どんな基準が要求されているのか分かっていないので、教員は彼らがどのような状態であるのかを知る必要があります。確かに少なくともオンライン学習では「教員の存在」がコースでの学生の成功や失敗に関連していることを示す多くの研究があります。教員が不在であると学習者が感じる場合、成績や修了率も低下します。そのような学習者にとっては、適切で素早いサポートが成功の鍵を握ります。
注意すべきこととして、良質の学習者サポートの必要性とそれを提供する能力は、教育メディアに依存していません。MOOC が登場するはるか昔から設計・提供されてきた単位を提供するオンライン・コースでは、強力な教員の存在と学生を確実にサポートする慎重な設計を通じて、高いレベルでの学習者サポートを提供できていることがよくありました。
ところでコンピュータ・プログラムでもいくつかの方法で学習者サポートを提供することができますが、高いレベルの概念学習やスキル獲得に関連する学習者サポートの最も重要な部分の多くは、対面式であれ遠隔教育であれ、専門の教員が提供しなくてはいけません。さらに、この種の学習者サポートは比較的、労力を必要とする傾向があり、対象分野での深い知識を有する教員を必要とするため、サポートを拡大するのは困難です。つまり大規模な学習を成功させたいのであれば、十分なレベルでの学習者サポートが必要なのですが、その提供は未だ望める状況にありません。
これは教員にとっては明白に思えるかもしれませんが、多くの MOOC の設計や、コスト削減を考える政治家やメディアの反応から分かるように、学生の成功に対する学習者サポートの重要性は必ずしも認識されておらず、その必要性の評価もされていません。むしろ学習者サポートを完全に排除するような動きさえ見て取れます。学習者サポートの必要性については、教員と教育機関では態度が異なる場合もあります。一部の教員は「指導するのは私の仕事であり、学ぶのはあなたの仕事です」と思っているかもしれません。言い換えれば、講義や課題図書を通して学生に必要な内容が提示されれば、残りは学習者次第です。
しかし、いかなる教育機関でも多種多様な学生がいるというありがちな現実においては、何千人もの学習者の将来を犠牲にしないためにも、教員が効果的な学習者サポートを提供する必要があります。
学習者の特性によっては、あなたは利用可能なリソースをあまり制御できないかもしれませんが、リソース(あるいはリソースの不足)は教育の設計に大きな影響を与えます。適切なリソースを求めて交渉することは多くの教員にとって最も困難な課題の1つです。設計に対するリソースの影響についても、本書全体を通して説明していますが、特に下記で説明しています。
教育補助は、補助教員、任期制教員、ティーチング・アシスタント(TA)、図書館司書、技術スタッフ、インストラクショナル・デザイナー、メディア・プロデューサーと関連します。教育機関は、教員が一定数の学生に対して何人の支援スタッフを持つことができるかについての方針や運用基準が用意されていることもあります。
支援スタッフを使う最善の方法を考えることは重要です。大学では、大きなクラスを複数の小クラスに分割し、それぞれの小クラスに任期制の教員やTAを配置し、比較的独立した状態で運用するようにしていますが、教員の質によって、小クラスの間で教え方の質に大きな差が出る傾向があります。しかし新しいテクノロジーは、より一貫性を持った形で別々に教えることを可能にしています。
例えば、ベテランの教授が全体的なカリキュラムと評価方法を決定し、そしてインストラクショナル・デザイナーと協力してコースの全体的な設計をするかもしれません。その後、ベテランの教授の監督のもと、任期制の教員や TA が、コースを対面式・完全オンライン・ブレンド型で提供するために雇われます。この例としては全国学術改革センターを参照して下さい。反転授業は別の方法でリソースを整理するもう一つの方法です。この例としては心理学のブレンド型学習を参照して下さい。
これは主に、教室、研究室、図書館など、教員や学生が利用できる物理的な施設を指します。これらは教育に制約を与える可能性があり、例えば、講堂や教室の物理的な状況によってはディスカッションやプロジェクト作業が制限されることもあります。あるいは教室割り当ての都合により、ある教員は1週間につき3時間の教室での講義と6時間の実験室という具合に設定されてしまうこともあり得ます。(デジタル時代の教室を再設計する試みについては、オンライン学習がどのように教室の設計に影響を与えるかを参照して下さい。)
オンライン学習は、そのような厳しい物理的な制約から教員や学生を解放することができますが、それでも教育の単元化、モジュールの構造化、組織化は依然として必要です。
特に LMS、講義録画システム、ソーシャル・メディアなどの新しい技術の開発は、教育と学習の設計に根本的な意味を持ちます。これらについては、第6章・第7章・第8章でさらに詳しく説明していますが、効果的な学習環境を説明するために教員が利用できるテクノロジーは、双方向的で魅力的な学習環境を学生に提供するために非常に役立ちます。ただし、テクノロジーは効果的な学習環境を構成する1つの要素にすぎず、他の全ての構成要素とバランスをとりながら統合していくする必要があることが重要であることは強調しておいてもよいでしょう。
全ての中で最大かつ最も貴重なリソースです。効果的な学習環境を築くことは反復的なプロセスですが、結局のところ、教育設計、そしてある程度までは学習環境の全体は、教員(とそのチーム)が教えるために利用できる時間に依存するでしょう。教員の時間が非常に慎重に管理されていない場合、利用可能な時間が少なければ少ないほど、学習環境はより制限的になってしまいます。しかし、やはり、良い設計は指導に使える時間を考慮に入れているものです。(特にセクション11.9を参照。)
不十分なリソースで管理しようとすること以上に、教員の気を散らすものはありません。確かに、教員が追加の補助教員なしで、広い講堂で200人の学生を教えるクラスを割り当てられたならば、教員は豊かで効果的な学習環境を作るのは困難でしょう。リソースが少なければ選択肢も少なくなるものです。その一方で、30人の学生を対象とする教員は、幅広いテクノロジーを使いながら、カリキュラムの編成や構成の自由が与えられ、インストラクショナル・デザイナーとWebデザイナーの支援を得て、多様な設計や可能な学習環境を検討することができます。
そうは言ってもリソースがほとんどない状態こそが、おそらく伝統的な教育モデルから抜け出すために最も創造性が必要とされる時です。利用可能でありさえすれば、新しいテクノロジーによって、少ないリソースしかない大きなクラスであったとしても比較的豊かな学習環境を設計することができます。これについてはセクション12.5で詳しく説明しました。しかし期待は現実的である必要があります。教員と学生の比率が1:200 以上の状況で適切な学習者サポートを提供するのは常にやりがいのある仕事です。再設計による改善は可能ですが、奇跡はありません。(オンライン教育による生産性向上の詳細については、生産性とオンライン学習のReduxを参照してください。)
各ユニットでの演習どころか教員の計画においても、評価は常に最後に行われていたことに驚きました(略)評価はほとんど後付けでした(略)教員は(略)評価とは競わせるものであるという目的に捕らえられていました(略)彼らは整合性に折り合いをつけようとしている時に経験する困難でよく混乱し欲求不満を抱えていました。
Earle, 2003
評価は大きなトピックであるため、このセクションの目的は次のとおりであることを明確にしておかなければいけません。
評価については本書の至る所で議論されていますが、特に以下で言及されています。
学習者を評価する理由はたくさんあります。単一の評価手段が全ての評価ニーズを満たすことはあり得ないので、評価の目的について明確にすることは重要です。以下はその理由です。おそらく他にも考えることができるでしょう。
私はこれらについて、効果的な学習環境を作るために意図的に順序付けをしています。
評価の形式は目的と同様、基本的には教員や評価者が持つ認識の影響を受けます。彼らが信じるものは知識ですので、どうにかして学生の知識を証明しなければなりません。評価の形式は、デジタル時代に学生が必要とする知識やスキルの影響も受けるはずです。つまり、コンテンツの知識と同じくらいスキルの評価に焦点を合わせることになります。したがって、継続的または形成的な評価が、総括的な、すなわちコース終了時の評価と同じくらい重要になるでしょう。
評価方法の選択肢は多岐にわたります。デジタル時代と関連する形で、テクノロジーが学習者の評価方法をどのように変えるかを説明するために、いくつか選んでみました。
考慮すべき問題の1つは、そもそも学習評価が必要かどうかということです。実践共同体のように、学習が非公式であり、学習者自身が何を学びたいのか、そして彼らが学んだことに満足しているのかどうかを決めるような状況があるかもしれません。あるいは学習者が公式の評価や評定を望まない、必要としないのかもしれませんが、学習に対するフィードバックが欲しいという場面もあるかもしれません。「私は本当にこれを理解しているのか」「他の学習者と比べてどのくらいできているのか」といった点です。
しかしこのような状況においても、専門家や熟練した参加者からの非公式な評価がフィードバックとなり、学習者のコンピテンシーの達成状況を理解することで、学習が広がることに役立つ場合もあります。あるいは学習者自身が、理想的には知識のある熟練した教員による指導と観察を受けながら自己評価や相互評価に参加することで、学習を広げることができます。
この方法は、数学、科学、工学などにおける事実、考え方、原則、法則、定量的手順に関する「客観的」な知識のテストに適しており、これらの目的に対しては費用対効果が高くなります。ただしこの形式のテストは、複雑な問題解決、創造性、評価などの高度な知的スキルの評価に対しては限界があるという傾向があるため、デジタル時代に必要なスキルの多くを開発または評価するのにはあまり役に立ちません。
この方法は、理解力や批判的思考など、より高度な知的スキルの評価には適していますが、労力が必要で、主観的なものであり、実用的なスキルの評価には適していません。実験として人工知能を利用した自動化エッセイ評価システムが開発されていますが、これまでのところ適切な意味をとらえることに苦労している段階です。機械評価に関するバランスの良い詳細な説明を知りたい場合は、Mayfield:2013 とParachuri:2013を参照して下さい。
プロジェクト作業は、コンテンツの理解、知識管理、問題解決、協働学習、評価、創造性、実用的な成果を必要とする確実なスキルの獲得を促進します。有効で実用的なプロジェクト作業を設計するには、教員に高度なスキルと想像力が必要です。
eポートフォリオは、振り返り、知識管理、教育実習や看護実践などの学習アクティビティーの記録と評価、プロジェクト作業に対して貢献した内容の記録による自己評価を可能にします。(一例としてロイヤル・ロード大学の eポートフォリオの利用を参照)通常は学習者によって自己管理するものですが、公式な評価や就職面接の際に利用することもできます。
これらは、次のようなスキルの実践を促進します。
これらの方法は現在、開発に費用がかかりますが、非常に高価な機器の利用の代替手段や、訓練のために業務を実際に行うことができない場合、オープン教育リソースとして利用可能な場合には、複数回利用すれば費用対効果が高くなります。
これらの評価方法のいくつかは、学習者の能力と知識を発達させ、向上させるのを助けるという点においては形成的であり、コースや専攻プログラムの終わりに知識とスキルのレベルを評価する点においては総括的です。デジタル時代では、評価と教育はさらに密接に統合され、隣接するようになる傾向があります。
評価方法以上に学生の学習を促進しそうなものはありません。また、評価方法は急速に変化しており、変化し続ける可能性があります。スキル獲得についての評価は継続的かつ総括的に行う必要があります。近年、学生に対する評価の質と範囲を向上させることができるデジタル基盤型のツールが増えています。ですから評価方法の選択や他の要素との関連は、効果的な学習環境に欠かせない要素です。
Earle, L. (2003) Assessment as Learning Thousand Oaks CA: Corwin Press
Mayfield, E. (2013) Six ways the edX Announcement Gets Automated Essay Grading Wrong, e-Literate, April 8
Parachuri, V. (2013) On the automated scoring of essays and the lessons learned along the way, vicparachuri.com, July 31
どのような学習環境でも、他の全ての構成要素に影響を与える優勢的な「文化」があります。ほとんどの学習環境では、「文化」は当たり前のことと見なされることが多く、学習者や教員の意識にさえのぼらないかもしれません。では、ここで教員らがなぜ文化的要因に特別な注意を払うべきなのか、その理由を示します。これは教員が学習環境の様々な要素をどのように実装するのかについて、意識的に判断できるようにすることが目的です。この段階では、文化の概念は少し抽象的に思えるかもしれませんが、効果的なオンライン学習環境を設計するために、文化がいかに重要であるかを示します。
私は文化を「意思決定に影響を与える支配的な価値観と信念」であると定義します。
コンテンツの選択、習得が推奨されるスキルや態度、教員と学生の関係、およびその他の学習環境の側面は、全て教育機関やクラス(学生たちと教員で構成されるグループ)での優勢的な文化による大きな影響を受けます。したがって、いかなる学習環境でも、私がこれまで説明した全ての要素が支配的な文化の影響を受けているでしょう。
例えば、親は自分の価値観や信念を反映した学校へ子供を入れる傾向があります。つまり学習者の文化的特性は、親だけでなく学校からも影響を受けることになります。これは文化が自己強化していく多くの事例の1つです。
私は何年も前に、大規模で包括的な高校の運営に関して英国で研究をしていたときに、異文化の影響にはじめて気がつきました。これらの学校は1960年代に全ての人に中等教育へのアクセスを提供するために、英国の改革派政権が規模、カリキュラム、全ての学生が同じ教育の機会を持つべきであるという思想など、同じような優勢的な文化を持つことを想定して計画的に設立されたものでした。私はそれらがどのように管理されているか、そして彼らが直面している重要な問題は何かという情報を集めるために、そのような学校を50校以上訪問しました。しかしみんなそれぞれ違っていました。
いくつかの学校は、もともとレベルの高いグラマー・スクールであり、知名度の高い大学を目指すためにテストによって学生を分類する厳格なシステムで運営されており、うまくいった学生はレベルを上げ、そうでない学生はレベルを下げていました。このような学校の主な価値は学術的に優れていることでした。
また、いくつかの学校は男子校や女子校のように、単一の性のみを受け入れる学校でした。私は単一の性のみを受け入れる学校をどのように「包括的」と見なすかについてちょっと困っています。私が訪問した女子校の主な目的の1つは、女子に「落ち着き」について教えることでした。私は女性の校長が生徒たちのことを「boys」と呼んでいたので、非常に混乱してしまいました。ここでの主な価値は「上品さ」の習得にありました。
他にも都心部の学校で、それぞれの子供の能力を問わず、最善を尽くすことに集中しているところがありました。このような学校では、各クラスは可能な限り広範囲の能力を持つ子供たちを入れるようにしており、エリート指向の学校と比較すると乱雑で騒々しい状態でした。ここで強調されているのは包括性と教育の機会均等でした。
これらの学校でのそれぞれ異なる文化は非常に強烈でした。時には部屋の入り方、廊下で教員と会ったときの生徒の反応、あるいは歩く(または走る)様子によってさえ、それらを区別することができました。
文化が学習環境において、良い影響を与えるか、それとも悪い影響を与えるかを考える時、あなたが支配的な文化の根底にある価値観や信念を共有できるか、それとも拒否するかによって判断は異なります。先住民の子供たちが強制的に入れられることが多いカナダの寄宿学校は、文化がどのように学校の運営方法を推進するかの典型的な例です。
そのような学校の主な目的は、先住民の文化を故意に破壊し、宗教的影響を受けた西洋文化に置き換えることでした。これらの学校では、子供たちは自分たちが先住民であるという理由で罰せられました。彼らの学習環境の他の全ての構成要素は、押し付けられている支配的な文化を強化するために使われていました。
これらの学校に通ったほとんどの子供たちの結果は悲惨なことになりましたが、運営に責任を持っていた州や教会の人々は正しいことをしていると信じていました。カナダでは先住民教育において「正しいことをする」ことにまだ苦労していますが、成功するための解決策は、先住民の文化と同様に、周囲で優勢な「西洋の」文化を考慮に入れなければなりません。
高等教育機関での文化はおそらくもっと漠然としているでしょうが、それでもなお強力な影響を持っています。また、組織間だけではなく、同じ組織内の学科間でも異なります。
優勢的な文化は非常に支配的であることが多いため、変えるのは非常に困難です。特に一個人が支配的な文化を変えることは困難です。多くの大学の学長がそうであるように、カリスマ的指導者でも苦闘するでしょう。
しかし新しいテクノロジーによって新しい学習環境を開発できるようになったので、教員はこれまで難しかった、今日の学習者にとって重要な価値観や信念をサポートできる文化を意識的に作り出すことができます。
例えば、オンライン学習環境では、私は意識的に次のことを反映した文化を作成しようとします。
上記の文化的要素は、もちろん私自身の信念と価値観が反映されています。あなたとは違うかもしれません。ただし自分の信念や価値観を認識していることは重要です。そうすることで文化的要素を最もよくサポートするように学習環境を設計できるようになります。
これらの文化的要素は学習成果のようなものではないかと考えるかもしれませんが、私は同意しません。ここでの文化的要素とは広く一般的なものを表します。上ではデジタル時代に効果的な学習環境を築くために本当に必要な条件であると私が考えるものを記載しました。
ところであなたは個人的な文化的な条件を学習環境に加える正当性に疑問を持つかもしれません。私自身は、これについての問題はないと考えます。教科の専門家や教育のプロであるあなたは、通常、学習者よりも優れた立場にあり、学習要件や、それを最もよく達成するための文化的要素を知ることができます。いずれにせよ、学習者が学ぶ文化を決める上でより多くの発言権を持つべきだとあなたが考えるのであれば、それもあなたの選択で、あなたの文化の中では受け入れられる考え方かもしれません。
文化はあらゆる学習環境の重要な要素です。ある特定の学習の文脈には文化の影響があることを認識し、あなたが最も効果的であると考える学習環境のサポートに文化をできるだけ取り入れて設計することは重要ですが、既存の支配的な文化を変えることは非常に困難です。しかし新しいテクノロジーは新しい学習環境の開発を可能にし、学習者にとって最も役立つ文化を学習環境の中で発展させる機会を提供してくれます。
ただし、全ての学習環境には、全ての要素に広がる文化的要素があります。ですから下の図の学習環境の全ての要素の背景として文化を追加しました。
私はここまで一つの実行可能な学習環境を紹介してきました。これはあくまで例であり、推奨するものではありません。それはおそらく学校よりも中等後教育の状況に適しています。例えば、学校という文脈では、あなたの根底にある認識論と、教育や学習に対する信念にもよりますが、遊びと両親が2つの重要な要素となるでしょう。
私たちは皆、教育や学習についての認識や哲学的立場が異なります。これは2つの異なる比喩によって説明することができます。教育と学習は、石炭の採掘と輸送に非常によく似ているという人がいます。知識は石炭であり、石炭は採掘(研究)され、積まれ、そして輸送(教育)されなければならないという認識です。学習者は知識がつまれる籠または鉄道貨車と見なされます。教員はシャベルです。このプロセスでは、学習者は知識を別のものに変換しないという意味で比較的受動的です。知識は何か別のものには変化しません。
私の母方の家族は炭鉱の仕事をしており、父方の家族は鉄道の仕事をしていましたが、私は教育と学習は、このような説明とは違うと思います。私は教育を庭に見立てています。学習者は植物です。したがって、庭師は、光、土壌、水のバランスを適切に調節して、雑草や昆虫による被害を受けないようにして、植物が成長し成長する生態環境を作り出すための最善を尽くします。そして私は学習を個人の成長・発達と見ています。私の教員としての仕事は、学習者が成長し発達できる最善の環境を提供することです。
教員は、学生が成長して自らの学びを発展させることができる学習環境を考え出す必要があります。知識とは静的なものではなく、学習者の中で成長し発展します。特にデジタル時代では、学習とはコンテンツを蓄積することだけでなく、同時にスキルを磨くことを意味します。私が説明した学習環境は、教育についての私の構成主義者としての立場と「養育」アプローチを採る立場を反映しています。
たとえあなたが異なる認識論の立場であり、異なる方法で知識や学習を捉えたり、あるいは中等後教育とは全く異なる文脈で教えたりしていても、本書は学習を効果的にするために考慮されるべき全ての要素を確認したり、どのように構成すべきかについて確認するための手助けとなるでしょう。私たちの学習環境はデジタル時代では、もはやレンガとモルタルに囲まれていないことを覚えておくだけの価値があります。テクノロジーにより、学習を促進するための多様な、そして、より柔軟な環境を生み出すことができるのです。
教員として、新しい学習ニーズ、学習者の特性の変化、現在利用可能な新しいテクノロジーを踏まえつつ、学習環境に必要な全ての要素を念頭に置いているならば、コースや専攻プログラムをどのように設計、実装するかについて考える立場として既に先頭集団を走っています。学習環境の構成要素は、専攻プログラムを設計、提供する際に考慮すべき点という意味で、一種のチェック・リストの役割を果たします。効果的な学習環境を作るために必要な全ての要素を分析することで、あなたの教育の設計の強力な基盤になります。
ただし、主要な要素が特定されたとしても、それらの要素の設計方法と提供方法について様々な決定を下す必要があります。いくら強力なコンセプトの基盤があっても、それを実装する必要があります。言い換えれば、あなたはまだ教育を設計する必要があるのです。
以下のページに関する質問は第8章と併せて利用すると良いでしょう。新しいコースの設計など、あなたが直面しているかもしれない現実の状況に向けたものです。
可能であればご自身の回答を書き留めながら、それぞれの質問に1つずつ取り組むことをお勧めします。コース全体や専攻プログラムでの考えられるメディア選択に直面した際に、最初の数回は体系的な方法で実施するのも良いでしょう。考える時間を含めると、数日かかる場合もあります。一部の質問は、他の質問への回答が終わるまで待つ必要があるかもしれません。繰り返しこのような状況に陥るかもしれません。
回答が完成しても、どのメディアやテクノロジーがあなたのコースや専攻プログラムに一番よく合うかを考える前に、可能であれば1日や2日、じっくりと時間を取って下さい。コースの設計を考え始める前に、メディア利用についてのあなたの考えを、他の教員やインストラクショナル・デザイナー、メディア・デザイナー等の専門家と話し合ってみてください。コースの設計・開発・配信を始める最終決定の前に広い視野を持ちましょう。そしてあなたのメモと第8章での詳細を繰り返し確認すると良いでしょう。
最初の数回の回答は、あまり体系的ではなく、うっかり素早く決めてしまうかもしれません。しかし指導のためのメディアを決定する時は、それぞれの質問と、質問に対する回答は常に念頭に置いておくべきです。
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Quality Assurance Toolkit: Higher Education: http://www.col.org/QAToolkit_HE
The European Foundation for Quality in e-Learning (EFQUEL) has in my view a very enlightened approach to quality assurance. EFQUEL’s web site is well worth exploring. UNIQUe is their e-learning quality assurance certificate
JISC is the UK university IT network organization and has an excellent e-learning programme that includes quality standards, research and innovation. Click here for their QA focus blog
epprobate is an international quality label for courseware, an initiative of three organisations: The Learning Agency Network (LANETO), the Agence Wallonne des Télécommunication (AWT) and the e-Learning Quality Service Center. epprobate has reviewers and partners in over 30 countries and launched at the end of March 2012.
There are also other conditions beyond management and teaching that contribute toward high-quality e-learning systems. Flexible transfer of credits that recognise qualifications are taken online as well as face-to-face, and government web sites that provide accurate and reliable information about the quality online programs available within their jurisdiction, are also essential components of a high-quality e-learning system. For examples, see:
Tobite! Study Abroadhttps://www.tobitate.mext.go.jp/about/english.html
おそらく、公式(単位あり)および、新規開発(オープン、単位なし)のオンライン学習の両方で、品質に関する問題を最もよく網羅しているのは、Academic Partnerships が発行する次の2つの論文です。
Butcher, N. and Wilson-Strydom, M. (2013) A Guide to Quality in Online Learning Dallas TX: Academic Partnerships
Butcher, N. and Hoosen, S. (2014) A Guide to Quality in Post-traditional Online Higher Education Dallas TX: Academic Partnerships
tonybates.ca で「quality」または「quality assurance」を検索すると、このトピックに関する100以上の記事または投稿が見つかります。
一般に、学術書または教科書を出版する前に、商業出版社は2つの段階、つまり作者が著書に関する提案書を提出する段階と、初稿を出版社に送る段階で、独自の書評を求める。外部の書評者と同様、出版社には意思決定プロセスの責任者である専門編集員がいるが、その場合でも編集者は内部委員会で、あるいは最終承認のための重役会議でさえ、最終的な提案を取り上げる。各段階では最長で3ヶ月かかり、時には第2段階の方に時間がかかる。作者が出版前に中身に関する変更を行う必要がある場合には、さらに長い時間がかかる。そして出版した後にも、その分野に特化した学術誌で独自に再度、書評が行われる場合がある。
この長い承認および書評プロセスは、著者にとって非常にストレスがたまることであるが、このプロセスによって著者はフィードバックを確実に得ることができる。何よりもこのプロセスは品質管理プロセスの一部であり、書籍が高等教育機関における終身在職権の確保と昇進プロセスにおいて非常に重視される理由の1つである。
自費出版書籍では、このプロセスを追従する必要は全くないが、オープン・テキスト・ブック(OpenStaxやBCcampusからの書籍など)は、ほぼ必ず、こうした書籍を採用し得る管轄の教員によって独自に検閲される。
ただし本書は若干異なる。本書は学生向けではなく、異なる市場、教員、および指導員向けにゼロから書かれたものであり、BCキャンパスが管理するブリティッシュ・コロンビア州政府のオープン・テキスト・プロジェクトの一部ではない。BCキャンパスからは必要不可欠な技術的支援を提供していただいたが、本書を編集したり書評する責任はなかった。
したがって、著者は独自に3回の書評を受けることを決定し、BCキャンパスのテキストブックを利用した場合と同様に、こうした書評を本書の一部として変更を加えずに公表した。
候補となる書評者に打診するにあたって、以下の基準を用いた。
独立した書評のためには、できる限り客観的な書評者を見つけることが必要なのは明らかである。著者は、この40年間、当該分野で働いてきたが、著者とは密接な関係がなく、しかも客観的であり、著者と著者の経歴から十分に「距離のある」専門家を見つける必要があった。
資格に関しては、デジタル教育および学習、インストラクショナル・デザイン、オンライン学習やオープン教育の分野の専門家でもある書評者が必要だった。こうした基準を満たす人は多いが、独立していると見なされる必要もあった。
また、本書は教員や指導者も読者として想定しているため、教育および学習に関心がある主要な教員の一員であるが、著者の以前の仕事を知らないか、またはそれに関わりがなく、教員または指導者の観点から厳密に判断できる書評者を、最低1名見つけることも重要であった。
500ページもの教科書の書評に伴う作業量は極めて多い。一般に出版社は外部書評者に少額の料金を支払う。これは関わった作業に対する報酬では決してないが、少なくともそのために評価が甘くなりやすくなる。ましてや著者が書評者に対価を支払って第2著者に加わってもらった場合には、書評者の独立性に不当に影響したとみなされたかもしれない。
著者は、書評者の意欲および都合のうち、1つまたは両方を満たした合計4名の書評者に打診し、うち3名は直ちに本書の書評に同意した。著者が依頼した書評者の誰からも対価は要求されなかったし、言及もされなかった。書評に同意した3名は、依頼してから1ヶ月以内に書評を提出した。
商業出版社は、書評者間の一貫性を確保し、出版社が求めているものを書評者に明らかにするために、書評者に委託する際に、印刷および発行前の完全原稿とともに、書籍を書評するための指針を明記した書簡または規格書を書評の最初の段階で送付する。出版編集者は、ある本に特有の事項に対応することを依頼することもあるが、一般的な指針も多い。
自費出版の教科書の場合は状況が若干異なり、独立した書評を受けるか否か決定する。その際に、書評者に適切な指針を提供することは、著者の責任である。著者は、書評者が各自の基準を用いるのを奨励したものの、書評者らには、オープン教科書の外部書評者向けにBCキャンパスが利用する指針を参考に、以下に述べる指針案を送付した。
(訳注:3名からの書評は省略しました。)
この書籍は自主的に選ばれ、MERLOTによるレビューを受けています。元のレビューは下記からアクセスできます。
あなたが本章から読み取った要点を、後述の重要ポイント以外に、少なくとも5つ書き出してください。
導くことが可能な結果はたくさんありますが、私の結論を以下に示します。
これは公平ではない質問かもしれません。なぜなら写真に含まれないテクノロジーもあるからです。それにコンピュータにインストールされているソフトや、どんなことができる状態になっているかについては知る由もないでしょう。しかし記録として、私のリストを載せておきます。
ハードウェア
ソフトウェア
これについては列挙することは不可能でしょうし、はっきり見えないでしょうが、iTunes、iPhoto(iPhotoの写真ライブラリーは音楽再生中にテレビモニタのスクリーンセーバーとして使います)、AV受信機用の変換ソフトなどが入っています。
サービス
総合的な操作に必要なもの
今後欲しいもの:持ち運び可能な装置をください!!!!
この手の家庭用の娯楽システムを持っている人なら誰でもテクノロジーを利用した機器が揃っているでしょう。実は全て私の持ち物です。家庭用の娯楽システム製品はまとめて動作するように設計すべきです。おっと、話がそれてしまいました。
私の答え:
新聞 | メディア |
印刷機 | テクノロジー |
テレビ番組 | メディア |
Netflix | 両方:配信するためのテクノロジーであり、サービスを提供するためのメディアでもある。 |
教室 | テクノロジー:教室が対面教育のメディアのためのテクノロジーである。 |
MOOC | メディア |
掲示板 | 両方:ソフトウェアとしてはテクノロジーであり、実際の利用という点ではメディアである。 |
そのため、どのような文脈で言葉が利用されるかによって、分類は変わると考えられます。
以下に挙げたものはどうでしょうか。
1. どれがメディアでどれがテクノロジーなのでしょうか。確認してみましょう。両方に当てはまるということもあるかもしれません。では一体どのような条件でそう言えるのでしょうか。
学習管理システム | どちらにも該当。ソフトウェアとしてはテクノロジーで、コースの配信に使われる時はメディア。 |
ブログ | メディア。(WordPress や他のブログ・ソフトウェアはテクノロジー。) |
オンライン協働学習 | メディア。 |
どちらにも該当。しかしメディアとしての使い方が中心。 | |
Second Life | メディア。 |
ポッドキャスト | メディア。 |
無料公開されている電子教科書 | メディア。 |
2. あなたの経験から、それぞれのメディアやテクノロジーを図6.4.3の中に置くとしたらどこでしょう。なぜでしょうか。このことも書き留めておきましょう。
3. 分類上、何が簡単で何が難しいのでしょうか。
難しいもの:
この2つについては、管理・制御面よりも、放送的・コミュニケーション的な次元に重きを置くことにしました。
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